5.人
「で? 次はどんな問題が発生したんだ?」
「食材の一部が腐っていたようです。食あたりを起こした奴隷が何人か。今のペースですと、作付け作業はどうしても遅れそうです」
「……労働時間を増やすしかないか」
夜のチェインズ農場。その屋敷の防音処理が施された部屋の中で、俺は頭を抱えながら呻くように言った。
目の前の机には大量の紙束が積まれており、そのどれもに頭痛の種になるような報告が書かれている。
「奴隷からの不満はどんなもんだ?」
「そこそこありますが、まだ我慢が効いているようです。ケント様が日頃から培っている、人望の成せる技でしょうね」
「当然だ。こういう時のために、普段から善人面してんだからな」
ただ、< ステータス看破 >で奴隷たちの< 好感度 >を確認した限りでは、もう幾つかトラブルが続くと危険水域に入りそうな感じだ。
イライラが止まらない。席を立って、すぐそこにいるスレイドルを左目で見る。
いつも通りに金髪を結い上げた、俺が最初に取り扱った黒首輪の奴隷。
こいつの< 好感度 >だけはほぼ高止まりだし、< ステータス看破 >の真偽判定を知っているからか、嘘をついたこともない。
自分の右腕が信頼できるというだけでも、少し冷静になれた。
「しかし、ウルヴァーンを失ったのは痛かった。ハープルーもまだ万全じゃない。どうして、こうも立て続けに不幸が続くかな」
「そういう流れはあるものです。野盗も疫病も船の沈没も今回の食あたりも、少しの悪意やちょっとした歯車のズレで起きてしまいますから」
「弱り目に祟り目ってのは嫌なもんだな。野盗どもの襲撃だけなら、まだリカバリーできたが……」
現在のチェインズ農場は、経営がかなり厳しくなっていた。
野盗の略奪は、物質的にも人員的にも多大な被害を及ぼした。ただ、それでもチェインズ農場ほど大規模であれば再建は十分に可能な範囲内。
俺も後始末に奔走していたが、そこに第二第三の不幸が打ち込まれた。
人手が足りずに死体の処理が遅れ疫病が流行り、蛮族大陸からの輸送船が沈んで予定していた奴隷は仕入れられず、そして今度は食中毒で更に動ける人員が減る。
「とにかく、マンパワーが足りないことこの上ねぇな」
必然的に、そのツケは奴隷たちの労働時間へ向かう。
ロクでもないことが続いてやる気の落ちている連中には不満が溜まり、効率は落ちる一方。
悪循環だった。
今は財産を切り崩してなんとか農場を維持しているが、この調子が続くと経営破綻まで見えてくる。
「……いや、払えるカネがある内はまだマシか。さっさと書類を片付けて、暇を作ってから奴隷市に行くぞ。とにもかくにも、数を揃えねぇと」
「かしこまりました。わたくしも雑務を片付けてしまいましょう」
そう言って、スレイドルは穏やかな笑みを浮かべながら身を寄せてくる。
その手は俺の股間に伸びており、こいつが何を欲しているかは明確だ。
「俺の相手は雑務かよ」
「買われてからこっち、誰にも譲りたくない仕事です。初めて同士だったでしょう?」
そう言われると、どうにもバツが悪くなる。
父親から最初に俺専属の奴隷として与えられたスレイドル。絶望に濁った目をしていた奴隷の少女へ何かと構う内に、いつしか彼女は穏やかな笑みを見せるようになっていた。
後は流れのままに気持ちを通わせ、今に至るまで腹心として活躍してくれている。
そんなスレイドルにからかわれると、微妙に断りにくいのも事実だ。
「手短かに済ませろ」
「かしこまりました」
そう言って、スレイドルはしゃがんで俺のズボンを下ろした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
十日後の昼。俺は奴隷を買い付けに二頭立ての巨大な牛車に乗っていた。背後にはいくつもの荷台が連結されている。
表面上は平静を装いつつも、俺の心の内はそわそわと落ち着きなく揺れていた。
ここで頭数を揃えれば、当座をしのぐことはできる。半水妖精のハープルーもいずれは復帰するだろう。
後は来期の薬草の収穫さえ来れば……。
その思考は、ガタンッという音と衝撃で吹き飛ばされた。
辛うじて荷台からは落なかったものの、体勢を崩して左目をしたたかに打ってしまう。
何てことを! この< ステータス看破 >は俺の生命線なのに!
