Ⅰ. A nicotine poisoning boy meets a drug addiction girl
煙草に手を出して、もう一年。最近では自分でも異常だと思うほどには中毒気味だった。
昼休みまではなんとか我慢できる、が、そのあとはどこかで一服しないことにはイライラしてしまって気が落ち着かない。
しかし、校内で喫煙できる場所は限られている。体育館の裏、適当な空き教室、男子トイレの一番奥の個室――今まではそんなところで騙し騙し済ませてきたが、俺のように密かに煙草を嗜んでいた誰かが火災報知器を作動させてから教師の目が厳しくなり、それ以来落ち着いて一服できなくなってしまった。
もうすぐ六限目が終わる。今日もヤニ切れの苛立ちは募る。
だが、この日の俺はいつもとは違っていた。かねてより企てていた計画を、ついに決行する腹積もりだったから。
居場所がなければ、作ればいい。
インターネットの情報を駆使して自作したとある道具をポケットに忍ばせて、俺は放課後の到来を告げるチャイムを今か今かと待ち詫びた。
窓の向こうでは、夕焼けが真っ赤に燃えていた。
∽
学校の屋上といえば、鍵がかかって学生は立ち入られないのが相場だ。うちの高校も多分に漏れずで、生徒手帳にも屋上への立ち入りは禁止と明記されている。
しかし、それは裏を返せば誰も立ち寄らない絶好の隠れスポットということでもある。おそらくは教師でさえ近づかないだろう。俺はそこに目をつけた。
バンピングという解錠方法がある。これはピッキングなどと違い特別な技術を必要とせず、バンプキーと呼ばれる特殊加工されたキーとハンマーさえあれば誰でも簡単に鍵を開けることができる方法で、うちの高校で使われているようなシリンダー錠なら解錠に十秒もかからないという。つまり、それを用いれば屋上にだって入られるのだ。
家で何度か練習はしたが、本番となると少し緊張もする。だが居場所を勝ち取るためだ、やるしかない。俺は周囲に人気がなくなるまで待つと、長く続く階段を一気に駆け上がった。
いよいよ計画を実行に移す時だ。
屋上へ繋がるドアを前にして、俺はごくりと生唾を飲んだ。
しかし、俺のそんな覚悟をよそに、軽くドアノブに手を掛けると扉はそのまま軋む音を立てて開いてしまった。この時、俺はきっとすごく間の抜けた顔をしていたに違いない。
目の前に、開放された赤の世界が広がった。
「……誰?」
屋上には、すでに先客がいた。
「って、桐島くんか。うーん……それならまぁ、いっかな」
ついでに言うと、俺はその先客の女子生徒をほんの少しだけ知っていた。
「俺ならいいって、どういうことだ? 成瀬」
「んー、特に深い意味はないけど、きみなら誰かにチクったりしないかなって」
クラスメイトの成瀬涼子だった。といっても特別親交があるわけではなく、必要以上の会話はしない間柄。今はたまたま席が近いが、それでも交流はない。
「やけに信用してくれてるんだな。俺たち、そんなに話したことなかったと思うけど」
「ふふ、こう見えて人間観察は得意なのよ」
……人間観察、ねぇ。
俺の経験上、人間観察を特技に挙げる奴は大抵が勘違いの高慢ちきばかりだ。彼らの言うところのそれは結局単なるレッテル貼りにしかすぎず、ろくに相手を観察できていないのがほとんど。自分の主観と偏見だけで相手を決めつけているだけなことが多い。
「つうか、成瀬はこんなところで何してたんだ?」
「そういう桐島くんは、こんなところに何しに来たの?」
質問を質問で返される。答えになっていない。噛み合わない会話に苛立ちを覚えた。
「別に、何でもいいだろ。おまえには関係ない」
「はッ!? まさかグラウンドで体育に励むJKたちの体操着姿に性的興奮をもよおし、抑えきれない青春のリビドーを解放するためにここへ……? は、放っちゃうの? きみの一億匹のワンダフルライフを、この真っ赤な夕日に向けて放っちゃうの?」
「何を言っているんだおまえは」
軽く目眩がしたので、こめかみを指で押す。
「……もういい。邪魔したな。俺、行くわ」
「えー、なんで。せっかくだし、もうちょっといなよ。一服しに来たんでしょ?」
成瀬のその言葉に、俺は思わず振り向いてしまう。
こいつ、知っていたのか……?
