3.月狼
某は、炎に巻かれつつ独りで戦っていた。
祝福された弓を引いて火妖精を貫き、神木の槍を投げて人間を縫い止め、王牛角の斧を振るって目に映る敵を片っ端から叩き割る。
同胞たちから戦士として尊敬を集めていた戦闘力は、遺憾なく発揮されている。
成人の儀を終えてからこっち、あらゆる技量や勘から体さばきまで、その全てが部族随一。
だが、そんなことは今やまるで意味がない。
なにせ、赤く照らされた周囲には同胞たる月狼たちの骸が横たわり、かつての平和な光景は見る影もないのだから。
守れなかった。
耳は間断なく鳴り響く鉄砲の音に支配され、鼻は肉が焦げる臭いで満たされている。
月の女神様の装飾品は、戦闘をしている内にどこかへ落としてしまった。
もう守るべきモノがない場所で、それでも武器を振るい続ける。
この身を突き動かす衝動が何なのか分からない。
火妖精の奴隷を用いて攻めて来た人間への憎しみか。それとも、個人の武力に慢心して同胞たちを守りきれなかった某自身への怒りか。
「アあア”ぁーー!!」
絶叫しながら、それでも身体は動いて武器で正確に敵を狙う。
もう何体目かも分からない火妖精を、矢を放ち屠ったその瞬間。気づいたら地面に倒れ伏していた。
口に含んだ土の味と臭いはやけに新鮮で。
「あ”っ……?」
違和感を覚えて右の太ももを見ると、灰色の毛皮が自分の血で染められていた。
敵の誰かが撃った銃弾が当たったのだろう。出血量からして即死する類の怪我ではないが、機動力を奪われた時点で戦闘の続行は不可能だ。
この戦いにおいて初めて付けられた傷は、同時に孤軍奮闘を終わらせる合図でもあった。
「畜生……」
地面に転がった某に、足音が近づいて来る。
トドメを刺すために。先住民の自分たち月狼を根絶やしにするために。
「畜生……!」
月の女神様への信仰は届かなかった。部族の仲間は失った。己の武力すらも叩き潰された。
某にはもうなにもない。許されるのは、ただありったけの怨嗟を込めて叫ぶだけ。
「畜生ぉーー!!」
そして、某は――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「……またか」
白み始めた空の下。目を覚ますと同時に、さっきの夢を噛み締める。
しばしば某の心を抉る、これまで生きてきた中でもっとも苦く辛い記憶。
しかし、それは同時に某が敬愛するケント殿との出会いの思い出でもある。直視しないわけにはいかなかった。
頭を振ってある程度の心の整理をつけると、索敵をすることにした。
とがった鼻を唾液で湿らせてからひくつかせ、灰色の三角耳をそばだてる。
「周囲に敵影なし。ケント殿や牛車の積み荷やその他人員にも異常なし。良いことだ」
休憩地にしている大岩以外は遥かに広がる荒野。その地平線の果てまで索敵を行い、某はひとつ息をついた。
かつて偵察を怠り、部族ごと奇襲された不覚。その経験から、感知能力は真っ先に鍛え抜いた。
某が護衛をする牛車が不意打ちにあったことが皆無なのは、実績となって多少なりとも自信に繋がっている。
「だから、背後から近づいても無駄だ。スレイドル、某をからかうのも大概にしろ」
「おはようございます、ウルヴァーン。わたくしとしては、もう少し仕事仲間に気を使って欲しいのですが」
大岩の物陰から揺らめくように現れたのは、結い上げた金髪が特徴の妙齢の女。チェインズ農場において、奴隷の最高位である“ 黒 ”の首輪を着けたスレイドルだ。
……ケント殿にとって最古参の奴隷であり、某よりも首輪の階級が高い。
スレイドルは両手に無骨なコップを持っており、そこからは甘い香りがする湯気が立っている。
この女が先ほどまで使っていた焚き火で沸かしたものだろう。
「見張りの交代です。折角ですから、この白湯で身体を温めてください。砂糖も奮発しておきましたから」
「最初からそう声をかければいいものを。そんな飲み物まで用意しておいて、某を警戒させるような真似をするな」
