十一話 少女を抱え駆ける
昼食を早めに終えたディロックは、翻訳を再開しようかと思ったが、ロミリアを見てもう少し休む事にした。
少女は小さな口で、パンと干し肉を一緒くたにして食べているところであった。あの様子だと、食べ終えるまでにもう少し掛かりそうである。石碑の残りを見る限り、どれだけ急いでも今日中に終わりそうもない。
ディロックに急ぐ理由はなかった。
ロミリアが昼食を終えるのを待つ間、ディロックは道具の整備をしていた。基本は朝の内に済ませる事であるが、今日はそもそも道具が居るような外出をする予定はなかった為、先送りにしていたのだ。
これといって楽しいという事はないものの、暇な時間を過ごすにはうってつけの方法であった。
磨いたり、汚れを落としたり、壊れていないか確認したり。淡々とした作業は、やっているうちに、人は段々と無心になっていく。無心になれば、時間が過ぎるのはあっという間だ。
頻繁に使う道具のうち二、三の整備を終えると、丁度ロミリアが食事を終えたので、ディロックはそれらの道具を全て収納し直した。
一瞬、互いにどうするか向き合う時間があったものの、二人ともひとまずは石碑の内容が気になるようで、すぐに石碑の方へと向き直った。
残りが何行なのか正確に数えては居ないが、ひとまず残り四十行以上ある事はたしかだ。今翻訳できている文字数から考えて、どれだけ早くても後二日、あるいは三日掛かることだろう。
彼が石碑の前に座り直ると、少女も慎重にその横に座り込む。そしていざ、と羽ペンを握りかけた時、少女が声を発した。
「あの……これ、石碑の方は……どう読むの、ですか?」
少女が指差したのは、ディロックが翻訳した文章、そのうち最も上に書かれた一行目だ。この石碑が何時刻まれたかを示す文が記されている。
「古代語の読み方か?」
「は、い」
ぎこちない声でこくりと頷いた少女に、ディロックは少し迷った。彼はこうして古代語の辞典は作ってこそ居たが、多くの著者がそうである様に、実際に肉声で聞いたわけではない。
正確な発音ではない可能性は十二分にあった。
ただ、期待するような少女の瞳に耐えかねたのか、ディロックはしばらく自作の古代語辞典を凝視してから、口を開いた。
「……王衣、渡りてより、月、二度巡らん時」
翻訳文の方を指でなぞりながら、ディロックはゆっくりと言葉をつむいだ。出来るだけわかり易い様に、丁寧な発音だった。
人に教えるという事に慣れていない彼は、少し不安げに少女の方を見た。少女は、ディロックの言葉を何度か口の中で繰り返すと、大きく頷いて見せた。伝わったらしかった。
安堵して少し笑うと、気を取り直して、ディロックは翻訳を再開した。ロミリアが時折質問を入れる様になった為先ほどよりも筆は遅くなっていたが、黙々とやるよりは楽しい時間となっていた。
もとより特に目的もないままこの遺跡に来て、何の理由もなく開始した翻訳だ。故に、ディロックには速さや正確さよりも、楽しい方がずっと良かった。
ふ、とディロックは十一行目を書こうとした手を止めて、耳を澄ました。
ロミリアは彼の様子にきょとんとしたが、ディロックは反応せず、視線を鋭くして、森の方を睨んでいた。ペンを持っていた手は、既に曲刀の近くに添えられている。そうしながら、彼は空をちらりと見た。
日は少し傾き、半ば山へと沈み込んでいる様に見える。夕暮れ時だ。少し長居しすぎたらしかった。
彼の耳に聞こえたのは、野生動物の鳴き声だ。狼の遠吠えなどの類ではなかったが、それでも夜の森は危険極まる物だ。熊などに無対策で出会えば、ディロックとてただではすまない。
ゆえに、先ほどの鳴き声が何の物かを確かめようとディロックは耳を澄ましていたのだ。しかし、声はもう聞こえなかった。
彼は舌打ちをもらすと、辞書や草紙、羽ペンにインク壷などの執筆用の道具を乱雑に背嚢に放り込むと、すぐにそれを背負った。ずっしりとした重みが掛かる。