「なにがあった!」
「牛車のどこかが壊れたようです。調べて参りますので、少々お待ちくださいませ」
そう言って、御者をしていたスレイドルは降り立ち、すぐに車輪の点検を始めた。
俺は俺で、ポーションを染み込ませた清潔な布を左目にあてがい、即席の眼帯とする。
角膜さえ傷ついていなければ、何とかなるとは思うが……。
そうしている間に他の奴隷に点検させた所、幸いにして現金やいくらかのポーションが、壊れたり無くなったりした様子はない。
ただ、スレイドルの報告はそれ以上に嫌な結論をもたらすものだった。
「ダメです、左側の軸受けが二つとも折れています。荷台も横転して破損した箇所がいくつか。加えて、今の衝撃で剛牛の一匹が足をくじきました。これ以上の走行は不可能かと」
そう言われて、右目で剛牛を見てみる。
いや、くじいたって……あれは捻挫より酷いんじゃないか? 下手をすると足が骨折しているかも知れない。左目でステータスを閲覧できないのが悔やまれる。
ただ、少なくとも牛車を引く二頭の剛牛の内、一頭が使い物にならないのは確かなようだ。
加えて、四輪の牛車本体でも二輪が破損。荷台にも被害。応急処置程度でどうにかなる範囲を超えている。
残った一匹の剛牛だけで、ガタガタの荷台を無理やり引かせるのは不可能だった。
「このタイミングでかぁ……。歩いて奴隷市まで何日かかるかな?」
まず、予定していた市には到底間に合わない。
そして、他の競りで首尾よく奴隷たちを買えたとしても、帰ってくるのも徒歩となる。
「この忙しない状況で、僕が長く農場を離れすぎるのは……」
今朝出発する時に見た、奴隷たちの< 好感度 >はどうだったか。
俺が長い旅路から帰って来るまでに、その数値はどう動く。
“ 反乱 ”という言葉が俺の頭をよぎった。
嫌なことを意識し始めると、ぶつけた左目がズキズキ痛む。
落ち着かない。俺は左目を布で押さえながら意味もなく周囲を見渡し……ふと、空いた右目になにかが映った。
「……戻ろうか。農場に帰るだけなら、夜まで歩けば問題ないでしょ。足をやっちゃった剛牛はここに捨てていくしかない。可哀想だけど、処分する時間すら勿体無いからね」
そう言って、俺に着いてくるように奴隷たちはチェインズ農場へと戻っていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「スレイドル、いるか」
農場に戻って数日後の夜。ようやく左目の腫れが引いたので、俺は扉を乱暴に開けてスレイドルの個室へ入った。
ノックはしない。ここでは善人面をする必要なんてない。
「これはケント様、このような夜分にどうされました?」
その唐突な訪問にも、スレイドルは動じない。
薄明るい光源の中で、書類へなにかをしたためている。
「この前の馬車が壊れた時な、どことなく違和感があってパーツを回収しておいた。そんで調べてみたが、こりゃいったいどういうことだ?」
そう言って、あの時に回収しておいた車輪の軸受け部分を床に放り出してやる。
それに対して、スレイドルはちらりと目を向けただけだ。
「それなりに上手く偽装されてたが、これは元々壊れるような細工がされてる。ご丁寧に、農場からある程度離れるくらい時間が経ってから、重みに耐えかねて潰れるようにな」
農場のすぐ側で牛車が壊れたら、すぐに替えのパーツを持ってくることもできたろう。
ただ、牛車が壊れた場所は、農場に徒歩で戻ることはできても簡単には往復ができない。そんな絶妙な位置だった。
「ご慧眼です、ケント様。左目には物品の情報は映らない筈でしたが、良くぞ気づかれましたね」
「やっぱりお前が!」
農場において、最強の戦闘力と偵察力を持つウルヴァーンが排除されたタイミングと手段。
尋問した野盗から聞いた所によると、対ハープルー用の情報が流されていたフシもある。
