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Ⅲ. He and she will make THE GREAT ESCAPE

 月曜の朝。たまたま垂れ流していた朝の民放ニュース番組で突然、それは流れた。

「脱法ドラッグ店経営者の男性、遺体で発見。オーバードーズで死亡か」の見出し文字。一緒に映し出されたのは、つい先日成瀬と訪れたLUXの映像だった。昨日、店を訪れた客から警察に通報があり、遺体を調べたところ大量の薬物成分を検出。他者による事件性はないとされ、死後ニ日が経過しているとのことだった。

 ニュースキャスターの淡々と読み上げる声に、俺はただただ呆然と立ち尽くした。

 死因はオーバードーズ、つまり薬物の過剰摂取だという。警察の見解では一昨日の深夜、新薬の開発中に致死量の薬物を摂取してしまい、そのまま誰の目に触れることもなく死んでしまったのではとのこと。

 この一件で、出演しているコメンテーターが脱法ドラッグの危険性について得意気に語る。 ゲストの芸能人たちがわざとらしく悲痛な面持ちでそのご高説に頷く。

 それを受けて、最後にニュースキャスターが綺麗にまとめる。

『いくら法律的に問題がないと言ってもドラッグは危険です。今回のように大量に摂取してしまうと死に至ることも当然あります。皆さんも、どうかお気をつけください。このような薬物が社会から根絶される日が来るのを願ってやみません。では次のニュースに移ります』

 デハ、次ノニュースニ移リマス。

 まるでその一言ですべてお仕舞いだとでもいうように、誰の顔にもさっきまでの悲痛な面持ちはなくなり、次に映しだされたドコドコの動物園からの愛くるしい映像に、今度はその場にいる全員が気持ち悪いくらい満面の笑みを浮かべていた。

 たったニ、三分だった。ほんのたった二、三分で、ひとりの人間の死が嘘臭い悲しみとともに片付けられてしまった。

 なんだ、これは。

 なんなんだ、これは。

 俺はマスターと一度しか会ったことがない。だから特別親しい間柄ではない。でも、どうしてだろう、言いようのない憤りが治まらない。

 ニュース番組が人の死を数分で片付けるなんて、よくあることだ。だって他にも報道すべきことがたくさんある。ひとつのことにそれほど時間を割いてはいられないし、いくら尺を長くとったところで死んだ人間が生き返るわけではない。それはわかっている。

 出演者たちも仕事で番組に出ている。だから悲しいニュースには悲しい顔をしなければいけないし、微笑ましいニュースには視聴者まで一緒にほころんでしまうくらいの笑顔を作らないといけない。そのために彼ら彼女らはそこにいるのだ。それもわかっている。

 何より俺自身、今まで何の違和感もなく見過ごしてきたことだ。別に誰が死のうと自分には関係ない。そう思ってテレビ越しに見る映像を、まるで遠い世界で起きた出来事のように考えていたはずだ。たまたま今回亡くなったのがちょっと知っている人間だからって、その扱いに怒りを覚えるなんて自分勝手にもほどがある。

 でも。

 頭ではそう理解していても、なぜだか悔しくてたまらなかった。

 成瀬のことを娘みたいだと言ったマスターの顔が思い浮かぶ。俺に成瀬を助けてほしいと、父親のように頭を下げてきたあの姿が。

 あの人はもう、この世界のどこにもいないというのか。


        ∽


 しばらくの間、俺は居間のソファに腰を下ろして、まったく何も考えられなかった。あまりに突然のことで、さっきのニュースが未だに信じられない。

 一時間以上経って、ようやく何かしら動かなきゃと思うようになった。だが制服には着替えていたものの、遅刻確定の学校にまっすぐ行く気なんてさらさら起きず。

 家を出た俺の足は、そのまま自然とLUXへ向かっていた。別にそこに何があるわけでもない。だだ、学校へ行く前にどうしても寄っておきたかった。

 途中、成瀬に電話をかけようと思ったが、少し考えてやっぱりやめた。あいつはまだ今朝のニュースを見ておらず、今も普通に登校して授業を受けている可能性がある。なら、寝た子を起こす必要はない。今はまだ知らないほうがいいだろう。

 

