先輩と僕
薄暗い場所だった。
最近の流れに乗った節電対策とかで、使わない場所の電灯はできるだけ切っておくというのが学校の方針らしい。
当然ながら人気もなく、視線を落とすと埃が溜まっているのが目に映った。
(……使われてない場所だから手を抜きがちになるのは分かるけど、掃除担当はちゃんと仕事してほしいなぁ)
階段を登りながらそんなことを思った。
一応この場所もどこかのクラスに掃除が割り当てられているはずだ。
なのに、こうも埃塗れだということは、その掃除担当が日頃サボってばかりだということに他ならない。
誰も来ない場所なのだから真面目にしなくてもいい――そんな心情は理解できるけれど、だからといって自分の仕事をしなくていいことにはならないと思う。
誰がかそうやって役目を放棄すれば、巡り巡って別の誰かが苦労することになるのだから。
(――よし、閉まってるな)
薄暗い階段を登り切って辿り着いた踊り場。
屋上に通じる扉のノブを何度か回して、きちんと施錠されていることを確認する。
そしてポケットから取り出した合鍵を取り出して、鍵穴に差し込み一捻り。
ガチャリと音を立てて、校内と屋上を隔てる扉は開放された。
――どうして一介の生徒でしかない僕が屋上の合鍵を持っているかはツッコんではいけない。
実を言えば、未だに僕も入手経路については知らないし。
扉を開くと外から風が吹き込んできて、積もっていた埃を軽く散らした。
今日は天気が良く、遮蔽物の見当たらない視界には抜けるような青空が広がっている。
(――――)
スカイタワーとかと比較すれば雲泥の差だろうけれど、それでもこうして高い場所に来ると、なんとなくテンションが上がってくる。
なんとかと煙は高いところが好きだと言うけれど、僕はそれは間違いだと思う。
山登りでも高層建築物でもなんでもいいが、高い場所から見下ろす景色に感嘆の声をあげるのは、人として当たり前の感性だからだ。
そうでない少数の人は、高所恐怖症か、そうでなければ変わり者の類だろう。
……実は世の中の大半の人が、その〝なんとか〟であるという可能性もあるけれど。
(……あっ、いたいた)
一度開けた扉を施錠しなおして、改めて屋上を見回すと、探していた人の姿を確認できた。
その人は、いつもの定位置に腰かけ静かに本を読んでいた。
(……相変わらず絵になる人だなぁ)
腰まで届きそうな長く艶やかな黒髪、新雪の様にきめが細かく白い肌。
整った目鼻立ちに、バランス良く伸びた四肢。
可愛い娘というのは結構いるけれど、本を読んでいるだけで目を奪われる人というのはなかなかいない。
「後輩君はノーマルだと思っていたけれど……」
どうやら僕が屋上に来たことには気づいていたらしく、読みかけの本(タイトル:『年下の男の子を犬のように躾ける100の方法』)に栞を挟んで閉じた先輩は、しっとりとした髪を押さえながら視線を向けてきた。
「実は視姦が趣味だったりするのかい?」
「いやいやいや、そんな趣味ないですからね!?」
いきなりの風評被害に断固として抗議してみるも、先輩はあっさりと受け流してそのまま続ける。
「君も思春期だから、色々と持て余してしまうのは私も理解できるよ?」
「先輩、人の話を聞いてますか?」
「でも特殊性癖というのは簡単に受け入れられるものではないから、普段はきちんと自重するのがお勧めだ」
「僕が特殊性癖持ちだというのを、確定事項みたいに言わないでくれませんか?」
「まあ、私のような美少女が相手では仕方のない事なのかもしれないけれど」
「…………」
じっと先輩を見る。
「…………」
じーっと先輩を見つめる。
「………………」
先輩の白い肌がうっすらと朱に染まっていく。
それでも無言のまま、心持ち半眼で先輩を見つめ続ける。
「……………………」
沈黙に耐えきれなくなったのか、先輩の瞳がそっと横に逸れたのを確認して、一言。
「先輩が美少女なのは認めますけど、自分で言うと恥ずかしくありません?」
「……うん、少しだけ」
先輩は恥ずかしそうに笑った。
「――それじゃあ、今日は〝恋〟と〝愛〟について話そうか?」
先程の出来事はなかったことになったらしく、隣に腰を下ろした僕に先輩は穏やかに告げた。
その様子からは迂闊な発言で自爆してしまった、うっかり屋な一面は感じられない。
落ち着いた物静かな女性といった感じだ。
「〝恋〟と〝愛〟……ですか?」
「うん、後輩君は、その二つについてどう思う?」
言われて少し考えてみる。
〝恋〟と〝愛〟――二つ合わせて恋愛。
両者はそう変わらないようでいて、けれど厳密には同じものではない――と思う。
「そうですね……色々と考え方はあると思いますが、僕は、〝恋〟とは『求めるもの』で、〝愛〟は『与えるもの』じゃないかって思います。……それと“恋„は基本的に血の繋がらない異性間で成立するもので、〝愛〟は別種の関係でも成り立つもの――といったところですか」
とりあえず同性愛のような事例は置いておいて、親子間でも〝愛〟は成立するが、〝恋〟は成立しない。
そして〝恋〟は相手に『何か』を求めて、〝愛〟は相手に『何か』を与えるものではないだろうか?
