十話 少女ロミリア
「あの、ええと……ディロック、さんは、何を……?」
ひとしきり笑い終え、もごもごと時折口ごもった声になりながらも、ロミリアと名乗る少女はディロックに問い掛けた。その視線は、ちらちらと彼と、彼の後ろにある石碑を交互に写している。
ディロックはその様子に一瞬首を傾げそうになったが、思い直し、一先ずロミリアの質問に答えることにした。
「ああ、とりあえずこの石になんて書いてあるのか確認しようと思ってな」
この遺跡に来たのはまったくの偶然であったが、石碑文を読み解こうとしていたのは嘘ではない。彼女が何時から見ていたのかディロックは知らないが、文句を付けられるような答えではないはずだ。
そんな彼にロミリアは安心したように息を吐いた。そして、今度はディロックが問い掛ける番だった。
「逆に聞くが、ロミリアは此処で何を?」
「……え、えと。薬草刈りをしてて、その……」
少女はそう言ってから、少し迷った風に口を閉じた。
この人に喋って良いのだろうか。ディロックは、目の前の不安そうな少女からそんな雰囲気を感じ取った。無論、心を読むことが出来ない彼ゆえに、ただの勘だ。ただ、外れているとは思えなかった。
「ああ、言い辛いなら言わなくていい」
「……はい」
ディロックはどうするか、と頭を掻いた。正直、人と出会う事は想定していなかった。居るとしても、精々猟師のティックか、そうでなくても成人している人間だろうと考えていたのだ。
突然少女と遭遇など、まったく考えていなかった。少女も、困ったようにディロックを見ていた。
彼もしばらく見詰め合っていたが、ともかくそうしていても仕方がないと、石碑の方に振り返った。
何文字あるのだろうか。古グディラの言葉はそう複雑なものでも分かり辛いものでもないが、あまりに多すぎても翻訳が難しい。ひとまず、一行目だけでも訳してみるべきだろうか。
翻訳の為の古代語メモとは別に、ディロックは白紙も一枚取り出した。
ある地域では普遍的な、乾いた草を使った紙だ。羊皮紙よりは安く、かつ破れにくい。多少書き辛くはあるが、文字の汚さが気になるようなら後で書き直せばいいと彼は開き直り、適当にあぐらをかいて、石碑の翻訳を始めた。
最初の一文には、それが何時書かれたかの大まかな記述があるようだった。
しばらくして、ディロックはハッと顔を上げた。少し集中しすぎていたらしい。気付かない間に石碑はおよそ四行分ほど既に訳され、彼の手元にある白紙だったはずの草紙には、翻訳文が細かに描かれている。
そして、そうして翻訳する彼の横から、少女が顔を覗かせていた。自分を見るディロックに、ロミリアはハッとしたように身を引いた。
「あ……その、お邪魔……でしたか?」
好奇心を顔に浮かばせながらも、その声はぎこちない。見咎められたと思ったのだろうか。ディロックは慣れない感覚を覚えながら、ぽん、と自分の横を軽く叩いた。
「いいや。気になるなら見ていてもいい」
子供は興味を持ったものに対し積極的で、それが何時か将来の仕事に繋がるだとか、何かの役に立つだとか、そういったことはままあることだ。
だからこそ、大人はそれを補助してやらねばならない。少なくともディロックはそう考えていた。助けすぎるのは別としても、子供の持った興味を全否定してしまうのは良くないと思っていたのである。
あるいはそれが邪法の類についての興味であれば、多少は止めるべきなのだろうが――。
ロミリアは少し緊張した様子だったが、ゆっくり、そろり、そろりと近づいて、ディロックの横にぽすんと座り込んだ。時折ディロックの様子を伺うように目は上げるが、その視線は主に翻訳文と石碑の間を行き来していた。
こういった翻訳に興味があるのか、あるいは知らない知識に対する好奇心なのか。彼は軽く笑うと、また石碑と自作の古代語辞書とのにらめっこを始めた。
