#008 Requiem
東京都・年齢不詳女性「同僚や教え子の態度が気に食わないのですがどうすれば良いでしょうか。すぐ手が出てしまう私も反省していますが、拳は口程に物を言うと習ったので多分一番効果的だと思います。自己解決かな」
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所狭しと軒を連ねる屋台の数々では、生鮮食品から日用品、タバコから土産物まで何でも揃った。エネルギー革命以前と変わらない街の様相を保っているのは、ここが中国政府の監視の目を掻い潜って運営されている非合法取引市場であるからだろう。よく目を凝らせば楽器や楽譜等、処罰の対象になる物品まで売られている。
新エネルギーへの転換が図られた後も変わらない賑わいを見せているこの街は、観光地として人気が高かった。その一方で、非合法取引が盛んに行われている区画には日本の自警団に似た組織も多く潜んでおり、戦闘が頻発する地域でもあった。光と闇が混在する雑多な街といった印象を受ける上海は、横浜港から乗った彼らにとってはイースト・アラベスクが最初の停泊地として立ち寄る場所であった。
京哉達が乗り込んだ高速船は公海から中国の排他的経済水域内に入る。夕方にイースト・アラベスクを降りてから既に1時間が経過しており、青紫に染まる空がサイバーパンクな雰囲気を醸し出す街並みを一層、異質なものに仕上げていた。
後方デッキに出た京哉は、海風が激しく吹き付ける中、天高く左腕を伸ばした。すると、バタバタと激しく羽ばたく音と共に全長100センチ程のハクトウワシが彼の腕に止まった。
人に慣れている様子で、足に括り付けられている金属のパーツを取り外している間も、甘えるように京哉の髪の毛に頭をなすりつけていた。
「楽団からか」
「おう。予想通り仕事回ってきたなー」
銀色のカプセルの中に入っていたのは、小さく折り畳まれた紙。広げてみると、そこには『大衆食堂 黄鶏』と書かれていた。
「此処に向かえって事だろうな、多分…」
「依頼の詳細が書かれてない時っていうのは、大抵ヤバいやつだぞ京哉」
麗慈の言葉を聞いてあからさまに嫌そうな顔をする。彼自身にも思う所があり、寝不足の体がさらに重だるく感じられた。
すっかり日が沈み、遠くに見えるネオンの灯りが灰色の空にボンヤリと色を滲ませる様が異国感を一層際立たせる。
高速船から上海港に降りた京哉達は、指示された通りにその店の名前を探す事にした。
「キョウヤって中国語もできるの?」
英語やドイツ語、フランス語も使いこなしていた京哉に、シェリーが尋ねる。
「あー、無理。勉強してねーや。でも、麗慈がいるから心配ねーよ」
彼の返事に、麗慈は無表情でピースサインを返した。
彼らはエージェントとして各国語を叩き込まれているが、基本的に自分が担当する地域のものに限られている。京哉は日本に来るまではヨーロッパ圏の依頼が多かったという。
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派手なネオンで彩られた看板が輝き、夜の街を闊歩する人々を照らしている。
港から上海市方面に向かうバスを待つ間、ターミナル内のトイレで正装からカジュアルな服装に着替えていた三人。着慣れない服装から解放され、機嫌のいい様子のシェリー。
彼女は屋台街の様相に目を輝かせていたが、興味の向く方へと歩み出そうとしたその首根っこを京哉が引っ張って引き戻した。
「何すんの!?」
「ソレはこっちのセリフなんですけどー……君のような子供がウロチョロして良い場所ではないのだよ、メスガキくん」
京哉がそれとなく指差した方向には、数人が群れている酒屋。縦にしたドラム缶の周囲で何かの取引をしている様子だった。その横の地べたに座ってクッタリと寝ている人間もいる。
彼らを見てもこれといってピンとこない様子のシェリーの肩を叩いた麗慈が彼女に耳打ちした。
