表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蝋人形  作者: りょう
3/3

2 清水 一郎

「では今日はここまで。来週はテストですので……」


そこまで言うと清水一郎は口を閉ざし、自分の言葉を遮った者の顔を見た。


視線の先では、後藤玲寺が静かに手を挙げていた。


「どうしましたか、後藤くん」


名前を呼ばれると、玲寺は静かに手を下ろした


「先生、黒板の字が間違えています」


清水はきゅっと口の端を結ぶと、後ろを振り向いた。

確かに誤字があった。しかも一つではない。


ちらりと玲寺に目をやる。

玲寺は静かにこちらを見据えていた。


清水は、玲寺が嫌いだった。

黒くてざらついた髪も、人を緊張させる独特の雰囲気も。

友だちと一緒にいるところなぞ誰も見たことはない。彼はいつだって一人でいる。それを苦にしているようにも見えない。

いつだって輪の真ん中にいるような、双子の玲夜とは似ても似つかないのだ。

勿論、それだけのことで私は生徒を無意味に嫌い、避けたりはしない。


私は彼に脅されているのだ。


「…先生、号令かけてもいいですか?」


黒板に向き合ったまま動かない私に、生徒がおずおずと声をかけた。

授業終了のチャイムは既に鳴っていた。


「…どうぞ」


私は冷や汗を手の甲で拭い、振り向いた。


「起立」


一人の鋭い視線を感じながら、私はじっと目を伏せた。


「礼」


生徒が礼をするのも見届けず、私は教科書やらノートやらを掴むと、弾けるように教室から飛び出した。


背後で誰かが、私の跡を追うように教室から出てきた。私は荷物を胸に抱え、早足で廊下を急いだ。


「先生」


もっと前から、私は彼に気付くべきだった。

彼が普通じゃないことに、もっと早く


「清水先生」


そうすればあの日、何か変わっていたのかもしれない。起きた事実は変わらなくても、彼との関係は、少なくとも私の娘は───


「先生!待って」


強い力で腕を捕まれ、私は思わず振り向いた。


「は、離してくれ!」


彼は、玲寺ではなかった。


その証拠に、彼の頬は一切の穢れのない白い肌をしている。


玲寺の双子の兄、玲夜は、わけがわからないという顔で清水を見下ろしていた。


「先生、どうして無視するの?」


「な、何の用だ。」


清水は息を切らしながら、玲夜を見た。


「玲寺が先生に渡してほしいって」


玲夜の手には、白いレースのハンカチが握られていた。Rのイニシャルが刺繍された、小さなハンカチだ。


何故?証拠は全部処分したんじゃなかったのか?

それとも、私を脅すために取っておいたのか?私が、逃げられないように?


「…先生、大丈夫?顔が」


清水はぐしゃりと顔を歪めると、ハンカチを掴みトイレに駆け込んだ。


一週間前、私は人を轢いた。


車に擦り傷もつけたことがないほど運転には自信があったが、轢いてしまった。まだ小学生にもならないくらいの、少女だった。


真夜中の人気のない街道の真ん中で、彼女が何をしていたのかは想像もつかない。

だが、轢いてしまった事実は変わらない。

それを、玲寺に見られていた事実も。




『先生、大丈夫ですか?』


彼はそう言うと、ぐちゃぐちゃに引きちぎれた少女の肉片を掴みあげた。


『娘さんですか?』


私はただ懸命にぶるぶると頭を振った。


『ま、全く知らない子だ』


そのとき何故彼がそこにいたのか、何故私に娘がいることを知っていたのか、何故こんなにもタイミング良く現れたのか、それさえも疑問に思う余裕があのときの私にはなかった。


『…捨ててきましょうか?』


『…え?』

私は身体を強ばらせた。


『捨ててきますよ』



そして、彼は全てを持っていった。タイヤに絡まった少女の頭も、アスファルトに散らばった肉とも骨とも似つかない物体も。


車に轢かれただけで、人間はこうもぐちゃぐちゃになってしまうのだろうか。まるで巨大な包丁でめった刺しにされたかのような死体に。


家に帰り、半分熱にうなされながら考えた。


あの死体は、本当に私が轢いたものなのだろうか。

彼が、もしかしたら彼が、殺したのかもしれない


そんなことを考えている自分に悪寒がし、清水は慌ててその考えを追い払った。


彼はまだ十七歳なのだ。彼はまだ、少年ではないか。


そう思いながらも、彼が少女を殺したという疑念は日が昇っても消えなかった。とうとう私は眠れないまま、娘の誕生日を迎えた。





便器の黒い穴に、皺が深く刻まれた中年男のくたびれた顔が映っていた。

皮がべろりとめくれあがり、眼球が剥き出しになった幼い少女の顔を、私は彼を見るたびに思い出してしまう。

毎日毎日記憶の端の方に追いやっているのに、少女を軽々と持ち上げた玲寺の姿を、私は今だって鮮明に思い出せてしまう


今なら確実に言える。

玲寺なら、平気で人を殺せるのだろう。容易く、いとも簡単に。


幼い幼児が好奇心から蟻を殺してしまうのとも、から人を殺していく殺人犯とも違う。

彼は、何だかそれとは違う気がするのだ。


「…先生、トイレで何してるんですか?」

玲寺の声に、私は顔を上げた。


トイレの扉の淵の上に、玲寺の白く赤い顔がこちらを覗き込んでいた。


「吐いてたんですか?それとも便器に顔を突っ込もうとしてたんですか?それなら続きをどうぞ」


玲寺は自分の冗談を楽しむように、にやりと笑った。


「頼む、自首させてくれ」


「駄目ですよ」


冷淡で色の無い声に、怒りが湧いてくる。


「何故なんだ!君のことは絶対に言わないと言っているじゃないか!」


「…そういったことが問題ではないんです」


玲寺は静かに言った


「自首したら、僕梨子ちゃん殺します」


「やめてくれ、それだけはやめてくれ。あの子はまだ五歳になったばかりなんだ」


「先生に轢かれた女の子も、五歳になったばかりでした」


「な、何故知っているんだ…?」


清水の腹の奥で、何かがふつふつと煮え立ちはじめた。


「本当は君が殺したんだろう。少女を殺したのは、き、君なんだろう!」


玲寺は何も言わなかった。


「こ、このことを知っているのは本当に私たちだけなのか?君は他に誰にも言っていないのか?」


「…他に?」


「……れ、玲夜くんとか」

すると、突然玲寺が声を上げて笑い出した。その笑い声があまりにも玲夜そっくりで、私は恐ろしくなった。


「た、頼む。大きな声を出さないでくれ。誰かにこんなところを見られたら…」


「先生、確かに女の子を殺したのは僕です。先生が車で轢いたとき、既に彼女は死んでいました。だけどそうしたのは、ただ先生を苦しめたかったからではないんです。」


タイル張りの簡素な室内に、彼の声が微かに響いた。


「誰でも良かったんです。僕の次の殺人を手伝ってくれる大人が見つかれば…だからそれで…先生ごめんなさい」


まるで悪いことをして母親に叱られている子どものような調子で、彼はそう言った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