敵国の将軍に救われた悪役令嬢は、今日も豪快に笑う。
エレノア・ヴァレンティアが笑うと、人は少しだけ怯えた。
それは、公爵令嬢としてはあまりにも品のない笑い方だった。
「アッハッハッハッハ!」
王宮の大広間に声が響き、楽団の演奏が一瞬だけ乱れた。グラスを傾けていた貴族たちが何事かと振り向き、扇子の向こうで眉をひそめる婦人もいれば、露骨に顔を背ける者もいる。
エレノアは気にしなかった。むしろ、そういう視線を向けられるほど口角を上げた。
「これは傑作ね」
目の前のグレイ伯爵は、先ほどまでの尊大な態度が嘘のように青ざめていた。
「な、何がおかしいのです」
「全部よ。孤児院への補助金を三年間横流ししておいて、帳簿から数字を消せば誰にも分からないと本気で思っていたところ」
エレノアは手にしていた紙束を軽く振った。
「残念だったわね。あなたの執事、とても几帳面な方なのね。裏帳簿まで日付順に並べてあったわ」
周囲から小さなどよめきが起きる。
「これは何かの間違いだ!」
「あら。なら裁判所でそうおっしゃいな」
「貴様……!」
伯爵が一歩踏み出した。その瞬間、エレノアの後ろに控えていた護衛騎士レオン・アッシュが静かに手を剣の柄へ置く。
ただそれだけで、伯爵の足は止まった。
「安心なさい。今日はあなたを斬りに来たわけではなくてよ」
エレノアは薄く笑い、そのまま踵を返した。
背後から、誰かが囁く。
「……銀の悪女」
聞こえていた。
けれど、振り返らなかった。
銀の悪女。
社交界でエレノア・ヴァレンティアを知らない者はいない。王族相手でも言うべきことは言い、悪徳貴族を見つければ容赦なく追い込み、自分より遥かに地位の高い者にも平然と言葉を返す。
そして何より、怖いもの知らず。
そう言われていた。
舞踏会を抜けたあと、レオンが低い声で言った。
「先ほどの伯爵ですが」
「何?」
「怖くはなかったのですか。追い詰められた人間は、何をするか分かりません」
エレノアは廊下を歩きながら首を傾げた。
「怖かったわよ」
レオンがわずかに眉を上げる。
「……そうなのですか?」
「当然でしょう。刃物を抜かれてもおかしくなかったもの」
「全くそうは見えませんでした」
「そう?」
「笑っていましたから」
エレノアは足を止めた。
廊下の窓から、冬の夜空が見える。ずっと昔にも、よく似た空を見上げたことがあった。
「怖い時ほど笑うものなのよ」
「誰に教わったのですか」
エレノアは少しだけ笑った。
「昔ね、とてもうるさい人がいたの」
それ以上は言わなかった。
十三年前。
エレノア・ヴァレンティア、十歳。
その頃の彼女は、笑うことが嫌いだった。
正確に言えば、笑い方を知らなかった。
ヴァレンティア公爵家の一人娘として生まれたエレノアは、生まれながらに王族にも匹敵するほどの魔力を持っていた。本来なら、それは祝福されるべきものだった。
だが五歳の冬、それは一度だけ暴走した。
母が病で亡くなった日の夜だった。
泣き叫ぶエレノアの周囲で窓が砕け、家具が吹き飛び、三人の使用人が怪我をした。誰も死ななかった。それでも、屋敷の空気を変えるには十分だった。
「あの子には近づくな」
「また暴れたら」
「奥様が亡くなられてから、ますます……」
子供は、大人が思っているより耳がいい。そして残酷なほどよく覚えている。
――災厄の令嬢。
陰でそう呼ばれていることも知っていた。
父はエレノアを嫌ってはいなかった。少なくとも本人はそう思いたかった。ただ、どう接すればいいのか分からなくなっていたのだろう。
母を失った男と、母を失った娘。
二人とも傷ついているのに、近づく方法を知らなかった。
父はエレノアに教師をつけ、魔力制御の専門家を呼び、必要なものは何でも与えた。ただ、一緒に食事をすることは減った。抱きしめられた記憶も、母が死んでからは一度もなかった。
エレノアは屋敷の奥で育った。友達はいなかったし、同年代の子供と遊んだこともほとんどなかった。
そして十歳の春、戦争が始まった。
セレスティア王国とアルヴァーン帝国。国境に発見された大規模な魔鉱脈を巡る小競り合いは、わずか数か月で全面戦争へ変わった。
国境に近いヴァレンティア領も戦場となり、公爵である父は領民の避難と防衛の指揮に追われていた。
ある夜、帝国軍の一部隊が想定より早く防衛線を突破した。
公爵邸にも退避命令が出た。
「お嬢様、こちらへ!」
乳母だった老女に手を引かれ、地下通路へ向かった。
「お父様は?」
「北門です。領民の避難を指揮しておられます!」
「一緒じゃないの?」
「必ずあとで合流なさいます!」
直後、爆発音が響いた。
床が揺れ、壁の一部が崩れ、煙と悲鳴が通路を満たした。握られていた手が離れ、エレノアは転んだ。
気づいた時には、一人だった。
どうやって屋敷を出たのか、あとになっても思い出せなかった。
森の中を歩いた。靴は泥まみれになり、ドレスの裾は枝に引っかかって裂けた。何度も転び、膝を擦りむき、それでも立ち上がった。