「――なるほどね、それが後輩君の恋愛観か」
僕は先輩の質問に対して答えると、彼女は幾度か頷いた。
その表情からは得心も反発も伺えず、果たして正答できたのかどうかもわからない。
「えっと……先輩、僕の答えは何かおかしかったですか?」
「いいや? 私も後輩君の見解は間違っていないと思うよ。それを踏まえた上で、少し想像してほしいんだ」
先輩はそう言って僕の顔を覗き込んできた。
少しだけ近くなった距離にドキリとしてしまう。
「そうだな……まず後輩君に好きな相手ができたとしよう」
これは特に苦労することもなく想像できた。
というよりも今さら想像する必要がない。
「その好きな相手には、別に恋人がいたとする」
想像してみた。
……凄く嫌な気持ちになった。
「その恋人は容姿端麗・頭脳明晰・運動神経抜群、さらには経済力もあって一途で誠実な浮気なんてもってのほか――そんな人物だ」
……想像しようと頑張ってみたけれど、あまりに完璧すぎてイメージ出来なかった。
「つまり後輩君が余計なことを何もしなければ、想い人は確実に幸せになれるわけだ。さて、そんな状況に君が陥ってしまったとしたら……どうするのかな?」
「どうするって……先輩、いくらなんでも無理ゲー過ぎませんか?」
そもそも好きな相手に恋人がいて両想いという時点で詰んでいる。
しかもその相手が付け入る隙のない完璧超人とあっては、大人しく諦めるしかないじゃないか。
「かもしれないね。でも、選択肢というだけなら幾つか挙げられる」
悪戯っぽく笑った先輩は、細くて白い人差し指を空へと向けた。
「まず一つ、想い人の幸せを願って大人しく身を引く」
想像してみて最初に浮かんだ選択。
やっぱりこれが一番穏当だと思う……納得できるかどうかは別問題だけど。
先輩は次に中指を立てた。
人差し指と合わせて勝利のVサインだ。
「二つ、振られるのを覚悟して告白してみる」
いわゆる玉砕というやつだ。
想像したくもないパターンだけど、気持ちに区切りをつけるという点では良いかもしれない。
だけど先輩は「ただし――」と続けた。
「この場合は相手に『告白してきた人を振る』という経験をさせることにもなるな」
心の裡を見透かされたのような言葉に肩身が狭くなった。
生憎と、僕には異性に告白されたような経験も、その相手を振った経験もないけれど、人によってはその行為に苦痛を感じることもあるとは聞いたことはある。
加えて後になって関係が気まずくなる可能性も考えると、自己満足のためだけに告白するのも違う気がする。
「三つ、諦めないで自分を好きになってもらえるように努力する」
先輩の指が三本立った。
三番目はある意味で恋愛の王道だ。
好きな相手が別の誰かが好きでも、諦めず努力して振り向いてもらう。
少女漫画とかならありそうな展開かもしれない。
……もっとも、現実はそう上手くいくとは限らないから、頑張ったけど駄目でしたとなる可能性の方がずっと高いのだろうけれど。
「四つ、前の三つ以外の選択肢」
最後に小指を伸ばした先輩は、ここで一度言葉を切った。
小首を傾げながら視線を向けてくるところから、僕の返事を待っているのだろう。
先輩の挙げた四つの選択肢について考えてみる。
どれも一長一短、メリットとデメリットがある。
なので、どの選択肢が正しいかではなく、どの選択肢が納得できるかに思考の重点を置いた。
それほど時間を使うこともなく結論が出たので口を開く。
「僕の場合は三番目を選ぶと思います」
「――理由を聞いても良いかな?」
それほど深い理由じゃあない。
一番の選択肢は最も穏当な選択だとは思う。
好きな相手との関係を崩さず、しかもその相手は幸せになれる。万々歳だ、誰も不幸になっていない、素晴らしい。
だけど……それでは僕が幸せになれない。
利己的かもしれないけれど、やっぱり好きな相手の隣に立つのは自分でありたいというのが、僕の正直な気持ちなのだ。