「言ったでしょ、人間観察は得意だって。まぁそう固くならずにさ」
∽
バレているなら、隠すこともない。
俺はブレザーの内ポケットから煙草の箱を取り出し、一本くわえて火を点けた。数時間ぶりに吸引したそれが、積もり積もった今日のストレスをゆっくりと和らげてくれる。
「初めて吸ったのは、去年の秋口――ちょうど一年前だな」
給水塔へ続く校舎の壁にもたれかかりながら、俺は独り言のように話した。
「別に粋がって手を出したわけじゃない。いろんなことがあって、毎日イライラして仕方なかったんだ。煙草を吸えばストレス発散になるってよく言うから、それで」
「ふうん。で、今では立派な愛煙家、と」
「……なんでわかった?」
「んー?」
「俺が煙草を吸うってこと。結構、周りにバレないように注意していたんだが」
「ああ、それね。うーん、におい、かな?」
「においって……」
俺、そんなに煙草臭いのだろうか。そこらへんも気は遣っているつもりなのに。
まして成瀬とは普段、まったくと言っていいほど話さない。そばに近寄ることもなければ、もちろん体臭を嗅がせたこともない。なのに、いったいなぜ?
「あ、別にきみが臭いわけじゃないから安心してね。単に私の鼻が利きすぎるってだけ」
言って、成瀬は一瞬迷う仕草を見せたが、「まぁいいや」と吹っ切って、
「きみの秘密、知っちゃったしね。ギブ・アンド・テイク。今度は私が秘密を教える番」
成瀬はそう言うと、スカートのポケットから金色のシールのようなものが入ったピルケースを取り出した。シールの大きさは八十円切手くらいで、表面に何やら英字が書かれている。
「じゃじゃーん! これ、何だと思う?」
「わからん。くす玉の紙吹雪か何かか」
「残念、はずれー。これはねぇ、魔法のクスリです!」
「……ドラッグ、ってやつ?」
「そうそう。あ、もちろん合法モノだよ。通称『グレイト・エスケープ』――その名の通り、服用者をこの世界から〝大脱走〟させてくれる魔法のクスリ」
ドラッグだとか合法だとか、日常で生活していてほぼ耳にすることのないアングラな単語をこともなげに言ってのける成瀬に、俺は少々面食らってしまった。
「それを使うために、屋上へ?」
「そそ。こういうのはやっぱり人目がなくて解放感のあるところで使わないとね」
「普段は鍵かかってるんじゃないのか、ここ」
「それはこう、物理的に壊しちゃったというか、壊れてもらったというか」
またもやこともなげに成瀬。俺も屋上に出ようと思った時、鍵を開けるためにいろんな方法を調べたり考えたりしたが、さすがに鍵を破壊するのはまずかろうと自重したのに。
まったく、どうも話の方向性が物騒すぎてついていけない。俺は短くなった煙草を携帯用アッシュトレースに棄てた。
夕焼けが真っ赤に燃えていた。
「このクスリを使うとね、しばらくの間、五感がすごく研ぎ澄まされるの。きみが喫煙者だって気づいたのもこれのせい。今は席が近いから、一発でわかったよ」
「……大丈夫なのか、それ」
「過剰に使用しないかぎり平気だって。なに、桐島くんも興味ある? いいよ~、このクスリ。まるで魔法だよ。これを使うと世界が一変して、とても美しくなるの」
この、どうしようもなくくだらないこの世界が。成瀬は吐き捨てるようにそう言った。
「まぁここで会ったのも何かの縁だし、桐島くんにも一枚分けてあげる。大丈夫、別に一回くらいどうってことないよ。使うか使わないかはきみ次第だけど」
言って、成瀬はピルケースの中から金色のシールを一枚取り、俺に手渡した。
ドラッグというと今まで注射や錠剤なんかをイメージしていたが、こんな形状のものもあるのだと俺はこの時初めて知った。
シールの表面には〝THE GREAT ESCAPE〟と印刷されている。
大脱走。
何処からの? ――この世界からの。
……じゃあ、何処への?
「使い方は簡単。剥離フィルムを剥がして、表面を舌の上に載せるだけ! たったこれだけで半時間くらいはトべます」
「本当に大丈夫なのか、このドラッグ……」
「大丈夫だってば~。日常生活に支障をきたすもんでもなし。まして一回だけなら尚更。桐島くん、普段の私を見てて変なところなんて何もなかったでしょ?」
「そりゃそうだけど」
だいたい普段、成瀬のことなんて見ていないし……とは口が裂けても言えなかった。
「それに、人生で一度くらいは体験して損はないと思うよ。普通に生活してるだけじゃまずお目にかかれない、黄金色に輝く美しい世界を」
黄金ってそんな大袈裟な、と思った。でも成瀬の目を見て、それが決して大袈裟な表現じゃないということもわかった。
成瀬はこの世界を「くだらない」と言った。俺もそう思う。この世界は、くだらないもので充ち満ちている。ちっとも美しくなんかない。
じゃあ、それなら?