        ∽


 LUXの前にはキープアウトテープが張り巡らされていた。周りには警官がいて、当たり前だが店内には入れそうにない。

 ただ目の前のその光景にして、マスターが本当に死んだのだということを思い知る。ニュースの報道だけでは湧かなかった実感を、俺はこの場に来てようやく感じていた。

 平日の朝だからか大した人だかりはできていない。周辺の店も平常通り営業している。LUXだけが、まるで切り取られた時間の中にあるように閑散としていた。

 ついこのまえ、俺たちは確かにここにいたのだ。

 店に入って、オネエ口調のマスターにびっくりして、奥のカウンターで雑談に花を咲かせて。

 グレイト・エスケープを買って、カウンセリングでマスターに成瀬のことをお願いされて。

 そして近いうちにまた来ると言って、店を出たのだ。それがまさかこんな形で訪れることになるなんて、あの時は思いもしなかった。

「ちょっと、キミ」 

 たたずむ俺の姿を認めた警官が、渋い顔で話しかけてきた。

「今日は平日だよ。補導されたくなかったらこんなとこにいないで、早く学校に行きなさい」

「はぁ、すみません」

 口調こそ高圧的だが、一見したところ人のよさそうな、どこか抜けた感じのする警官だった。歳は多分二十代半ば。仕事柄、無理に強気を装っているのか、所々で頼りなさが垣間見える。

 しかし、補導か……ここで下手を打つと面倒なことになりそうだ。

「あの、何かあったみたいですけどここって何の店なんですか?」

 念のため、あくまで興味本位でこの場所に近づいた学生を装っておく。

「何って、脱法ドラッグ店だよ。ここの店主が薬物の過剰摂取で死亡したんだ。昨日遺体が見つかったばかりなんで、こっちもてんやわんやだよ」

「うわ、ドラッグ……なんか物騒っすね」

「まぁねえ。って、そんなことはどうでもいいんだよ。キミは早く学校に行きなさい。さっきも同じ制服の女の子がこのあたりをうろついてたし、どうなってるんだ、まったく」

 ――成瀬だ!

「あの、ちなみにその女の子って、それからどうなりましたか!?」

「ど、どうしたんだ、いきなり。もちろん話しかけて、学校に向かわせたよ。今度見つけたら補導するからと約束してね。何、あの子、キミの知り合い?」

「いえ、何でもありません! ありがとうございます、失礼します!」

「あっ、ちょっとキミ、待ちなさい! 学校は!」

「少し寝坊してしまっただけなので、今からすぐに向かいます!」

 警官にそう言い残して、俺は全力疾走でその場をあとにした。

 多少怪しまれたかもしれないが、相手の感触的におそらく大丈夫だろう。それよりも成瀬の情報を得られたことが僥倖だった。


        ∽


 走りながら、俺は成瀬に電話をかけてみる――繋がらない。

 さらにもう一度かけてみる――やっぱり繋がらない。

 さっき成瀬がLUX周辺にいたということは、今朝のニュースをすでに知っているということだ。そして、その上であいつは電話に出ない、もしくは出られないのだ。

 どういうつもりなのか、またどういう状況下にいるのかはわからない。ただ、なるべく急いで探し出したほうがいいのは確かだろう。そばにいたところで何をしてやれるわけでもないが、できるだけ早く成瀬のもとへ行きたかった。

 必死に思考を巡らせる。

 成瀬は今、どこにいるのか。

 さっきの警官の言葉を思い出す。あの時、彼は俺に「キミと同じ学校の女の子がここに来た」と言ったのだ。つまり、成瀬は制服を着用していた。

 それなら、おそらく自宅ではないだろう。成瀬の話では普段家には誰もおらず、実質ひとり暮らし状態なはず。ということは学校に行かなくても誰にも咎められず、たとえポーズだけでも制服を着て家を出ていく必要がない。もしあいつがこのまま引き返して自宅にこもるつもりだったなら、LUXへ向かうためだけにわざわざ制服に着替えたりはしないはずだ。ちょうど、今朝の俺がそうだったように。

 そうなってくると、学校以外の場所にいるのも考えにくくなる。もし他の場所をうろついていても、さっきと同じように警官に声をかけられる可能性が高いからだ。

 つまり、学校。成瀬は今、おそらく学校にいる。

 では、いったい学校のどこにいるか。

 親しい間柄だったマスターの死を知って、教室で平然と授業を受けているとはまず思えない。警官も証言していたが、きっとあいつは俺以上にショックを受け、落ち込み、気が狂いそうになっているだろう。それなら、誰にも干渉されない場所に身を置こうと思うはずだ。