誰も来なかった。
やっぱり、一人なのだ。
そんなことを考え始めた頃、前方から男が現れた。
大きかった。
子供のエレノアには、本当に山が歩いてきたように見えた。
百九十を優に超える巨体。黒髪に無精髭。左眉から頬にかけて、大きな傷が走っている。鎧には帝国軍の紋章が刻まれていた。
男もエレノアを見て止まった。
「……なんだ」
低い声だった。
エレノアは凍りついた。
敵。
その言葉だけは知っていた。
「殺すの?」
男が眉をひそめる。
「なんで俺がガキ殺さなきゃならねえんだ」
「だって、私は敵でしょう」
「十歳そこらのガキが、いつから敵になった」
エレノアは何も言えなかった。
「名前は」
「……エレノア」
「家名」
言ってはいけない気がした。
でも、嘘のつき方を知らなかった。
「ヴァレンティア」
男の顔がわずかに強張る。
「公爵家の娘か」
捕まる。
そう思って、エレノアはぎゅっと目を閉じた。
しかし、いつまで経っても何も起こらない。
恐る恐る目を開けると、男は頭を掻いていた。
「面倒なの拾っちまったなぁ」
「……捕まえないの?」
「捕まえてどうする」
「人質にするんでしょう?」
「十歳のガキを盾にして、領土寄越せってか?」
男は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな酒が不味くなる真似、死んでも御免だ」
「……変な人」
「よく言われる」
男の名は、ガルド・バルガス。
アルヴァーン帝国大将軍。
戦場での異名は――轟将。
本来なら前線本営にいるはずの男だったが、その日、帝国兵の一部が命令を無視して村へ略奪に向かったという報告を受け、自ら少数の護衛を連れて確認に出ていた。その途中で部隊とはぐれ、森を抜けているところでエレノアを見つけたのだった。
ガルドは地図を広げる。
「ここから西へ六日ほど行けば、中立地帯を通って王国側へ戻れる」
「六日……」
「歩けるか」
「分からない」
「じゃあ歩けなくなったら考える」
「あなたが連れていくの?」
「ああ」
「どうして」
「ここに置いていったら死ぬだろ」
「……それだけ?」
「それ以上いるか?」
あまりにも当然のように言われて、エレノアは何も返せなかった。
ガルドは歩き始めた。
「来い」
「信用できない」
「じゃあ来るな」
エレノアは立ち止まった。
男の背中が少しずつ遠ざかる。
三秒。
五秒。
「待って」
走って追いかける。
「ついて来んじゃねえか」
「……一人よりましだから」
「可愛げねえな」
ガルドは豪快に笑った。
「ガッハッハッハッハ!」
森中の鳥が一斉に飛び立った。
エレノアは顔をしかめる。
「うるさい」
「ガッハッハ! 言うじゃねえか!」
それが、二人の六日間の始まりだった。
二日目。
エレノアは朝から不機嫌だった。
「足が痛い」
「歩き慣れてねえからだ」
「靴も痛い」
「脱げ」
「裸足になるじゃない」
「じゃあ我慢しろ」
「優しさがないわ」
「昨日拾ったばかりのガキに何を求めてやがる」
ガルドはそう言いながら立ち止まり、その場に屈んだ。
「乗れ」
「……何に」
「背中」
「嫌」
「じゃあ歩け」
三歩歩いた。
痛かった。
戻った。
「……乗る」
「最初からそうしろ」
エレノアはむっとしながらガルドの背中へ乗った。大きかった。そして、思っていたよりずっと温かかった。
「重い?」
「羽みてえなもんだ」
「私を子供扱いしないで」
「十歳は子供だ」
「公爵令嬢よ」
「だから何だ」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
屋敷では誰もが「お嬢様」と呼び、教師も使用人も腫れ物に触れるように扱った。
ガルドだけは違った。
公爵令嬢でも、災厄の令嬢でもない。
ただの十歳の子供として扱った。
「ねえ」
「なんだ」
「将軍って偉いの?」
「まあな」
「王様より?」
「それ言ったら首飛ぶな」
「じゃあ偉くないじゃない」
「お前、言うようになったな」
昼頃、二人は川沿いで休んだ。
ガルドが保存肉を焼く。匂いだけは悪くなかった。
一口食べて、エレノアは黙った。
「どうだ」
「……硬い」
「肉だからな」
「塩辛い」
「保存食だからな」
「焦げてる」
「火で焼いたからな」
「不味い」
ガルドが固まった。
「そこまではっきり言うか普通」
「聞いたのはあなたでしょう」
「俺、大将軍だぞ」
「料理には関係ないわ」
一瞬の沈黙。
そのあと、ガルドが吹き出した。
「ガッハッハッハッハ!」
「何がおかしいの!」
「俺の料理を真正面から不味いと言った奴は久しぶりだ!」
「みんな言わないの?」
「言ったら睨まれると思ってんだろうな」
「最低」
「でも全部食ってんじゃねえか」
エレノアを見る。
いつの間にか串は空になっていた。
「……お腹が空いてたから」
「はいはい」
ガルドが笑う。
