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校舎西側の階段を上った二階には、二年生の教室が並んでいる。その中の二年三組の教室を見向きもせず、東側階段の方にある一年生の教室目がけて走っていく。
二年生教室と一年生教室との間にあるのは図書室だ。その向かい側である北側には進路指導室と資料室があり、その二つの部屋の間には教室がなく、廊下中央部が北側に大きくふくらんだような広いスペースがあって水飲み場となっていた。ここでみんな、休み時間になるとプロレスをしたのだ。
そこを一気に走り抜けようとして、おれ達はふいにボワンと弾かれて勢いよく尻もちをついた。
「いったーい! なに、これ!」
ユリが叫ぶ。
どうも、透明な障害壁があってそれにぶつかったようだ。ユリの手をつかんで起き上がるのを助けると、先ほどぶつかった辺りに手を伸ばしてみる。
見えない。
懐中電灯であちこち照らしてみても、光は反射することなく奥まで届いている。
でも、何かがある。
ゆっくり押すと、ぶよぶよと歪む。
でもそれ以上は手を伸ばせない。
突き抜けることができない。
おれはユリと手を離すと床に懐中電灯を置き、それに触ったまま南側の図書室の壁際まで歩いてみた。端まで行ってもそれは途切れなかった。
「ユリ、そっち側から真ん中まで、この見えない壁が続いているかどうか調べて」
「うん、分かった」
ユリが北側の端から触れ始め、おれ達は両手でペタペタと触りながら、見えない壁に残念ながら途切れが全くないことを確かめた。壁とのつなぎ目と、床の接地部分は特に念入りに調べた。手の届く範囲で上部も。
「一年一組は、もう目の前なのに……」
すぐそこに、おれ達の過ごした教室が見えている。
でも、行かれない。
ユリが寄ってきておれの服のすそをつかんだ。唇をかんで、指先が震えている。
「ユリ、西側階段をもう一度降りて、昇降口から外に出るか?」
おれの声にユリが顔を上げた。
「え、でも、カギがかかってるし……」
「外から中には入れなかったけど、中からカギをはずせば出られるはずだ」
「そっか……そうだよね……」
「よし、行こう」
おれが歩き始めても、ユリはそこから動こうとしない。
「ユリ?」
「だって……その階段降りると……職員室があるし……昇降口の隣は、保健室だし……」
ユリは泣きそうな顔でおれの手を両手で握りしめてきた。
「分かった。特別棟に渡ろう。そこで一階に降りて外へ出るんだ。それなら良いだろ?」
おれの言葉にユリは小さくうなずいた。もう彼女はいっぱいいっぱいなように見える。気持ちに余裕などない様子だった。
おれは懐中電灯を拾い、ユリの手を引いて今来た道を戻り始めた。西側階段の向こう側に特別棟への渡り廊下がある。体育館への渡り廊下は外廊下なので一階からしか渡れないのだが、特別棟へは一階だけでなく二階からも行かれるようになっていた。
涙をこらえている様子のユリを気づかいつつ、それでも早足に渡り廊下を進んで行った。シンとした中、おれ達の吐く息と足音だけが聞こえる。足元は頼りないほど小さな懐中電灯の灯りのみ。いっそう心細くなる。そして特別棟まで来ると、渡り廊下の右隣にある階段を、一段一段、気を付けながら下りていった。一階の渡り廊下のわきにドアがあって、そこから外に出られるようになっている。そこを目指して階段から左に曲がると―――。
扉の前に、小さな女の子がうずくまっていた。
思わず息を飲む。
こんな所にいるはずもない子ども。
なぜ、どうして、どういう理由で……。
よく見ると、本棟に続く渡り廊下のあちこちに、同じ女の子が座り込んでいた。
マヒした頭の中で疑問が渦を巻いているうちに、その子達がいっせいに、ゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
ニヤリ、と笑う口元。
いや、顔は陰になっていて分からない。
目が、口が、あるのかどうかも判別できない中で、子ども達が笑っているということだけがはっきりと認識できた……懐中電灯を向けていないのに。
どうして、と思い、そこから目を離すことができない。
おかっぱ頭の、白いブラウスに、赤い吊りスカート。
服のしわまで見えるのに、子ども達の顔だけが見えないのだ。
息を飲んで見つめ続けると、扉の前にいた子が、ゆぅらりと立ち上がった。
「……ぃゃ」
ユリの発した小さな声に、おれはハッと気づいてくるりと方向転換をし、走り出した。
階段の向こう側にある被服室に飛び込んで、窓まで一直線に走り、鍵をはずして窓を開けようとする。だがしかし、窓がコンクリートで固められたようにビクとも動かない。隣の窓も、その隣も、全く開けられる様子がない。
ぴたん…… ぴたん……
そうしているうちに、さっきの女の子が被服室の扉から顔をのぞかせ、へらり、と笑った。
相変わらず顔が確認できないのに、その笑った表情だけは認識できる。それにもういちいちおかしいとか思っている暇などなく、そのまま続き部屋の家庭科準備室に飛び込み、手早く窓を確認して開かないことを確かめると再び走ってその隣の調理室に走り込んだ。
「コタ、追ってきてる!」
ぴたん…… ぴたん…… ぴたん……
静かな静かな足音が聞こえ、あの女の子が被服室から家庭科準備室までたどり着いたことが分かった。おれはひとつ窓に手をかけて、やはり開かないのを確かめると、そのまま廊下への扉の前まで移動した。
そして、家庭科準備室から先ほどの女の子が顔をのぞかせ、またもやニヤリと笑った瞬間、扉を開けて全力でユリを引っ張り、特別棟の廊下を駆けた。
渡り廊下横の扉が案の定ガンとして開かないのを素早く確かめ、そこいらじゅうに座り込んでいた子ども達が立ち上がるのをよく見もせず、再びもと来た階段を上へ駆け上った。一階渡り廊下の向こう側にも教室があったから、そこから外に出られるか窓を試してみても良かったが……そこは理科室だったので。嫌な予感しかしなくて避けたのだ。それよりは、先ほどユリに提案した、もう一度本棟校舎の方へ戻って一階に降り、昇降口から外に出られるか試してみる方が良いと思った。最悪、一階から東側階段を上ればスタート地点に戻ることができる。そうすれば、少なくともひとつだけは開いている窓が確実にあるのだ。
そう思って階段を駆け上がり、本棟へ戻るために二階渡り廊下へと勢いよく曲がると、足がズルッとすべって転んでしまった。ユリをも巻き込んで倒れ込む。
「いたたたたた……」
「ユリ、大丈夫か!?」
ユリが頭に手を当てるのを心配して顔をのぞき込むと、ユリは閉じていた目を開いた。そのまま、見たこともない位に大きく見開かれる。
「コ、コタ……」
ユリのせわしなくさまよう視線を追うと、おれも同じように目を見開いて息を飲む―――。
渡り廊下が、血の海と化していた。
転んだ勢いで手から離れて転がってしまった懐中電灯の灯りに照らされた、真っ赤な液体。
座り込んだ尻にべっとりと付く濃い赤色。
上半身を支える手の平はねっとりとベトついて。
「やだ……やだよぉ、コタぁ……」
ユリのすがるような声をきっかけに、おれはすっくと立ち上がり、特別棟二階の教室へと走り込んだ。