そこから今まで続く嫌な報告の数々。
人手を補充しに行ったら図ったように牛車が壊された。
その御者をやって、修繕のためと車や牛のチェックをしたのは誰なのか。
そして、農場の事務仕事を一手に担っていたのは……。
「この書類も……」
俺は遠慮することなくスレイドルに近寄り、その手元にある紙束を取り上げた。スレイドルは特に抵抗はしない。
書類を読み進める内に、自分でも表情が険しくなっていくのが分かる。意識して威圧するような声でスレイドルに質問した。
「スレイドル、俺の質問に『はい』で答えろ」
「はい」
俺は今まで、この< ステータス看破 >で嘘を見抜けるという事実を過信していたのかも知れない。
『嘘じゃない。本当のことを言ってなかっただけだ』は、詐欺師の常套句だというのに。
であれば、誤魔化しや隠し事の余地がある返答の仕方を許すわけには行かない。
「野盗の襲撃からこっち、一連の面倒事を仕組んだのはお前か?」
「はい、間違いありません」
「ウルヴァーンやハープルーみたく重要な戦力を潰したのも?」
「はい、わたくしが情報を流して策を練ったからです」
「この書類は、俺を告発するための決定的な証拠だな?」
「はい、あと一歩でバレてしまいましたね」
返答は全て本当との判定が出た。
「どうしてそんなことを! 奴隷身分がそんなに嫌だったのか!? 言っとくが、奴隷からの脱却なんぞ夢のまた夢だし、この農場よりも条件がいい所なんざねぇぞ!!」
俺は激高した。拳で叩いた机から物凄い音が鳴り響く。全身がワナワナと震えるのが止められない。
その紙束には、およそ俺が行った悪事のほとんどが記されていた。
法にギリギリ触れるか触れないかのようなものから、明らかな脱税まで。ご丁寧に、奴隷たちを仕入れる際のマッチポンプの手法まで記されている。
これらが晒されれば、俺は間違いなく破滅だろう。
「はい、この農場より心地良く働ける場所などないと理解しています。わたくしにとっても、一般的な奴隷にとっても」
これも本当。
ただ、スレイドルの動機が分からない。
この開拓大陸において、奴隷とは人間扱いされないのが普通。それは理解している筈なのに。
「ケント様。わたくしはあなたの所有物であることを、心から誇りに思っております。子供の頃、奴隷として絶望に塗れた状態から掬い上げられてから今まで。ケント様に良くしていただいたことは、忘れようもありません」
本当のことを言っているというのに……。
「白々しいな。だったら、どうしてこんなことをする?」
「当然、あなたにもっと愛していただきたかったのです」
「……なんだそれは? 意味が分からないな。俺を妨害することと愛情を得ることと、どんな関連がある」
本当の言葉を語っている筈なのに、スレイドルの思考は要領を得ない。
思春期の子供でもあるまいし、好きな相手の気を引くために意地悪をするなどあまりに稚拙。
しかし、次の返答は俺にとってある意味もっとも納得ができるものだった。
「どうもこうも、わたくしはこのやり方しか知らないので。欲しい人がいる場合、まずは相手を絶望の底まで叩き落としてから救済すべきだと。ケント様の信用が地に落ちた後は、逐電して二人で暮らす準備もしておりました」
絶句するしかなかった。それはまさしく、俺が今まで奴隷を調達するために行ってきた方法だからだ。
俺の側でずっと“ 仕事 ”の仕方を見てきたスレイドルには、そのマッチポンプこそが最上にして唯一の手段に思えたのだろう。
「だ、だけど、お前の< 好感度 >はずっと高いままだった! < ステータス看破 >で見たんだから間違いない!」
そう言って、俺は白濁した左目を再度スレイドルに向ける。
そこに見える< 好感度 >は、もはや死ねと言われれば死ぬほどに盲目的な忠誠度合いを示している。
何だこれは、道理に合わない。あるいは、馬車でぶつけた拍子に左目に不備が?
