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青空旅行記  作者: 秋月
三章 騎士の国ロザリア
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百五話 尊き意思

「ディロック、鎧は良いのかね?」


 問いかける声に、ひょいと顔を上げてそちらを見る。息が荒いのは、剣を振っていたからだ。


 決戦まで大した時間はない。寝たきりの数日で固まった身体を少しでもほぐさねば、僅かな勝機を掴むことも難しい。


 マーガレットが差し出した布切れで汗を拭い、大きく息を吐いて呼吸を落ち着けてから、ようやく彼は問いかけに答えようと口を開いた。


「正騎士は、早い。下手な鎧では枷になるだけだ」


 彼が正騎士に唯一勝っているのは、その身のこなし、俊敏性のみだ。ゆえに、重い鎧は邪魔でしかない。彼本来の戦い方にとっても。


 なるほどな、と彼女は納得したようにうなずいた。魔法使いであるマーガレットには、戦士のことは分からない。だからもう一つ、端的に問いかけた。勝てるか、と。


 沈黙。それから、剣を鞘に収めて、静かに告げる。


「分からん。だが、出来る限りの事をしよう」

「……そうか。なら信じよう」


 彼の曖昧な言葉に、マーガレットはくすりと笑って、それからしばらく彼の訓練をぼうっと眺めていた。




 ディロックがどういう人間なのか。


 マーガレットは剣を振り、体のなまりをほぐす彼を見て少し考えた。


 彼女が知っている事は少ない。以前一晩近く話し合っていたが、それで知れたのはごく一部のことに過ぎないのだ。根本的に触れ合った時間、話し合った時間が足りない。


 南の島にある少数民族の出で、長い間旅をしてきたこと。昔から精霊――と、思われる声――に導かれ、様々な事象に出会ってきたこと。


 けれど、肝心な点はまだ聞けていない。彼が、何故旅に出たのか?


 彼の剣には迷いがある。それは、元来剣士ではないマーガレットの目にも明らかだった。


 兜の脱着をスイッチとして、戦闘時と平常時を使い分ける。切り替えが効くと言えば聞こえはいいが、言い換えれば兜が無ければ戦闘に本気になれないという事であり、それはディロックが心に持つ不安定さを示していた。


 守るために、見捨てないために、戦わなければならない。けれど、その為の戦いでさえ忌避し、兜に頼らなければ本気で剣を振れない。どこか歪なのだ。


 根本に何があるのか。マーガレットは目を細めて、素振りを続ける彼に問いかけた。


「以前、聞いた事があったかな。何故、旅をしているかと」

「……どうだったかな」


 剣を振る音が止まる。ディロックは彼女の方を見た。マーガレットも彼の方を見つめ返した。


「あてどない旅をしている、と言った覚えはあるが……」


 言って、彼はふと物思いにふける。


 ――何故、か。剣を収める事もせずに、ぼんやりと考えた。肺が収縮して胸が上下し、だらりと下げた腕の先で、切っ先がわずかに庭の土に突き刺さる


「逃げたかったんだ。故郷を少しも感じないところまで」


 本音を、こぼす。絞り出すような声が、地面にぽとりと落ちて、マーガレットの耳に確かに届く。


 それに"なぜか"を聞くのは、随分残酷なことのように思えた。それほどまでに、彼の口は重く閉ざされていた。だが、聞かない訳にも行かなかった。


 それは今後の旅に、そして今回の戦いに関わる、大事な事である。


 旅の終わりとは、すなわち、目指す先である。ある意味で執着とも言える。剣聖と呼ぶにふさわしい力を持つ正騎士と戦う上で、勝利への渇望は必要不可欠だった。


 無理に引き出す事は望ましくない。彼自身の口から語らねばならない。


 それを知ってか知らずか、閉ざされた彼の唇は、次の言葉を紡がんと必死に足掻いているように見える。


 だから、彼女は待った。彼の頬を汗が伝って、ぽたりと落下する。水を飲んで、汗を拭いて、彼は尚も考える。それでも待ち続けた。そうしてディロックは、ついに口を開いた。それは、と。


「それは?」

「……弱かったのさ。守れなかったものが、取り返しのつかないぐらい重すぎた」


 吐き出した言葉は、泥のように重く、彼の心を汚していった。久々に――あるいは、初めて吐いた本音。


「もう帰って来なくても、今度こそ守りたいんだ」


 笑ってくれと、彼は言った。自分のどうしようもなさに笑いながら。


 二度と戻っては来ない物を失って、その後ろ姿を他人の姿に重ねて、今度こそ守ろうだなどと。傲慢で、愚かで、滑稽で。


 故郷の誰も、守れなかった事について、彼を責めなかった。それがかえって彼の心にとげのように突き刺さっていたのだ。誰かに、自分の罪を裁いてほしかった――最も許していないのが、自分だったとしても。


 けれどマーガレットはまた、彼の方を真剣に見て、言った。


「笑わないさ。笑えないとも。君はまた立ち上がった、繰り返さないように」


 剣を握る彼の手に、自らの手を添える。その手は硬い手だ。何度も、何度も、己を傷つけるように剣を振って、帰って来ない物を求めた、悲しい男の手である。


「その意思こそ、最も尊ぶべきものの一つだ。君についてきてよかったよ」


 そういって彼女は笑った。それはあざけりではなく、純粋な尊敬と、喜びからくる笑みである。


 詳しい事は話したい時にと言って、マーガレットは去っていった。泣き出しそうな彼だけが残って居た。

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