第1章 彼女
「創世記は旧約聖書の冒頭にあるように…」
ぼんやりと遠くから、教授の低い声が聞こえる。全身が心地よい春の陽だまりに包まれて、頭の中がほわほわと青空を漂っている感覚がする。
教授の声が、心地よく俺を空へと導いていく。
「そして2人は楽園を…」
そうか。ここがきっと楽園だ。
「長瀞っ!!!」
突如変貌した教授の声によって、空に浮かんでいた意識が体の中に叩き戻された。
「ゔぁっ!?はぁい!!?!」
飛び起きると同時に、ずるりと赤色の眼鏡がずれて、片目の視界がぼやけた。一気に自分に集中する自然と、教授の鬼の形相が見えて、現実をはっきりと把握する。
「何を気持ちよさそうに寝ているんだ!!退出してもいいんだぞ!!」
「すっ、すみません!!」
頭をさげると、ぶつくさと文句を言いつつも、教授は講義を再開した。
くすくすと笑い声が聞こえ、ちくちくと視線が痛い。途端に恥ずかしさを感じ、分厚い聖書を立てて顔を埋める。
「ぶっ…しぬ……っ」
「おい、やめろって…ぷっ」
先ほどから止まらない笑い声の主達を、横目でじろりと睨みつける。
必死に手で声を押し殺しながら爆笑し続ける倉島と、それを諌めながら笑う北村が視界に入った。
怒りと羞恥心から、こそこそと文句を言う。
「おい北村.....起こしてくれたっていいだろ!」
「すまんすまん…ぶはっ」
「最前列で3回連続で寝ると思わねえだろ…ぶははっ」
「うるせえ、そのとおりだよ…!」
100%俺が悪い。だが、だが!起こしてくれたっていいだろう、友よ!
唸りながら笑い続ける2人から目をそらす。目の前の大きな黒板につらつらと読みにくい文字が羅列している。目を細めて読解した結果、今回の講義のテーマは、「創世記」なのだと理解した。
創世記ってたしかリンゴの話だったような…
ようやく笑い収まった北村が、こそこそと俺に話しかけてくる。
「というか、とろ。自由席なんだから後ろ行こうっていつも言ってるだろ。なんで今回も最前列なんだ?」
「えっ」
「おまえ、別に意識の高い優等生ってわけでもないだろ。しかも、なんでこの講義だけ?」
ずいずいと迫ってくる北村に比例して、すーっと俺が身を退く。
「いや、それは…」
「北村」
ぽん、と北村の肩に手が置かれた。
振り返ると、ふっ…とウザい微笑みを浮かべた倉島が囁いた。
「とろはな、叶わない恋をしてんだよ…」
「は?」
「ばっ!!てめっ!!」
反射的に倉島に伸びた手が、北村の聖書にあたり、分厚い塊が落下する。
「「「あっ」」」
派手に本が床に落ちる音が響いて、講義室か静まり返る。
沈黙した教授の背中が、ぶるぶると震えていて、体から血の気が引いた。
隣の2人は、我存ぜぬとノートで顔を隠す。
そして、本日2度目の怒鳴り声が響き渡った。
「俺が何をしたっていうんだ!!!」
「居眠りしてから俺の聖書を落とした」
「いやぁ〜〜災難だなとろ!」
「いや、てめぇのせいだろうが!!ぶっ殺すぞくそくらげ!!」
投げつけた缶コーヒーは倉島に軽く躱され、ゴミ箱にガコンと鈍い音を立ててゴールインした。
「おお、ナイスコントロール!」
「あーあ缶は缶入れに捨てろよ。地球に優しくねえぞ」
「うるっせぇ」
不機嫌のままにずかずかと廊下を進む。開放されている扉をくぐって、青々と葉をつけた大木を中心に、人工芝が広がる中庭を通る。足早に学生たちとすれ違う俺の後を、奴らが悪気もなくついてくる。
「悪かったって長瀞くん〜〜機嫌直せよ」
「うるせえ死ね」
「そもそも居眠りしたお前が悪いだろ」
北村の正論がグサリと胸に刺さった。
「そうそう、そして俺はお前の恋バナを言っただけ.....」
「殺す!!!」
「やめろ!!」
「いやーんこわぁい♡」
北村の後ろでくねくねと気色悪い動きをされ、殺意が増幅した。頭をがっと掴まれ、北村にガードされる。