全体的な文はおよそ五十二行ほど。しかしながら、まるで詰め込んだかのようにぎっちりと文字が詰まっていて、整合性が取れているとはいえない。つまるところ、読み辛い文章になっていた。
言葉が難解であるという事はないが、詰め込まれている分だけ文字は小さくなっており、読み解くのが大変になっていた。半ば顔を石碑貼り付けるようにしながらも、しばらく翻訳を進めていく。
そうしてまた二行ほどの文章を翻訳し終えた所で、ふと腹の虫が鳴いた。可愛らしい音を立てたそれは、どうも自分のものでないらしいことを知ったディロックは、おもむろに自分の傍らに座った少女に目を向けた。
するとそこには、腹を両の手で押さえながら、少し赤い顔を俯かせているロミリアが居た。
「……腹が、減ったのか?」
彼が問い掛けると、少女は一瞬戸惑ったが、恥ずかしげにゆっくりと頷いた。
その様子を見て、彼はロミリアに見えないように懐中時計を取り出した。針が示すのは十三時、真昼を少し過ぎた程度の時間。区切るには丁度いいか、とディロックは古代語の辞典を慎重に閉じ、背嚢に放り込んだ。
「俺も腹が減ったんだ。せっかくだから、一緒に食べないか?」
彼は笑いながらそういった。少女はそんなディロックに戸惑うようにえ、と小さく声を漏らした。名前を知り合ったばかりの男からの申し出では無理もないことだ。彼にもそれは分かっていた。
ただ、それが今更のような気もしていた。
なにせ、つい先ほどまで名前も知らなかった男のすぐそばに座って、何時間もそうしていたのだ。今更、一緒に飯を食べる程度のことに、何の問題があろうものか。
ディロックがそういっても、ロミリアはしばらく悩んでいたが、もう一度鳴った腹の虫に耐えかねたのか小さく頷いた。
そうと決まれば、と彼は背嚢をあさり始めた。彼が愛用している背嚢は――無論、魔法による拡張があってこそだが――あきれる程の容量を持っている。彼はその中に、魔法の道具を代表として多種多様な代物を詰め込んでいた。
まず、彼が始めに取り出したのは、大量の干し肉の束だ。二十枚ほどもあるだろうか。
片手だけで器用に五枚ほど束から抜き取りながら、ディロックはもう片方の手で二枚皿を取り出した。ひとまず抜き取った干し肉をその皿に並べ、一旦ロミリアに預けた。
ディロックはいくらか減った干し肉の束をまたしまいこむと、今度は大きめの黒麦パンとそれを切るナイフを取り出した。素早い手つきで均等な長さに切り分けると、少女へと渡した皿においていく。
それが丁度二枚ずつになったあたりで、パンもナイフもまた背嚢の中へと戻された。
そして最期に、彼が取り出したのはショートブレッドと呼ばれる保存食の一種が詰まった袋であった。
ショートブレッドは人差し指ほどの大きさをした長方形で、それなりに長く保存の効く食料として知られていた。長い間行商人、冒険者、そして旅人の傍にあったものだ。
地域によっては、既存のレシピに改造を加えたり、あるいはまったく新しい製法で作っている事もある。ディロックが持っていた物もまた、普遍的なものではなかった。
彼が二つずつ皿に並べると、ロミリアはかすかに鼻をくすぐった果物の匂いに目を見開いた。ディロックはその様子にくつくつと笑うと、中にドライフルーツを細かくきざんだ物が入ってるんだと、と説明した。
そうして揃った昼飯は、調理しなくても食べられる簡素なものばかりではあったが、それでも森の奥深くで食べられる物と考えれば贅沢なものだった。
あぐらを掻き、その間に一旦皿をおくと、ディロックは目をつぶり右手で握りこぶしを作って左胸に小さく当てた。篭手と胴鎧が接触し、カチンと音を立てる。
ロミリアは一瞬きょとんとしたが、それが食前の祈りに似た物なのだと何となく分かった。ディロックが目を開けて構えを解くと、今度はロミリアが食前の祈祷をする。彼が朝聞いたばかりの、風来神に感謝を捧げる祈りだった。
そうして、二人は一瞬見つめあうと、お互いにぎこちなく笑い合い、昼食を思い思いに食べ始めた。




