H1:日和、勇気を出す
早朝、羽津学園の下駄箱にどこか思いつめた表情の少女が一人いた。
何度か躊躇うそぶりを見せた後、お目当ての下駄箱の扉を開けた。手馴れた手つきで中にある上履きを取り出す。そして、その代わりといわんばかりにピンク色の封筒を入れるのだった。
上履きを胸に抱きしめ、すぐさま走り出す。近くの女子トイレの個室へと入り込んだ。誰にもばれてはいない。
後ろめたいことは回数を重ねるごとに心への負担を減らす。そして、徐々に大胆になっていくのだ。ここで慢心すれば見つかるリスクは増える。後ろめたいことをする際は、絶対に初心を、警戒心を忘れてはならない。
スリルが欲しくてやっている……子どもの遊びでは、ないのだ。
「ふぅ、私、何しているのだろう」
少女、三枝日和は盗んできた……いいや、拝借してきた上履きをためつすがめつしてため息をついた。子どもの遊びなら、まだ良かった。
自分が十二分におかしい行動をしているのは頭では理解している。しかし、こればっかりはどうしようもなかった。好きな相手に対して、色々としてしまうのだ。
奇行に走るようになって早数年。
様々なことをしてきたものだと比較的綺麗なトイレの天井を眺めて再度、ため息をつくのであった。今となっては、感慨深い。
「色々やったなぁ……」
どこからどこまでが合法で、どこからがアウトなのか分かりづらい。歪にゆがみすぎて、自分が何故、その人に惹かれたのか……原点も思い出せなかった。気づけば好きになっていて、今はただ、好きの塊だ。
夏に近づく季節は爽やかといわないまでも涼しい風を窓から届けてくれている。
想い人と一緒にこの風を共有出来たらどれだけいいか……。恋する乙女は自分がトイレに居る事すらも忘れてしまっていた。
一時の間、妄想していた少女は現実へと戻ってくる。これまでの出来事を頭に思い浮かべ始める。
街中にいたのを隠し撮りした。セーフだ。思えばまだあの時は若かった。純粋だったのだ。
以前、彼が住んでいた部屋の鍵を偶然手に入れたのでそれのコピーを作ってもらった。盗みはしていないため、セーフだ。
彼のスケジュールを把握し、追いかけ続けた。話しかけていないし、気づかれてもいないのでセーフだ。ばれなければ、犯罪ではない。そもそも、犯罪者とは社会から押されるものであって自分が背負うものではないのだ。
彼に想いを寄せていた連中の縁の糸を切ってやった。これもまた、エンキリとしての仕事であると認識しているため、問題ないはず。
「……アウト、だよね」
世間一般的に考えて、完全に独善的だ。白か黒かで言えば完全に黒なのだ。いくら犯罪者ではないといっても良心が痛んだこともある。
自分がそんな事をされたら嫌悪感を覚えるに決まっている。下手すると調べて、犯人をつるし上げるだろう。
「乙さんも私をつるし上げる……ごくり」
妙な妄想を打ち消して、自分は正常なのだと言い聞かせる。
知るということは、狂気への第一歩なのだ。知りすぎれば、人間の脳みそでは耐え切れずに別の何かへと変わってしまう。群れる動物である人間ではあまりに知りすぎると人間の枠を外れてしまうのだ。
人が人であるためには範疇を超えてはならない。だから人間は、ルールを決めて縛るのかもしれない。人の枠から外れてしまった化け物を誕生させないために。
「……ふぅ、駄目。疲れてる」
上履きを失敬して来た日和もまた、新たな境地を見出して人間という枠組みが自立しているのかもしれない。
エンキリという一族自体も、それに近いのかもしれない。
エンキリは一切関係ないのに、彼女はそんな事を考えた。一生懸命追わなくても、夏休みまでの辛抱なのに、それが出来ない。
「……これは返してこよう」
胸に抱えていた上履きを持ち、トイレから出る。下駄箱へと近づこうとして……物陰に身を隠した。
人の気配がしたのだ。
おそるおそる、そちらのほうへと視線を向けると、あろう事か、件の男子生徒が下駄箱を開けていたのだ。
間に合わない。冷水を頭からかけられたかのように血の気が失せた。手紙は何度か名無しで出しているので読まれても問題はない。問題は、上履きがないことだ。
「またか」
男子生徒はため息をついた後、手紙を鞄の中へと入れた。微妙に悲しそうな顔をしているのは一種の諦めからだろう。
