Ⅱ. Gain and Lose
悪い夢を見て目が覚めた。多分、あのドラッグのせいだ。
あんな煌びやかな世界を見せられたあとで、いきなり引き戻された現実。つまらなくて、くだらなくて、居心地の悪い、いつもの日常。
たった一度でも大きな快楽を知ってしまえば、人はなかなか元には戻れない。代わりに煙草を何本吸ったところでこの身体の疼きを満たすには到底足りなくて、今の俺は、確実にあの魔法のクスリを欲していた。
時刻を確認する。まだ夜中の三時をまわったところだった。こんな中途半端な時間に起きたって仕方がない。軽く一服したあとコップに一杯水でも飲んだらもう一眠りしようと思った。
一階に下りると、居間で親父が大きなイビキをかいて寝ていた。もう十月だというのに布団も被らず自分の腕を枕にして、枕元にはアルコールの空き缶が四本。多い寝酒だった。
母さんが出て行ってからの親父は、もうずっとこんな調子だ。
離婚の直接的な原因はよく知らない。夫婦の間でしかわかり得ないことだろう。ただ、親父が悪いということだけは明確だった。
今から一年ほど前、離婚が決まるまでの母さんは毎日ずっと泣いていた。親父は酒癖が悪く、酔っ払うと母さんに罵詈雑言を浴びせたり、手を出したりもしていた。
ある日、俺が母さんをかばって親父に蹴り飛ばされたことがあった。脇腹を強く蹴られた俺は痛みのあまり、しばらくその場でのたうちまわった。その時の母さんの表情は今でも覚えている。憤怒と悔恨と心配が入り混じった、あの表情。
その一件を機に、母さんの鬱憤がとうとう爆発した。
親父と母さんは同じ家に住んでいても赤の他人のように会話をしなくなった。俺も学校が終わったあとは夜遅くまでゲーセンやファミレスで時間を潰すようになり、家にはただ寝に帰るだけの生活に。煙草を吸い始めたのも、ちょうどその頃だった。
それから間もなくしてふたりの離婚が成立し、母さんは家を出て行った。
俺の親権は多少揉めたらしいが、十五歳以上であれば本人がどちらの親についていくか決められるとのことだったので、俺はこの世で一番軽蔑し、一番大嫌いな親父と暮すほうを選んだ。ようやく苦しみから解放される母さんの負担になりたくなかったのだ。
離婚してからも俺は親父とろくに口を利いていない。晩飯は自分のぶんだけ出来合いのものを買ってきたり、外で食べてきたりする。母さんとの話し合いで親父から俺にいくらかの金が入ることになっているらしく、今のところ小遣いには不自由していなかった。
台所の換気扇の下で煙草を吸いながら、ふと思い立って、俺はスマホでグレイト・エスケープについて検索をかけてみた。昨日は成瀬に言われるがまま使ってみたが、どんな成分や作用のドラッグなのか、まったく知識がなかったから。
しかし、結果はほとんどヒットしなかった。どう調べてもイギリスのオルタナバンドのアルバムについてばかり出てきて、ドラッグに関する情報がなかなか見当たらない。
マイナーな薬なのか、それとも別の名称があるのか……?
