孤毒な実験
青くぬめる皮膚。太くうねる尻尾。恐竜のように細長い頭部、4つの指を持つ手、引き締まった獣脚、柔らかに見える下に滑らかで強靱な筋肉の隠れた身体。2つの足で立つその身長は2m近くある。
その歪獣は、扉を閉めた。
「きょうは しろいへやの ひ」
怪物のようなその口から、言葉を吐き出す。
3面を白い壁で覆われ、残りの1面は強化ガラスで仕切られた、水のない水族館の水槽のような、横長な大きい部屋1つ分ほどの空間。その歪獣は自ら、数日ごとにこの部屋へ、白い壁の隅にある扉を開けて入ってくるのだ。そして目の前の巨大なガラスの向こう、その先にはこの部屋よりももっともっと広い、機械と装置と機材とが至る所にある黒い部屋があった。この部屋に向けて向けられた監視カメラもあれば、部屋内の気温湿度に空気汚染度、生命反応の有無から心拍数を始めとした生命反応、そういったモノを全て監視する装置も備わっていた。そして並べられたその装置モニターコンピューター群の中心で、簡素なイスに座っているのは1人の少女だった。
「なつき」
歪獣はガラスの壁に近づき、外を見渡し少女を見つめるように手を突き額を付けて、言った。少女はにこりと笑う。
「おはよう、コウ。3日ぶりだね。今日も元気だね!」
その様子は普通の少女となんら変わらなかったが、服装だけは上下共に汚れ1つない白衣だった。
コウと呼ばれたその歪獣は少し嬉しそうに尻尾をうねらせて、ガラスから離れた。粘液がそれを拒むかのように糸を引いたが、すぐに切れた。今から彼女が指示をする。その通りにすれば、褒めてくれる。『ガラスの壁の端にある透明なドアからやってきて、頭を撫でてくれる』。歪獣は知っていた。毎回そうだった。しかも最近の指示はとても簡単なので、歪獣はこの部屋に来るのが待ち遠しかった。
どさり。
歪獣は背後の音に思わず振り向き、手を床に付けて4つ足の体勢をとった。唸り声を上げて、全身の神経をその方向に向ける。しかしそこにあったのは数匹の蛇だった。全く動かない。あれれ、この前は動いてたのが降ってきたのに。そう言いたげに首を傾げながら、そろそろとそれに近づく。やはり動く気配はない。顔だけ後ろに向け、ガラスの向こうにいる少女を見つめた。
「今日はそれだよ。全部食べちゃってね」
真っ白は部屋の反対側、真っ暗な空間の中で少女はにかっと明るく笑う。
歪獣は小さな声で鳴きながら、動かない蛇に顔を戻して、鼻面でつんつんつつく。自分の腕くらいの太さ、長さは体長の半分弱くらいだろうか。それが1匹、2匹……。
だら、と唾液が半開きになっていた口から垂れ落ちる。数える事すらもどかしくなってくる。
とても美味しそうで
とても美味しそうで
とても美味しそうで
両手で掴んで、頭から、大きな口を大きく開けて、あぐ、あぐあぐあぐ。そのまま長い舌で絡ませて、身体の中に引きずり込んで、喉を膨らませてうねらせて、噛み千切る必要もない、顔を上に向けて、獲物をすっかり呑んでいく。あっという間に1匹、平らげてしまった。さっきより少しだけ膨れたお腹。獲物はまだいる。2匹目を掴んで、舌の上に乗せる。今度は小さな塊に噛み千切って、美味しく味わいながら平らげてしまった。あと2匹、さっきより少し大ぶりなモノ。これまで食べたらお腹一杯になりそうだ。右手に1匹、左手に1匹、食欲が身体を急かす、頭からごくり、喉が送り込む、舌が柔らかい肉の感触を伝えてくる。するするする、胴体から段々細くなり、尻尾まで、口の奥へと運ばれて。
身体の中に異変を感じた。
まだお腹には少し余裕はある。なのにもう入らないみたいな、息が詰まるような、何かが渦巻くような。気持ちが悪いような。
突然、呼吸ができなくなった。
口の中に手を突っ込む、喉へと消えていきそうなその獲物の尻尾を指でつまんだ。そして四つん這いのまま、右手でその獲物を、口から外へと、ずるずる引きずり出していく。ぬば、と粘液の膜が粘り気を持って獲物と口の間に張られていく。ある程度出た所で慌てて両手でそれを掴み、頭を仰け反らせながら口から出した。と、同時に抑えきれずに消化液がぼたぼた口から溢れかける。思わず咳き込んでしまう、と共に鮮やかに濃い黄色をした液体がぴちぴち床に跳ね、まだ食べてもいない獲物に垂れた。そこで自分の身体の異常に気付く。息が、息ができない。身体の芯が痺れるように震えている気がする。息を吸い込もうと、立ち上がろうとして、バランスを崩して倒れる。