エレノアは顔を背けた。
その口元が少しだけ緩んだことに、本人は気づいていなかった。
午後になり、二人は森の奥を歩いた。
ガルドが道端に咲いていた小さな白い花を踏みかけた。
「あ」
エレノアが声を上げる。
ガルドが足を止めた。
「なんだ」
「花」
「花?」
「踏みそうだった」
「……それで?」
「避けて」
ガルドは無言で足をずらした。
「これでいいか」
「うん」
再び歩き出してから、ガルドが何でもないように言った。
「お前、優しいんだな」
エレノアは足を止めた。
「……何が?」
「花」
「普通でしょう」
「そうか」
「そうよ」
それだけだった。
けれど、その言葉はずっと頭から離れなかった。夜になっても、焚き火が消えかけても、何度も思い出した。
生まれて初めてだった。
自分に向かって、優しいと言った人がいた。
三日目。
追手が来た。
遠くから馬の蹄が聞こえた瞬間、ガルドの空気が変わった。
「伏せろ」
エレノアは岩陰へ身を隠した。
帝国兵は十人ほど。ガルドを探しているらしい。
『将軍閣下! 命令です! ヴァレンティア公爵令嬢を確保し、直ちに本営へ――』
声が聞こえた。
エレノアの体が震えた。息が浅くなり、指先が冷たくなる。胸の奥で魔力がざわつき、岩の表面に小さな亀裂が走った。
「ガルド……」
「ああ」
「怖い」
「ああ」
「あなたは怖くないの?」
ガルドがエレノアを見る。
そして突然。
「ガッハッハッハッハ!」
腹の底から笑った。
「何がおかしいの!」
「怖ぇからだ」
「……は?」
「俺だって怖い」
「嘘」
「馬鹿。怖くねえ奴が戦場で長生きできるか」
エレノアは目を瞬いた。
「じゃあ、なんで笑うの」
「怖ぇ顔して下向いてたって、敵が消えるわけじゃねえ」
ガルドが立ち上がる。
「だったら顔上げて笑え」
「そんなのできない」
「やってみろ」
「無理」
「ほら」
「……は、はは」
「小せえ!」
「できないって言ってるでしょう!」
「腹からだ、腹から!」
「うるさい!」
「お、さっきより声出てるぞ」
気づけば、魔力のざわつきが少しだけ収まっていた。
ガルドが剣を抜く。
「そこにいろ」
「ガルド」
「大丈夫だ」
「死なない?」
ガルドは一瞬だけ黙った。
簡単に、死なないとは言わなかった。
「死なねえように頑張る」
そして飛び出した。
エレノアは初めて、轟将が戦うところを見た。
恐ろしかった。
一振りで剣を弾き飛ばし、二人まとめて地面へ転がす。巨体からは想像できないほど速く、相手が十人いてもまるで数になっていなかった。
けれど、一人も殺さなかった。
最後に残った若い兵士の首筋へ剣を当てる。
「帰れ」
「しかし!」
「十歳のガキ捕まえて英雄になりてえのか」
「命令です!」
「だから何だ」
「閣下は帝国を裏切るおつもりですか!」
ガルドは少しだけ目を細めた。
「国と、間違った命令を一緒にするな」
兵士は唇を噛み、やがて馬へ飛び乗った。
全員が去ったあと、ガルドが剣を鞘へ戻す。
「さて、行くぞ」
岩陰からエレノアが出てきた。
「……どうして殺さなかったの」
「味方だから」
「でも、あなたを捕まえようとした」
「あいつらだって命令されただけだ」
「敵じゃないの?」
ガルドは少し考えた。
「敵ってのは便利な言葉だ」
「便利?」
「顔を知らねえ奴を斬る時にな」
エレノアには、まだ全部は分からなかった。
ただ、この男は自分が思っていた敵とは違う。
それだけは分かった。
「ガルド」
「なんだ」
エレノアは息を吸った。
「アッハッハッハ!」
ガルドが振り返る。
「お」
「何」
「上手くなったじゃねえか!」
「あなたほどうるさくはしないわ」
「まだまだだな!」
「したくない!」
二人の笑い声が森に響いた。
四日目。
朝から雨だった。
二人は古い狩人小屋を見つけ、そこで足止めを食らった。
ガルドは濡れた薪をどうにか燃やし、自分の外套をエレノアへ放った。
「使え」
「あなたは?」
「寒くねえ」
「嘘」
「肉が多いからな」
「それ、脂肪って言うんじゃないの?」
「お前、本当に口悪くなったな」
エレノアは外套の中で少し笑った。
昼過ぎになっても雨は強いままだった。やることがなくなり、エレノアは小屋の隅にあった古い木片を拾う。
「何してる」
「暇」
「寝ろ」
「眠くない」
「じゃあ数でも数えてろ」
「何を?」
「雨粒」
「馬鹿なの?」
「ガッハッハ!」
エレノアは木片で床に絵を描き始めた。
「それ何だ」
「犬」
「熊だろ」
「犬!」
「ガッハッハッハ!」
「あなたが描いてみなさいよ!」
ガルドが木片を取った。
少し考え、床に何かを描く。
「……何これ」
「馬だ」
「虫じゃなくて?」
「馬だ!」
「足が六本あるわよ」
「速そうだろ」
エレノアは堪えきれず笑った。
「アッハッハッハッハ!」
ガルドも笑った。
小屋の外では雨が降り続いていた。
それでも、その時間だけは怖くなかった。
夜になり、雨音が屋根を叩く。