そういえば成瀬はどうやってあれを手に入れているんだろう。テレビでよく見聞きする麻薬のイメージ通り、クラブや夜の歓楽街でヤバい売人から買ったりしているんだろうか。
……気づけば、俺はずっとあのドラッグのことを考えていた。
∽
「桐島くんってさー、彼女いるの?」
「いらない」
「や、その『いる』じゃなくてさ……」
次の日の放課後も俺は屋上に来ていた。他に特に行くところなんかなかったし、煙草を吸うにはちょうどいいところだし――というのは建前で、本当は成瀬に会うためだった。
正確には、成瀬にまたあのドラッグをもらえるかもしれないと期待しているから、か。
「ふーん、じゃあやっぱりいないんだ」
「やっぱりって何だ、やっぱりって。そもそもおまえの言う『彼女』の定義とは?」
「あー、そんなこと言っちゃう時点でお察しって感じ……」
成瀬は哀れむような視線をこちらに寄越した。まったく失礼な奴だ。
「大体、なんでそんなこと訊かれにゃならん」
「だーって、もし彼女いるのに私と会ってたら面倒なことになりそうだし?」
「……大丈夫。俺の彼女はこいつだけだ」
言って、俺は短くなった恋人(煙草)をアッシュトレースに棄てた。
「うわぁ、きみって付き合って五分でヤリ棄てしちゃうような男だったんだ……」
「おいこら人聞きの悪いことを言うな」
まぁここには俺たち以外誰もいないので、人聞きも何もないのだが。
「そういう成瀬はどうなんだ、彼氏」
「いるわけないでしょう。こんな女、誰も付き合いたいと思わないって」
誰もってことはないだろう、別に……。
俺は心の中でそう思ったが、口に出すと勘違いされそうなので言わないでおいた。
「さぁ! しょうもない話はやめて、今日も一発キメちゃいますかぁ!」
スカートのポケットから颯爽と例のピルケースを取り出して、成瀬が言った。〝大脱走〟を前に、目が超イキイキしている。
うーん……やっぱりこういう女、嫌かもしれない……。
「そういえば桐島くん、今日はどうする?」
今日も一緒にドラッグ使う? のニュアンスで成瀬が訊いてくる。密かに期待していた言葉に、俺の心臓がドキッと飛び跳ねた。
「そりゃ、使っていいなら使うけど」
はやる気持ちを抑えながら、努めて平然さを装って返す。
「あらら。すっかりハマっちゃったみたいねぇ」
「まぁ、おかげさまで。でもさすがに今回から金は払うわ」
「えー、そんなの別にいいのに」
「いいんだよ。もらってばっかは悪いし。ひとついくら?」
「……じゃあ、一〇〇円」
「ほいよ」
俺は財布から一〇〇円玉を取り出して成瀬に手渡し、シールを一枚受け取った。
ドラッグの相場には明るくないので、それが正当な対価なのかはわからなかったが、成瀬が一〇〇円でいいと言ってくれた以上、とやかく突っ込むのは無粋というものだろう。
「そういえば気になってたんだが、これ、どこで手に入れてるんだ?」
「どこって、お店だよ。駅からちょっと歩いたところにあるの」
どうやらクラブや夜の歓楽街ではないらしい。というか、こんなものを売っている店なんてあるのか。世の中、物騒なもんだ。
「マイナーな薬なのか? ググってもほとんどヒットしなかったんだが」
「へぇ、ググったんだ。桐島くんってばすっかりジャンキー!」
ハマらせた張本人が何を言うか。
「まぁ多分調べてもあんまり見つからないと思うよ。これ、マスターのオリジナルらしいし」
「マスターって、そのお店の?」
「そそ、キュートでお茶目な四十代♂だよん。ちなみに……現在恋人募集中です!」
「いや、別にいいから、溜めなくて。全然知りたくなかったから、そんな情報」
「ちなみにちなみに……趣味は料理と裁縫だそうです!」
「もーええっちゅうねんっ」
関西人でもないのに思わず関西弁でツッコんでしまう。我ながらかなり胡散臭かった。
「あ、そうだ。そこまで気に入ったんだったらさ、桐島くんも一緒に買いに行く? 私、日曜にでもそのお店行こうと思ってたんだけど」
「いいのか?」
俺にしてみれば願ってもないことだった。金を払うとはいえ、このまま毎回成瀬に譲ってもらうより、自分専用のものを持てたほうが気持ち的にもずっと楽だ。
「もちろん! よし、じゃあ今週の日曜はふたりでデート! 決まりねっ」
言って、成瀬が冗談っぽく笑った。十代の男女がふたりして合法ドラッグを買いに行くって、これまた超不健全なデートだなと俺は思った。
