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 入った瞬間に分かる。清浄な空気。

 ……そこは技術室だった。

 おれ達の担任教師が授業をしてくれた場所。


 ――ああ、守られている。


 ユリとふたりで手をつないだまま、続き部屋の技術準備室に入った。

「タヌキせんせぇ……」

 とうとうこらえ切れなくなったのか、ユリが涙をこぼした。無理もない。恐怖にさらされ、激しい緊張を強いられる中、ようやくホッとできる場所にたどり着いたのだ。

 ここはとても温かな、やわらかい空気に満ちている。まるで田貫先生のふところにいるようだった。

 田貫先生は、一年間、本当に最初から最後までおれ達の味方だった。怒った時は雷くらい怖かったけど、授業中に機械のそばでふざけていたヤツに「技術室には危険物がいっぱいだ!」と怒鳴った時と、クラスで担任としてガツンと怒る時だけだった。それだって、人として、大事なところから外れた行為をしたヤツが叱られただけで、あとはたいてい、のんびりのほほんと笑っていたっけ。小学校を卒業し、緊張して入学したおれ達は、あっという間に田貫先生になついた。


 本当は、もっともっと教えて欲しかった。

 一緒にいたかった。

 いなくなってしまって寂しかった。

 定年退職だから無理だと分かっていたけど、叶うなら。

 あの笑顔をもっとずっと見ていたかった。

 その笑顔の横で、一緒に笑っていたかった。


 泣きじゃくるユリの頭をそっとなでる。

 あ、しまった、さっきの血がついていた。

 立ち上がって先生専用の水道で手を洗う。なぜか水が出た。廃校になって、電気も水道も止められているはずなのに。昼間見た時、プールだって水が入っていなくて空っぽだったのに、これも田貫先生のおかげなのかな。うん、きっとそうかも。そう無理やり自分を納得させて、手に付いた血のりを落とす。

「ユリ、お前も手、洗えよ。気持ち悪いだろ」

「……うん」

 のろのろと立ち上がるユリに手を貸して、背中を支える。ユリが流しに恐る恐る手を差し出したので、蛇口をひねって水を出してやった。

 震える手をこすり合わせ、ゆっくりと汚れを落としていくユリ。赤い広がりが流し台の中で排水口に吸い込まれていき、それが少しずつ細く薄くなって、ついには透明になった時、おれは水を止めた。

 ぼんやりしたまま手を見つめ続けているユリのズボンの左ポケットに手を入れて、勝手にハンカチを取り出す。ユリは小さい頃からずっと左ポケットにハンカチを入れる習慣があるし、おれはハンカチなど小学一年生の時から持ち歩いたことなどないからだ。とにかく、取り出したハンカチでユリの両手をぬぐってやった。ちなみに、おれの手はさっき洗った時、服の、まぁそれほど汚れていなさそうな所でテキトウに拭いておいてある。

 おれはユリを田貫先生の机の前に誘導し、椅子に座らせた。ギシッと音が鳴り、懐かしさが込み上げる。廊下の扉から先生の名を呼ぶと、先生は顔を上げ、いつもの笑顔で「おう、なんだ?」と言ったっけ。その時、体を扉の方に向けるので、いつもこのギシッという音がしたのだ。この音と田貫先生の笑顔は、おれにとってセットのようなものだった。温かい、信頼できる笑顔。

「……ここ、安心できる」

 ユリがぼそりとつぶやいた。

「そうだな。なんて言うか……田貫先生と一緒にいるみたい」

「うん、そう、そうなの」

 ユリと見つめ合い、うなずき合う。

 その時、ユリがそっとおれの手に腕を伸ばしてきた。

「コタ」

「うん、どうした」

「……ありがと」

「え」

「コタが一緒で良かった……コタにたくさん助けてもらったから、だから、私、まだ生きてる……」

 ユリの顔がくしゃっと歪んだ。

 無理やり笑みを浮かべようとしているようにも見えるけど、もしかしたらこれからの不安のために、笑顔がうまく作れないのかも知れない。

 だって、まだ何も解決していない。ここから出なければ。無事に家に帰らなければ。そのためには、この安全な場所をいったん離れなければならない。

 どうすれば良い。

 どうすれば、ユリを家に帰してやれる。

 おれの覚悟ひとつでなんとかなるのか。

 ユリを安全にケガさせることなく、連れ帰ることができるのか。

 頭の中で懸命に考える。

「……コタ、もしかして、もしかすると、だけど」

「うん」

「このまま、朝までここにいたら助かるんじゃない? 朝日が昇れば……お化けだっていなくなるよね。だって、昨日の昼間は全然怖くなかったもの。怪しい雰囲気なんてひとつもなかった。ううん、昨日だけじゃなくって、もしかしたら私たちがここに通っていた間も、夜になったらこうしてお化けが出ていたのかも知れない。私たちがどんなに遅くなっても夜七時までには下校していたから気づかなかっただけで。だから、朝までこの部屋で待ってたら、普通に窓も開けられて、外に出られるかも知れないでしょ? ね、どう? そう思わない?」

 ユリの提案に少し考えてみたけれど、おれはゆるく首を振った。

「でも、夜が明けるよりも前に、悪霊が一番活発になる時間帯、丑三つ時がくるよ。今まだ夜の九時だ。普通だったら小学生ですら寝てないこの時間に、これだけの悪意をこちらに向けてきているんだ。力が増すと言われている丑三つ時に、どれだけの勢いで攻められるのか……おれは賭けてみる気には正直なれない。田貫先生のパワーより、悪霊が勝ったらどうする? この部屋に入り込んで来たら、もう逃げ場はどこにもないぞ」

「でも、だったらどうするの? 私、もう怖い思いして走り回るのはイヤ。ここにいたい。コタと一緒に、ここで……」

「ユリ……」

「どうせ怖い思いするなら、今より後の方が良い。どうせ死んじゃうなら、今から五時間、コタとふたりきりでいたい。コタと一緒なら怖くないから……少しでも長く、コタと一緒に……」

 そう言って、キラリと光る瞳に浮かぶ涙をあとからあとからあふれさせるユリ。

 おれの腕にすがるユリの背をなだめてポンポンと叩く。

「分かった、分かったよ、ユリ」

「……うん、うん、コタぁ」

「おれがいる。おれがいるから」

 おれの服の胸元に涙を吸わせているユリの頭をなでていると、ふと窓の外で何かが動いた気がして、視線を上げた。

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