「ちょっとしたお遊びですよ。ウルヴァーンには通じなかったようですが」
「当然。これが某の役目なれば」
スレイドルが夜警をしている最中も、殺気や敵意に反応できるように某は頭の一部を起こしていた。奇襲を受けないための意識の操作も、今では難なくできる。
それが分かっていながら、どうして戯れるような真似をするのか。
機嫌が悪かったこともあり、ガチンガチンと牙を鳴らしつつ眼光でこの女を射抜いてやる。
「本来であれば、ケント殿の側に侍るのは某だけで十分なのだ」
「では、農場に帰ったら事務を手伝っていただけますか? 最近は書類が溜まりがちで」
「…………」
間抜けなことに、牙をむき出しにした状態で動きを止めてしまった。
人間の様式に沿った書類仕事というやつは、あまりに苦手だ。辛うじて人間語の文字が読み書きできるくらいにはなったが、ケント殿の事務を助けられるほどではない。
追い打ちをかけるように、某の空きっ腹からグゥと音が鳴った。なんとも締まらない空気が流れると同時に、某の頭が冷えた。
「……某が悪かった。その白湯をもらえるか? いかんな、ケント殿にもたしなめられたというのに」
故郷が焼き払われた夢を見た後は、どうしても神経がささくれ立つ。
某は、自分を律することができずに刺々しい態度になった過ちを認めた。
「あなたがケント様のために働いているのは十分知っています。そこに関しては、一切の疑いを持っていません。白湯は温かい内にどうぞ」
スレイドルは穏やかな笑みを浮かべながら、某の非礼を流してくれた。
ケント殿に仕える我ら二人が、一緒に白湯をすすり始めるのはそれからすぐのことだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
開拓大陸の土地を人間が先住民から奪って以降、その土地は薬草や綿花の栽培のために大規模に耕された。
人間大陸から蛮族大陸へと酒や武器が渡り、蛮族大陸から開拓大陸へ奴隷が運ばれ、開拓大陸から人間大陸へ加工されたポーションや綿が輸出される。
奴隷の反乱や船の沈没を考えると、失敗した時のリスクも高いとか。それでも今なお、この三大陸間をまたにかける貿易は、巨万の富を生み出し続けている……らしい。
そして、某の主であるチェインズ農場のケント・チェインズ殿。彼のお方もまた、その貿易の一端に関わる人間だ。
「んー、いい陽気だねぇ。……同時にすっごい暇だね。ウルヴァーン、なんかない?」
「今の所、まったく異常はありません。良いことではないですか」
「そうなんだけどね。野盗に襲われるのは嫌だけど、牛車に揺られるだけなのも勘弁っていうか」
黒いクセ毛をいじりながら、ケント殿がぶつぶつと呟いている。
某としては安全が確保できているのは素晴らしいことで、こうした軽口に付き合う時間も心地良いものだ。
農場の経営者であるケント殿が直々に趣いた、今回のポーションの卸し。
しかし、取り決めや顔つなぎが主目的だったらしく、新しい奴隷などは買わずに取り引きは証文と現金のみで行った。
商品は景気良くはけたらしく、行きはポーションを満載していた牛車の荷台も、帰り道ではガラガラだ。
某のような護衛から荷物持ちや雑用の奴隷も含め、今は御者のスレイドル以外が車内でくつろいでいる。
そこに所有者であるケント殿が混じっているのが、いささか奇妙な光景ではあるのだが。
「某に感知できる範囲で、不審なモノはありません。仮にいたとしても、薙ぎ払ってご覧に入れますが」
「頼もしいね、ウルヴァーンの能力は本当に貴重だ。このケモミミで探ったのかな?」
「あふっ……。そ、それもありますし、鼻でも――ひゃあう!」
「おっと、ごめんね」
ケント殿の手遊びが、ご自身の髪の毛から某の耳へと移った。
それ自体は大変嬉しい。むしろ大歓迎だ。しかし、その指先が耳介の内側から生えている敏感な毛まで撫でるとは何事か!