このあと俺たちは、またあの黄金色に輝く世界へ〝大脱走〟した。
∽
その週の日曜日、午前十時半、駅構内の喫煙所にて。
俺は煙草をふかしながらひとりスマホのゲームで時間を潰していた。待ち合わせは十一時に駅前広場なので少し早く着いてしまったが、遅れるよりはいい。
制服を着ている時はさすがに喫煙所になんて立ち寄らないが、私服だと意外とバレない(あるいは、バレていたとしても誰にも突っ込まれない)ものだ。単に俺が老けて見えるだけなのかもしれないので、一概にはそう言えないが。
待っている時間があまりに手持ち無沙汰だったため、もう三本も吸い終えてしまった。今から四本目に突入する。我ながらとんだヘビースモーカー高校生だった。
四本目に火を点けてすぐ、成瀬からメールが届いた。文面には「外」の一文字だけ。色気も何もないばかりか意味まで不明だった。
とりあえず、言われたとおり外に出てみるかと顔を上げると、喫煙所の全面ガラスの向こうで成瀬がこちらに向けて手を振っていた。
∽
煙草を捨て、喫煙所を出て成瀬のもとへ。
「ごめんね、待ったー?」
「いや別に」
「ちょ、そこは『いま来たとこ』って答えるもんでしょう! デート的な意味で!」
「おまえは俺に何を求めているんだ……」
そもそもまだ待ち合わせの十一時になっていないので、待ったも何もないと思う。
「つうか、よく俺がここにいるってわかったな」
「桐島くんのことだからきっと私とのデートが楽しみで早く着きすぎて、喫煙スペースか何処かで適当に時間潰してるだろうなと思って」
「見事な楽観的推測だこと……」
「それで? きみは私の服装を見て何か思うことはないのかね?」
言われて、俺は成瀬の全身を上から下まで見まわした。
私服姿を見るのは初めてだ。秋物のリネンブラウスにデニム。シンプルながらお洒落にまとめている印象。肩まである髪は高めにアップにされていて、うなじが綺麗だと思った。
「……まぁ悪くはないな」
「それだけ!? もっとこう『可愛いね』とか『ドキドキするよ』とか甘い言葉はないの!?」
「だから、おまえは俺に何を求めているんだと……」
そういうのは未来の彼氏にでも言ってもらえ。
「もういいよ、桐島くんに期待した私が馬鹿でした。さっさと行こ、お店」
「なんでちょっと投げやりなんだよ、おまえ」
∽
「ここだよー」
成瀬に連れられたのは駅から歩いて十五分、繁華街を少し外れた通りにある小さな店だった。 日曜なので繁華街は人でごった返していたが、この通りはそうでもない。
店の名前はリラクゼーションショップ「LUX」。一見するとどこにでもあるような雑貨屋で、とてもじゃないが合法ドラッグを取り扱っているようには見えなかった。
さっそく中に入ると、店内にはアロマか何かのいい匂いが充満していた。備え付けられたスピーカーからは、BGMに耳障りのいいヒーリング・ミュージックが流れている。
「いらっしゃい」
人のよさそうなおじさんが俺たちを迎えてくれた。見たところ、推定年齢は四十歳くらい。このまえ成瀬が話していたプロフィールと当てはまる。多分この人がマスターなんだろう。
彼は成瀬の姿を認めると、いきなり両手をぱんっと叩いて身体をくねらせ、
「あらぁん、ナルちゃんじゃない! よくきたわねぇ、元気にしてた?」
なぜかオカマ口調で話し出した。
「あはは、元気元気。マスターは? 最近寒くなってきたけど風邪引いてない?」
「ありがとう! この通り、ばっちり元気よぉ~!」
今度は両手のひらを突き出し、それを小刻みに振り始めた。
……なんだ、この軟体動物みたいな動作は。
「あら? そちらの殿方はもしかして……ナルちゃんのコ・レ?」
マスターは親指を立てて、からかうような口調で言った。
殿方って。
殿方って……。
「あーうん、まぁそんなところかな」
「んまッ! よかったじゃないのぉ~! 嗚呼、ついにナルちゃんにも春が……」
「あ、自分ただのクラスメイトっす。成瀬とは別にそんなんじゃないっす」
話が間違った方向に進みそうなので訂正しておく。
「ええッ! 彼、こう言ってるけど、ホントはどっちなのナルちゃん!?」
「この人、照れ屋だから……」
「おまえも呼吸するみたいに嘘をつくなよ」
∽
