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三人の男・B

 男は泣いていた。


 年のころは四十前後か。こざっぱりとした上品な衣服、切れ長の黒い瞳。端正な細面は、とめどない涙で濡れている。

 固く結んだ口元から、言葉が漏れた。


「志保……。僕が悪かった。僕が悪かったんだ」


 その手元には、一枚の写真があった。

 若い男女ふたりのスナップである。お似合いの美男美女が、仲睦まじくどちらも幸せそうに微笑んでいた。

 観ているほうが照れくさく、幸せな気持ちになってしまうような写真を手に、男は号泣していた。


「もし、時間がもどせたら。あの頃に戻れたならば――――」


「ご注文、ありがとうございます」


 声はすぐ近くで聞こえた。

 顔を上げる。


 まだ若い女だ。コミックで見た覚えがあるような、頭の高い位置で二つに分けた、妙に幼い髪型をしている。一種の神々しさをも感じさせる白い肌だが、髪と同じく艶はなく、あまり良い暮らしをしていそうにはない。美人ではない。だがむしろもっと不細工であったならば、愛嬌くらいはでるかもしれぬ。可愛げのかけらもない三白眼は、人生丸ごとが億劫だと言いたげに傾いていた。


 男は言った。


「お嬢さん――もう少し、肥ったほうがいいと思うよ」


 女は言った。


「わたしは時計屋です」


 女は、奇妙な衣装を着ていた。質のよさそうなビロードのマントは闇のように暗く、機能的なベルトで形を作られていた。ファッションに興味のない者がみれば、真っ黒なトレンチコートに見えたかもしれない。その胸元から、女は銀色の円盤を差し出した。

 素直に受け取ってみる。

 手のひらより少し小さい円盤に、歯車のようなものが四つついている。よく見るとそれはなにかの計器になっており、それぞれがまったく別の方向へ針が向いていた。


「これは……なんだろう? 特殊な仕事で使う計器のような……。懐中時計? どこのブランドだって?」


「わたしが作ったものです。これで、時を巻き戻す―――あなたの過去をさかのぼることが出来ます」


「僕の、過去を?」


「はい。人生をやり直せます」


「人生を――志保との出逢いを、やり戻せる? 僕は……」


「はい。あなたの忌まわしい過ちをなかったことにして、もう一度」


「志保を――僕は、今度こそ――」


 女は笑った。


「お買い上げありがとうございます」


 男の意識が遠のいた。

 遠くから、女の声が聞こえてきた。


 男は賢く、ユーモアを愛し、そしてファンタジーも楽しむ読書家であった。

 この素敵な体験をすんなりと理解し、笑った。


「契約詳細をお伝えいたします。

本日は当店『時計屋』をご利用いただき、ありがとうございます。職人、亜郷あさとより、『運命戻しコース・10年バージョン』をご案内させていただきます。

 それでは、よい過去を」


 男は目を開けた。


 明るい部屋だった。

 広い。かといって家具がないわけではない。落ち着いたモノトーンであるが、高級な家具が空間を彩っている。

 隙間のないパネルカーペットに置かれた黒革のソファの上で、男は転寝をしていたらしい。すぐそばに、女の豊かな乳房があった。


「志保……安田さん」


 男は頭を振って、立ち上がった。おどろいた彼女――妻が、訝って男を仰ぐ。

 構わず、男は妻に背を向けた。


「安田さん…すまなかった。なかったことにしてほしい。ええと、たしかまだ何もしてないはず、だ」


「はあ?」


 女が眉根を寄せた。


「冗談じゃねーよ。たしかに誘ったのはアタシだけど、この部屋連れ込んだのはアンタじゃんよ。据え膳でなにいってんの。萎えたの? ダッセエ。あ、それとも実はアンタ、まじでホモ? 噂になってんだよね。まじ? スっゲえーまじホモはじめて見た、みんなにメールしちゃおっかな。

 ねえ、それって困るでしょ。イヤならさあ、さっさとヤろうよ。大丈夫だって、アタシ今日安全日だし」


 ベロリとドレスをめくり、女は高らかに笑った。

 何がおかしいのかさっぱりわからない。

 女の笑いが落ち着くまで、男は辛抱強く待った。


 そして、言った。


「ごめん。連れ込んだのは本当に、僕が悪かった。僕が間違えたんだ。だから、社内風評メールでもなんでもやってくれて構わない。僕はもう間違えない。今度こそ……不幸になりたくないんだよ」


 男は心から幸福そうに、笑っていた。



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