一話 渡し守と旅人
はじめましての方ははじめまして、秋月と申します。
新連載を始めるにあたって、やや展開が遅い、執筆が遅いと感じられるかもしれませんが、どうかご了承くださればと思います。
とぷん……とぷん……。
大きな湖を、小さな渡し舟が横断していた。
渡し守の女は、二週間ぶりに来た奇妙な客を時折振り返って見ながら、舟を漕いでいる。櫂は静かに水面を裂いて、舟はゆっくりと進んでいた。
森に囲まれたそこは、空気が特に澄んでいる。息をすれば、森の息吹が身体にしみこむようで、女はこの湖を渡るのが嫌いではなかった。
それに、と横目に空を見れば、空も晴れ渡っている。今日は気持ちの良い晴天で、真白の綿のような雲がゆらりと浮かんだ空は酷く綺麗に見えた。
女は空から視線を戻し、もう一度客を見やった。男は若いように見える。少なくとも、エルフでは無さそうであるし、只人なのだろうと推測できる。ただ、肌の色は、ここいらでは滅多に見ない暗褐色で、髪の色も染めた様子の無い銀色であった。
髪は短めに刈り取られていて、特に耳の当たりや、前髪は短くなっている。ここ最近の流行からは外れた、利便性を求める旅人らしい髪型だった。あれなら、金具などにも引っかからない。ただ、その短さからか、魔法の頭飾り等はつけていないようだった。
しかし、何よりも目立っているのは、その金色の目である。
一見すると黄色にも見えるのだが、光を受けると、正に金と言えるだけの輝きを帯びるのだ。
身体はそれなりに大柄で、しかし肩幅はそれほどでもない。全体的にしなやかな体付きで、まるで猫のようだ、と女は思った。それで居て、彼の体には全身くまなく筋肉が張り巡らされている。素人目に見ても、無駄な筋肉が付いていないのだと容易に推測できた。
鈍色の使い込まれた風な鎧を着込んで、腰のベルトには曲刀が結わえ付けている。大きく膨らんだ背嚢には、メイスが雑に結び付けられていた。鎧の左肩からは濃い緑色の布がたれており、それが唯一の飾りである。
指輪を一つ、二つは付けているものの、それも恐らく魔法の品。銀の指輪には文字が刻まれているのを見取る事が出来る。
全体的に飾り気がなく、どこか無骨さを感じさせる旅人であった。やや若い顔付きではあるものの、相応に旅をしてきたのだと言う事を無言の内に漂わせている。
旅人はじっと黙ったまま、波紋が浮かぶ湖を眺めていた。
女は、言い知れぬ気まずさにそっと手元に目をやった。こうして向かいあう形で座っていても、そうすれば相手を視界に居れずに済むからだ。話さない相手のことをじっと見ているというのは居心地が悪かった。
こんな辺鄙で何も無い場所に、この男は何をしにきたのだろう。
女は無心に櫂を回しながら、それがはなはだ疑問で仕方が無かった。そこで、彼女は幾分か迷った末に、とうとう口を開く事にした。さいわいと言うべきか、男を渡すべき対岸はまだ遠かった。
「その……お客さんは、何処から来たので?」
湖を静かに見渡していた男は、声をかけられてひょいっと顔を上げた。男と目が合う。女はそこで、彼の目が猫のごとく縦長である事に気付いた。
旅人は、しばらく女の言葉に応えなかったが、そのうちにゆっくりと口を開いた。
「ああ……南の方から来た」
曖昧な返事だった。南という応えは、南西から来たとも、南東から来たとも取れる。明確な名前を口にしないのが何故か、女には皆目見当もつかなかった。
ともかく軽く頷いて返事の代わりとしておき、女は更に話を続けた。
「南の方から、ですか。ここいらだと、中々に珍しい」
「よく言われる。……あいつら、引きこもりなんだ」
男はそう言って笑った。人好きのする笑みだった。女も釣られて笑うと、しばし舟の上に静かな笑い声が満ちた。水面には舟と二人の影がぼんやりと写っていた。
渡し守は内心少し、ほっとしていた。寡黙な人間は珍しくないが、そういった客に渡し守から話しかけるのは、あまり良く無い事だと祖母に聞いていたからだ。事実、人と話すのが嫌いな客も居る。ただ、今日は何となく、話さなければ落ち着かない日だったから。
渡し守の女にとっては、その程度の決断でしかなかった。
ひとしきり笑い切ると、また二人は静かになった。だが、今度は心地の良い静けさだった。