リラクゼーションショップ「LUX」は、表向きはパフューム、お香、入浴剤、アロマキャンドルなど現代社会のストレスを緩和するための様々なリラックス商品を取り扱っている店ということになっているが、裏を返せばマスターの調合したオリジナルモノを筆頭に合法ドラッグを数多く販売しており、その数はなんと五十種類以上もあるそうだ。
新作の追加ペースも速く、インターネットのクチコミではむしろそちらのほうが有名らしい。成瀬もネットでこの店を見つけたのだそうだ。恐るべし、現代っ子。
「初めてナルちゃんがウチに来た時はびっくりしたわぁ。だって、目を見てわかったものネ。まだ若いのに、世の中がつまらなくて仕方ないって目をしてた」
「うんうん、あの頃は私も若かった……」
「といっても、ほんの半年前のことだけどネ」
「むちゃくちゃ最近じゃねーか」
マスターにグレイト・エスケープを注文した俺たちだったが、今は客がいないということもあり、そのままカウンターに腰掛けていろいろと話を聞かせてもらっていた。
「そういえばナルちゃん、初めてウチに来た時にアタシに言った第一声覚えてる?」
「な、なんだっけ? 記憶にないな~。ところで今日全然お客さん来ないね?」
「えー、アタシは覚えてるわよぉ。確か、『この店で一番トべるドラッグをください。お金ならいくらでも払います』だったわネ」
「うわぁ、高校生のセリフじゃないな、それ」
「う、うるさいなぁ。だから話逸らしたのに……あの頃は本当に病んでたんだってば」
プチ黒歴史を晒され、ばつが悪そうな成瀬だった。
「さすがにアタシもこの子はヤバいと思って、じっくりと腰を据えてカウンセリングしたわ。結構時間をかけて、いろんな話をしたわよネ。そうして選んであげたのが、このグレイト・エスケープだったってわけ」
ピルケースをカウンターに並べながら、懐かしむようにマスターが言う。その穏やかな表情を眺めているだけで、彼と成瀬との絆がなんとなく推察できた。
マスターによると、この店では初来店の客に対して、その客に合ったドラッグの選定や説明のためにカウンセリングを行っているらしい。一応、あとで俺にもあるそうだ。
「……まッ、それでここまで明るい子になったんだから、やっぱりアタシの作るドラッグは最高ってことネ! おっほっほっほ♪」
自画自賛してマスターが笑う。だが、そのドラッグを体験した俺としては同意せざるを得ない。あれだけの薬がオリジナルというのだから恐れ入るばかりだ。
薬だけでなく、マスターの人となりも悪くない。合法ドラッグなんて人聞きの悪いものを売っているようには思えないくらい、ユニークなオカ……おじさんだった。
「そうだ、先にお代頂いとこうかしら? 一セット十二枚入り、三九八〇円よ。ふたりともニセットずつ買うってことだから……ひとりあたり、七九六〇円ネ」
提示された代金を支払いながら、やっぱりドラッグって意外と高いんだなと俺は思った。
単純計算で一枚あたり約三三〇円。一日一枚使うとして、一ヶ月なら一万円弱。俺はだいたい煙草をニ日に一箱のペースで消化するので、それよりもかかる計算になる。
短い間とはいえ、昨日まで一枚一〇〇円で譲ってくれていた成瀬がちょっと天使に思えた。
「じゃあこれからきりりんにカウンセリングをするから、ナルちゃんは席を外して頂戴」
「えーなんでー? ここで聞いててもいいんじゃないの?」
「ちょっと待て、きりりんについて詳しく」
「ダーメ、カウンセリングは一対一が基本よ。お客さんのプライバシーは守らなきゃネ」
「うーん……なら、しょうがないかぁ」
「きりりんについて詳しく!」
∽
カウンターに残された俺とマスターで、マンツーマンのカウンセリングが始まった。
成瀬は店内のリラックスグッズをいろいろ見てまわっている。さっき、「私、アロマキャンドルに目覚めてみようかなぁ」とか言っていた。好きにすればいいと思う。
「さて……」
マスターが俺に視線を向けた。
「まずはじめに、約束事から話すわネ。このグレイト・エスケープ、使用するのは基本的に一日一回を目安にして頂戴。特に短時間での連続使用はNGよ」
「そんなに強い薬なんですか?」
「ドラッグ自体は、実は大したことないのよ。用量・用法を守ってさえいれば健康への影響も少ないし、副作用もほとんどない。でも、やっぱりドラッグはドラッグだから。どんなものでもオーバードーズ――過剰摂取は禁物よ。死んじゃう人もいるくらいだからネ」
「……わかりました」
「うん、いい返事。そうそう、あとはバッドトリップに気をつけて」