ガルドは壁にもたれて目を閉じていたが、エレノアはなかなか眠れなかった。
「ガルド」
「……なんだ」
「起きてたの?」
「お前がモゾモゾうるせえ」
「ごめんなさい」
「別に」
しばらく沈黙が続いた。
「どうして私を助けたの?」
「またそれか」
「ちゃんと聞いてない」
「そこにいたから」
「それだけ?」
「それ以上いるか?」
エレノアは膝を抱えた。
「私は昔、人を傷つけた」
ガルドが目を開ける。
「魔力が暴走して」
「何歳だ」
「五歳」
「五歳か」
「三人怪我した」
「死んだか」
「ううん」
「なら良かった」
「良くない!」
思わず声が大きくなった。
「みんな、それから私を怖がるようになった。使用人も、お父様も、多分」
ガルドは何も言わずに聞いていた。
「だから、私は悪い子なんだと思う」
「誰に言われた」
「みんな」
「みんなって誰だ」
エレノアは答えられなかった。
「……みんな」
ガルドは盛大にため息をついた。
「じゃあ、そいつら全員馬鹿だ」
エレノアが顔を上げる。
「なんで」
「五歳のガキの失敗を十歳まで背負わせてるからだ」
「でも私は危ない」
「今、俺に何かしたか?」
「してない」
「昨日の兵士に魔法ぶっ放したか?」
「してない」
「今日、俺の絵が下手だったから小屋吹き飛ばしたか?」
「……してない」
「なら少なくとも、今のお前は悪人じゃねえ」
「いつか人を傷つけるかもしれない」
「未来の罪で今のガキを裁く国があるか」
エレノアは言葉を失った。
「でも」
「でもじゃねえ」
「私がいなくなれば、みんな安心すると思う」
ガルドの顔から笑みが消えた。
「二度と言うな」
低い声だった。
エレノアは肩を震わせた。
「……なんで怒るの」
「腹立つからだ」
「私のことで?」
「ああ」
「どうして」
ガルドは起き上がり、エレノアの前まで来た。
大きな指で額を軽く小突く。
「お前が自分を嫌うのは勝手だ」
「……」
「だがな」
もう一度、小突く。
「俺が助けた命を、お前が勝手に価値なしにするな」
エレノアの目が揺れた。
「俺がこの三日、何のためにこんな面倒くせえ道歩いてると思ってんだ」
「……知らない」
「お前を生かすためだろ」
「……」
「勝手に価値なしにされたら、俺が馬鹿みてえじゃねえか」
「そこなの?」
「そこだ」
「自分勝手」
「知ってる」
エレノアの唇が震えた。
泣きそうなのが悔しくて、必死に笑おうとした。
「……アッハッハ」
「なんだその変な顔」
「笑ってるの!」
「泣いてんじゃねえか」
「うるさい!」
ガルドは豪快に笑った。
「ガッハッハッハッハ!」
それにつられて、エレノアも泣きながら笑った。
その夜、エレノアはガルドの外套を握ったまま眠った。
五日目。
朝、ガルドが目を覚ますと、エレノアがいなかった。
「……エレノア?」
返事がない。
慌てて外へ飛び出すと、少し離れた茂みの前でエレノアがしゃがんでいた。
「何してやがる!」
珍しく焦った声だった。
エレノアが振り返る。
「これ」
両手の中に、小さな赤い実がいくつかあった。
「昨日、食料もう少ししかないって言ってたでしょう」
「勝手に離れるな!」
怒鳴られた。
エレノアがびくっとする。
ガルドはその顔を見て、言葉を止めた。
「……悪い」
「……」
「でも勝手にいなくなるな」
「どうして」
「心配するだろ」
エレノアは目を見開いた。
「……心配?」
「当たり前だ」
「私を?」
「他に誰がいる」
胸の奥が熱くなった。
そんな自分が恥ずかしくて、エレノアは赤い実を押しつけた。
「これ、食べられる?」
ガルドが見る。
「……それ毒だ」
「え」
「嘘だ」
「最低!」
「ガッハッハッハッハ!」
「本当に嫌い!」
「ガッハッハ!」
昼過ぎ、二人は丘の上へ出た。
遠くに大きな川が見える。
「あれを越えれば、王国の巡回路がある」
ガルドが言った。
「明日には着く」
「……そう」
エレノアの返事は小さかった。
「どうした」
「なんでもない」
「言え」
「嫌」
「言え」
「しつこい」
「大将軍命令だ」
「私は帝国兵じゃないもの」
「生意気になりやがって」
夕暮れ。
二人は丘に並んで座った。
空が赤く染まっていた。
「ねえ、ガルド」
「ん?」
「あなたがいなくなったら、私また一人になる」
ガルドは笑わなかった。
「屋敷に戻っても、みんな私を怖がる。友達もいない。お父様だって、私とどう話したらいいか分からない」
ガルドはしばらく黙っていた。
「だから、また一人」
「馬鹿言え」
「何よ」
「俺一人しかいねえほど、世界は狭くねえよ」
エレノアは眉を寄せる。
「でも、みんな私を嫌う」
「まだ会ってねえだけだ」
「誰に?」
ガルドがニッと笑った。
「お前を好きになる、物好きな馬鹿どもにだよ」
「物好きじゃないと私を好きにならないの?」
「ガッハッハッハ!」
「笑わないで!」
「悪い悪い」
「最低」
「でもいるぞ」
ガルドは空を見た。
