百三話 妬みの玉座
「王よ、お考え直しください! 公爵と全面戦争など、民を疲弊させるばかりです!」
玉座の間に、悲痛な叫びが響いた。
男は文官の一人だ。何十年とロザリア王家に仕えてきた身であり、老いて尚その手腕を買われ、今まで忠義を尽くしてきた。
王の言葉は、基本的に絶対だ。それが王の不利益になることであっても、最善を尽くせと言われればそうするのである。彼も今までずっとそうして来た。だが、今回ばかりは進言せずにはいられなかった。
公爵との――つまり、肉親との全面戦争。
それは国を二分しかねない、最も避けるべき事態である。
実力主義の最たる例であるロザリアの騎士たちは、そこらの国々とは格が違う精強さを誇るが、それは身内争いの激化を招いている。
騎士同士の小競り合いだけでも大変な被害を出しかねないこの国で王族同士の戦ともなれば、ロザリアという国はとても今の形状を保つ事などできないだろう。
騎士は死に、民は疲弊し、どちらが勝っても無傷ではいられない。
故に止めるのだ。たとえ首を刎ねられるとしても、国のためを思い身命を捧げる覚悟が老臣にはあった。
しかし王は、ぼんやりとした視線を必死に進言する彼へ投げかけながら、不意に口を開いて言った。
「不敬であるぞ」
ぽつりと零された、しかし確かな言葉に、老臣は顔を上げた。
そこには、どこか空虚でありながら、行き場のない怒りを抱えた目があった。とても王の物ではない、持たざる者の目である。全てを妬む視線である。
彼が呆然としていると、王はふと別の方へ視線をやり、事もなげに言う。
「誰か、こいつをつまみ出せ」
「え、は? お、王よ! 私は国の為を思っているのです!」
近寄ってきた衛兵の視線が、王と老臣の間を何度も往復する。王の命に従うか、臣の言葉を続けさせるか、迷っているのだ。
だが、その迷いをどう思ったか、ジェイムズ王はいら立ち紛れに初めて大声を出した。
「連れていけと言っているのだ!」
「は、ハッ!」
戸惑いながらも、衛兵たちが老臣の脇を抱えて引きずる。彼は何度も何度も王に向かって叫んだが、結局玉座の間の大扉が閉められるまで、彼は一言も口にせず、窓から外を見ていた。
空はどんよりと灰がかっており、今にも雨が降り出しそうだと感じられる。そんな雲を見つめながら、王は玉座に立てかけられた剣へと手を伸ばし、それを引き抜いた。
武骨な剣だ。竜の頭が柄に彫刻されている以外は、鞘も刃も、飾り気のない実用的な剣である。
それは、初代国王が邪竜殺しに用いたとされ、この国の長たるを象徴する、王の剣。しかしその刃は曇り、かつてのように銀には光らない。それがジェイムズの怒りをさらに増幅した。
それはまるで、自分が王にふさわしくないと告げられているのかのように感じられたのである。
曇った刃に移る、曖昧な自分の顔を睨みつける。剣を握る自らの腕も。そして、この玉座の間でさえも。
気に食わない。気に入らない。何もかもが妬ましい。この国を言葉一つで左右できる長でありながら、彼は全てがうらやましかった。
それは、王になる前――すなわち、王子として弟とともに過ごしていたころからそうだった。
幼いころから、才色兼備たる弟と比べられて生きて来た。それは彼の劣等感を、そして嫉妬心を育み、王になってもその頃の気持ちを常に抱えて来たのである。
彼も彼なりに、弟に負けてなるものかと剣を振るい、学を修め、王になるべくして努力してきたが、結果は散々だった。
長い時間をかけて覚えた全てを、弟はすぐに理解し、修め、彼を上回ったのだ。その度に比べられ、みじめさをかみしめて来たのだ。
それは彼が、死に際のコリド三世から剣を授かり、王冠を託されても彼につかず離れずついてきた。
王の剣を握り、王として民の前に立つたび、誰かが自分を馬鹿にしている気がした。何故弟君ではないのか。何故王はあれを選んだのか。寝床にいても、誰かのせせら笑う声が聞こえる日々の中で、彼は狂った。
財をかき集めて、逆らう村は焼き滅ぼした。
自らを称える騎士ばかりを重用した。歯向かう騎士は殺した。
今のように否定を口にする臣は全て追い出した。それでも、彼は満足しない。
どす黒い狂気が、果て無き"妬み"が、彼の心をひたすらに突き動かす。さあ、次は生意気な弟だ。俺の才を上回り、俺の努力を踏みにじり、俺の人生に妬みを与えた、いやしき血のカルロ!
笑う。狂ったように。何も面白くはないのに、笑う。
真夜中のように暗い瞳には、憎悪する弟の背中だけが見えた。ずっと追い続けて来た背中。決して届かない背中。
その目にもはや、自分を慕ってくれた者たちも、弟とともに笑いあった日々も、もう映ることはない。
握った刃が黒く濁る。刀身の中で、何かがにやりと笑った。古よりかすかに生き残った、混沌の残滓が笑っているのだ。
――笑うな! ジェイムズは叫んだ。シンと静まり返った空間で、彼は自らの頭を掻きむしる。剣の濁りは尚もせせら笑いながら、その奥の方へと沈みこんで行った。
「誰にも馬鹿にさせない。させるものか……俺は、俺は王だ……」
聞くものも居ない無人の玉座で、彼はぼそぼそと呟く。王冠が虚しく光っていた。