そう考えれば、さっきからの真偽判定にも納得が……。
「それは間違いありません。わたくしの行動は、全てケント様への好意からでしたから。その< ステータス看破 >に映る条件は熟知しておりましたし」
自分の右腕は、自分以上に自分の能力を把握していた。
その事実に気づかされた俺は愕然とするしかない。
同時に、自分が今まで行っていたことに対しての嫌悪感が押し寄せてきた。
「そうかよ、俺は今までこういうことをしてたのか。チックショウ、やられて初めて分かったよ。本っ当に胸糞悪いな」
そして、目の前にいる奴隷の女が、どれだけ得体の知れない存在だったか実感する。
まるで、出来損ないの人形が不備のある設計に従って動いているようなチグハグさ。
野心ではない。意趣返しでもない。構って欲しいわけですらない。
それしか知らない偶人が、内側にある経験を出力しただけ。
かつて空っぽだった奴隷の少女に、俺はいったい何というモノを詰め込んでしまったのだろう。
「しかし、バレてしまっては仕方がありません。わたくしを処分しますか?」
「できるわけねぇだろ。ここでお前がいなくなったら、農場の事務は本当に回らなくなる」
ここでスレイドルを始末する? 造作もない。こいつは俺が命令すれば素直に自害するだろう。
ただ、その後の業務が停滞する。特に事務関係は確実にパンクしてしまう。
ならば、放っておくか? それも悪手。
ここで目論見が潰れても、スレイドルは何度だって同じことを繰り返すだろう。
何せ、俺を陥れることができる能力と立ち場がある上に、他のやり方を知らないのだから。
であれば、事務仕事を任せられるような後任を育てた後に、スレイドルを処分? 難易度は高いものの、実現できそうだが……。
この多忙な状況で、新しい奴隷を今から鍛え直す暇はない。既存の奴隷たちに今までのマッチポンプを明かせるはずもなく。
そして、俺はスレイドルを育てたやり方以外は知らない。
事が一段落した後で行うにしても、今まで通りのやり方だと後任が第二第三の木偶人形になる恐れは十分にある。
それを考え始めると、俺が新規の奴隷を信用できるはずもない。
秘密の多いチェインズ農場の情報を外に出さないために、信じられる者を少なくしていたのが痛かった。
属人化の弊害も極まれり。肉体労働を行う奴隷すら事欠く状況で、機密を知るスレイドルが裏切っている時点で詰んでいる。
少なくとも、有効そうな手段は今すぐには浮かんでこない。
「このやり方しか知らないね。俺もお前も、成功体験に溺れちまってたかぁ……」
俺はふと呟き、かつての記憶をたぐり寄せる。
最初にスレイドルを掬い上げたのは、純粋な好意からだった。
しかし、年月が経つ内に新しい奴隷にも適用しようと、< ステータス看破 >も使ってダブロッドを実験体に。
安易なやり方で成功してしまって以降、奴隷の境遇を落としてから上げることに心血を注いだ。
その結果が今の状況だと思えば、自業自得と言う他ない。
「…………」
スレイドルはなにも言わない。いつも通りの穏やかな笑みで、俺からの処分を待っている。
分かっているのだ。俺がこの状況では身動きが取れないことを。
あるいは、俺がヤケを起こして殺そうとしても、何かしらの満足を得てしまうのか。
スレイドルからは俺がお見通しなのに、俺からはスレイドルの内が見えない。この左目は、こんな時に限って役立たずだった。
「この段に至っちまったら……善人面を貫き通す以外にねぇか。最後まで“ 良いな農場主 ”でいることに徹するしか」
「ケント様? わたくしへの処分は如何なさいますか?」
「お前にも働いてもらうさ。どうせ共犯者だしな、地獄の果てまで一緒だ。こうなれば腹をくくる。俺だって、信用を失って落ち延びるよりは、多少なりとも名声が得られる方に行くさ」
結局、腹の底から改心することなどできそうもなかった。それが俺という人間の限界なのだろう。
その上で現状を守るためには、俺自身がスレイドルを監視しつつ、“ 今まで通り ”を意識して続けるしかない。
窮屈な生活だ、自由など望むべくもない。これが俺という人間の末路だとしたら、実に手痛い報いだと言える。