思わず恥ずかしい声が出てしまった。
「ケント殿、時と場合を考えていただきたい! そういうことは夜まで待ってください!」
「ははは、ごめんごめん。凄くいい手触りだったもんだから、つい」
この程度のイタズラは、チェインズ農場において日常茶飯事だからか。
周りの奴隷たちに気にした様子がないのが、せめてもの救いかも知れない。
そして、ケント殿のお褒めの言葉で某の勢いも削がれてしまう。
「……そんなによろしいのですか? この耳が」
「うん、それとケモシッポも。少なくとも僕は大好きかな」
その台詞で、コロリと機嫌が良くなるのが自覚できた。思わず三角耳もペタンと垂れて、尻尾はバッサバッサと振れてしまう。
我ながら、呆れるほどの与しやすさだ。微妙に情けない心持ちになる。
ただ、ここまで来たらいっそ深くまで踏み込んでみようと思った。
「人間大陸の者たちは、我ら先住の部族を鏖殺しました。この毛皮こそが邪な証だと」
「そうだね、蛮族大陸に対しても同じような言い分だった。人間と違う部分があるなら、すなわち魔性である。だから奴隷にしても構わないって」
「ケント殿は、その、曲りなりにも人間の貿易に携わる方で……」
「人間の奴隷もいるんだよ? 方便だって分かってるさ。僕は僕個人として、ケモミミもケモシッポも大好きなんだよ」
ケント殿は聞き取り辛い発音で、“ ケモミミ ”と“ ケモシッポ ”と言う。
文脈から察するに、月狼の耳や尾を指しているのだろうか?
ともあれ、頭をワシャワシャと撫でられるままに、某はケント殿と出会った日を回想する。
この開拓大陸の先住民がどんどん狩られて、とうとう月狼にも順番が回って来た。
部族がほぼ全滅したあの日。信仰は届かず、仲間も失い、個人の武力も折られた。
なにもかも亡くして、自分に生きる価値などないと思い、失意の内に生を終えようとしていた。
そこに現れたのが、今では某の主であるケント殿だ。
用いたのは、某が持つような個人的武力とは対照的な、膨大なカネと幅広い人脈だ。
月狼を襲っていた連中に既得権益を与え、代わりに部族ごと救ってくださった。
「そのお言葉、思い出しますね。あの日におっしゃった第一声を」
「あー……それはー、その―」
バツが悪そうな顔をするケント殿を見て、某はくつくつという笑いが抑えられない。
炎に巻かれ地に伏して、今にも殺されそうな某へのトドメを静止させた言葉とは。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ちょっ、殺さないで! 君たちの上司とは話がついてるから! この部族は僕が買うから! ケモミミとケモシッポを迫害とか許さないから!」
最初は何を言われているのか分からなかった。
縄張り外での活動のために学んだ人間語を、間違えて聞いたのか。あるいは、敵が某を辱めるために悪趣味な催し物でも始めたのかと思ったほどだ。
「君は生きてるかい? 良かった、まだ息はありそうだね。ああぁぁ……折角の綺麗な毛皮なのに、血まみれになっちゃって。でも大丈夫、僕が持ってるポーションなら治るから!」
その言葉に偽りはなかった。
目もくらむような値段がする最上級のポーションにより、某の太ももは完治し傷跡もすっかり癒やされた。
しかし、ポッキリと折れた心まではそうも行かない。少なくとも、態度は捨て鉢なことこの上なかった。
「この厚遇、貴様は某になにを求める。どんな使い潰し方をする」
「どうか、僕の側にいてくれないかな。とりあえずはそれでいいよ」
「信用できん。人間とは、先祖伝来の土地から幼子の命まで、あの手この手で某たちから略奪をするものだ。今度はなにを企んでいる?」
「月狼の保護について」
「真面目に答えろ」
「大真面目さ。僕にとって、ケモミミやケモシッポっていうのはそれぐらい優先度が高い」
そこでもまた、ケント殿は嘘をつかなかった。
彼は月狼の部族や土地を丸ごと買い取り、実質的な保護区にした。生き残った数少ない同胞は、某のようにケント殿の下で働いたり、保護区である程度の行動を制限されつつも穏やかな暮らしを送っている。
それから幾らかの時間が流れ、秋になった。
生気を僅かながら取り戻していた某はふと訊いてみた。
「貴様が“ 獣人 ”の保護に対して、真剣であるということは分かった。一応は建前通りに動いているようだ」
「そうだね、僕は“ 月狼 ”を本気で守りたいと思っているよ。だから、カマかけにも引っかからない」
「やはり、意識して言葉を選んでいたのか」
「君らが、獣人呼ばわりを嫌ってるのは知ってるよ。『それは“ 人間 ”を基準とした蔑称だ』って」
我らが元々使っていた自称を、人間語に無理やり翻訳したのが月狼。
それすらも受け入れられないのは、余りに悲しくやるせなかった。しかし、ケント殿は平然と某の試しに対応してみせた。
「……よく学んでいるな」
「大好きな存在について調べるのは当然でしょ? やりたいからやる、ってのは最強の動機さ。僕は月狼を守りたいから守るんだ」
それからまた幾らかの時間が流れ、冬になった。
結局、ケント殿は一度として約定を違えなかった。
たまに会いに行った同胞たちは概ね壮健であり、保護区内部では長閑な時が流れていた。
かつては当たり前のように享受していた平和だが、故郷を焼き払われた後ではこの上なく眩しく見える光景。
同時に、それを維持することの難しさも知っている。
ケント殿は膨大な手間をかけてまで、どうしてここまで良くしてくれるのだろう?