「お前を叱る奴もいるし、お前と喧嘩する奴もいる。お前が怖がってる時に、黙って隣に立つ奴もいる」
エレノアは黙って聞いていた。
「その生意気なところを面白がる、変な男もいるかもしれねえな」
「最後はいらない」
「ガッハッハ!」
「絶対いらない!」
「そりゃ本人に会ってから決めろ」
エレノアは頬を膨らませた。
「本当にいると思う?」
「ああ」
「なんでそんなこと分かるの?」
ガルドはエレノアの額を軽く指で弾いた。
「俺がそうだったからだ」
エレノアは目を見開く。
ガルドは照れた様子もなく立ち上がった。
「寝るぞ」
「今の、どういう意味?」
「そのままだ」
「私のこと好きなの?」
「ガキとしてな」
「ガキって言わないで!」
「ガッハッハッハッハ!」
エレノアは怒った。
怒りながら、嬉しかった。
その夜、二人はしばらく星を見ていた。
「ガルド」
「なんだ」
「明日になったら、もう会わないの?」
「ああ」
「ずっと?」
ガルドは答えに詰まった。
「……戦争が終われば、分からねえ」
「じゃあ終わったら会いに来て」
「帝国の大将軍が敵国公爵邸に遊びに行くのか?」
「いいじゃない」
「処刑されるわ」
「逃げればいいでしょう」
「ガッハッハ!」
「笑うところじゃない!」
「分かった分かった」
「絶対よ」
エレノアは小指を差し出した。
ガルドが眉を寄せる。
「なんだそれ」
「約束するときにするの」
「知らねえ」
「だからやるの」
ガルドは自分の太い小指を見た。
「折れそうだな」
「私のがね」
「ガッハッハ!」
二人の小指が触れた。
「戦争が終わったら会いに来る」
「おう」
「絶対」
「おう」
「忘れたら怒るから」
「怖ぇな」
「怖い時ほど笑うんでしょう?」
ガルドは一瞬だけ黙ったあと、豪快に笑った。
「ガッハッハッハッハ!」
エレノアも笑う。
「アッハッハッハッハ!」
六日目。
朝から、ガルドは少し無口だった。
エレノアは気づいていた。
「何かあるでしょう」
「何もねえ」
「嘘」
「なんで分かる」
「六日も一緒にいるもの」
「……たった六日だぞ」
「六日もよ」
ガルドは妙な顔をした。
寂しそうな、嬉しそうな、どちらとも取れる顔だった。
「参ったな」
昼前、二人は川へ着いた。
広い川だった。流れは速く、古い渡し舟が一艘だけ岸に繋がれている。向こう岸には、王国の旗が小さく見えた。
「着いた」
エレノアが呟く。
「ああ」
「……本当に?」
「本当にだ」
嬉しいはずだった。
なのに、胸が苦しかった。
エレノアは振り返る。
「ガルドも来るでしょう?」
ガルドが答える前に、馬の蹄が聞こえた。
一頭ではない。
十。
二十。
もっと。
森の向こうから帝国旗が現れる。
ガルドの顔が変わった。
「……思ったより早かったな」
「ガルド」
「舟に乗れ」
「あなたは?」
「後から行く」
「嘘」
「エレノア」
「嘘でしょう」
ガルドは黙った。
「一緒に来て」
「無理だ」
「どうして」
「俺が川を越えれば、追手も越えてくる」
「王国兵がいる!」
「あいつらがお前を確認するまで、俺が止める」
「なら、そのあと来ればいい!」
ガルドは答えなかった。
エレノアは理解した。
「……死ぬの?」
「死なねえように頑張る」
三日前と同じ答え。
だから余計に怖かった。
「嫌」
「乗れ」
「嫌!」
「エレノア」
「私は残る」
「駄目だ」
「一緒に戦う!」
「十歳のガキが何言ってやがる」
「私、魔法使える!」
「だからこそ駄目だ!」
ガルドの怒鳴り声に、エレノアが止まる。
「怖ぇんだろ」
「……」
「なら逃げろ」
「逃げたくない」
「生きるために逃げるのは、逃げじゃねえ」
ガルドはエレノアの肩を掴んだ。
「聞け」
「嫌」
「聞け!」
「嫌!」
エレノアの目から涙が溢れる。
「あなたがいなくなったら、また一人になる!」
ガルドの顔が歪んだ。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
そして、いつもの顔に戻った。
「ならねえよ」
「なる!」
「ならねえ」
「なんで分かるの!」
「言ったろ」
ガルドは笑った。
「世界は、俺一人しかいねえほど狭くねえ」
「そんなの分かんない!」
「今はな」
大きな手が頭に乗る。
いつものように、ぐしゃぐしゃと髪を撫でる。
「悪女になれ」
エレノアが泣きながら顔を上げた。
「……何?」
「嫌われろ。怖がられろ。好きに言わせろ」
「何言ってるの」
「誰かに好かれるために、小さくなる必要なんかねえ。言いたいこと言え。笑いたい時は笑え。腹減ったら飯食え。嫌な奴には嫌いって言え」
「……」
「ただし」
ガルドの手が止まる。
「お前だけは、お前を嫌うな」
エレノアは声を出して泣いた。
「嫌」
「覚えとけ」
「嫌!」
「覚えろ」
「忘れる!」
「なら何回でも思い出せ!」
遠くで帝国兵の声が聞こえる。
時間がない。
ガルドがエレノアを抱き上げた。