呼吸ができない状況は続く。体表の粘液を床に残しつつ這いつくばって、部屋の端に辿り着いた。真白な壁に身体をあずけながら、ずりずり、ゆっくり立ち上がる。ふらつきそうになるのを我慢しながら、意識が飛びそうになるのを堪えながら。焦点が定まらない気がした。目の前がぼやけている。反対側に広がるガラスの向こうが霞む。少女の姿も見つけられない。かすかに、息が取り込めるようになってきた。取り込んで、吸い込んで、落ち着きたい。口を開けて必死に酸素を取り入れようとする。首に手をやって、すがるように。求めるように。
唐突に、突然解放されたかのように、できなかった呼吸ができるようになった、身体一杯に息を吸い込んでしまう。
そしてそれは吐き気を誘発した。
慌てて口を閉じたが、その閉じた口の間からぽたぽた、酸っぱいモノが垂れる。必死に手で自らの口を持って押さえても吐き気は収まらない、どころかもっと大きな波になって、喉を、駆け上って。
耐え切れずに開かれた口から、粘っこい消化液がぼとぼとと糸を引いて流れ出す。きつくて、きつくて下を向いてしまう。ごぼ、と喉で何かが逆流する音、と同時に肉塊が1つ、どろりと吐き落とされた。そうして2つ、3つ、4つ、立て続けに、止まる事なく粘ついた体液と消化液にまみれながら、湿った音を立てる。音のない静まり返った空間の中で、ただその音だけが頭を響かせる。そしてむせる、か弱い声で鳴く、そして5つ目、だらりと口から零れていく。
弱々しく喉を鳴らす、鳴らしながらふらふらと、ガラスの方に歩く。ひたひた、湿る足音は獣脚。力なく垂れた腕、口は半開きで、目は虚ろで。視線の先で少女は……こちらを見ていない。顔は下を向いている。下のモニターだけを見ている。こちらを見ていない。ねえ、苦しいよ。ねえ、こっち見てよ。そう言いたげに歪獣はガラスに近づく。脚の力が不意に抜ける。無防備に倒れて打ちつける腹部。こみ上げるモノ。抑えて、抑えて、息は荒く、遂にガラスの壁に辿り着く。叩く、手のひらで、叩く。苦しいよ。助けてよ。
「なつき なつきぃ……」
それでも顔を上げてくれない。歪獣は痺れる頭で、思う。いつもみたいにこっちに来てよ、頭を撫でてよ。怖いよ、寂しいよ、ねえなつき。なつき。
んぐ、と喉の奥で蠢く何か。力の抜けたぼうっとした目が見開かれ、身体に、喉に力が無理やり入れられる。それでも声を、出そうとして、口を開けたまま、動かしたくて、すぐそこにいる、少女に助けて欲しくて、ごぶ、と消化液が溢れ、それに続いて最初に丸呑みした獲物がずろずろずろずろ、一回り小さくなった肉になって、びちりと床に落ちる。それにせき止められていた体液が口からびしゃりとガラスに飛び散り、自分の身体にもかかる。肩が上下する。べたんと力なく座り込む。吐き出した液体の中、尻尾がうねる。そのまま糸が切れたかのように、ふらりと倒れた。
ぴー。
かちりと何がのロックが外れる音、がしたと同時に少女が勢いよく立ち上がり、そのままガラスの扉へと駆ける。慌てた様子で開ける。そこに倒れたケダモノに、躊躇なく近づき、揺さぶり、脈をとる。そして白衣のポケットに入っていた小さな注射器を打ち込み、抱え起こして、抱き締めた。
「ごめんねごめんねごめんね……きつかったでしょ、苦しかったでしょ、もう大丈夫、心配しなくていいよ」
軽いウェーブのかかった長髪の間から、真っ暗なあの部屋にいる時には良く見えなかった泣きじゃくる少女の顔と声が現れた。うすらと意識を保ったまま歪獣はきゅう、と鳴いた。
「なつきぃ」
「ここ数回の実験ね、毒の耐性についてだったの。食べ物に毒を混ぜて、どれだけ症状が現れるか、耐えられるか。今まで全然症状が出ないからって、今日はパパが沢山毒を入れて……。パパ、私が情を出したらいけないからって、コウが食べてから3分間、扉が開かない仕組みになってたの」
しゃくりあげながら、抱き締め続ける。白衣が歪獣の粘液と消化液とに濡れているが、少女は気に留める様子もない。
「ごめん コウ ダメな子」
ぽつぽつと声を出す歪獣に、少女は首を振る。
「ダメな子なんかじゃない! 私は知ってる。だってコウはこんなに……いい子だもん」
少女は温かい涙を歪獣の肌に落としながら、その青い肌をした顔に、口付けをした。涙は歪獣の肌を潤す粘液と混じり、すぐに分からなくなり、少女は口付けした唇に付いた粘液を気にする様子もなく、そしてそっと口を離した。
「えへへ、今日のご褒美だよ」
「ありがと でも コウ おなか すいた」
くるるる、喉を鳴らす歪獣を見て、少女は涙を白衣の袖で拭いながら答える。
「ああ、そうだったね……お腹、からっぽだもんね。すぐに、今度はちゃんとした美味しい食べ物、持ってくるからね」
少女はにっこり笑った。歪獣もそれにつられて、笑ったかのように目を細めた。