 すべてただの予想の範疇を出ないが、推測の果てに、確信に近い手応えを得る。

 俺の知るかぎり、成瀬にとってそんな聖域はただひとつしかない。

 ――屋上だ。


        ∽


 学校へ着くと、そのままひたすら階段を駆け上がった。今は授業中なので教師に見つかったらどうしようかと思ったが、幸い一度もすれ違うことはなかった。

 屋上のドアを開けると、目の前に見慣れた景色が広がった。

 ゆっくりと辺りを見まわす――そして、給水塔の下に横たわって動かない成瀬を見つけた。

「成瀬っ!」

 名前を呼んで駆け寄るが、どうやら反応が薄い。しかし、ちゃんと意識はあるようだ。

「……桐、島……くん? 来てくれたの……?」

「ああ、俺だ。成瀬、大丈夫か?」

「桐島くん、あのね、マスターが……マスターが死んじゃった……」

「それは俺も今朝ニュースで知ったよ」

「そっか……なんか私、信じられないよ……」

 見たところ、成瀬は少し様子がおかしかった。目の焦点が合っておらず、呼吸も荒い。表情にも生気がなく、ずっとうなされていた。道理で電話に出られなかったわけだ。

「これは……」

 成瀬の周囲には、剥がされた剥離フィルムとグレイト・エスケープが散らばっていた。すでに使用済みのものだ。

「それね、使ってみてもダメなの……いつも見たいに〝大脱走〟できないの。どんどん、苦しくなっていくだけで……ねぇ桐島くん、こんなの初めて……」

 精神的に不安定な状態でのドラッグの使用。それが心身にどんな悪影響を及ぼすのか、俺はマスターからあらかじめ聞かされていた。

 カウンセリングの時に言われた言葉を思い出す。「バッドトリップに気をつけろ」。心身が不調な時に使うとバッドに落ち、コントロールの効かない恐怖にとらわれる、と。

 今の成瀬はおそらく、そのバッドトリップに苛まれている。

「成瀬、つらいかもしれないが俺の背中に乗れ。保健室まで連れて行ってやるから」

バッドトリップの対処法は、気持ちが落ち着くまで静かなところで安静にすることだったはず。それなら保健室のベッドが最適だと俺は思った。

 下手をすれば屋上にいることやドラッグのことが先生にバレてしまうかもしれないが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。背に腹は代えられない。