「落ち着けって言ってんだろ。つーか、くらげも煽るんじゃねえ」
ゴンっと倉島の頭に拳骨が落ち、倉島が涙目で吠える。
「いっでぇ!!なんだよ!おまえだってとろの恋バナ気になるだろ!」
「人が嫌がるような秘密をからかう奴は最低だ」
「う.....」
お喋りな倉島が、言葉に詰まった。
北村の言葉に、じ〜んと感動を受ける。
「ほっきょく.....!」
「だが、聞かせろ!!」
「ぶっ殺す!!!」
北村につかみかかろうとした瞬間、倉島が「あっ」と呆けた声を出した。
その視線を追うように、背後に視線を向けると、庭の大木が目に入った。
中庭の、真ん中。大木の下で、春の木漏れ日を受けながら本を読む女性がいた。
その桃色の長い髪が、穏やかに景色を彩っていた。
細い指先が、ゆっくりとページを捲る。長い睫毛の下で、伏せた金色の目が、物語をそっとなぞっている。
まるで、物語の1ページのようだ。
「あれ、川島さんじゃないか?」
北村の言葉で、ハッと我に返った。
「だな!いや〜わが学部の天使は絵になるなぁ。なぁ?とろ?」
嫌な笑顔で、名指しされた。
「えっ?なんでとろ.....」
「あーー!!良い天気だなーー!!学食で早く飯を食べよう!!」
「うわぁいきなりなんだよっ!?」
二人の背中を無理やり押しながら、必死に話題を逸らそうと喋る。
「俺、今日はスパゲティ気分なんだよ!!早く行こう売り切れるから!!」
「わかった、わかったから押すなって!」
「はっは〜ん、とろよ、大好きな澄ちゃんがいるからって照れんなよ〜」
「えっ?あっ.....なるほど」
ぽんと手を叩いた北村に、ぼっと顔から火が出た。
「うるっせぇ!!くらげてめー、暴露してんじゃねーよ!!」
「やァン、あたしってお茶目だからァ♡」
「やっぱり殺す!!!」
がっと北村に頭を掴まれて止められ、先ほどと同じ構図が出来上がった。
「いい加減にしろ!とろ、俺なんとも思ってないから大丈夫だって!」
「嘘つけ!!どーせ高嶺の花だから無理だろとか思ってんだろーが!!」
「落ち着けってば!!」
べしっと頭を叩かれ、痛みでその場にしゃがみこむ。
「ぐぅっ.....理不尽だぁ.....」
「ふえぇ。。暴力こわい><」
死にかけの蛙みたいな声を出し、再び拳骨を受け、倉島が呻いてその場にしゃかみこんだ。
「ったく、お前らは.....3年生にもなって、ぎゃあぎゃあ騒ぐなよ」
「はい.....」
ため息をついたあと、北村はちらりと中庭に目を向けた。
「しかし、川島さんか。なるほどなぁ。確かに可愛いもんな」
「.....」
頭を抑えたまま目をやると、川島さんは相変わらず本を読んでいた。
本に集中してるその姿に、慕う思いが疼く。
一体、何の本を読んでいるんだろう。
「めっちゃ可愛いよなぁ〜澄ちゃん。あれは確かに天使だ」
「彼氏いるんじゃないのか?」
「それが、入学当初からずっといないらしいぞ。まあ隠してるとか有り得るけど.....しかし」
ぱちりと、倉島と目が合う。
そして、大きくため息をつかれた。
「ぜっっっっっってえ、とろに振り向くわけないよな〜~〜〜」
「よし金メッシュ1本1本抜かせろ」
「すいませんでした」
「まぁまぁ.....ほら、とりあえずさっさと食堂いくぞ」
北村に促され、渋々廊下を歩き出した。
会話する2人の後ろで、もう1度彼女に目を向ける。
相変わらず本を読んでいる。絵のような光景を、目に焼き付けるように見つめる。すれ違う何人かの男共も、同様に彼女にちらちらと目を向けていた。
他の奴らは見んなと身勝手なことを思いながら、彼女に見惚れる。
何の本を読んでいるんだろうか。黒くて分厚い、大きな本.....。
そこで先ほどの講義の記憶が蘇った。黒くて分厚い、大きな本。
その時も、最前列で彼女は同じようにそれを読んでいた。
聖書.....?
中庭から再び学内に入ると、彼女の姿は見えなくなった。




