1 少女A
その双子は、全く同じ顔つきをしていた。背丈も声も、全てにおいて似通っている。しかし、二人の区別に困る者はいない。
シャツの袖に腕を通し、ちらりと腕時計を確認した。
「そろそろ行くね」
コップに注がれた牛乳を全部飲み干してしまうと、コートを羽織り、鞄を掴んだ
「あら、もう行くの?はい、お弁当」
お弁当を両手で受け取ってから、「ありがとう、お母さん」と丁寧に微笑む。
新聞を読みながらトーストを頬張る父が顔をあげたので、そちらにも笑顔を向けた
「行ってくるね、お父さん」
校門の手前で自転車から降りると、私はこっそりスカートの皺を伸ばした。
「おはようございます、柏木先生」
剣道部と柔道部の顧問を務める柏木教諭は、今朝も竹刀を片手に生徒の服装に目を光らせている。
「おはよう、今日も完璧だな」
だみ声で大柄の男に、やんわりと微笑みながらお辞儀をし、校門を跨いだ。今どき、竹刀など持って何をするつもりだろうか。まさかそれで生徒を叩くわけではあるまい。
教室では後藤玲寺が一人、今日も読書をしていた。
少女は彼の斜め後ろの席に着くと、文庫本の小説を取り出し、栞を挟んだページを開く。教室には、二人以外の生徒は誰もおらず、ページを捲る音だけが時々聞こえるだけだった。
彼がページをめくるたびに緊張が高まり、頭の中では小説と全く関係のない映像が流れる。文字を目で追いながらも、内容は全く頭に入ってこないまま、数分をやり過ごした。いつもの朝である。
隣のクラスから、数人の楽し気なお喋りが聞こえてくると、玲寺は唐突に本を閉じた。少女は目だけ上げ、リュックに本をしまい始めた彼の横顔を盗み見る。赤く爛れてかさつく彼の頬も、見ない訳にはいかない。
私がまだ施設にいた頃の彼の頬には、こんな痛々しい傷痕はなかった。
火傷の痕のように、爛れた皮膚。
あの頃の彼の頬に同じ傷痕があったなら、真っ先に私は彼の両親の虐待を疑っただろう。児童養護施設ケヤキには、まさにそういう子どもたちが多く引き取られていたのだから。
当時、私たちは施設から一歩も外へは出られなかった。両親に会うことも許されず、狭く平和な世界で、規則正しく生きていた。親も知らない私には、この小さくて平和な世界が全てだった。
ただ、小さな幸せはいつも気を付けて守らねば、いつか壊れるということも幼心に分かっていた。だから彼らに近付かなかったのだ。あの双子に。
二人は、まるで人ではないようだった。
今考えてみると、何故幼い私が彼らを見てそう感じたのか、さっぱり分からない。あの頃も、分かっていなかったのかもしれない。だが、確かに感じていたのだ、彼らの異常さを。もちろん今の今まで人に話したことはない。
あの日も、私は誰にも彼らの話をしなかった。
あの日も私は、トモキ君にいじめられていた。誰もいない部屋に、二人きりだった。
「デブ!お前はデブだから親に捨てられたんだ!」
私は太っていなかったし、親に捨てられたわけでもなかったが、何も言わなかった。きっとその言葉は、トモキ君が誰かに言われた言葉なのだと安易に想像がついたからだ。
「お前なんか死んじゃえ!死んでも誰も困らない!死んじゃえ!」
その日はきっと、皆が皆、ついてなかった。先生たちは全員、熱中症で倒れた子につきっきりだったし、双子は偶然にも私がトモキ君に打たれるところを見てしまったのだから。本当についていなかった。私もトモキ君も、ついていなかった。
「あ、叩いちゃった」
トモキ君は一瞬、申し訳なさそうに私に近寄った。殴るつもりが無かったのは一目瞭然だったが、双子はそうは思わなかったようだった。
「今、叩いたよね?」
気付くと、開きっぱなしになっていた扉の前に、双子がこちらを見て立っていた。
「叩いたよね?」
私には、それを話したのが玲夜だったのか玲寺だったのか分からない。それほど二人は瓜二つだったのだ。
「人を叩くのって、犯罪なんだよ」
あまりにも冷酷な口調に、私は寒気を感じた。トモキ君は、必死に焦りを隠すように声を張り上げた。
「ばーか、コイツは人じゃないから叩いてもいいんだよ!」
普段のトモキ君なら、決してそんなことは言わなかったはずだ。いつも私に意地悪はしたが、酷く傷つくようなことをされたことは無かった。
「トモキ君も、人じゃないの?」
「えっ?」
双子は音もなく部屋に入ってくると、トモキ君の頬を突然ひっぱたいた。
「痛っ…」
トモキ君は叩かれた衝撃でその場に倒れ込み、怯えたように双子を見上げた
「何なんだよお前ら…」
「トモキ君って、人じゃないみたい」
そういえばこの時、話していたのはいつも双子の片方の方だった。それが玲寺なのか玲夜なのかは依然として分からないままだが、双子の片方がずっと話していて、もう片方は最後まで口も開かなかったのだ。どちらがどちらなのか今となっては分からずじまいだが、その時はそんなことを考える余裕もないほど、私もトモキ君同様怯えていた。
「お、俺は人だよ」
奇妙な会話だった。私は逃げることも声を上げることも出来ずに、ただ身体を強ばらせてその場を見守っていた。
「人でもなんでもいいよ、トモキ君って太ってて気持ちいい」
そう言うと、今度はトモキ君のお腹に足を振り下ろした。トモキ君は弱々しく泣いたが、逃げようとはしなかった。
「やめてよ、やめて」
トモキ君は泣きながら、少し私のことも見た。その目は、「助けて」と言っていた。
しかし、私は助けなかった。早く逃げ出して先生に助けを求めたかったが、身体が動かなかったのだ。まるでその場に張り付いたかのように、身体が言うことを聞かなかった。そして、トモキ君は吐くまで殴られ続けた。
「人って本当に死ぬのかな?」
そう言った彼の幼い横顔を、私はずっと覚えている。夏の日差しに溶かされたような、だらんとした顔をして、面倒くさそうにトモキ君を見下ろしていた。彼の言葉を聞いたトモキ君の顔は一気に崩れ、わあわあと喚き始めた。
しばらくすると先生たちが何事かと部屋までやってきたが、その頃には既に双子はその場にはいなかった。
部屋には、声を上げて泣きわめくトモキ君と、トモキ君の嘔吐の跡と、呆然としている私しかいなかった。
先生たちは慌てて私に事情を聞き出そうとしたが、私は何も言わなかった。
まだ、誰にも話したことはない。トモキ君が殴られている間、部屋の片隅で最後まで喋らずただ私を熱っぽい目で見ていた彼のことを、私はまだ、誰にも──
あれから十年以上たった今でも、私はあの日のことを鮮明に思い出す。その後ともき君は極度の対人恐怖症になり、いつの間にか施設からいなくなっていた。私も、それからすぐに今の里親に引き取られた。
双子は結局、あれからどう生きてきたのだろう。今もまだ施設で暮らしているのだろうか。それとも、既にどこかの里親に引き取られているのだろうか。
気になるが、聞いてみたことは無かった。それどころか、彼らと話したこともない。いつも目が合いそうになると、慌てて顔を伏せていた。
彼と話せるわけがない。本当は、こうして同じ空間に二人きりでいることも怖くてたまらない。
私が誰にも話していないことが、もう一つだけある。トモキ君を殴っている彼の背には、鴉のように黒い翼が二つ、生えていた。