風のおばけ ヒュー
その日、まよい森の朝は、とても静かでした。
霧が木のあいだをゆらゆらと漂い、枝のすき間から、金いろの光がこぼれています。
昨日の夜、霧のおばけミルがうたった“しゃらん”という音が、まだ森のどこかに残っていました。
それはまるで風になりそこねた音のかけら。
木々の葉のうえで、それがかすかに震えると、ふっと、空気が生まれました。
それは、はじめての「風」でした。
その風は、ふわりと森の奥へ流れていきました。
鳥の巣の羽根をそっと浮かせ、キノコのかさの上で、くすぐったそうに踊り、池のほとりでは、眠っていた花のつぼみをくすぐりました。
森のすみずみを旅して、最後にたどりついたのは、霧の中に眠っていた、ちいさな白いかたまり。
風はそれを「ひゅう」と揺らして、起こしたのです。
かたまりがゆっくりと目をあけました。
まだ形もおぼろげで、声を出すことも知らないその存在は、ただ風といっしょに、音をまねしてみました。
「……ひゅう……ひゅう……」
風のまねをして、風の音でうまれたおばけ。
それが“ヒュー”でした。
ヒューは、まだ自分というものがよくわかりませんでした。
けれど、森の空気が自分の中をすりぬけていく感覚が、とても心地よくて、楽しくて、自然と笑いました。
笑うと、森がかすかにゆれました。
木の葉が「さらん」と鳴り、水面が「ぽちゃん」とこたえます。
音が返ってくるたびに、ヒューは胸の奥がふわっとあたたかくなるのを感じました。
(音は、ひとりじゃ生まれないんだ)
ヒューはそう思いました。
それからヒューは、森じゅうを駆けめぐりました。
木の枝のあいだをすりぬけ、葉っぱの裏で寝ている虫をそっとゆらし、水の上で輪をえがきながら、ひゅう、さらん、ぽちゃんと、音を重ねていきます。
どこを通っても、音が生まれます。
音が生まれるたび、森が生きているように見えました。
「もっと、もっとひびけ!」
ヒューは叫びました。
風が森を駆け抜け、光が葉のあいだからこぼれ落ちます。
そのすべてが、まるでひとつの歌のようでした。
けれど、夕方になるころ、ヒューはふと、立ち止まりました。
森のいちばん深いところ。
霧はもう薄れていて、ミルの姿も見えません。
木々は高く、空は遠く、どこまでも風は通りぬけるのに心の中は、ぽっかり空いているようでした。
「……ひゅう?」
ヒューは首をかしげました。
風はどこへでも行けるのに、なにかを“見つけたい”という気持ちだけが、胸の中に重たく残っていました。
そのとき。
足もとで、枯葉がひらりと舞いあがりました。
どこからともなく、かすかな“しゃらん”という音が聞こえます。
(ミルの音だ)
ヒューは目を見開きました。
「ねえ、ミル。ぼく、きみの音を見つけたよ」
けれど、返事はありません。
ただ、森の木々が小さくざわめいた気がしただけでした。
ヒューは、ゆっくりと息をすいました。
森の匂い、木々の息づかい、遠くの水の音。その全部が、ミルの残した“歌のかけら”のように感じられました。
「この音を……もっと広く、もっと遠くまで届けたい」
ヒューはそうつぶやくと、体の中に森の空気をたくさん吸いこみました。
風がふくらみ、森の葉が震え、枝がざわめきます。
ひゅう、と鳴る。
しゃらん、と返る。
ミルの音とヒューの音が重なって、森じゅうがひとつの楽器になったみたいでした。
その音に気づいて、木の幹の中で眠っていた、べつのおばけがゆっくり目をあけました。
それが、森の次のおばけ。
葉っぱの声を聞く子、パリィでした。
風は走り、光は揺れ、森は生まれ変わるように息づきました。
ヒューは、確かに感じていました。
「ぼくは……“森を動かす風”なんだ」
ミルの残した音が、今も息づいていること。
自分がその音をつなぐ役目を持っていること。
夜、森の上を吹き抜ける風は、どこか楽しそうに笑いました。
「ひゅう、ひゅう」
それはまるで、森そのものが歌っているようでした。
こうして、風のおばけヒューは生まれ、森に“音”といういのちを運ぶようになったのです。