「離して!」
「暴れんな」
「ガルド!」
舟へ乗せる。
エレノアが飛び降りようとする。
ガルドは綱を切った。
舟が流れに乗った。
「ガルド!」
「座れ!」
「一緒に来て!」
「エレノア!」
「嫌! 嫌だ!」
川幅が少しずつ広がっていく。
ガルドが小さくなっていく。
「一緒に来てよ!」
ガルドは剣を抜いた。
「お前は行け!」
「ガルド!」
「生きろ!」
エレノアの呼吸が乱れた。
怖い。
怖い。
怖い。
ガルドが死ぬ。
もう会えない。
また一人になる。
「怖い!」
思わず叫んだ。
ガルドが振り返る。
敵兵が迫っている。
それでも笑った。
「そういう時はどうするんだった?」
エレノアは泣きながら首を振った。
「できない!」
「やれ!」
「無理!」
「エレノア!」
ガルドが腹の底から笑った。
「ガッハッハッハッハ!」
川の上まで響いた。
エレノアは泣いた。
泣きながら、無理やり口角を上げた。
「……アッハッハッハッハ!」
「小せえ!」
「うるさい!」
「もっとだ!」
「アッハッハッハッハ!」
「そうだ!」
ガルドも笑う。
「ガッハッハッハッハ!」
二人の笑い声が川の両側から響いた。
その時、エレノアは見た。
ガルドが少しだけ泣いていた。
あの人も、怖かったのだ。
「ガルド!」
「なんだ!」
「私!」
声が震える。
ありがとう。
忘れない。
死なないで。
一緒に来て。
言いたいことは山ほどあった。
でも、出てきたのは。
「絶対、すっごい悪女になるから!」
ガルドが目を丸くした。
そして、これまでで一番大きく笑った。
「ガッハッハッハッハ!」
「楽しみにしてるぞ!」
エレノアも泣きながら笑った。
「戦争終わったら、会いに来てよ!」
「おう!」
「約束したでしょう!」
「覚えてる!」
「絶対だから!」
「分かってる!」
その声を最後に、帝国兵がガルドを取り囲した。
エレノアは向こう岸へ着くまで、ずっと振り返っていた。何度も名前を呼んだ。けれど、もう返事はなかった。
木々に遮られ、やがてその姿も見えなくなった。
それでもエレノアは、いつまでも川の向こうを見ていた。
数日後。
エレノアは父から知らされた。
轟将ガルド・バルガスは、あの日の戦闘で死亡したらしい、と。
遺体は見つかっていない。
けれど、帝国側も彼を戦死者として発表した。
だから、エレノアは信じた。
信じるしかなかった。
ガルドは死んだのだ、と。
それから十三年。
エレノアは生きた。
王国へ戻ったあの日、父は初めてエレノアを抱きしめた。
「すまなかった」
何度も言った。
「すまなかった」
エレノアは最初、腕を下ろしたままだった。
やがて恐る恐る、父の背中へ手を回した。
それですべてが元通りになったわけではない。
でも、そこから少しずつ始まった。
父と食事をするようになり、魔力制御も学び直した。失敗すれば落ち込んだし、怖くなる夜もあった。
そのたびに笑った。
「アッハッハッハッハ!」
最初は上手くできなかった。
十三年も続ければ、嫌でも上手くなった。
セシリア・ローデンと出会ったのは、エレノアが十六歳の時だった。
初めて本格的に参加した王宮の茶会。
誰もエレノアの隣へ座ろうとしなかった。
銀の災厄。
怖い公爵令嬢。
そんな昔の噂が、まだ残っていた。
そこへ一人の令嬢がやってきた。
「そこ、空いてます?」
「見れば分かるでしょう」
「では座りますわ」
「好きにしたら」
深緑色のドレスを着たその令嬢は、少しも怯まず椅子へ腰を下ろした。
それがセシリア・ローデンだった。
最初の三分ほどは、何事もなく茶を飲んでいた。
セシリアがエレノアの髪を見た。
「あなた、せっかく綺麗な髪なのに飾り一つないんですのね」
「悪かったわね」
「悪いとは言ってませんわ。ただ、その地味なドレスには少しくらい飾りがあった方が――」
エレノアがセシリアの頭を見る。
「あなたの髪みたいに?」
「え?」
「随分盛ってるから。鳥の巣かと思ったわ」
「なっ……!」
周囲の空気が凍りついた。
セシリアは顔を真っ赤にする。
「これは流行ですわ!」
「鳥の間で?」
「あなた、本当に性格悪いですわね!」
「そっちから私のドレスに文句つけたでしょう!」
「助言です!」
「じゃあ私も助言よ。巣箱も置いたら?」
「もっと悪くなってますわよ!」
エレノアは思わず笑った。
「アッハッハッハッハ!」
セシリアがぽかんとする。
そして、ぷっと吹き出した。
「……本当に品がありませんのね、その笑い方」
「うるさいわね」
「でも」
セシリアも笑った。
「思ったより普通の方ですのね」
「それ褒めてる?」
「半分くらいは」
三日後。
セシリアはエレノアの屋敷へ茶を飲みに来た。
それから何年経っても、二人は会うたびに喧嘩している。
そして一度も、離れなかった。
ユリウス・ハルトと出会ったのは十九歳。
王立文書院で、ある領地の不正帳簿を調べていた時だった。
「それ、逆さですよ」