 ――しかし、

「嫌、絶対に嫌っ!」

 成瀬が差し伸べた俺の手を強く跳ねのけて言った。

「保健室なんかに行ったら、先生は私たちのこと警察に通報しちゃうよ……そうしたらきっと刑務所行きだよ! 一生出てこれなくなっちゃうよ……」

「何言ってるんだおまえ、ちょっと落ち着けって」

 ないとは思うが、万が一通報されるとしてもドラッグを使ったくらいで無期懲役になどなるはずがない。ましてや俺たちは未成年。そんな重い罰が下されるなんて有り得ない。

 そんなことは普通に考えればわかるはずだが、成瀬は本気でそうなると信じて錯乱していた。これがバッドトリップ特有の被害妄想というやつなのだろうか。

「お願い、桐島くん……私なら大丈夫だから、ここにいさせて……」

 心底怯えきった表情でこちらに訴えてかけてくる。

 こんな状態の成瀬を無理矢理保健室まで運んだとしても、きっと安静にはできないだろう。それならこの場所で落ち着くまで休ませてやったほうがいい気がした。

「……わかった。じゃあ、おまえの言うとおり今はここでゆっくり休め。でも本当にやばいと思ったらすぐに保健室に連れて行くからな。それでいいか?」 

「うん……ありがとう……」

 俺の言葉に安心したのか、成瀬は微笑みを浮かべたあと、しばらくして眠りに落ちた。


        ∽


「えっ、桐島くん!? なんで私、桐島くんの膝の上で寝てるのっ!?」

「目が覚めて第一声がそれか、大丈夫そうだな」

 成瀬が目覚めたのは、六限目が始まって少し経った頃だった。

 空には真っ赤な夕焼けが燃えていて、あと小一時間もすれば放課を迎え、運動部の連中がグラウンドに出てきて騒がしくなるだろうという時間帯。

 俺はというとずっと眠る成瀬に膝枕をしていたため、とりあえず足が痛かった。それと朝からのヤニ切れで煙草が吸いたくて仕方がない。

「これはあれだ、コンクリートの上だと寝にくかろうという俺の紳士的な思いやりだよ」

「そ、そっか。ありがと」

 成瀬が少し恥ずかしそうに身体を起こした。ジョークを混ぜて言ったつもりなのに、こうもしおらしく返されると、こっちまで照れくさくなってくるから困る。

「どうしてこんなことになってるのか、その記憶はあるか?」

「……うん」

 成瀬が小さく頷いた。

「あれがバッドトリップってやつなんだね。なんか、すっごく怖かった……」

「不安定な状態でドラッグを使うとバッドに落ちる、ってカウンセリングで教わっただろ? どうしてそんな無茶をしたんだよ」

「ごめんなさい……」

 自分で訊いておいて、その答えはもうわかりきっていた。

 成瀬は目を伏せながら、言う。

「私ね、とにかく必死だった。今朝ニュースを見て、気が動転して。絶対何かの間違いだってLUXに向かったら、お店の周りに警察の人がいて。これは悪い夢なんじゃないかって思った。涙さえ出なかった。一刻も早くここから〝大脱走〟したかった」

 この世界が悪夢のようだったから。ただそれに尽きる。

 だから、成瀬は無理矢理にでもグレイト・エスケープを使ったのだ。どんな時でも自分の存在を受け入れてくれた、あの黄金の世界に逃避したいがために。

 だってこの世界はいつだって理不尽で、残酷だ。

 ずっと大切にしてきたものでも、突然簡単に手からこぼれ落ちてしまう。自分ではどうすることもできないうちに壊され、奪われ、失くしていく。

 そしてその悲しみさえ、きっと誰からも目を向けられることはないのだ。

「親を亡くすって、もしかしたらこんな感じなのかなって思う。マスターは私にとって、お父さんみたいな存在だったのかもしれない。本当の父よりも、ずっと」

「……そうか」

 成瀬のその言葉を、マスターに聞かせてやりたかった。きっと大喜びしただろう。ふたりともちゃんと同じ気持ちだったのだ。もう、すべてが遅すぎるけれど。

 俺は胸ポケットから煙草を一本取り出し、それに火を点けた。今日初めての煙を肺に入れながら、フェンスの向こうに広がる景色に目をやる。  

 この屋上から見渡せる風景だけを切り取ってみても、そこにどれほどの人の営みがあるのか想像もつかない。マクロ的に見ればさらにその何千、何万倍もの人々が暮らしている。

 世界はあまりにも広大で、そして俺たちは、あまりにもちっぽけだった。

 今、成瀬をこんなに苦しませているマスターの死だって、今朝のニュースのように世間ではたった数分で片付けられてしまう程度の出来事でしかない。

 確かに今、悲しいのに。苦しいのに。悔しいのに。そんな小さなことなんてどうだっていいとでも言うように、世界は今日も素知らぬ顔で廻り続ける。

 傷つきながら、失いながら、生きていく。

 俺たちにとってこの世界は、ただただ生きづらく、過酷なものでしかなかった。

「ねぇ、桐島くん。私、思うんだ。そろそろここが潮時なんじゃないかって」

「……潮時?」

「マスターが死んじゃった今、たとえ私がいなくなったとしても、それを悲しむ人なんていない。私には親も友達もいないようなものだから。きみのほうはどう?」

 きみだってそうでしょう? というニュアンスで成瀬が訊いてくる。

 そして、それはおそらく正解だった。

 毎日酒ばかり飲んでいるクソ親父とはもう全然口を利いていないし、一年前に出て行った母さんとも一切連絡を取っていない。その上、学校でも基本的にぼっちとくれば、俺がいなくなって悲しむ人など思い当たる節もなかった。

 俺の無言を肯定と受け取ったのだろう、成瀬は意を決した表情で言った。

「桐島くん、提案があるの――私と一緒に、この世界から本当に〝大脱走〟しちゃおう?」


        ∽


 俺たちは今まで、何度もグレイト・エスケープを使って〝大脱走〟してきた。

 だが、それは所詮期限つきの逃避行だった。どれだけ魔法にかけられようと、半時間もすればまたこの現実世界に還ってくる。

 はたして、そんな束の間の脱出を〝大脱走〟と呼べるのだろうか?

