あめふりの涙 ポタリ
その夜、まよい森は、しずかに眠っていました。
葉の上をすべる風の音も、ヒューの足あとも、今はどこか遠くへ消えていったように思えます。
空は曇り、雲のすき間から月の光がこぼれていました。
その光が、木の枝の先にたまったしずくを照らします。
しずくは、まるで小さな宝石のように光り、ひとつ、またひとつと、ぽとん、ぽとんと落ちていきました。
音は小さいのに、森の奥まで響くようでした。
静寂の底で、だれかがその音に耳をすませているような、そんな気配がありました。
その中に、ひとつだけ特別なしずくがありました。
それは月の光をまるごと抱きこんだように、ほのかに金いろの光をまとっています。
ほかのしずくより、落ちるのをためらうように、枝の先でぷるぷると震えていました。
やがて、風がそっとその背を押します。
しずくは空気の中に浮かび、月明かりの帯を通って……
ぽとん。
音をたてて、苔の上に落ちました。
けれど、不思議なことに、そのしずくは、地面に吸いこまれませんでした。
ふわり、と宙に浮かんでいます。
まるで、森がその涙を手のひらで受けとめたかのように。
しずくの中で、光がひとすじゆらめき、かすかな声が生まれました。
「……さみしい、のかな」
それが、“あめふりのおばけ”ポタリの最初の言葉でした。
ポタリは、まだ半透明の小さな体で、自分がどこにいるのかもわかりません。
まわりは暗く、霧のような闇がゆらゆらしています。
けれど、風の名残がどこかでささやきました。
“ここは まよい森 ねむる森”
“君は そのなかの あたらしい声”
ポタリはゆっくりとうなずきました。
すると、体の中で光がやわらかく広がり、まわりのしずくたちが、きらきらと応えるように輝きました。
ポタリは、はじめて立ち上がりました。
足もとはふかふかの苔。
その上には、夜露の粒がたくさん転がっています。
一歩あるくたびに、しずくが跳ねて、ぽちゃん、ぽちゃんと音をたてました。
森の奥から、かすかな声が聞こえました。
「みんな、ちゃんと生きてるんだね」
それは、パリィの言葉でした。
葉っぱたちの声を聞くおばけの声。
その声は、まるであたたかい風のように、ポタリの胸の奥にしみこみました。
その瞬間、ポタリの目から、透明なしずくがひとつ、こぼれました。
ぽとん。
涙は苔の上に落ち、その場所から、小さな芽が顔を出しました。
そして、ゆっくり、ゆっくりと白い花が咲きました。
「……あ」
ポタリは息をのみました。
涙が、花を生んだのです。
「どうして……泣いたのに、こんなにきれいなの?」
ポタリは首をかしげながら、そっと花に触れました。
すると、風がふわりと吹き抜けました。
ひゅう、とやさしい音がします。
「やあ、新しい子だね」
声の方をふり向くと、そこにはヒューがいました。
透きとおる風のおばけ。
ポタリの涙に反応して、風の道をたどってきたのです。
「あなたが……ヒュー?」
「そう。風を運ぶおばけ。きみの涙、森じゅうに届いたよ」
「涙が……?」
ヒューは少し笑って、ポタリのまわりをくるりと回りました。
風の道にのって、ポタリの涙のしぶきが光ります。
「きみの涙が落ちたところ、どこも息づいてる。草がのびて、花が咲いて、森がうれしそうに息をしてるんだ」
「……じゃあ、泣いてもいいの?」
「もちろん。泣くのは、森を生かすことなんだ」
ポタリは胸の奥がじんわりとあたたかくなりました。
泣いてもいい。
泣くことは、いのちを育てること。
彼は小さくうなずくと、もういちど、そっと涙をこぼしました。
ぽとん。ぽとん。ぽとん。
涙が落ちるたび、そこに小さな花が咲きました。
青いのも、白いのも、少しだけ赤いのも。
森の地面が、やわらかい光の色で染まっていきます。
パリィの葉っぱたちが、それを見てささやきました。
「この涙、きれいね」
「うん。森が笑ってるみたい」
ミルの霧も、ヒューの風も、パリィの葉も、みんながポタリの涙の音に耳をすませていました。
やがて、夜がふけて、月が森の真上にのぼりました。
ポタリは花のあいだに座り、空を見あげました。
涙の跡がほのかに光り、それがまるで星座のように森を照らしています。
「泣くことは、かなしいことじゃないんだね」
そのつぶやきに、森がふっと息をしました。
木々がさざめき、霧の中で、ミルの“しゃらん”が小さく響きます。
ヒューの風が枝をなで、パリィの葉がそれにこたえました。
そして、そのざわめきは、森のさらに奥、水の底のように静かな場所に届きました。
そこでは、まだ目を覚ましていない“なにか”が、夢の中で、ゆらりと動きました。
それは、夜のしずけさにうたをうたう、おばけ。
“ねむり”をまもる存在。
その名は、ユラリ。