横から言われた。
「知ってるわ」
「三分ほど逆さのままですが」
「……読めるもの」
「すごいですね」
「馬鹿にしてる?」
「少し」
第一印象は最悪だった。
その半年後には、エレノアが調査へ行くたび同じ机で資料を漁るようになった。
ユリウスはエレノアを怖がらなかった。
むしろ、ときどき呆れた。
「また徹夜したでしょう」
「してない」
「目の下」
「化粧よ」
「酷い化粧ですね」
「殴るわよ」
「怖い怖い」
そう言いながら、温かい紅茶を置く。
冬の日。
雪が降っていた。
調査を終えたエレノアが文書院を出ると、ユリウスが入口に立っていた。
「帰らなかったの?」
「あなたを待っていました」
「どうして」
「雪なので」
「雪くらい一人で帰れるわ」
「知っています」
「じゃあ何」
ユリウスは少し考えた。
「一緒に帰りたかったので」
それだけ言って歩き出した。
エレノアはその背中を見た。
「……変な人」
「よく言われます」
雪道で、エレノアが滑った。
ユリウスがすぐに腕を掴む。
「危ない」
「離して」
「立てたら」
「立てる」
「ではどうぞ」
手を離す。
もう一度滑った。
また掴まれる。
「……笑ったら殺す」
「笑ってません」
肩が震えていた。
「笑ってるでしょう!」
「少しだけ」
「最低!」
「ですが」
ユリウスはエレノアの手を掴んだまま歩き出した。
「また転ばれると困るので、このままで」
「……手くらい離しなさい」
「嫌です」
あまりにも普通の顔で言われて、エレノアの方が何も言えなくなった。
「あなた、変よ」
「知っています」
ふと、昔誰かに言われた言葉を思い出した。
――お前のその生意気なところを面白がる、変な男もいるかもしれねえな。
エレノアはユリウスの横顔を見る。
「何です?」
「……別に」
「顔が赤いですが」
「寒いの!」
「そういうことにしておきましょう」
「何その言い方!」
エレノアは腹を立てた。
それでも、手は振りほどかなかった。
気づけば、周りには人がいた。
いつも叱ってくる侍女のミレイユ。
怖い時ほど黙って隣に立つ護衛騎士のレオン。
何度喧嘩しても翌日にはお茶を飲みに来るセシリア。
そして、好きだとは一度も言わないくせに、雪の日には一緒に帰りたがるユリウス。
それでもエレノアは、どこかで自分は一人だと思っていた。
あの日、川の向こうに置いてきた何かが、ずっと胸の奥に残っていた。
十三年目の初冬。
「お嬢様!」
ミレイユが珍しく走ってきた。
「何」
「これを」
差し出されたのは、一冊の古い名簿の写しだった。
帝国で政変があり、長く封印されていた旧軍事施設の記録が公開されたらしい。
エレノアは何気なく頁をめくった。
収監者の名前が並んでいる。
知らない名前ばかりだった。
一頁。
また一頁。
そのまま閉じようとした時。
視界の端を、見覚えのある文字が通り過ぎた。
エレノアの指が止まる。
頁を戻した。
上からゆっくり名前を追う。
そして。
そこにあった。
ガルド・バルガス。
息が止まった。
一度、目を閉じた。
もう一度開く。
名前は消えていない。
その下に続く文字を、指でなぞる。
旧帝国軍大将軍。
軍令違反により秘密収監。
十三年間拘束。
そして最後に。
生存。
「……嘘」
声が震えた。
もう一度読む。
何度読んでも同じだった。
「……生きてる」
ミレイユは何も言わなかった。
「生きてる」
今度は声になった。
紙の上へ、涙が落ちた。
「馬車」
「すでに」
ミレイユが答える。
「用意しております」
「どうして」
「行くでしょう?」
エレノアは頷いた。
玄関へ行く。
レオンがいた。
「護衛です」
「頼んでない」
「知っています」
セシリアもいた。
「何その顔」
「あなたこそ泣きすぎですわ」
「泣いてない」
「鏡を見なさい!」
そして、ユリウスもいた。
「……何であなたまで」
「荷物持ちです」
「いらない」
「では馬車の席を温める係で」
「もっといらない」
エレノアは四人を見た。
「私、一人で行けるわよ」
セシリアが眉を吊り上げた。
「誰がそんなこと聞きましたの?」
「え?」
「一人で行けるかではありませんわ」
ユリウスが続ける。
「一人で行きたいか、でしょう」
エレノアは何も言えなかった。
レオンが馬車の扉を開ける。
「行きましょう」
胸の奥で、十三年前の声がした。
――まだ会ってねえだけだ。
ガルドがいる療養院は、かつての国境近くにあった。
長い廊下は白い壁に囲まれ、窓から差し込む冬の午後の光が床へ淡く伸びていた。
その部屋の前まで来て、エレノアの足が止まった。
手が震える。
ミレイユが気づいた。
「お嬢様?」
「……怖いわ」
誰も笑わなかった。
十三年。
覚えていないかもしれない。
変わってしまったかもしれない。
あの六日間が、自分だけにとって大切だったのだと分かってしまうかもしれない。
「戻りますか」
レオンが聞いた。
エレノアは首を振った。
「いいえ」