だから振られるのを前提にしている二番は当然論外。
四番目は……たぶん人によって思いつくことは違うと思うけど、僕には"正しい"と思える選択が浮かばなかった。
思いつくどれも、自分も相手も不幸になるようなものだった。
僕は相手の幸せだけを想えるような善人ではないけれど、好きな相手を不幸にしたいわけでもないのだ。
自分も相手も一緒に幸せになれれば、それが一番良いと思っている。
よって四番も却下。
必然的に僕の選ぶであろう選択肢は三番となった。
「――なるほどね」
僕が理由について説明し終えると、先輩は考え込むように瞳を閉じた。
屋上に涼風がふいて、先輩の黒髪が少し揺れた。
「うん、いいんじゃないかな。後輩君らしい考えだと思うよ」
「僕らしい……ですか。利己的だとは思わないんですか?」
「思うけれど、思わないよ」
思わず質問すると、分かるような分からないような返答をされた。
先輩は「これは私の考えだけど」と前置きして、
「好きな相手に自分を好きになってほしい――これは当たり前のことだと思うんだ。他に好きな相手がいても、その感情を自分に向けてほしい、自分だけで独占したいって思うのも人間なら自然なことだよ。それは別に恥じ入るようなことじゃない。……むしろ好きな相手や恋敵に対して、独占欲も嫉妬もない方が、よっぽど人としては不自然じゃないかな」
先輩の言葉に少し想像してみる。
自分の事を好きだといってくれる人がいて、その人は僕が他の異性と仲良くしていても全く不機嫌にならず、僕が何を言っても肯定し、常に受け入れ追従して、僕の傍にいられれば満足だと言ってくれる。
そんな相手を想像してみて――気分が酷く悪くなった。
たぶん凄く都合の良い相手ではあるのだと思う。
だけど、とてもじゃないが人間を相手にしている気になれなかった。
これなら、まだ物を言わない人形の方がマシだ。
「ちなみに心理学の概念として、〝愛〟は六種類に分類されるという考え方があってね。〝エロス(情熱的な恋愛)〟〝ストロゲー(友愛的な恋愛)〟〝ルーダス(遊戯的な恋愛)〟〝マニア(狂信的な恋愛)〟〝プラグマ(実利的な恋愛)〟〝アガペー(博愛主義に根ざす利他的な恋愛)〟の六種類。このうち『無償の愛』と言えるのは〝アガペー〟だけで、これは人間の恋愛関係では成り立たないそうだよ」
特定の相手を好きになり、有形無形の見返りを求める人間には持ちえない愛のカタチ――ということらしい。
なるほど、確かに僕には不可能な恋愛観だ。
「……ところで先輩だったらどうするんですか?」
「……なにがだい?」
「先輩がその恋人がいる想い人だったり、逆に恋人のいる相手を想う側だったりしたらって話です」
興味本位……というか今後の参考にするために、先輩の考えを聞いてみたかった。
「うーん、そうだな。まず恋人がいる場合は……別れるな」
「えっ? 別れるんですか?」
「だって、そんな完璧すぎる相手と一緒にいたら……息が詰まるだろう?」
どうやら先輩は恋人にはハイスペックは求めないタイプのようだ。
……少し安堵した。
「そして、もしも恋人がいる相手を私が好きになったのなら――」
「なったのなら――?」
先輩はスッと間合い詰めてきた。
それなりに近かった先輩との距離がほぼ零に。
耳元に吐息がかかり、体温が感じられそうなほどの近さ。
シャンプーの香りだろうか。不快感を感じない爽やかな香りが長髪から漂ってきた。
「――――」
「――――ッ」
沁み込んでくるような、深く静かで心地の良い澄んだ声。
先輩との距離の近さに身体の内側がカッと熱くなり、同時に耳元で囁かれた言葉にゾッと背筋が寒くなった。
この時、先輩が何を言ったのかは僕の胸に秘しておく。
だけど一つだけ――――
――――どうやら先輩は、少しだけヤンデレ気質だったらしい。