ルナ
柔らかな光が店内を照らしていた。カウンター席の向こうに並んだボトルが鈍く光を反射していた。テーブル席に陣取った四人組が時々甲高い笑い声を上げて盛り上がっていた。情熱を内に秘めたサックスの音が響いていた。どこかで聴いたことのある曲だと思いながら、グラスを傾けた。氷が動いて涼し気な音を立てた。そのまま口元まで運び、琥珀色の液体を口に含んだ。芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。喉の奥に流し込むと少し身体が温まる。いい音楽といい酒とおだやかにゆっくりと流れる時間を十分に堪能できる心地良いひと時。慌ただしい日常を離れて、ここでこうして過ごしていると、日々の失いがちな何かを取り戻せたような気がする。
「ルナっていうの、よろしく」
一人で楽しんでいる私の隣に何故だかバニーガールがやって来た。少し場違いな感じがした。ここはパーティをするところではないのだ。
「月の女神というわけか?」
名前を聞いてそう思ったのか、うさぎの姿からそう思ったのか、ついそんなことを口にしていた。
「あら、あなた教養があるのね」
「ないよ。そんなもん」
「でも、半分当たっているわね。私は月から来たのだから」
「へー、そうなのかい」
「あら、信じていないのね」
「まあね。美しい女性の言うことには何か裏がありそうだからね」
それから私はずっとルナと話していた。なんにしても今日はついてると思った。美しい女性の隣で楽しく飲んでいられるのだから。彼女と話すのはとても楽しかった。それでつい飲み過ぎてしまったのかもしれない。酔ってしまったせいか、眠くなっていた。彼女がにっこりと笑っている。そのまま意識が遠のいて行った。
目が覚めると、夜空に地球が浮かんでいた。えっ、地球?
「ここはどこだ?」
私はつぶやいた。
「月に決まっているじゃない。地球が見えるのだから」
ルナの声がした。私は辺りを見まわした。そこは飲み屋だった。飲み屋の窓からどういう訳だが地球が見えていた。周りには酔っ払いがたくさんいた。
「月も何だか地球と変わらないみたいだね」
「そうかもね」
地球にいた時と同じようにルナは言った。それから酒を飲みながら、ずっと地球を眺めていた。あそこに数十億の人間が生きていて、それぞれの生活を送っている。物価高で生活の苦しい人たちが死に物狂いで働いている。否定されたことのない若者が将来の自分の成長した姿を夢見ている。戦争に巻き込まれて逃げ回っている子供たちがいる。使い切れない資産を貯め込んで、まだそれを増やそうとしている金持ちがいる。百年経てば、今、生きている人たちは、ほとんどが別の人たちに入れ替わってしまうに違いない。それでも人々はその時代を必死に生きようとしていた。
「することがないのなら、ずっとここにいてもいいのよ」
ルナは言った。
「ここではずっと平穏な日々を過ごすことができる。ゆったりした時の流れの中で私と永遠の時間を過ごしましょう」
「なんだ、やっぱり女神さまなのか?」
私は言った。ルナはこっくりと頷いた。
「あんたみたいな美人と永遠の時間を生きるって、そんな恵まれた人生は俺には向いていない。俺はあそこでいろんな人たちに揉まれながら生きるのが性に合っているのさ」
「そう、残念だわ」
「でも、この景色は素晴らしいね。ますます地球に愛着がわくというものだ。ありがとう、ルナ。この美しい景色を見せてくれて」
そう言うとルナは微笑んだ。素晴らしい笑顔だった。こんな笑顔にはもう二度と巡り合えないだろうと思った。気が付くといつものカウンターにいた。少し眠っていたようだった。「さっきここにいたバニーガールを見なかった?」
マスターに聞いてみたが、バニーガールなんていないと言われた。バニーガール姿の月の女神。もしかしたらそういう願望があるのかもしれない。グラスの氷はすっかり溶けてぬるくなっていた。少し水っぽくなった琥珀色の液体を一気に飲み干した。また、ルナに会いたいなと思った。