深く息を吸い、口角を上げる。
「怖い時ほど――」
扉を開けた。
窓際に老人がいた。
髪には白いものが混じり、頬は以前よりずっと痩せていた。片脚には装具がつけられ、左の目元には昔より深い皺が刻まれている。
それでも。
大きかった。
エレノアにはすぐ分かった。
十三年なんて、関係なかった。
「ガルド」
老人がゆっくり振り向く。
エレノアを見る。
眉を寄せる。
「……誰だ?」
胸が裂けた。
一瞬だけ、息ができなくなった。
覚えてない。
そう思った。
でも。
怖い時ほど。
エレノアは泣きそうな顔で笑った。
「アッハッハッハッハ!」
部屋中に響く。
老人の目が見開かれた。
長い沈黙。
本当に長い沈黙だった。
やがて、皺だらけの顔がゆっくり崩れた。
「……ガッハッハッハッハ!」
あの笑い声。
少し掠れていて、昔より小さくなっていた。
それでも、間違えるはずがない。
エレノアの涙が一気に溢れた。
「遅いのよ!」
「……でかくなったなぁ!」
「当たり前でしょう!」
笑いながら泣く。
「四千七百四十八日よ!」
ガルドの目が丸くなる。
「数えてたのか?」
「まさか!」
エレノアは涙を拭った。
「忘れられなかっただけよ」
ガルドの目も赤かった。
「そうか」
「そうよ」
「悪女になったか?」
エレノアが鼻をすすり、胸を張る。
「ええ」
「そりゃよかった」
「銀の悪女って呼ばれてるわ」
「ガッハッハッハ!」
「何がおかしいの!」
「お前、本当にやりやがった!」
「あなたがなれって言ったんでしょう!」
「そうだったな!」
二人で笑った。
ひとしきり笑ったあと、ガルドがエレノアの後ろへ目を向ける。
「……で、そいつら誰だ?」
エレノアも振り返った。
ミレイユ。
いつも叱ってくれる人。
レオン。
怖い時に、黙って隣に立つ人。
セシリア。
何度喧嘩しても、次の日にはお茶を飲みに来る人。
ユリウス。
いつの間にか隣にいる、少し変な男。
十三年前。
夕焼けの丘。
あの人の声が蘇る。
――まだ会ってねえだけだ。
――誰に?
――お前を好きになる、物好きな馬鹿どもにだよ。
エレノアの顔がぐしゃぐしゃになった。
「……いたわ」
「ん?」
「あなたが言ってた」
声が震える。
「物好きな馬鹿ども」
セシリアが後ろから声を上げた。
「ちょっと!」
ユリウスは苦笑する。
「否定しづらいですね」
ミレイユは涙を拭いながら笑い、レオンだけは真顔だった。
「馬鹿扱いは不本意です」
ガルドは四人を一人ずつ見た。
それから、エレノアを見る。
「……そうか」
小さく言った。
「ちゃんといたか」
エレノアは頷いた。
「いた」
「一人じゃなかったか」
もう、笑えなかった。
十三年間、ずっと胸のどこかにあったものが一気に溶けていく。
「……うん」
エレノアは子供みたいに泣いた。
「一人じゃなかった」
ガルドが立ち上がろうとした。
脚がうまく動かない。
エレノアが慌てて駆け寄る。
「無理しないで!」
「うるせえ」
ガルドはよろめきながら立ち上がる。
そして昔と同じように、大きな手をエレノアの頭へ置いた。
ぐしゃぐしゃに撫でる。
「よく生きたな」
それだけだった。
エレノアは声を上げて泣いた。
十歳のあの日から、本当はずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。
「ガルド」
「ん?」
「私、怖かった」
「ああ」
「あなたが死んだと思ってから、何回も」
「ああ」
「でも笑った」
「見りゃ分かる」
「あなたみたいに」
「俺より下品だな」
「うるさい!」
「ガッハッハッハッハ!」
「アッハッハッハッハ!」
また笑う。
部屋の外まで響くくらいに。
あの日と同じように。
でも今度は、川の両岸ではなかった。
同じ場所で。
すぐ隣で。
笑っていた。
あなたと別れて、四千七百四十八日。
私はずっと、あなたを失ったあの日から一人で歩いてきたつもりだった。
でも、違った。
あなたがくれた言葉を抱えて歩いているうちに、いつの間にか私の隣には誰かがいた。
叱ってくれる人がいた。
喧嘩できる人がいた。
黙って守ってくれる人がいた。
何も言わず待っていてくれる人がいた。
好きだとは一度も言わないくせに、雪の日には一緒に帰りたがる変な人までいた。
いつからだったのかは、もう分からない。
ただ、一つだけ分かる。
世界は、あなた一人しかいないほど狭くなかった。
そして。
私一人で生きるには、あまりにも広かった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
たった六日間でも、その人の言葉が何年も誰かを支えることがある。
そんな話を書きたくて、この作品を作りました。
エレノアとガルドの笑い声が、少しでも心に残ってくれたら嬉しいです。
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