「ケント様、どうか捨て鉢にならないでください。いずれは挽回の手立ても思いつくでしょう」
「俺をハメようとしたお前がそれを言うかね? まあいいさ、側にいてくれよ。俺がこの先、初心を忘れないために」
「……かしこまりました」
スレイドルは今ひとつ納得がいかない様子だったが、すぐに気を取り直して仕事に戻ろうとする。
「では、手始めになにをいたしましょう」
「とりあえず、眼帯でも作って左目は封印するか。今回の馬車の部品も、右目で見たから違和感に気づけた」
俺は白濁した左目を手の平でそっと押さえる。
半分になった景色の中では、数値も状態も看破できない真っ当な世界が広がっていた。
「たぶん、この< ステータス看破 >は乱用しちゃいけないものなんだ。普通なら見えないモノが見えてたら、普通に見えるモノを見逃しちまう」
「承知しました。眼帯程度の工作でしたら、今夜の内に仕上げておきます」
「ああ、頼む。これからは縛りプレイになるだろうからな。悪人は善いことをしてもいいけど、善人は悪いことをしちゃダメだ。この先は、好き勝手な行動なんて望むべくもない。……形成したハーレムも維持しないとなぁ」
今までのハーレムは、なんだかんだで俺が絶対的上位者だから楽しめる土壌が成り立っていた。
何せ相手が奴隷だ。好きに楽しんだ後、いよいよとなれば切り捨ててしまえばいいのだから。
ただ、これからはそうも行かない。急にハーレムを解散するのは明らかに不自然だから、ある程度の維持は義務となる。
スレイドルの影に怯えつつ、ただひたすら事務的にこなすハーレム生活なんて、嬉しくも何ともない。
「食事は不味いし娯楽も退屈。その上、女を囲っても楽しめない。仕事の奴隷か人形みたいだ。俺はいったい、何のために生きるんだろうな……」
そうぼやきつつも、俺は書類を手繰り寄せて目を通し始めた。
それは、農場を健全に経営し奴隷たちに程々に豊かで幸福な生活を与えるために。保護区の獣人たちへも、より良い立ち場を用意するために。
この瞬間、俺の人生において残りの生き方は決まった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ケント・チェインズ。
開拓大陸で奴隷解放運動の先導をした、リリース・チェインズの祖父として歴史に多少なりとも名前を残している。
彼の経営していた農場は、奴隷をモノのように使い潰すのが当然な時代としては、あまりに異質な環境だった。
労働時間は少なく、衣食住にも気を使い、奴隷用の医務室まであったという。
先導者リリースの残した言葉には、こんなものがある。
「私は、私の育った環境を他人にも押し付けただけですよ」
奴隷をモノではなく従業員や家族のごとく扱う祖父の姿が、リリースに与えた影響は少なくないだろう。
祖父から父へ、父からリリースへと受け継がれたチェインズ農場の環境は、その影響を当時の人々まで及ぼした。
彼の掲げた奴隷解放という情熱の火焔は開拓大陸全土を焦がし、先住民を迫害しようと燻る意識までも水流のように鎮火させた。
法律すらも大きく改正させたそれは、間違いなく現代の倫理観の土台を作ったと言えるだろう。
一方で、リリースは女癖が悪かったことでも知られている。
元々農場に多かった火妖精や水妖精を始め、何人もの異種族の女を囲った結果、痴情のもつれから刃傷沙汰に巻き込まれたことも一度や二度ではない。
これに対しても、彼は悪びれることなくこう答えた。
「ですから、私は育った環境を他人に押し付けただけなのです」
色好きであった祖父の姿がリリースに与えた影響は、やはり大きかったのだろう。
おどけた調子で言うリリースだったが、それに続けた言葉にはどこか切なげな響きがあった。
「祖父の生き方は、まるで義務感の塊のようでした。遺言に『これでようやく勤めを終えることができる』なんて、いったい何を思い悩んでいたのか」
農場の経営に成功し、人望にも恵まれていたケントがどんな罪悪感を抱えていたのか。最期にそれを解消することはできたのか。
その謎は今でも解明されていない。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。