百六話 見送り
準備が整ったとはとても言い難かったが、時間は無情に過ぎていった。
その間、ディロックも公爵の手を借りながら、出来る限りの準備を整えた。魔法の道具をいくらか準備し、体のなまりをほぐした。
公爵の方も着々と偽装決戦の為に準備を進めていたようで、屋敷では時折、はせ参じた騎士たちの顔を見る事が出来た。
ここで戦果を挙げると息巻く者。一心不乱の戦いを求める者。暴虐たる王を撃ち滅ぼさんと義をもって立ち上がった者。これが形だけの決戦だと知っている者も中には居た。
それを横目に、ディロックは自らの兜を身に着けた。これから秘密の道をたどって、王宮へと直接赴く。
公爵はまだ、抜け道の扉まで来て居ていないが、旅人二人は焦らず待った。彼は祖母と語り合っていた――ディロックが"報酬"として選んだ、親子の会話である。
「まったく、路銀に四苦八苦している身だというのに、君は本当にお人よしだな」
「……すまん」
謝りながらも、どこか清々しそうな顔をした彼に、マーガレットは深い溜息を吐き出した。
「まあ、いいがね。……君の旅だ。否とは言わんさ」
そうしていると、屋敷から三つの人影が歩いてきた。一人は公爵だ。戦装束を整えて、少々華美だが、戦う者として恰好を整えて来たらしい。
もう一人はフランソワ。服装から何から普段と比べればいくらか地味で、何時もの気品は薄れ、ただ見送る者として此処に居た。顔にある涙の痕は、母との語らいで流した者だろうか。
そして最後はゴーンである。スラムの少年だが、なにやら不似合いな貴族衣装を着て、こちらに歩いてきていた。ディロックはそれに少し笑ってしまった。
「お待たせして申し訳ない」
「気にするな。俺がさせたことでもあるからな」
ディロックはそう言って、フランソワの方を見た。彼女は不安な顔を隠しきれない様子だったが、それでも口を一文字に結び、静かに指で印を結んだ。
それは、建国王への。すなわち、騎士の神への祈りだ。この騎士に武勲あれという祈祷であり、その加護を願う言葉。ただの祈りでしかなく、魔法的な効果など一切ないが、それには幾分か元気づけられたような気がした。
そして、ゴーンだ。
何ゆえここにいるのかと問えば、フランソワに呼ばれたらしい。貴方も見送って欲しいと。
「……その、死ぬなよ。せっかく、俺が助けたんだから」
「努力する。……見送り、感謝する」
ディロックは、小さく頭を下げる。少年は一瞬、気恥ずかしそうにうつむくも、すぐに胸を張ってそれを受け入れた。
小さな命だ。体は脆く、力も弱い少年だ。剣も上手くはない、弱虫な人間だ。ゴーン自身、それを自覚し、そして卑下していた。
だが、確実に一人の男を救った"命の恩人"でもある。だからディロックは死ぬかもしれない戦の前に礼を示した。一人前の男へ向ける礼儀であった。
公爵が抜け道の扉に手で触れ、呪文を唱える。岩で出来た扉はその言葉とともに重苦しく開き、中にとどまっていた湿った空気がゴウと流れ出た。先の見えない暗闇が三人を誘っている。
臆せず、その暗闇へと踏み込む。思い悩んだところで、決めた事は決めた事。約束した事は可能な限りその通りに動かなければならない。
ローラインに頼らないと――自分の足で立つと決めたのは、紛れもなく彼自身なのだから。
三人が抜け道に入れば、見守る二人の子供を後目に、重低音とともに扉が閉まっていった。
完全な暗闇。そしてその中に、明かりが一つ浮かぶ。
元から設置されていた魔法の明かりだろう。空中に浮かぶ光の球は、一つ、二つと等間隔で浮かび上がり、その内通路全体を明るく照らす照明となった。
通路は思ったよりも長くない。少し行くと行き止まりとなっていて、地面には青黒いインクで魔法陣が描かれている。
「これは……転移の魔法かね。随分古い」
彼女は小さく唸って、その紋様をじっと見つめた。技術は刷新され洗練されていくものだが、こと魔法に関しては一概にそうとは言えない。
古代には存在しない新規の魔法もあれば、古代から劣化してしまった魔法もある。『転移』の魔法は、そうして大半が失伝してしまった術の一つなのだ。マーガレット含む今の魔法使いが使うものは、その残滓、あるいは再現にすぎない。
「ええ、古代から用いられた隠し道だそうで。ただ、これを活用するには城や屋敷の建て替えを控える必要があるのですが」
そういって公爵は一人、魔法陣の上へ歩を進め、二人もそれに続いた。
先はどうなっているのかと聞けば、王宮内部につながっているという。ただし、彼の覚えている王宮と今の王宮とでは間取りが異なっている可能性があるという――現王であるジェームズはカルロ公爵に謁見を許すことはなく、それどころか城に踏み入る事すら許可しなかったのだと。
とはいえ、この道は王族の数少ない退路であり、それをつぶしているとは考えがたい。
「……そういえば、向こうで待ち伏せされている可能性はないのか?」
「それはご心配なく。……兄は、この抜け道が公爵領につながっている事を知りませんから」
かくして、魔法は起動された。
目を開けば、すでに異空間だ。一瞬は引き延ばされ、術式ばかりが浮かぶ真っ白な空間を急速に落下していく。体のあちこちをねじられるような不快感。
そして、着地する。
真っ暗闇にまた、光が浮かぶ。壁に刻まれた竜討つ剣の紋様は、王宮にのみ飾る事を許された意匠であった。




