第2章 Episode5 潮の果てに祈る
空が赤く染まっていた。
夕陽のような色でも、炎のような色でもない。
血と潮とが混ざったような、濁った赤。
ユウマは神殿の前に立っていた。
崩れかけた石柱の隙間から、
淡い光がゆらゆらと漏れている。
街は静まり返り、誰の声もしなかった。
風が吹き、潮の匂いが強くなった。
空気の中に焦げたような臭いが混じる。
それが何か、ユウマはもう理解していた。
――祈りの終わり。
神殿の中から光が溢れ出していた。
神官の姿はもうなく、
床に散った祈り札だけが、炎のように揺れている。
それらがひとつずつ燃え尽きるたび、
街のどこかから誰かの笑い声が消えていった。
「やさしい世界」など、もうどこにもなかった。
ユウマはふらりと歩き出した。
階段の下、潮の風が吹く丘へ。
そこに――ノエルがいた。
白い服を着て、海の方を向いていた。
その髪は淡い光を帯びて、揺れている。
「ノエル……!」
彼女は振り向いた。
微笑んでいた。
いつものように、やさしい笑顔で。
「おにいちゃん、神様、怒ってるよ」
「……知ってる」
ノエルは小さく首を傾げた。
「もう泣いていいんだよ」
「泣いて……いい?」
「うん。だって、神様はもういないから」
ユウマはその言葉に息をのんだ。
ノエルの身体が、光の粒になって揺れている。
風が吹くたびに、その輪郭が崩れていく。
「ノエル!」
「ありがとう。
わたし、もう……泣かなくていいや」
その声は静かで、どこまでも穏やかだった。
光が舞い、彼女の姿が溶けるように消えていった。
残ったのは、ひとひらの白い花。
ユウマの足元に落ちる。
その瞬間、空が裂けた。
光の柱が降り注ぎ、神殿を貫いた。
耳を劈くような音が響く。
そして、声が降りてきた。
「悲しみを拒んだ者よ。
その涙を、永遠に捧げよ。」
ユウマの身体が宙に浮いた。
肌が焼ける。視界が白く染まる。
それでも彼は叫んだ。
「俺は――泣く!」
その叫びが届いた瞬間、光が爆ぜた。
神殿が崩れ、空が砕ける。
潮風が吹き荒れ、世界が音を失う。
しばらくして、静寂が戻った。
丘の上には、ユウマの姿だけが残っていた。
膝をつき、手の中に白い花を握りしめている。
その花は、もう色を失っていた。
「泣くことを、許してくれ。」
彼の声は、海の彼方へ消えていった。
潮が満ち、光が沈む。
やさしさのない世界が、静かに幕を閉じた。




