第3話 祈りの記憶
夜が降りていた。
街は静かで、風も潮の音も息を潜めている。
まるで世界が、何かを隠しているようだった。
ユウマは宿の部屋に戻れず、街の外れを歩いていた。
神殿で聞いたあの言葉が、耳の奥でまだ響いている。
「泣く子を、神は潮へ返されました。」
ノエルの笑顔が、脳裏に浮かぶ。
小さな手で花を抱えていた姿。
あの祈りの言葉。
「泣かないでね。泣く人は、いなくなるから」
それは優しさでも救いでもなく、
――“予告”だったのかもしれない。
ユウマは街の北にある崖へ向かった。
そこには、祭の日に海を見下ろした丘がある。
潮の風が吹き、草が揺れている。
月が海面を照らし、波のひとつひとつに光を落とす。
彼はその光の中に、何かを見た。
人の形をしていた。
けれど、輪郭が薄い。
風に溶けて、海の泡のように消えていく。
「……ノエル?」
呼びかけると、それは一瞬だけこちらを向いた。
確かにノエルの顔だった。
しかしその瞳は、何の感情も映していなかった。
「ねえ、ユウマおにいちゃん」
声は、風と一緒に届いた。
「神様はね、泣く理由を消してくれるんだよ」
その瞬間、波が打ち寄せ、ノエルの姿は崩れた。
光が砕け、夜の海に吸い込まれる。
ユウマは膝をついた。
喉が締めつけられ、呼吸が乱れる。
胸の奥が熱い。
その熱は、悲しみではなく、怒りに近かった。
「……ふざけるな」
声が掠れた。
神も、祈りも、やさしさも――全部嘘だ。
泣くことを許さない世界なんて、優しさじゃない。
その時、背後で足音がした。
振り返ると、神殿の神官が立っていた。
灰色の衣を風に揺らし、無表情でこちらを見ている。
「祈りを拒む者には、悲しみが戻ります」
「俺は悲しみを捨てたくなんかない!」
「悲しみは穢れです」
神官の声が、夜気に溶けて広がる。
「穢れを抱く者は、神の光に耐えられません。
彼女もそうでした。」
ユウマは立ち上がった。
「ノエルを……“穢れ”なんて言うな。」
神官は首を傾げ、微笑みに似た表情を見せた。
「では、あなたも潮に還りなさい。」
その瞬間、足元の地面が光った。
白い花が無数に咲き、波のように揺れる。
風が吹き、潮の匂いが強くなる。
ユウマは光の中で拳を握った。
目の前の神官が霞む。
その手に触れようとした瞬間、
彼の頭の中で、ノエルの声が響いた。
「おにいちゃん、やさしいね。」
ユウマは叫んだ。
それが声だったのか、息だったのか、自分でもわからなかった。
夜の海が揺れた。
風が止まり、光が消えた。
残ったのは、静けさだけ。
波が打ち寄せては、何かを連れ去っていく音がした。




