百二十話 交戦
その虫が動くよりも早く、ディロックは剣を抜きながら素早く飛び下がった。ぶよぶよとした虫の後半身が彼の居た場所を薙いでいく。
ロイエルは彼が攻撃されているうちに、素早く転身して逃げ出すと、ベルトに括り付けていたポーチから三本の瓶を取り出し、すぐさまそれを虫の口へ向かって投げつけた。
衝撃に弱く作られた材質の瓶が、いともたやすく砕け散り、その紫色の中身を放出する。それは外気に触れると同時に煙となる。その巨体へ煙をもろに浴びた虫は、石が擦れるような奇妙で不快な鳴き声を叫び、その身をあちこちに叩きつけながら煙から遠ざかった。
「虫除けの薬です。効くか未知数でしたが……見るに、通ったようですね」
「だな。薬は残ってるか?」
いえ、と小さく返答。貴重と言うほどではないにせよ、供給量が多い品でもないのだという。となれば値段は高くなり、こうして盗掘まがいの事に手を出しているロイエルにこれを買い占められる資金は無かった。
今の時点でも、人一人や二人などやすやすと飲み込める大きさを見るに、倒すのは骨だ。薬が効いているとはいえ、これも一時的な物だろう。じきに煙が薄れれば、またあの巨体を振り回して襲い掛かってくるはず。
逃げるか、とも思うが、地上に出た所で大した意味はあるまい。それに、寺院のバルコニーからしか出入りできないのだから、出るにしても時間がかかりすぎる。その前に寺院ごと食われてしまいだ。
やるしかない。そう判断して、ディロックはマーガレットに目配せした。大物をやるとなれば、頼りになるのは魔法だ。この虫に何が効くかは知らないが、ともあれ撃ってもらった方が良い。
同じ算段はついていたのか、彼女も小さく頷くと杖を掲げて素早く詠唱を口走った。世界の理を揺るがす大いなる言葉は、烈火のごとき素早さで鋭く唱えられる。しかもそれは、普通の詠唱とは違って複雑怪奇な響きを持っており、ディロックにはそれが、"二重詠唱"だと分からなかった。
まばたき一つするかしないかの一瞬で呪文を唱え切った彼女は、それが終わるや否や叫んだ。
「『炎矢』! 『電撃』!」
言葉のままに、杖の先から生まれる力の渦が、火と雷の矢と変じていく。彼女が杖を振り下ろせば、それはうねり、交差しながら、虫の腹へ直撃する。
閃光。爆発。そして、粉塵が辺りを覆う。だが、不快な雄たけびが、いまだ虫の命が尽きていないことを確かに示す。
目まぐるしく変わる状況に混乱したロイエルを引っ張って、ディロックが彼女のもとへ駆け寄った。複雑な魔術を扱った割には涼し気な様子ではあるが、杖はまだ下げていない。
「やれそうか?」
「まぁ、出来んという事はないだろうが、一帯が塵と化すぞ」
彼は無言で眉を顰めた。これから探索する予定の場所を無に帰しては意味がない。そんな表情を読み取ってか、彼女はふ、と小さく笑って告げた。
「一分もたせたまえ、町の損壊無しでいく」
「頼んだ。ロイエル、小細工はまだあるか」
「え、あ、はい? 討伐はともかく、足止めなら。けど……やるんですか?」
そう言いながらも、青年はベルトのポーチに手を伸ばした。それを横目に、彼もまた剣を構える。
一瞬の静寂。そして、石畳を這う巨体の突撃を、足裏でわずかに感じる。
それを感じると同時に跳躍。軽々と跳ね上がった体は、縦にくるりと回転して、虫の背めがけて落下する。不安定にぶよぶよとした足場を蹴って、剣を突き立てた。
刺し込んだ切っ先から伝わる感覚に、わずかに眉を顰める。それなりに深く、拳一つ分は突き込んだつもりだが、おそらく外皮を辛うじて突き破った程度だろう。分厚く、強靭。故に刃をまともに通さないのだ。打撃となれば何倍も通りにくいだろう。自分の獲物が剣であったことに感謝しながら、彼は虫の背を上を走り出した。
剣を突き立てたまま走り出せば、自然に剣は体に引かれ、虫の背を浅く、されど確かに切り裂いていく。緑色の粘性を帯びた血が溢れ、虫が悶え、暴れ出す。
それを御すように、体を右へ左へと揺らしながら走り切ったその時、どこか幼さを残した声が耳に届く。
「これと、それと、あと……よし、ディロックさん出来るだけ高く!」
それを聞いて、一も二も無く飛び上がるディロック。鎧兜という枷を捨てた彼にとって、自身の体重など羽毛のようなものだった。たとえ不安定な、踏みなれない足場でも、その跳躍を阻めない。あまりに埒外に軽い動きを唖然と見ながらも、ロイエルは手に取った瓶を投げつけた。
色とりどりの液体が舞い、空にて混ざり――そして爆発。
ツンと香るのは薬液の匂いだろう。そういう類には詳しくないが、爆発を起こせる類の組み合わせとなると相当専門的だ。斥候かと思っていたが、錬金術師の類であったのか。爆風にあおられ、転がって衝撃を流しながら、ディロックはそんな事を考えている。
「あの分量じゃまぁ、こけおどしぐらいにしかなりませんけど」
「十二分だ」
――既に、一分経ったからな。
彼がそう告げると同時、砂に覆われた真っ暗な天井に、光の刃が現れた。それはおよそ、剣とも槍ともつかない歪な形で、いっそ四角錘といった方がそれらしい。
しかし、それは確かに、必殺の力がこもっている。煌々と輝き、渦を巻いて、時折爆ぜる力は、空に溶けてもなお圧倒的な魔力の発露。そうして彼女はようやく、静かに目を開き、杖を振り下ろす。
まばたき一つ。その瞬間に、その刃は落下して虫に着弾――そして、緑の血を盛大にまき散らしたのだった。




