第2章 第1話 朝の光の中で
朝、光がやけに冷たく感じた。
窓を開けると潮の匂いが広がる。
昨日と同じ街、同じ空、同じ海。
けれど、どこかが違っていた。
パン屋の鐘の音がしない。
昨日まで毎朝、ノエルが笑いながら叩いていたはずなのに。
ユウマは寝台から身体を起こし、階段を下りた。
木の軋む音だけがやけに大きく響く。
パンの焼ける匂いもしない。
棚の上には、昨日のままの皿と籠。
どこにも、ノエルの気配がなかった。
「……ノエル?」
返事はない。
代わりに、窓の外から潮騒が聞こえる。
それは優しく、どこまでも穏やかだった。
扉を開けて外に出る。
通りにはいつも通りの朝があった。
人々は笑い、店を開き、露店では果物を並べている。
青い空の下、世界は昨日と変わらないように見える。
なのに、ユウマの胸の奥にはざらついた違和感が残っていた。
「おはようございます、冒険者さん」
パン屋の隣の老婆が微笑んだ。
柔らかい声。穏やかな笑顔。
ユウマは思わず足を止めた。
「……この店の子、ノエルを知らないか? 金色の髪の小さい子だ」
「ノエル?」
老婆は首を傾げ、少し考えるように空を見た。
「この店にはずっとご主人しかいませんよ」
ユウマは言葉を失った。
老婆の背後、店の扉には昨日見た祭りの花飾りがそのまま掛かっている。
誰かがそれを付け替えた形跡はない。
まるで“昨日”という一日が、なかったかのようだった。
「……そんなはずないだろ」
独り言のように呟く。
周囲の人々が一斉に振り返った。
彼らの笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
だが、すぐにまた柔らかく戻る。
「今日もいい日ですね」
誰かがそう言う。
その言葉が、やけに不自然に響いた。
ユウマは店の裏に回った。
扉は閉まっている。鍵もかかっていない。
恐る恐る中へ足を踏み入れると、
部屋は片付いていて、いつものように整っていた。
ただ一つだけ違うものがあった。
ノエルのベッドの上に、白い花が一輪置かれていた。
昨日の祭で捧げた、あの花。
指先で触れると、花びらが乾いていた。
まるでずっと前からそこにあったように。
ユウマは拳を握った。
何かがおかしい。
何かが、決定的に間違っている。
窓の外に目を向けると、
ノエルの部屋のカーテンが風に揺れていた。
薄い影がそこに一瞬浮かんだように見えた。
「……ノエル?」
呼びかけた声は、静寂に吸い込まれて消えた。
外の通りでは、誰かが笑っている。
まるで何も変わっていないかのように。
ユウマはゆっくりと扉を閉め、
花を手に取って胸の前で握りしめた。
指先に花びらが砕ける感触が伝わる。
潮風が吹き込む。
その香りが、昨日より少しだけ重く感じられた。