 ……心の何処かで、いつからか俺も思っていた。どれだけドラッグを使おうとも、結局俺たちは大嫌いなこの世界から抜け出すことはできないと。

 あの黄金の世界に身を置けるのは、ほんのひとときだけなのだと。

 成瀬は提案する。

「今から一緒にグレイト・エスケープを使って、ここから〝大脱走〟するの。それで、世界がキラキラ輝いている間に――金の海へ飛び込む。そうすれば、私たちは永遠にこっちの世界に還ってこずに済む。本当の〝大脱走〟のできあがりだよ」

 つまり、ふたりで屋上から飛び降り自殺をしようと言っているのだ、こいつは。

「私は、この世界に未練なんてない。もういいの、何もかも。こんな理不尽で、おかしくて、くだらない場所で生き続けても、いいことなんて何もないってわかったから」

 それは絶望を通り越した、諦念の境地だった。

「もうクスリで〝大脱走〟できる回数も限られてる。遅かれ早かれ、私たちは選ばなきゃいけないんだよ。このどうしようもない現実世界に残り続けるか、それともここを去るか」

 成瀬の言うとおりだ。

 マスターが死んで、LUXは閉店した。となれば、俺たちはもう新しいドラッグを手に入れることができない。いま持ち合わせているもので最後となってしまう。

 しかし俺は、いや俺たちは、グレイト・エスケープなしには生きられない身体になってしまった。今更それを断って、はたしてこの世界で生き続けられるのか。

「嫌だって言うなら、無理強いはしない。桐島くんの人生だもの、私が決めることじゃない。でも、私は行くよ。たとえひとりでもここから本当に〝大脱走〟してみせる」

 成瀬のその目を見れば、伊達や酔狂で言っているわけではないのが嫌というほど伝わった。とてもじゃないが生半可な覚悟には思えない。こいつは本気なのだ。

 ならば、俺は?

 成瀬を見送ってこの世界に残ったとして、俺はこれからの日々をどう生きる?

 グレイト・エスケープもなく、それどころか成瀬だっていない。この先もひとり、ただ同じことを繰り返して、傷ついて、失い続けるだけの毎日。

 そんな絶望だらけの日々に、はたして生きる価値なんてあるのだろうか?

