2 清水 一郎
「では今日はここまで。来週はテストですので……」
そこまで言うと清水一郎は口を閉ざし、自分の言葉を遮った者の顔を見た。
視線の先では、後藤玲寺が静かに手を挙げていた。
「どうしましたか、後藤くん」
名前を呼ばれると、玲寺は静かに手を下ろした
「先生、黒板の字が間違えています」
清水はきゅっと口の端を結ぶと、後ろを振り向いた。
確かに誤字があった。しかも一つではない。
ちらりと玲寺に目をやる。
玲寺は静かにこちらを見据えていた。
清水は、玲寺が嫌いだった。
黒くてざらついた髪も、人を緊張させる独特の雰囲気も。
友だちと一緒にいるところなぞ誰も見たことはない。彼はいつだって一人でいる。それを苦にしているようにも見えない。
いつだって輪の真ん中にいるような、双子の玲夜とは似ても似つかないのだ。
勿論、それだけのことで私は生徒を無意味に嫌い、避けたりはしない。
私は彼に脅されているのだ。
「…先生、号令かけてもいいですか?」
黒板に向き合ったまま動かない私に、生徒がおずおずと声をかけた。
授業終了のチャイムは既に鳴っていた。
「…どうぞ」
私は冷や汗を手の甲で拭い、振り向いた。
「起立」
一人の鋭い視線を感じながら、私はじっと目を伏せた。
「礼」
生徒が礼をするのも見届けず、私は教科書やらノートやらを掴むと、弾けるように教室から飛び出した。
背後で誰かが、私の跡を追うように教室から出てきた。私は荷物を胸に抱え、早足で廊下を急いだ。
「先生」
もっと前から、私は彼に気付くべきだった。
彼が普通じゃないことに、もっと早く
「清水先生」
そうすればあの日、何か変わっていたのかもしれない。起きた事実は変わらなくても、彼との関係は、少なくとも私の娘は───
「先生!待って」
強い力で腕を捕まれ、私は思わず振り向いた。
「は、離してくれ!」
彼は、玲寺ではなかった。
その証拠に、彼の頬は一切の穢れのない白い肌をしている。
玲寺の双子の兄、玲夜は、わけがわからないという顔で清水を見下ろしていた。
「先生、どうして無視するの?」
「な、何の用だ。」
清水は息を切らしながら、玲夜を見た。
「玲寺が先生に渡してほしいって」
玲夜の手には、白いレースのハンカチが握られていた。Rのイニシャルが刺繍された、小さなハンカチだ。
何故?証拠は全部処分したんじゃなかったのか?
それとも、私を脅すために取っておいたのか?私が、逃げられないように?
「…先生、大丈夫?顔が」
清水はぐしゃりと顔を歪めると、ハンカチを掴みトイレに駆け込んだ。
一週間前、私は人を轢いた。
車に擦り傷もつけたことがないほど運転には自信があったが、轢いてしまった。まだ小学生にもならないくらいの、少女だった。
真夜中の人気のない街道の真ん中で、彼女が何をしていたのかは想像もつかない。
だが、轢いてしまった事実は変わらない。
それを、玲寺に見られていた事実も。
『先生、大丈夫ですか?』
彼はそう言うと、ぐちゃぐちゃに引きちぎれた少女の肉片を掴みあげた。
『娘さんですか?』
私はただ懸命にぶるぶると頭を振った。
『ま、全く知らない子だ』
そのとき何故彼がそこにいたのか、何故私に娘がいることを知っていたのか、何故こんなにもタイミング良く現れたのか、それさえも疑問に思う余裕があのときの私にはなかった。
『…捨ててきましょうか?』
『…え?』
私は身体を強ばらせた。
『捨ててきますよ』
そして、彼は全てを持っていった。タイヤに絡まった少女の頭も、アスファルトに散らばった肉とも骨とも似つかない物体も。
車に轢かれただけで、人間はこうもぐちゃぐちゃになってしまうのだろうか。まるで巨大な包丁でめった刺しにされたかのような死体に。
家に帰り、半分熱にうなされながら考えた。
あの死体は、本当に私が轢いたものなのだろうか。
彼が、もしかしたら彼が、殺したのかもしれない
そんなことを考えている自分に悪寒がし、清水は慌ててその考えを追い払った。
彼はまだ十七歳なのだ。彼はまだ、少年ではないか。
そう思いながらも、彼が少女を殺したという疑念は日が昇っても消えなかった。とうとう私は眠れないまま、娘の誕生日を迎えた。
便器の黒い穴に、皺が深く刻まれた中年男のくたびれた顔が映っていた。
皮がべろりとめくれあがり、眼球が剥き出しになった幼い少女の顔を、私は彼を見るたびに思い出してしまう。
毎日毎日記憶の端の方に追いやっているのに、少女を軽々と持ち上げた玲寺の姿を、私は今だって鮮明に思い出せてしまう
今なら確実に言える。
玲寺なら、平気で人を殺せるのだろう。容易く、いとも簡単に。
幼い幼児が好奇心から蟻を殺してしまうのとも、から人を殺していく殺人犯とも違う。
彼は、何だかそれとは違う気がするのだ。
「…先生、トイレで何してるんですか?」
玲寺の声に、私は顔を上げた。
トイレの扉の淵の上に、玲寺の白く赤い顔がこちらを覗き込んでいた。
「吐いてたんですか?それとも便器に顔を突っ込もうとしてたんですか?それなら続きをどうぞ」
玲寺は自分の冗談を楽しむように、にやりと笑った。
「頼む、自首させてくれ」
「駄目ですよ」
冷淡で色の無い声に、怒りが湧いてくる。
「何故なんだ!君のことは絶対に言わないと言っているじゃないか!」
「…そういったことが問題ではないんです」
玲寺は静かに言った
「自首したら、僕梨子ちゃん殺します」
「やめてくれ、それだけはやめてくれ。あの子はまだ五歳になったばかりなんだ」
「先生に轢かれた女の子も、五歳になったばかりでした」
「な、何故知っているんだ…?」
清水の腹の奥で、何かがふつふつと煮え立ちはじめた。
「本当は君が殺したんだろう。少女を殺したのは、き、君なんだろう!」
玲寺は何も言わなかった。
「こ、このことを知っているのは本当に私たちだけなのか?君は他に誰にも言っていないのか?」
「…他に?」
「……れ、玲夜くんとか」
すると、突然玲寺が声を上げて笑い出した。その笑い声があまりにも玲夜そっくりで、私は恐ろしくなった。
「た、頼む。大きな声を出さないでくれ。誰かにこんなところを見られたら…」
「先生、確かに女の子を殺したのは僕です。先生が車で轢いたとき、既に彼女は死んでいました。だけどそうしたのは、ただ先生を苦しめたかったからではないんです。」
タイル張りの簡素な室内に、彼の声が微かに響いた。
「誰でも良かったんです。僕の次の殺人を手伝ってくれる大人が見つかれば…だからそれで…先生ごめんなさい」
まるで悪いことをして母親に叱られている子どものような調子で、彼はそう言った。