「バッドトリップ……?」
「いわゆる悪酔いってやつネ。心身の調子が悪い時に使うとそうなるわ。バッドに落ちると自分ではコントロールできないほどの恐怖にとらわれたり、精神的にものすごく不安定になるの。こうなってしまったら気持ちが落ち着くまで静かなところで安静にするしかないわ」
「オーバードーズにバッドトリップ……なんか、聞いてるとすごく怖そうなんですけど」
「おほほ。まぁ注意して使えば大丈夫よ♪」
言って、マスターは俺の不安を払拭するように笑顔を作った。
「じゃあ次に、ドラッグの説明に移るわネ。成分はオリジナルの関係上、秘密にさせてほしいのだけど、ちゃんと合法ドラッグの範疇に収まるように調合してあるから、そこは安心して。形状はペーパータイプになるんだけど、使い方はもう……?」
「あ、はい。何度か成瀬に分けてもらっているので、把握しています」
「それならオッケーよ。まぁフィルムを剥がして舌の上に載せるだけだしネ。簡単簡単」
簡単。そう、本当に簡単なのだ。
一見してみるとただの切手大の大きさのシールなのに、ただ舌上に載せただけでたちまち絶大な快楽を生み出す。こんなすごいものがあることを俺は今まで知らなかった。
「ちなみにグレイト・エスケープの依存度は、使用者の現実逃避願望に依拠するわ。その名のとおり、これはそういう人たちの欲求を満たすために作ったドラッグだから」
「現実逃避願望……」
つまり、使う側がこの現実世界を嫌っているほど、ここではない何処かへの憧憬が強いほど、ドラッグに依存しやすい傾向にあるということか。
俺や成瀬が夢中になるのも納得だった。
「……とりあえず、カウンセリングはこのくらいにしとこうかしら」
「え、もう終わりなんですか?」
あまりに早すぎて拍子抜けしてしまう。まだ始まって五分くらいしか経っていなかった。
「そうネ。普通のお客さんはまずドラッグ選びから始まるからカウンセリングに時間がかかるけど、アナタの場合、最初から買うドラッグが決まっていたから」
なるほど、確かにそれは一理ある。
「それで、ここからは別件なんだけど。きりりん、アタシのお願い聞いてくれないかしら?」
「そのまえにその呼び方どうにかなりませんか」
∽
成瀬はアロマキャンドルに飽きたのだろう、今度は試飲ができるハーブティーの飲み比べに興じていた。目覚める云々の話はもういいのか。いくらなんでも飽きっぽすぎやしないか。
こっちはこっちで、マスターが何やら神妙な面持ち。何の話をする気だろう……そういえば、前に成瀬がこの店のマスターは現在恋人募集中とか言っていた気がする。仕草や言動もソッチっぽいし、もしかして俺相手に愛の告白とか!?
しかし、もちろんそんなわけはなく、
「お願いっていうのはネ、きりりん……ずばり、ナルちゃんのことなのよ」
「成瀬の?」
俺はもうきりりんの訂正を諦めた。
「ええ。こんなこと、売人のアタシがお願いする資格なんてないかもしれないけど……どうか、あの子をドラッグ依存から助けてあげてほしいの」
「……どういうことですか?」
ドラッグを売っている人間が、客のドラッグ依存を解消させてほしい、と。一見矛盾しているその言動に俺は首を傾げざるを得なかった。
「それは、話せば長くなるんだけど――」
言って、マスターはとつとつと語り始める。
「アタシはネ、一般社会とは縁遠いヤクの売人よ。今はこんなところに店を構えて落ち着いているけど、思い返せばとても日向を歩くような生き方ができる人間じゃない。でもナルちゃんと出会って、ちょっと今までの人生を後悔するようになったの。もう少し真っ当な人生を選べばよかったって。そうしたらナルちゃんにもっと堂々と会えるのにって。なんていうか、ナルちゃんは……娘、みたいで。アタシは結婚もしてないし、子どもだっていないけど。でも、もし娘を持てるならこんな子がいいなって、ずっと思ってる」
そう話すマスターの表情は、どこか優しげで。
「ナルちゃんも、アタシのことをよく慕ってくれてる。嬉しいわ。本当に嬉しい。だけど同時に、こんなに愛しい娘にドラッグを売りつけている自分がどうしようもなく嫌になるの。なのに、アタシはそれをやめられない。やめてしまえば、ナルちゃんに嫌われるかもしれないから。それにあの子がアタシに会いに来てくれる理由だってなくなるわ。……酷い人間よネ、アタシって。結局、自分のことばかり考えてる」