立ち上がると同時、腰に結わえ付けていたランタンにも火をつける。夕暮れの森は、昼よりもずっと暗い。頼りない明かりでは合ったが、猫の如き目を持つ彼にはそれで充分だった。
日暮れに気付いたのか、少女も慌てて自分の荷物を回収し始めた。とはいっても、非常用のポーチと積んだ薬草を入れる為の籠以外持っていなかったため、すぐに終わった。
ディロックはひょいとしゃがみこんで、準備を終えたロミリアと視線を合わせた。
「俺が送ろう。ロミリア、家はどっちだ?」
夜の森は危険だ。いくら人を食べる野生動物が少ないからと言って、居ない訳ではない。遭遇することはまず無いだろうと言っても、可能性はある。また、暗い森の中、少女が家まで帰れるかどうかは不安な物があった。
遅くなってしまったのは自分にも責任がある。ディロックはそう考え、すぐに少女を家まで送ろうと決めた。帰りは遅くなるが、自分の足だけならそう長い事は掛かるまいとも考えていた。
一瞬迷った様子の少女であったが、すぐに頷くと、あっちと言って指をさした。家の方角を指しているらしい。
ディロックもまた小さく頷き、少女の手を引いてすぐに森を歩き始めた。夕暮れの森は、朝方とは違い神聖さよりも不気味さが増しているように見えた。
影が差して暗い目のようになった木の洞。視界が悪くなり、足を引っ掛けやすくなる根。行く手を阻むかのように点在する岩や背の高い茂みの類が、だんだんと気味の悪い物へと変わっていく。
無論錯覚ではあるが、それは人に恐怖を与えるのには充分だった。森の中において森の唄が聞こえなくなる時間帯こそ、恐ろしい物はない。
ロミリアはディロックに手を引かれていた為に足を止めることはなかったが、何時もとは違う顔を見せているであろう森にどことなく不安げだった。
しばらくそうして手を繋いでいたが、たとえ手を引かれていようと、少女の足は遅い。それに、ディロックほど旅慣れている訳でもない。森の歩き方は下手なもので、時折木の根につまずいては彼が支え、足を遅くしていた。
彼はもどかしくなり、一言断りを入れてから、ひょいろ少女の体を持ち上げた。横抱きではなく、脇に抱える様な荷物のような扱い方であった。
「ひゃ、ぁ!」
悲鳴の様なものが少女から聞こえたが、ディロックはつとめて気にせず、森を駆け抜け出した。
彼一人の足によるものであれば、森の踏破などたやすい物だ。見物を重視しなければ、ディロックは森を十数分で突き抜ける自信はあった。
木の根を飛び越え、茂みを突っ切り、時には木の枝に飛び乗り、凄まじい速度で森を走り抜けて行く。それほどの走りを見せていても、脇に抱えた少女の為に、多少速度を抑えているつもりである。
しかしながら、小脇に抱えられた体制の少女の恐怖は言うまでもあるまい。森の恐怖など吹き飛んでしまうほど、ロミリアは必死にディロックに抱きついていた。
そうして彼により、少女の微かな悲鳴は、尾を引くようにして森から遠ざかっていった。
とうとう森を突き抜ける頃には、もうすっかり日は暮れて、月が顔を見せていた。完全に夜の帳が降り切る前に森から出られた事に、ディロックは一度ホッとしてから、少女の方を見た。
ロミリアは震えてこそいたが、無事な様子だった。今度こそ安心、と前を見たとき、ディロックはなんだか気が抜けた様な気分になった。
すぐそこにエーファの村、風来神の教会が見えて居たからである。すなわち、元の場所へ戻ってきただけだ。
「……ロミリア、まさかお前の家は、ここか?」
そんなまさか、と言うようなディロックの声は、しかし脇に抱えた少女に肯定されて、一瞬で溜息に変わった。
あるいは、日を跨がず戻ってこれて良かったと考えるべきだろうか? すぐそこで心配そうに立っていたモーリスが、ロミリアを抱きしめに行くのを見ながら、彼は後頭部をかき回した