 煙草をアッシュトレースに棄てて、代わりにポケットからグレイト・エスケープの入ったピルケースを取り出す。残り十五枚しかないそれを、しばらくの間じっと見つめた。

 ……やがて。

「わかった、俺も行くよ」

 一思いにそう心を決めた。不思議と恐怖はなかった。

「うん。一緒に行こう、桐島くん」 

 俺のその決断に、今まで張りつめていた成瀬の表情が少しだけ和らいだように見えた。

「でもおまえ、さっきバッドに落ちたばかりなのに大丈夫なのか?」

「そんなのもう六時間も前のことだよ。間隔は充分空いてるし、今は気持ちも落ち着いてる。それに桐島くんがいてくれるなら、今度はちゃんとトリップできそうな気がするの」

「何を根拠にそんなことを……」

「女の勘です」

 それ、使いどころ間違ってる気がするんだが。

 だが見たところ、今の成瀬はだいぶ平静な状態に思えた。顔色も悪くはないし、ドラッグも前回の使用から四半日が過ぎている。素人判断だが、おそらくは大丈夫だろう。

「……じゃあ、始めましょう。この世界からの、永遠の〝大脱走〟を」


        ∽


 決心が鈍らないように、ピルケースからお互いに一枚ずつグレイト・エスケープを取り出し、残りの全部を俺のライターで燃やした。これでもう後戻りはできない。

 俺たちは給水塔の上に登った。赤い夕日に染められた町並みが目の前に広がる。

 俺の生まれ育った町。俺たちが出会った町。

 こんなふうに広く見渡すのも、きっと今日が最初で最後だろう。

「今更だけどウチの学校、ふたりも自殺者が出ちゃったら明日の朝は大騒ぎになるね。先生たち、どう思うかな。駆け落ちだとか思われるかな」

「高校生で駆け落ちはないだろう、さすがに……イジメ疑惑とかで、学校中がかき回される可能性はあるかもしれないけどな。でもまぁ、どうでもいいことだ」

「うん、そうだね。どうでもいい」

 今からこの世界を去ろうしている俺たちが、残された後のことを気にしても仕方ない。

「ねぇ、桐島くん。クスリを使う前に、聞いてほしいことがあるんだけど」

「どうした」

「私ね、たぶん、きみのこと好きだよ」

 それは、突然の告白だった。

「……たぶんって何だ、たぶんって」

「だって、今まで誰も好きになったことないんだもん。はっきりしたことは言えないよ」

「そうか。でも奇遇だな、俺もたぶんおまえが好きだ」

「むぅ。たぶんって何よ、たぶんって」

「な? それ、今の俺の気持ちな。とりあえず嘘でもいいから断定してくれ、断定」

「嘘でこんな大事なこと言うわけないじゃん」

「嘘じゃないなら尚更断定してくれ」

「ああ言えばこう言う……はいはい、言い直しますよ。じゃあ、ちょっとこっち向いて」

 手首を掴まれ、成瀬に引っ張られるようなかたちで俺たちは向き合う。

 そして、それから数秒の間。

 俺の唇と成瀬の唇が、優しくそっと触れ合った。

「……好きです、桐島くん。きみと一緒にいられて幸せでした。今日だって私を探し出して、駆けつけてくれて嬉しかった。ありがとう」

 成瀬が真っ直ぐに俺を見つめて、言った。頬が赤く染まって見えるのは、きっと夕日のせいだけじゃないだろう。

 そのひたむきな想いに、今度は俺が応える。

「俺も、成瀬が好きだ。この場所でふたりきりになれる放課後が待ち遠しかった。このまえのデートだって、本当に楽しかった。こちらこそ、ありがとう」

 もっと違ったかたちで出会えていたなら、俺たちも何か変わっていたのかもしれないと思う。たとえば恋人同士になっていたり、高校生らしい青春を謳歌していたり。

 だが、そういった「たられば」は考えるだけ無意味だということも、俺はまたわかっていた。

 きっと俺たちは、この道のりだったから出会えたのだ。

 そして、この道のりだったから互いのことを好きになったのだ。

 これからふたりは悲しい結末を迎えるけれど、最後にせめてそれだけは間違いじゃないかったと、自分たちのことを肯定してやっていい気がした。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

「……うん」

 それぞれ、残り一枚になったグレイト・エスケープを手に取った。

 あともう少しで六限目が終わる。放課後になればグラウンドに学生が溢れ、給水塔の上にいると気づかれる確率も高くなってしまう。だから、早く終わらせないといけない。

 俺たちはグレイト・エスケープの剥離フィルムを剥がして、一度だけ深く呼吸をしたあと、それをそのまま舌上に載せた。

 最後の――そして、永遠の〝大脱走〟が始まった。

 解放感に包まれながら、いつものように世界が黄金色に輝いていく。金の粒子が宙に舞う。何度体験しても、この魔法にかけられたような瞬間がたまらない。

 五感が研ぎ澄まされ、自分が世界の一部になったような気にさえなった。

 目の前に広がる町並みがキラキラと煌めく。まさにそれは「金の海」と表現するに相応しい絶景。もしも天国というものが本当にあるのなら、それはこの景色のことだろうと思う。

 俺たちはこれから、この光の中に身を投げるのだ。

 ちっとも怖くはなかった。むしろ、多幸感で心の中が満たされていた。とうとう大嫌いだった現実に別れを告げ、この黄金の世界の一部になれる。それは初めてグレイト・エスケープを使った時からずっと望んでいたことでもあった。