チチチ、と小鳥の鳴く声がする。森のざわめきが湖に響いて、なにやら綺麗な音となった。ざわざわと揺れる森にあわせて、小鳥の声と虫の音が聞こえる。
森の奏でる歌は、どこか神聖で、どこか親しみやすく、それでいて静かだ。しばらくの間二人して、それを聞いていた。
となれば、自然と静かな時間が過ぎ、得てしてそういう時間は早く過ぎてゆく。渡し守の女が気付いたときには、後数分もすれば対岸に着くというところまで舟は進んでいた。
旅人は、何か忘れている物がないかと周辺を確認しだした。男の荷物は膨大で、その一つ一つがそれなりの重要性を持っている。水筒や周辺の地図に始まり、毛布、カンテラ、財布、魔法の指輪、武器の類やその整備用品。一つとして欠けてもいい物はない。
女は少しばかりあせった。というのも、本当に聞きたかった話を聞き損ねた事を思い出したからだ。
「その!」
突然大声を出した女に、男は驚きもせず、手を止めてそちらを見た。ほとんど確認を済ませてしまった男の手には、何やら良く分からない形状のものが収まっている。螺旋を描いたそれは、握り拳より少し大きいサイズの巻貝のようにも見えた。
「……何だ?」
奇妙な旅人は至極きょとんとした様な声で女に問いかけた。まだ何か、聞きたいことがあるのだろうか? そんな調子であった。
女はしばし言葉に迷ったが、何とか頭の中を整理すると、伝えたい事を第一に伝えた。
「その……この先にエーファという村があるんですが……」
そう言って、一旦言葉を切った渡し守は、懐から一つの巾着を取り出した。
普遍的で小さな麻の袋に包まれたそれは、少し離れていても感じる様な、懐かしい香りに包まれていた。森の香りだ。それも、古い古い森の、苔むした老木の香りだった。
旅人は差し出されたそれをそっと受け取ると、興味深げにそれを見回した。とはいっても、中身は麻の袋の中だ。魔法の目を持たない彼には到底、中身が分かるはずも無い。男は女の方を見て、続きを促した。
「もし、もしも寄る用事があったら、ティックという猟師の老人にこれを届けてほしいんです」
開けていいかと確認もせずに、男が無造作に巾着袋をひっくり返した。すると、重力に引かれ、彼の手にひとかけらの木片が落下する。
僅かに生命の息吹を漂わせるその木の欠片は、どこかの老木から取れたものだろうか。軽く顔に近づけてみると、良い匂いがした。旅人の故郷にあった、大きな樫の木によく似た匂いだった。
穴を開けられ、皮ひもを通されたそれは、首飾りのようである。
彼はそれをしばし見つめたが、不意に麻の巾着に入れなおすと、その口をキュッときつく閉めた。そして、その紐を軽く結ぶと、まだ開いたまま彼の膝の上にあった背嚢の中に放り込んだ。すでに膨らみきっているように見える袋は、不思議な事に、平然とその巾着袋を受け入れた。
「分かった。届けておこう」
反対の手に持っていた巻貝のようなものを最後に背嚢に放り込み、背嚢を閉めてボタンを留めると、丁度がこんと小さな音がなった。
渡し船は、女がしばし漕ぐのを怠っても、ゆっくりと進んでいたらしかった。ひょいと背嚢を背負った男は、軽い調子で舟から岸へ飛んだ。明らかに重いであろう背嚢や、金属鎧を着込んでいても、その動きは軽快だ。
着地すると、着込んだ金属鎧が僅かに音を立てた。男は姿勢を軽く正してから、渡し守の女に向かって軽く手を振った。
女も手を振り返すと、旅人は軽く笑って、ゆっくりと歩き出す。
そこで、女はふと思い出して、去り行く旅人の背に向けて声を張り上げた。
「あの、名前をお聞きしたいのですがー!」
男はその声に少し歩みを止めた。そして彼は苦笑いと共に振り返ると、静かに自分の名前を告げた。
「ディロックだ」
そう言ってから、思わずといった風に笑うと、ディロックは再び前に向き直って歩き出す。そうしてまっすぐ、何処までも何処までも歩いていって、とうとうその後姿は森の中へと消えていった。
彼の旅に、目的といえるような目的は無い。曲がり道も、横道も、ディロックは好きな様に歩いていく。風の向くまま、気の向くままに。
その背中には、ただ空に吹く風のように、自由な心だけが背負われている。