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青空旅行記  作者: 秋月
三章 騎士の国ロザリア
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百一話 決心

「弟子、ということは……もしや先代は」

「私です。もう何十年と前の話ではございますが」


 ローラインは突然剣を抜くという非礼を詫びながら、今度は鞘鳴り一つなく剣を収めた。


 目の前の老婆がかつての正騎士であったという言葉に、驚きはない。女性であることを差し引いても、その身に宿る武威に対し、疑うべき所は何もなかった。


 むしろ彼の顔には、困惑の色が濃い。なにせ、自ら死にに行くのである。もちろん、そういった者たちを目にしたことは何度もある。老婆と同じように、最期になると分かっていて戦いに向かう者たちの姿を。


 しかし、それは身寄りの無い者が大半で、彼女のように家族に囲まれた状況から死にに行こうとする者を見るのは初めてだった。


 彼にとって、死とは"別れ"だ。それは耐えがたい出来事であり、座して待つならともかく、自ら迎えに行くなど前代未聞の話である。


 どうして、と彼の口が動く。どうして、そんな事をするのかと。


 死ぬのは分かり切っている。最期の時間を、座して待つ事に使わないのか。死への恐れを和らげるためのものとしないのか。ディロックは、自分の持つ思いとはまるで正反対な老婆の態度に戸惑っていた。


 すると老婆は、それまでのピンと立った背筋を失って、くたりと寝台に倒れ込んだ。体力が途切れたという訳でもなさそうだったが、彼の問いを受けた老婆の顔は、先ほどよりもずっと老け込んだように見えた。


「私は、生まれてこの方、剣を振って生きてきました。正騎士と呼ばれても、前王と結ばれても、子を産んでも……」


 目を閉じ、星でも探すかのように天を見上げた。傍から見たその姿には、遠い記憶を見つめているかのような静けさがあった。


「この年になって剣が振れなくなり、ふと気づくと……子供たちはもう大人で」


 それは、まるで一瞬の出来事のように思えたという。


 剣を振り続け、敵とあらば斬ってきた人生に、母親としていた時間は短く、けれど時間は確かに経っていて。気づけば老婆になっていた自分と、墓石になって喋らない夫と、もう母親を必要としない子供だけが居たのだ。


 はたしてそれがどれほどの寂しさをもたらすのかは分からない。ディロックには、親になったことも無ければ、生涯を通して捧げて来たものもない。


 だが、その喪失感の大きさはひしひしと伝わってきた。子供のことを愛おしそうに、そして知らず知らずのうちに失っていた時間を語る老婆の姿は、およそ先代正騎士とは思えない程、やつれ衰えているように見えた。


「私はもうじき死ぬでしょう。医者は、一ヶ月持たないし、正騎士と戦えば、その余命さえないと」


 だから最期に、母親らしいことを……未来を託すぐらいはしてあげたい。それは、最強の名を欲しいままにして来た剣聖の、ささやかな願い。


 すっかり年相応の弱弱しさとなってしまったローラインの姿を見て、彼は目を細めた。それは、失望に近い色を持っていた。彼女にではない。人に戦う意味を求めようとした、自分自身へである


 ディロックは今の会話のさなか、彼女の答えから、自分の道を模索しようとしていた。彼の心の根底には、トラウマの投影がある。過去の記憶と重なる物に対し懐古と苦痛を抱き続けるのはそれが原因だ。


 今、こうして悩んでいることさえ、もとはと言えばその投影によるものだ。それを自覚し、振り払おうとする中で知ったのは、自分に確固たる思いが無い事だ。


 マーガレットの居た国を救った時も――彼はその時、無自覚だったが――理由は同じである。伸ばせなかった手を、何時までも悔やんでいるに過ぎない。


 振り払うには、この状況から逃げ出すしかないが、心はそれを嫌がっている。彼は、依頼を受けるにせよ受けないにせよ、現在(いま)に立ち向かえるだけの理由を探していたのである。


 老婆は、かすかに先ほどまでの強さを取り戻すと、彼の目をじっと見た。


「あまり、お役には立てなかったようですね。申し訳ありません」

「いや。もとはと言えば、こちらが迷っていることが悪いので」


 そういって、彼は椅子から立ち上がる。ローラインは引き留めなかった。


 心がずっしりと重い。決断するということが、これほど苦痛になったことは、長らく旅をしてきた中で一度もなかったと言えるだろう。


 だが同時に、自分の心のありようをまざまざと見たのは、これが初めてであった。ずっと古い記憶に縛られ、踏み出しているようでありながら、その実一歩も動けないでいる事を、改めて目の前に突き付けられたのだ。


 何年も、逃げるように旅をし続けて来た。


 どれだけそれが恐ろしくても、何時かは歩き出さなければならない。目をそらして来た罪に向き合う時が来たのだと彼は思った。


 重苦しい動きで扉に手を掛けて、そこでふと、彼はローラインの方へと振り向いた。


「一つ、言いたい事がある。よろしいか」


 返答はなく、老婆はじっと彼の目を見つめている。それが答えだと思って、ディロックは肺にかすかに痛みを覚えるほど大きく息を吸い、そして言葉とともに吐き出した。


「託すより先に、語り合ってあげてください。思いを伝えられないことは、酷く辛いですから」


 半ば自分に言い聞かせるようにそう言って、ドアノブを回し、今度こそ部屋を出た。ローラインは彼に声を掛けようと口を開いたが、結局何も言わなかった。

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