「桐島くん、心の準備はいい?」

「俺は大丈夫だ。成瀬は?」

「私は、覚悟なんてとっくに決めてるよ」

「そうか。じゃあもう、思い残すことはないな?」

「もしあっても今更って感じ――あっ、そうだ」

 成瀬が思いついたように、自分の右手を俺の左手に絡めてきた。

「最後にちょっとだけ恋人同士みたいなことしていい? 好きな人とこうやって手を繋ぐの、実は結構憧れだったんだ」

「……意外と可愛い一面もあるんだな、おまえ」

「そりゃあ、乙女ですから」

 いつものような他愛ない会話。成瀬が発する声や仕草、表情のひとつひとつを、俺はずっと心の中で楽しんでいた。

 だが、こんなやり取りももうお終いだ。

「それじゃ、こうして手を繋いだまま一緒に飛びましょう」

「うへぇ。なんか恥ずかしくないか、それ」

「いいじゃない、最後なんだから! ……手、ずっと離さないでよね」

「……わかったよ」

 さぁ、いよいよだ。

 いよいよ、本当の〝大脱走〟を敢行する時がきた。黄金に輝く世界への一方通行の逃避行。俺たちはもう、現実に戻ることはない。

 互いに手を握ったまま、給水塔の上を歩いて行く。

 一歩、また一歩。

 本当に、恐怖はまったくなかった。むしろワクワクさえしていた。

 端が近づいてくる。あと数歩で給水塔のコンクリートが途切れてしまう。そこで俺たちは身を投げ出し、光の中へと落ちていく。

 これで終わる。傷つき、失うばかりだった日々が。理不尽で過酷だった世界が。ようやくこれで、すべてが終わる。


 ――はずだった。


 なのに、どうしてだろう、歩みが進まない。

 ふたりともあと一歩のところまできて、しかしそれ以上先に踏み出すことができなかった。

 言葉ひとつ交わさないまま、俺たちは立ち尽くす。

 なぜだ、こんなはずじゃない。

 俺の頭をよぎるのは、ただただ隣にいる成瀬のことばかり。成瀬の声を聴いて、成瀬の笑顔を見て。そうやってこれからもずっと一緒にいたいという、歯止めの効かない煩悩。

 ……もしかしたら俺は、まだ生きたいのかもしれない。大嫌いな現実世界に残ってまでも、俺はまだ、生きて成したいことがあるのかもしれない。

 ちら、と横に目をやる。成瀬は泣いていた。必死に声を殺し、嗚咽を上げて。

「ごめんなさい、桐島くん……ごめん」

 ぽろぽろ、ぽろぽろとその頬を伝って流れる涙。

 マスターの死を知った時でさえ流れなかったものが、今、堰を切ったように溢れだしていた。

「自分から提案したくせに勝手な奴だって、思われるかもしれないけど……私、やっぱり死ねない。まだ死にたくないよ。だって私たち、まだ何も始まってない。せっかくきみと両想いになれたのに、恋人らしいこと、まだ何もしてない……」

 言って、成瀬はその場に膝をついた。

「自分でも変だって思うよ。だって今、世界はこんなにも輝いてるのに。現実に戻っても、もうマスターはいないのに。グレイト・エスケープだってもうないのに。でも、それでも私は、桐島くんと……きみと一緒にいたい。きみと一緒に生きたいって、思っちゃう……」

「成瀬……」

 震えるその小さな肩をそっと抱きかかえる。

 今、俺たちはきっと同じ気持ちだった。

 互いの存在が、現実世界への未練。愛だとか、恋だとか、そんなJ‐POPの歌詞に出てくるようなものに、ふたりともいつの間にか本気で心を奪われていた。


 ドラッグによってかけられた、黄金の世界へ旅立つための〝大脱走〟の魔法は。

 ただ好きな相手と一緒にいたいという、どうしようもない煩悩に打ち消されてしまった。


        ∽


 そして、魔法が解ける。黄金の世界は徐々に本来の色を取り戻し、今度は燃えるような夕焼けの赤が俺たちを包んだ。

 感覚に残るのは、ドラッグがもたらした高揚感の輪郭だけ。これでもう俺たちは二度とあのきらびやかな世界に〝大脱走〟できなくなってしまった。

 後悔がないといえば、もちろん嘘になる。だがそれと同時にあの時、成瀬と生きる未来を選んだ自分自身が少し誇らしくもあった。

 なし崩しのようなかたちになってしまったが、どうやらマスターとの約束も果たせそうだ。これがあの人へのせめてもの手向けになればいいなと思う。 

 帰路につく学生や運動部の連中がグラウンドに増え始めた。俺たちは給水塔を下りて、屋上で寄り添いながら、フェンス越しに赤く染まった景色を見渡す。

 ひとつ、気がついたことがあった。

「ねぇ、桐島くん。私、思ったんだけど……この世界って、こんなに綺麗だったんだね」

 それは、この世界が美しいということ。

 別に何かが変わったわけじゃない。ただ、そこに大切な人が――成瀬がいるというだけで、今までくだらないと吐き捨てていたこの世界を、少し肯定できそうな自分がいた。

「たぶん、桐島くんがいるからかな、そう思えるようになったのは」

「……俺も同じこと考えてた、今」

 言いながら、互いに恥ずかしいことを言っているなと自覚する。だが、別にいい。どんなにクサい台詞も、歯の浮くような言葉も、今だけは素直に伝え合おうと思った。

 物事は見方ひとつで、あっという間にその様相を変えてしまう。

「私ね、もしかしたら今まで、何もかも世界のせいにしてばかりだったんじゃないかって思うんだ。たとえばずっとひとりぼっちなこととか、毎日がつまらないこととか。思い返してみればたくさんの理不尽や不都合を、全部この世界のせいだって決めつけてきた気がする」

