プロローグ
私が彼女を診たのは、今から十七年前のことだ。年の暮れだった。彼女は身体を丸めて、寒そうに病院の入り口に座り込んでいた。診察時間は終わっていることを彼女に伝えたが、どうしても診てほしいと言うんで、中に入れた。
お腹の腫れが酷い。最初は小さな吹き出物だったが、三日ほどでたんこぶほどのほどの大きさになり、日に日に膨れていく。遂には腹を齧られるような痛みに夜も眠れなくなり、その頃にはもう今ほどの大きさになっていた。
そう言って薄手のコートを脱いだ彼女のお腹は、確かに大きく膨れていた。まるで妊婦のように
ご存知の通り、田舎の小さな診療所だ。医師は私しかいない。看護師は二人いるが、助産師はいない。助産院は隣の村まで行かないと無い。私は、案内状を書くから明日また出直して来なさいと、そう言ったんだ
しかし、彼女は頭を横に振った。妊娠しているはずがないと言い張った。
ああそうだ、皆そう言う。しかも当時、少女は十七歳だった訳だから、信じられなくて当然だ。
私は言ったよ。君の体は既に少女から大人の女性に変わっているんだ。歳は関係ない。君は妊娠をしている。それは明らかだと。
だが彼女はしつこかった。私は処女で、今までに誰かと関係を持ったことは一度もない。だから妊娠しているわけがない。これはきっと病気だ、そうに違いない。ヒステリックに泣き叫ぶので、私も遂には折れたよ。どうやら本当に病気のようだとね。
翌朝すぐ、私たちは始発のバスに乗って都市の総合病院に向かった。何故私もついていったのかって?家族も頼れる友人もいない彼女を、一人で行かせるわけにはいかなかったのだよ。何より、彼女に頼まれたからというのが最もな理由だがね。
まずは、産婦人科で胎内を診て貰った。妊娠していないのに、と彼女は不服そうだったが、念のためだ。そして結局その考えは、正しかった。
すまんが、水をくれないか?ずっと喋っていたものだから、喉が渇いて仕方が無いんだ。
ところで、君は私の話を本にどう書くつもりかね?ホラーか?ミステリーか?さては年老いて頭がおかしくなった哀れな老人の話か?
何?雑誌?「あの怪奇事件の真実」?
何でもいいが、真実は嘘より信じ難いぞ。君の思っているよりもずっとな。
さて、話を戻そう。
検査をして分かったことは一つ、彼女の胎内には何かがあるということだ。エコーに映るそれは、胎児のようにも見えるが、動物のようにも見えた。規則的にびくびくと動き、その度に大きくなっていくようだった。
先天性奇形症候群かもしれないが、こんな例は見たことがない。その産科医が言ったんだ。頭があり、胴体がある。手と足もある。だが、頭からは短い突起物のようなものが幾つも生えているし、背中に二つのへこみがあるように見える。そしてその胎児は、双子だった。
少女はしばらく、口を聞かなかった。私が医師と話し込んでいる間も、ただじっとエコーを見ていた。
詳しく検査をするために、彼女は一度入院をすることになったが、最後まで彼女は口を開かなかった。よほどショックだったのだろう。そんな彼女に、何故処女だと嘘をついたのかと聞くことは出来なかった。おそらく家族がいないというのも全て嘘だ。
その時は、そう信じきっていた
違うのか?だと?君はこの事件を全く調べずに私に取材をしているのかね?それとも詳しい話は警察が隠蔽したのか
……彼女は、まだ十七歳だった。学生だった。彼女は人生の輝きを知らぬままに、亡くなった。惜しいことだ。あれは本当に、惜しいことだった…
病院に到着してから一時間ほど経った頃だったか、彼女はお腹の重みに耐えきれなくなり、倒れ込んだ。その時には既に、彼女のお腹は通常の妊婦よりも一回り大きかった。
少女があまりに苦しそうに泣きわめくので、医師が麻酔をかけて眠らせた。私は苦しみに顔を歪めながら眠りに落ちていく彼女の顔をじっと見ていた。そして、医師が部屋を出ていき、看護師が出ていき、病室に二人きりになった。ベットに射し込む朝日が、暗く沈むまで彼女は眠っていた。彼女は眠らされたまま様々な検査を受け、夜になってようやくベットに戻ってきた。それまでまるで成長しているかのように膨れ続けていた腹は、動きをぴたりと止めたかのように静かだった。もしかしたら、静かに息を潜めながら飛び立つ準備をしていたのかもしれない。蝶のように
夜町の喧騒が聞こえてくる中、ふと彼女は目を覚ました。カッと目を見開き、変な声で叫び続けた。私は恐ろしくて恐ろしくて…情けないことに何も出来ずに病室の隅で縮こまっていた。
ナースコールを押さなくても、医師たちが駆けつけてきたよ。しかしその時にはもう、彼女は亡くなっていた。
彼女の腹の皮はべろりとめくれあがり、子宮は破裂していた。まるで何かが飛び出したようだった、と看護師は後に語ることになる。
私は、医師たちに病室から連れ出される直前、少女の顔を見た。少女は血だらけで、青白い顔をしていて...白目を剝き、苦痛に歪んだ顔をしていた。
それから十七年が経ったが、未だにあの事件の真相は明らかになっていない。
あれから変わったことといえば、私が逮捕されたことくらいだ。世間にも少し騒がれた。妊婦を殺害した凶悪殺人犯と呼ばれたよ。凶器も動機も何も見つからなかったのに、ただその現場を知る唯一の人間というだけで、私は十七年、こうして囚われの身としてきているのだ。
世間は、それで満足なのだよ。事件は、早く解決した方がいい。犯人が逮捕されれば、また安心して暮らせる。
しかし、世に報道されたことは真実ではない。何故なら、彼女は殺されていないし私は殺していないからだ。まるで一つも真実ではない。
医師たちが手術の準備をしている間、確かに私はずっと彼女の横にいた。彼女の眠る姿を見ていた。そして、全てを見ていたよ。
だが、私は何もしていない。ただ、神のなすままに。