それなら。
「……一回くらい、やってみるかな」
俺がそう言うと、成瀬は「そうこなくっちゃ」と嬉しそうに微笑んだ。
∽
「それじゃ、一緒に舌の上に載せましょう」
「いざやってみるとなると、やっぱりちょっと怖いな」
「何言ってるの、男の子でしょー」
ドラッグをやるのに男も女もないだろう、と俺は内心思った。
「でねでね、〝大脱走〟できたら、ここから下界を見下ろすの。その景色ったら、もうね……すごいよ。言葉では言い表せないくらい綺麗」
「黄金色に輝いてるんだろ?」
「そうそう」
冗談っぽく茶化したつもりが、当然のように肯定されてしまった。なんだか調子が狂う。
「じゃあ行くよ、桐島くんもフィルムを剥がして……準備はいい?」
成瀬に言われて、俺は自分のドラッグの剥離フィルムを剥がした。人生初ドラッグ、初トリップ。ドラマやニュースではヤバイヤバイと囃し立てられているものの、実際のところどの程度のものなのか、今からそれがわかるわけだ。
「ではでは参りましょう――レッツ・グレイト・エスケープ!」
その掛け声のセンスはどうなんだと苦笑しつつ、俺たちはシールの表面を舌の上に載せた。
∽
グレイト・エスケープを舌の上に載せて十数秒。特段、何も起こらないように思えた。
身体に変化があるわけでもなければ、気分が高揚するわけでもない。いたってノーマル、いつもの俺だ。これのどこが大脱走なのか、正直よくわからない。
「なぁ成瀬、これ本当にドラッグなのか? 別に何も起こらないんだが」
「まぁまぁ、そう焦らずに。……もうすぐ来るよ」
言って、成瀬はゆっくりとフェンスのほうへ歩き出した。俺も黙ってあとに続く。
――〝変化〟は、そこで起きた。
まずはじめに、思考を何かに一撫でされる感覚に襲われた。次に、自分の中の壁が壊れていく感覚。普段心の中で感じていた閉塞感というか、理性でもってセーブしていたものがひとつひとつ取り払われていく感じだ。
成瀬の言うとおり、まるで魔法にでもかけられたように。
それから先は激動だった。突然、見るものすべて、目に映るものすべてが、黄金色にキラキラと輝きだした。
俺は成瀬と一緒に、フェンスの向こうを見渡した。屋上からフェンス越しに見るその世界は、ただただ綺麗としか言いようがなかった。
町、人、風、木々、茜空、夕日。まるで「この世界は美しい」と、神様が俺たちに啓示してくれるように。世界中に、金の粒子が舞っていた。
視覚だけじゃない。
聴覚が研ぎ澄まされ、風の吹く音や遠くの木々の擦れる音、眼下のグラウンドで部活動に励む学生たちのざわめきがクリアに聞こえてきた。
嗅覚が研ぎ澄まされ、アッシュトレースに棄てた吸い殻のにおいや、隣からほのかに香る成瀬の甘い体臭がはっきりとわかった。
味覚。もしこの状態で美味いものを食べたら、どんな味がするんだろう?
触覚。もしこの状態でセックスをしたら、どれだけ気持ちいいんだろう?
自分の五感が、一段もニ段も上のステップへ上っていくのを感じる。その進化が嬉しくて、この世界の美しさが嬉しくて、気持ちがどうしようもないほどに高ぶっていく。
今、この瞬間、確かに俺たちはこの世界に存在していた。
幸せだ!! 幸せだ!! 幸せだ!!
願わくはこのまま、この黄金の世界で死にたい。宙に舞う金の粒子のひとつになって、この世界の一部として在りたい。現実なんてくだらないもの、もうどうだっていい。クズ野郎の親父も、出て行った母さんも、つまらない日常も、何もかも。
だってこの世界はこんなにも綺麗で、眩しくて、尊い。
「ね、桐島くん、すごいでしょ! すごいよね! キラキラだよキラキラ! やばい!!」
「ああ、本当だ! やばい! やばい! やばいやばいやばい!!」
自分でも引いてしまうくらい、テンションが上がってガラになくはしゃいでいるのがわかる。
だけど、それでも止められない。まるでロケットのように勢いよく打ち上げられた高揚感を制御できるだけの理性を、もはや俺は持ち合わせていなかった。
――こうして、俺はこの日、成瀬とともに初めて現実世界から〝大脱走〟した。




