百二十七話 一歩
それを見た瞬間、ディロックの中の気勢は一瞬で消えて、恐怖ばかりが溢れだした。
それはある種、白い濁流のようであり、自然災害そのものと言い表す方が自然に思えた。身じろぎするだけで山は荒れ、息を吐くだけで泉を毒と化してしまうような、恐ろしい死の化身のようであったのだ。
実際にはそこまででなかったのだとしても――事実、その時のディロックには倒せなかったし、負けて死ぬだろうという結論だけは、決して変わらなかった。
さっきまで倒すと息巻いていた体はすぐに大きく震えだし、足もガタガタと揺れ、立っているのがやっとなほどで。今すぐに逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。足を下げられなかったのは、過ぎた恐怖故か、はたまた背中に庇った彼女の事を思ってか。もう、今となっては分からない。
神とさえ呼ばれたその蛇は、彼女だけを見つめて、また舌を出した。シィーッ、と静かな舌なめずりが聞こえる。
口を開いても、漏れるのはかすれた悲鳴ばかりで、威勢のいい言葉など何一つ出て来はしなかった。だが、震える手足を、下がろうとする心をしてなお、蛇に背を向けようとはしなかった。
あるいは、偉大なる戦士の父を持った彼なりの、矜持だったのかもしれない。戦いから逃げる訳にはいかないと。あるいは、自覚もしていなかったような、淡い恋心から来る抵抗であったのかもしれない。
だが、結局のところ暴威そのもののような蛇神相手に、そのようなちっぽけな少年が立ちふさがったところで意味はない。剣を抜こうとした手は、しかし、震えからか空を切って柄に触れることなく、かわりに彼女の柔らかい手に触れた。
それは一瞬、ぎゅうと強く握られて、その後あっけなく離れた。
「ねえ、一杯生きてね。それで、何時か同じところに来たら、いっぱいお話を聞かせてね」
「お前、何を――」
言葉を言い切るより前に。
白い鱗と、赤い目が、迫って。
ドンとディロックを突き飛ばした彼女の顔は、彼の愛した笑顔だった。
「……目が、覚めたら」
その言葉で、ディロックも、他二人も、追憶の世界から戻って来た。
「彼女の血と、片手と、それについたブレスレットだけが残ってた。……俺の送った、ブレスレットだけが……」
残骸のようなそれを抱いて、彼は泣いたのだ。一晩が過ぎて、大人が彼を連れ戻しに来ても、自分の家に戻っても、ずっと泣いていた。暗い、暗い数日間だった。泥のように重くへばりついたそれは、今でも昨日の事のように思い出せた。
「後に俺の師となる人が来て、蛇を殺した時。俺は言ったよ。"どうして"って」
目の前で愛を失った哀しみを。助けようとして助けられなかった苦しみを。彼女の言った言葉の重みを。誰かにぶつけずにはいられなかったのだ、と彼は小さく笑った。
それから、村を出たディロックを師が誘い、二人は師弟となり。時が立って別れ、長い月日を旅してから、彼は此処に居る。
語り終えた時、マーガレットも、ロイエルも、しばらく何も言わなかった。ディロックが困ったように頭を掻く音が、いやにうるさく響いていた。
「……すいません。辛い事を聞いてしまって。興味本位で聞くことではなかった、ですね……」
「気にしないでくれ。俺もいよいよ、気持ちの整理が必要だと思っていたころだったよ」
ぐいと立ち上がって、彼は言った。もう随分長い事座っていたから、休憩の為とさだめた時間はとっくに過ぎていた。ロイエルもそれに気づいたようで、慌てて広げていた荷物をもとに戻していく。
とくに、ロイエルの荷物は多いので、収納には苦労しているようだった。ちょっとした衝撃で爆発する薬や、鉄を数秒で溶かしてしまうような劇薬まで並んでいる。おまけに、それらを包むのは、割れやすいガラスなのだ。細心の注意が必要なのだった。
そうして四苦八苦する青年を横目に、マーガレットは小さく問いかけた。
「許してもらいたいから、行くのか」
「いいや。ただ、確かめにいくだけさ。」
――逃げ続けた果てに、彼はようやく、絶望の日を見つめ直す時が来たのだ。その為に最果ての地へ行く。全てが許され、そして罰される場所へ。あの日、愚かしくも手を伸ばせなかった自分の、罪を確かめるためだけに。もしも今日まで生きた日が罪人のそれであったと断じられたとしても、構わなかった。
そう口にすると、ディロックの心はすとんと音を立ててどこかに落ち着いたような心地がした。定まった、と言い換えても良い。
十年近い旅路の中、何処かへ歩いているようで、その実何処にも向かっていなかった。ただ逃げたくて歩いていたのだから、ある意味当然だった。だが、目的地を定め、その理由を口から吐き出して、彼の魂は、今ようやく最果ての地へと向いたのだ。
それは、外見的にはひどくちっぽけな一歩だ。けれど、始まりの一歩は、いつだってちっぽけなものである。マーガレットはそんな語りを聞き終えて、そうかとだけ返事した。それ以上何も言わなかった。だが、小さく肩を叩いた掌が、彼にはやけに暖かく感じられた。