何せ、日和が上履きを盗んだのはこれが初めてではないからだ。何度か、上履きを返す前に登校してしまったことがある。
まず、彼がすることは購買へと向かって上履きを購入すること。それを見届けてから、日和は下駄箱へと上履きを戻していた。
男子生徒が通り過ぎたときにタイミングを見計らう。朝練を行っている部活の面子はまだ戻ってこないし、部活のない生徒が来るにはまだ早い時間帯。夏休みが近いためか、学園全体的に遅めの時間帯に生徒は登校をしている。
しかし、それも油断ならない。何せ、件の男子生徒が早い時間帯に顔を出しているのだから。それに、校舎内にある購買関係者は既に営業をスタートさせている。そちら側に回れば利用している一般の客だって見ることが出来る。
手早く返さなければ、男子生徒が戻ってくるかもしれない。
手紙の入っていない下駄箱へと、上履きを突っ込んで扉を閉める。
「これでよし、と」
「何がよしなんだ?」
「うわぁあ」
情けない悲鳴を上げてしまった。振り返った先には日和並みに驚いた表情の男子生徒が立っている。
「び、びっくりした」
「俺のほうが驚いたよ」
柔和そうだが、どこか抜けた感じの男子生徒。頬をかきながら首を傾げていた。
「それで、何してんだ?」
「え、あ、あー……実は、上履きを借りていて、その返却を」
「俺のか」
「は、はい」
嘘は付きたくない。しかし、真実を告げたくもない。告げたところで、どうしてそのようなことをしたのだと問われても上手く返せる自信が無いのだ。
恋するあなたを近くに感じたくて、上履きに手を伸ばしました……アホらしいこと、この上ないだろう。そんな事を言ってしまったらつい気持ちが高ぶって屋上から○んで仕舞うかもしれない。
「そっか、とりあえず困っていたって事か?」
「え、ええ」
それはもう、非常に。
ここで告白につなげられたら賞賛に値する。
そんなに勇気を持っているのなら、そもそも上履きなんて失敬しないと思ったりもする。続けて言うのなら、この場で告白するのはムード皆無で嫌だった。
「まぁ、必要だったのならしょうがないな。師匠もスコップでビームは跳ね返せるとかわけわからないこと言ってたし」
「……ほっ」
胸をなでおろすと同時に、ちょっといらだった。
男子生徒の優しさは誰よりも知っているつもりだ。当人よりも、詳しいはず。言うことを無条件で信じてくれているものの、いや、そこはおかしいだろうと突っ込んで欲しかった。
ムードがなくても、気持ちだけは伝えたかった。ばれてしまうと怯える臆病さと、気持ちを知って欲しいという大胆さが気づけば日和に矛盾した言葉を発していた。
「あの、わたしの事を変だとは思わなかったのですか」
正しく言うのなら変の後に、能がつく。まだ大丈夫だろう。変態もまた、誰かから言われなければ変体ではないのだ。無論、自身がそう思うのなら変態だが。
「変?」
言った後に、臆病さが顔を出した。
今、自分はどんな顔色をしているだろう。良くないのは確かだ。おどおどとした表情は嫌いだ。
「ん、変だとは思ったさ」
「やっぱり」
変だと思っていても尚、何も聞かずに許してくれたのだろう。
「最初……ではないか。部室で出会ったときは、何、この子と思ったけどな。色々とやっていくなかで……って、特に何もしてないな。一緒に居るうちに少しだけ思い出したんだよな」
上履きの話でもなんでもなく、関係のない話が始まっていた。
「はい?」
「小さい頃に俺達って会っているよな。ああ、あの時の子かって思ったんだ。そうだろ?」
「それは……まぁ、そうですが」
幼少の頃はそれで悩んだりもした。今は吹っ切れている。吹っ切れているというよりは、プラスになりすぎてメーターが振り切れている。
「っと、悪い。俺用事あるんだった。三枝、またな」
「あ、待ってください」
つい、反射的に去ってしまいそうになる相手を呼び止めた。
「何だ?」
怪訝そうな相手を見て、日和は煮えそうな頭で考える。
そして彼女は、勇気を振り絞った。
「ひ、日和でいいじゃないですか。三枝だと、距離を感じます」
「そうか?」
「そうです」
「じゃあ、日和。またな」
「はい」
手を振られ、ぼうっと突っ立ってしまった。
「いよっしゃっ」
次の瞬間、ガッツポーズをして日和は飛び上がっていたりする。微々たる物だが、彼女は一歩を踏み出したのだ。