「僕はね、本当に月狼を守りたいと思ってるのさ。それに、君のことが個人的に気に入っちゃってね」
「今度はおべっかか? 何一つ守りきれなかった某に、いったいどんな価値がある」
「あー、だいぶ内罰的になっちゃってるね。じゃあ、君を気に入った理由についてはまだおあずけ。ほんの少しでも自分を許せるようになったら、洗いざらい白状するよ」
「…………」
「そう嫌そうに見ないでよ。少なくとも、今まで嘘はなかったでしょ?」
ケント殿は、そんな風に苦笑しながら言った。
「……あなたが約定を違えないよう、側で目を光らせていよう」
「そりゃありがたい! 可能な限り長い監視を頼むよ!」
「善処する。あなたが無体なことをしない限りは、ずっと」
思い返せば、ケント殿はこの時既に某の心の内が見えていたのだろう。
真正面から厳しく睨む某に対しても、彼は無邪気に笑うだけだった。
それからまた幾らかの時間が流れ、春になった。
「お帰り。里帰りはどうだった?」
「同胞たちは、少しずつ本来の生活を取り戻しているようだった。地を駆け、剛牛を狩り、月の女神に祈りを捧げ、恙無い生活への笑顔があった。ついこの間、新しく子供が産まれたらしい」
「それは重畳。いいね、新しいケモミミとケモシッポの可能性だ」
「ケモミミとケモシッポとやらが何かは知らないし、問い詰める気もない。しかし、月狼のために尽力してくれたあなたには、深くお礼申し上げる」
「気にしない気にしない、僕は月狼を守りたいだけなんだって」
その言葉は間違いなく本当だったのだろう。
そして、残された月狼たちの姿を見たことで、某の心情にも多少の変化があった。
「あるいは、某の働きも彼らの幸福に寄与できているのだろうか」
「当然だとも! そうだね……少しでも前向きになれたみたいだから、答え合わせと行こうか」
「あなたが某を気に入った理由だったか」
「うん、部族の人たちが多少なりとも生き残っている。まさしくこの状況こそが答えさ。君があの時あの場所で、粘って戦い続けたからね。そのおかげで僕がギリギリ間に合った」
「…………」
「ウルヴァーン、君の奮戦は決して無駄じゃなかった。仲間のために命を懸け、結果として救えた者がいる。その行いは何よりも尊いと思う」
信仰は届かず、仲間も失い、個人の武力も折られた。
自分にはもうなにもない……そう思っていた。
「君がどれだけ自分を責めても、僕は君を肯定し続けよう。だから、僕の側にいてくれないかな? 言っとくけど、気に入った人材にはしつこいよ?」
「某はウルヴァーン。ウルヴァーン・アトラーク・ウィワチピ。ケント様、あなたに忠誠を誓いたく」
「えっ?」
しかし、某の行動に意味は間違いなくあった。それを気づかせた上で自分をこの上なく求めてくれたケント殿の言葉は、某にとって『お前は生きていてもいい』と託宣を受けたも同然。
この瞬間、ケント殿は某が崇拝する対象になったと言っていい。
そして、新たな主をいただき、仲間が多少なりとも生きているなら、今度こそ守りきるための力を求めた。某の新たな武の研鑽は、この時より始まったと言っていい。
「この身、この心、この魂、全てはあなたのために使いましょう。この命が尽きるまで、どうか見守っていていただきたい」
「ちょっ! いきなりなに!? 困るってばぁ!!」
膝立ちになり、腹を見せ、牙で指を傷つけてから、心臓の位置に一つの紋様を描いた。
本来であれば月の女神への祭事で捧げる儀礼。某はそれを、精一杯の敬意をもってケント殿へと……新たなる主へと向けた。
「忠節を誓うのは某の勝手です。お嫌であれば撥ね付けてください」
「嫌じゃないけどさ。すっごく嬉しいけどさぁ」