自嘲するような笑みを浮かべて、マスターが溜め息をついた。
「だから、俺に……?」
俺の問いかけにマスターは頷く。
「別に、今すぐじゃなくてもいいわ。いつか、近い将来でいい。もしきりりんがこの先もナルちゃんのそばにいてくれるなら、あの子をドラッグから卒業させてあげてほしいの。それがあの子のためだから。そうなったら、きっとアタシも諦めがつくと思うから」
「そばにって……別に俺と成瀬はそんなんじゃ」
「そうかしら? アタシはアナタたちのこと、とぉ~ってもお似合いだと思うけどネ」
冷やかしを受け流しつつ、俺は相変わらず店内を物色している成瀬のほうへ目を向けた。ハーブティーの飲み比べにも飽きたらしく、今度はパフュームの調合に精を出している。適当に香水を混ぜ合わせていい匂いを作る的な遊びだろうか。普通に見てまわれないのか。
「ねぇ、きりりん、お願いできないかしら」
マスターがダメ押しで頭を下げる。ここで他人面をしてNOと言えるほど、俺は図太い人間でもなく。
「……まぁ、善処はします」
「ありがとう。そして、ごめんなさいネ。アナタにまでドラッグを売っておいて、虫がいいにも程があるって自分でもわかってる」
「本当ですよ。俺自身、このドラッグから離れられるかさえわからないのに」
実を言うと、絶対に離れられるわけがないと思っている。
なぜなら俺はもう知ってしまったから。金の粒子が宙に舞う、あの美しい黄金の世界を。そして、そこへ〝大脱走〟するための鍵があることを。
これから俺は、どんどん深みに嵌っていくだろう。何度だってこのドラッグを使うだろう。そんな中でマスターの願いを聞き入れるのは到底無理なことのように思えた。
しかし、まるでそんな俺の心を見透かしたように、マスターがウインクしながら言った。
「でもね、きりりん。この世界はこの世界で、意外と悪くはないものよ」
……やっぱり、きりりんは嫌だなと思った。
∽
俺がカウンセリングを終えた頃、成瀬が今まで見ていたアロマキャンドルとハーブティーとパフュームをカゴに入れてこぞって大人買いしようとしていたので全力で止めた。どうやら飽きたわけではなかったらしい。むしろ、もれなく全部気に入っていたようだ。
荷物になるし金の無駄。俺がそう言うと、成瀬は頬をふくらませて拗ねた。
「桐島くんはわかってない! こういうのは思い立った時に買っちゃわないと冷めるんだよ!」
「いや、冷めるってわかってるなら買うなよ……」
マスターも大盤振る舞いの優良客を逃して少し残念そうだった。
∽
帰り際、「近いうちにまた来ます」と言い残して、俺たちはLUXをあとにした。
今日買ったグレイト・エスケープはニセット、一ヶ月弱分だ。だから、遠からずまた来ることになるだろう。次はもっと買い溜めしてもいいかもしれない。煙草もそうだが、俺は消耗品のストックに余裕がないと気持ち悪くなる質なので。
さて、本日の目的はこれで果たせたが、成瀬はまだこのデートもどきを続行させる気らしい。昼をまわっていたので、俺たちは手近な店でランチを食べた。
そのあとも繁華街を歩いてウインドウ・ショッピング、ゲーセンでUFOキャッチャーや音ゲーなど、成瀬に連れまわされて本物のデートっぽいことをやっていく。
終始楽しそうにしていた成瀬だったが、実を言うと俺も俺で楽しくないことはなかった。女の子とふたりで出かけること自体、人生初の経験だ。楽しくないわけがない。それがたとえ恋人ではなくてもだ。
成瀬も見てくれは悪くない。いや、むしろ美人なほうだろう。その上、今はデートのためのお洒落仕様だ。さっきからすれ違う男たちの視線をかっさらっているのがわかる。
俺はというとその隣を歩いているわけで、気分は軽く彼氏づらである。仮初の優越感でも浸ってみると気持ちがいいものだ。後々、多分虚しさに打ちひしがれることになるが。
「ねぇ、桐島くん……そろそろ、どこかふたりきりになれるところに行かない?」
三時過ぎになって、成瀬が突然耳を疑うようなことを言い出した。
「私からこんなこと言うの、恥ずかしいんだけどね……もう我慢できないの……」
潤んだ目で息を荒げ、上目遣いに俺を見つめてくる。
な、何だこれは。いったい何がどうなっているんだ。どこかふたりきりになれる場所ってアレだよな、ラブホテルのことだよな? もしかしなくとも俺、いま誘われてるよな?