 言って、成瀬は俺を真っ直ぐ見据えた。

「でも、違うんだよね。ずっとひとりぼっちなのも、毎日がつまらないのも、本当は誰でもなく私自身のせい。自分から素敵なことを探そうともせず、いつまでも受け身なままで、クスリで現実から目を背けて。この世界を悪者にして、ずっとそんな自分を誤魔化してた。だってそうすれば、ただ世界を憎むだけでいいから」

 成瀬の言葉が胸に突き刺さる。俺だって同じだと思ったから。

 わかりやすい悪さえ作ってしまえば、そこで思考停止できる。頑張らないための言い訳に、向き合わないための理由に、認めないための原因にできる。

 そうして成長を放棄して、何もかも見限ったつもりになって諦めて。

「マスターが死んだのだって、この世界のせいじゃない。そりゃ、すっごく悲しいけど。この喪失感は多分、ずっと消えないけど。でも、原因はマスター自身のせいだよ。あの人がドラッグにのめり込みすぎたせい。それ以上でもそれ以下でもない。そんな当たり前のことでも、私は信じたくなくて納得したくなくて、世界に罪をなすりつけてたんだ」

 成瀬の口からそんな言葉が出たことに俺は驚いていた。きっと誰よりもマスターの死を認めたくないだろうに、彼の非を否定したいだろうに。

「マスターもね、きっと切羽詰まってたんだと思う。前に言ってたもん、新しいクスリを開発する時は、いつもギリギリまで自分を追い込んで調整するって。プロとして、楽しみにしてくれてるお客さんを待たせるわけにはいかないって。ほんとバカだよ……」

 それは、大切な人へ向けてだからこそ言える罵倒。

「逃げてばっかじゃダメなんだって、思うようになった。桐島くんと出会って、桐島くんに恋をしたから、私は変われた。今は、大嫌いだったこの世界を好きになれそう」

 そう言って微笑む成瀬は、とても綺麗だった。

「……おまえ、強くなったんだな」

「そうかな? だとしたら、それは桐島くんのおかげだよ」

「別に俺はそんな大した人間じゃない」

 俺の言葉に、成瀬は「言うと思った」と小さく吹き出した。

「私がどれだけ桐島くんに救われてるか、きみにはきっとわからないだろうなぁ」

 冗談っぽく「きみが私に救われてるのを、私がわからないのと同じようにね」と付け足して。まったくとんだ自意識過剰女だと思ったが、事実そうなのだから仕方ない。

 自分が知らない間に誰かを救っていたり、誰かに救われていたり。傷つけていたり、泣かせていたり、背中を押していたり。

 そんなもんなんだろう、誰かと生きるということは。

「ねぇ桐島くん、頑張ろう。一緒にこの世界を好きになろうよ。つらいことを楽しいことに、悲しいことを嬉しいことに、ひとつでも多く変えていこう。そんなふうに思える自分になろう。ひとりなら難しくても、ふたりなら、きっと大丈夫だから」

 言って、成瀬は俺に手を差し出す。

 真っ直ぐな瞳と真っ直ぐな想い。

 これから先、過酷なことがたくさんあるだろう。ドラッグの依存症とも戦わなければならないし、俺たちを取り巻く環境だって何ひとつ好転したわけじゃない。

 けれど。

「おまえ、よくそんなにクサい台詞を連発できるな。まだトリップしてるんじゃないか?」

 茶化しながら、俺は成瀬の強く手を握り返した。

 大切なのは変えていくこと。変えるためのアクションを起こすこと。

 現状を嘆いていても仕方がない。人は配られたカードでしか勝負できない。時にはいいカードが来ないことだってもちろんある。

 でもそれなら、また新たなカードを引けばいいのだ。エースが出るまで何度も引き続ければいいのだ。肝要なのは、その意思を持てるかどうか。諦めずに手を伸ばせるかどうか。

 成瀬の言うとおり、ふたりならきっと大丈夫だろう。

「じゃあ、何から始めるかを決めようよ。私たちがこの世界を好きになるための、第一歩を。私はね~……クラスの子たちと、もっとたくさん話すようにする! 桐島くんは?」

「俺か? うーん、俺はそうだな……」

 少し考えて、しかし答えはすぐに思い浮かんだ。

「クソ親父の晩酌にでも付き合ってやるとするかな」

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