この時の某には確信があった。
月狼を守り某を気に入ってくれたというケント殿なら、この申し出は断るまいと。
ただ、ケント殿の思考は某の予想を軽く超えていった。
「ウルヴァーンが真っ正直だから僕も告白するけどさ、僕は月狼を性的な対象に見れるんだよ? そういう意味も込めての『嬉しい』だ。君はそれでもいいの?」
「……は?」
ケント殿が月狼を保護する理由。
その一端を垣間見た某は、間抜けな声を出すことしか出来なかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「うむ、やはりケント殿は実に素敵でした」
「君がなにを回想してたかは大体予想がつくけど、多分それってかなり美化されてるからね?」
あの後、少し時間はかかったものの某は結局ケント殿に抱かれた。
当時は生娘だった上に異種族同士でのまぐわいとなれば、これはもうどんな戦いよりも怖かった。
しかし、ケント殿が異種族の女の扱いに慣れていたのか相性が良かったのか、関係は未だに続いている。
加えて、最近ではそれこそが某の自尊心を満たしてくれるという結果だ。
「いいのです、あの時に某が覚えた感動は嘘ではないのですから。その後の証は、今もここに……」
「こらこら、肩を突かないの」
そう、ケント殿の左肩に刻んだ痛みこそが某の独占欲の証拠。
初めての夜、未経験の感覚についケント殿の肩に牙を立ててしまった。幸いにして事後にポーションですぐに傷を治したが、配下が主君に傷を付けるなど許されるはずもない。
しかし、ケント殿は許してくれた。その上、調子に乗った某が当時のことを思い起こさせるようなことをしても、強くは叱らず受け入れてくれるほど寛大なお方だ。
あるいは、ケント殿もあの傷を憎からず思っているから……というのは自惚れ過ぎだろうか?
こうして、敬愛するケント殿の横に座り、身体を密着させながら思い出にひたる。
そんな幸せな時間の中、某の鼻はふと嫌なものを感じ取った。
「もう……。ケモミミをいじった僕が言うことじゃないかも知れないけど、偵察――」
「お待ちください! これは……」
最初に感じたのは、鼻をついた僅かな違和感。
同時に、全身を戦闘態勢へ移行。五感を全開にして情報を集める。
音、臭い、そして肌で感じるこの雰囲気。
「これは……火と硝煙の臭い! 銃声も!? 戦闘が行われています!!」
「ウルヴァーン、先行! 状況次第では奴隷たちに加勢して!」
「了解!」
下された命令を聞いた瞬間、最速を出せる四脚姿勢へ。駆け出すと同時に牛車を一瞬で置き去りにし、某はチェインズ農場へとひた走る。
地平線の彼方から見えて来た光景は、いつかの絶望によく似ていた。すなわち、火に巻かれる住居と銃を持った人間たち。
過去に重なる光景に頭が沸騰しそうになるが、そこで闇雲に突っ込む愚は犯さない。まずは周囲を感知して概要を把握する。
「死体の臭い……いくつかあるが、農場全体からすると多くないな。この声はダブロッド。籠城して突貫でバリケードまででっち上げたか、実にいいぞ」
帰ったら、あの炎鬼に普段の態度を謝らなければなるまい。つまらない嫉妬で世話をかけた。
炎もほぼ鎮火されている。間違いなく半水妖精たるハープルーの功績だろう。
「そして、この状況なら……うむ、行ける」
入ってくる情報と農場の地形を照らし合わせ、遠くにいながら状況をほぼ把握する。
まだ、決定的に手遅れになったわけではない。
後続の牛車へ地面に石で情報を書き連ねつつ、某は決断した。
「事態はあの時と似ているな。だが、今度こそ守ってみせる」
これは普段の護衛とは違う。
濃密な殺意が、全身に満ち満ちていくのを感じた。