マジかー。やべーわこの状況、マジでやべーわー。まだ付き合ってすらいないのに、いろんな段階すっ飛ばして行くとこまで行っちゃうのかー。やべー。まいったなーこれはー。
……テンパりすぎて若干ミ○ワが入ってしまった。
「い、いや成瀬、あのな? おまえの気持ちはすごく嬉しいし、俺もぶっちゃけ満更じゃない。ただ、やっぱりこういうのはステップってものがあるだろ?」
「ステップなんて関係ないよ。私、今すぐしたい……」
悩殺である。俺の理性が音を立てて崩壊していくのがわかる。成瀬可愛すぎるやばい。心臓がバクバク鳴って止まらん。うおおおお。
ええい、もうどうにでもなぁれ!
「わかったよ、成瀬。女のおまえにそこまで言わせちゃ男が廃る。ちょっと待ってろ、今グーグル・マップで近くのホテル調べるから。あと俺、初めてだけど下手だったらごめんな」
「え? なに勘違いしてるの桐島くん、私、グレイト・エスケープ使いたいからどこか人気のないところに行こうって言っただけなんだけど」
絶句。
「あれぇ? ひょっとしてきみ、別のこと想像してた?」
ニヤニヤした笑みを浮かべる成瀬。わざとだ。こいつ、絶対わざとだ!
「えーと、なんだっけ? 俺もぶっちゃけ満更じゃない? へぇ、満更じゃないんだ~」
「おいやめろ」
「初めてだけど下手だったらごめんな? へぇ、初めてなんだ~」
「やめてください……どうか……ううっ……」
その場にうなだれ、形而上の涙を流す俺。恥ずかしすぎて死にたくなった。今すぐ数分前に戻って自分自身をぶん殴りたい。あとついでに目の前の悪女を黙らせたい。
「まぁでも、満更じゃないっていうのはちょっと嬉しかったけどね」
そう言って、成瀬は小さくはにかんだ。
……まったく悪女だ、こいつは。
∽
かくいう俺も、さっき購入したばかりのグレイト・エスケープを使いたくて仕方がなかった。 あと、ついでに煙草も吸いたかった。昼前から一度も吸っていない。シャブもヤニも嗜む高校生って、今更ながら酷いものだと思うが。
俺たちは駅からバスに乗り、山手へ登ったところにある高台の公園へと移動した。ここなら誰にも邪魔されることはないし、見晴らしもいい。〝大脱走〟するには持ってこいの場所だ。
ベンチに座って肩を並べながら、さっきまでいた市街地を見渡す。
「なぁ、悪いけど一服してもいいか」
「あ、もちろん。どうぞどうぞー」
許可が降りたので、さっそく俺は煙草に火を点けた。そして、そのまま吸引。今日もアッシュトレースを携帯しているので、捨てる時も困らない。
「ねぇ、それって美味しいから吸ってるの?」
「うーん。というより、もうほとんど習慣みたいになってるからなぁ」
「ふうん……ね、ちょっと吸ってみてもいい?」
「ほれ」
持っていた煙草を手渡す。成瀬はそれを見様見真似で口にくわえた。
「こう?」
「あー、そうじゃなくて。もっと肺に入れる感覚で吸うんだ」
「肺に入れるって、どうやって……ごほっごほっ!」
言いながら、成瀬が盛大にむせた。初心者にありがちな失敗だ。かといって口頭でやり方を説明するのは難しい。実際、俺も何度もむせたし。
「むー、なんかこれ全然よくないー……クスリのほうが絶対いいよ」
「最初は誰でもそうなるって」
返された煙草を受け取り、もう一度口へ。バリバリの間接キスだと気づいたが、成瀬が何も言わないので俺も黙っておくことにした。
「そういえば桐島くんが煙草吸い始めたのって、毎日イライラしてたからだったよね?」
「ああ」
「なんでイライラしてたのか、聞いちゃダメ?」
「別にダメってことはないが……面白い話じゃないぞ」
そう前置いて、俺は自分の家庭事情をかいつまんで成瀬に話した。
両親が離婚したこと。家にはほとんど寝に帰るだけだった一年前のこと。親父の酒癖が悪いこと。その親父と今でもろくに口を利かずに暮らしていること。
あまり話すのが上手くない俺だったが、それでも成瀬はちゃんと聞いてくれていた。
「毎日が本当につまらなくて、煙草だけが心の拠り所だった」
それは大袈裟な言葉じゃない。煙草でストレスを緩和させる術を覚えていなければ、きっと俺はグレていたか自殺でもしていただろう。俺にとってこの毎日は、この世界は、所詮その程度の価値しか見出せないものだった。
「そっか……じゃあ桐島くんにとっての煙草は、私にとってのグレイト・エスケープみたいなものだったんだ」
初めて屋上で会った時、成瀬がこの世界を「くだらない」と吐き捨てたのを思い出す。
「私もね、クスリを使うまで……LUXのマスターに出会うまで、生きていても楽しいことなんて何もなかった。家でも学校でもずーっとひとりだったし。私、親いないんだ。いや、いるにはいるんだけど、仕事が忙しいみたいで全然家に帰ってこないの。昔からずっと」
だから親の愛情なんて感じたこともない、と成瀬が言う。その横顔に少し同情を覚えた。こいつは俺とはまた違った形で、「両親」という存在に苦しめられていたのだ。
「でも親が仕事頑張ってるおかげで、お金だけはたくさんあって。それが余計虚しかった」
親に愛されたことのない子どもと、愛された親と離れてしまった子ども。どちらのほうが幸せでどちらのほうが不幸かなんて比べられるわけがない。
「同年代の子たちともずっと話が合わなかったな。一緒にいても楽しくなかった。彼氏がどうとか芸能人がどうとかテレビ番組がどうとか……みんな、毎日が楽しくて仕方ないって感じで。それが羨ましくもあり、だけど鬱陶しくもあって」
「わかるよ。俺も基本ぼっちだからな」
「うん、知ってる」
それは嫌味や皮肉の一欠片もない、純粋な同調だった。
「きみだけは他のクラスメイトと違うなって思ってたから。私と同じようにこの毎日に愛想を尽かせて、この世界を嫌って。だから屋上でばったり会って話せた時、ちょっと嬉しかった」
……意外な事実だった。
俺は屋上に通うようになるまで、成瀬のことなんて何も知らなかったのに。成瀬は多少なりとも俺のことを見てくれていたなんて。
「ま、そのせいでまたひとりクスリの常習者を増やしてしまったわけですけども」
「いや感謝してるよマジで」
あの日、成瀬と出会わなければ、俺はあの黄金の世界に触れることもなかった。そして、きっとこんなふうに深く話し合うこともなかっただろうから。
「……じゃあ小難しい話はここまでにして、そろそろ〝大脱走〟しちゃいますか!」
成瀬がうずうずしながら言った。今日一日、相当我慢していたらしい。
俺たちは買ったばかりのグレイト・エスケープを取り出し、今やすっかり使い慣れてしまったそれを躊躇うことなく舌に載せた。
一瞬マスターの言葉が脳裏をよぎったが、トリップするとやがてそれも霧散してしまった。
∽
高台を降りてからもデートもどきは続き、晩飯を食べたあと、俺たちは駅の改札口で解散した。帰る方法はお互い違う。成瀬は電車でニ駅揺られ、俺はここからバスに乗る。
別れ際、成瀬は改札の向こうから「楽しかった」と笑ってくれた。
俺も今日は楽しかった。素直にそう思う。煩わしい人付き合いを避け続けてこちら、誰かと出かけてこんな気分になったのは久しぶりだった。
「また遊びに行こう」なんて口約束を交わす。たまにはこういうのもいいかもと思えた。
明日からまたいつもの日常が始まる。くだらないものだらけの、どうしようもない日々が。
朝、目が覚めて、億劫な気持ちで制服の袖に腕を通して。
学校で誰と話すでもなく、試験のために興味もない授業を延々と聞いて。
帰りにどこかで適当に飯を食って、酔っぱらいの親父がいる家へただ寝に帰る生活。
救いといえば煙草とグレイト・エスケープだけだ。
マスターが「意外と悪くない」と言ったこの世界を、どうやら俺は愛せそうになかった。
――俺たちがマスターの死を知ることになるのは、それから一週間後のことだった。