「此処は麻薬が横行してる街。人攫いも多くて、攫われた人間の末路はそのまま売られるか、バラされて売られるか…」
「や…ヤバい所って事じゃん…」
急に焦り出した様子のシェリーは、すかさず京哉の影に隠れる。
その実、エネルギー革命以降の上海では日本と同様に警察と民間人との間で衝突が絶えない。ハンネス機関に関わる様々な人、物に厳しく制限をかけている中国でも、やはり多くの音楽家が隔離施設や刑務所に収容されていた。
そして、表立った対立の裏でそれまで燻っていた様々な悪が台頭し、各地で組織的な動きをみせるようになっていた。
上海市北部に位置するこの街では、かつてのマフィアが自警団的に地域をまとめ上げ、法に触れる物ならなんでも揃う闇市が形成されていた。
「依頼の内容にもよるけど、下手したらずっとホテルにお留守番とかあり得るかもねー」
あー可哀想ーと、心にも無い事を口にする京哉を彼女は眉間に深いシワを寄せながら睨み付けた。
「怖い怖い!そんなに怒るな……よっ」
狭い路地を曲がった瞬間、唐突に彼女の肩を掴んでしゃがみ込んだ京哉。彼らの頭上を暗がりから伸びる鉄パイプが横切る。空を切ったそれは店舗の土壁に当たって甲高い音を立てた。
路地に面した店舗からゾロゾロと怪しい雰囲気の男達が現れ、三人を取り囲む。中国語で怒鳴り声をあげているが、理解出来ない京哉とシェリーはポカンとしていた。
「荷物を置いていけ、その女も置いていけ…だってよ」
麗慈の翻訳が入り、シェリーは表情を引き攣らせた。
「ヤバい…バラされる」
「お前、バラされるモン持ってないだろ」
京哉得意の畜生発言に怒り狂う彼女だったが、男達がジリジリとにじり寄ってくると、恐怖の方が勝った様子で彼の腕にしがみついた。
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次々に襲いかかってくるチンピラ達を去なした京哉は麗慈の方にシェリーを押し付けて、最後に飛びかかってきた男の鉄パイプをジュラルミンケースで弾き飛ばした。
「走るぞ、シェリー。アイツ、こんな狭い所で大立ち回るつもりだ」
キャリーケースを放置し細い路地に入った麗慈とシェリーは、京哉のいる場所から遠ざかるようにして走る。
二人が見えなくなったのを確認した京哉は、いつの間にか組み立てられたフルートのリッププレートに下唇を乗せながら後方に連なるバラック小屋の屋根に飛び乗った。
何段にも重なって聳える違法建築は建材が無意味に突き出している箇所が多々あり、それを踏み台にしながら意図も容易く頂上まで辿り着く。
青白い光と共にバラック小屋を覆うトタン板がドロドロと溶けてて変形し、男達がいる場所にドーム状の檻を形成した。
「荷物はくれてやるよ!じゃあねー」
残された木製の骨組みの上でそう言い残した京哉は、一段低い隣の小屋の屋根に飛び降り、彼の作った巨大な鳥籠から遠ざかっていく。
「畜生ッ!何なんだよコレ!」
閉じ込められたチンピラ達は、目の前の鉄格子を蹴り付けながら騒ぎ立てる。
街の人々も、いきなり目の前に現れた巨大な建造物にざわつき始めていた。
「ちょっと通して!」
野次馬の作る人集りを掻き分けながら鳥籠に到達したのは、頭の両サイドにシニヨンを乗せた所謂中華風ヘアーの女。
「何があったの?」
格子越しに男達に尋ねると、彼らは気まずそうな表情を浮かべた。
「あ…姐さん……!」
「いや、何てことは無いんですよ!観光客がいたからその、声を掛けて…」
そこまで聞いた女は腕を組んで仁王立ちしながら顰め面を見せ、声を荒げた。
「また恐喝?真面目に働けって言ったよね?」
「すす…すみません……でも、あいつら変ですよ!横笛みたいなの持った奴は奇妙な技使って俺たちを閉じ込めるし!」
周囲のバラック小屋の壁が剥ぎ取られ、目の前には巨大な鉄製の鳥籠が聳えている。信じ難いが、彼らの供述通りトタン板から目の前の格子状の構造物を作り出したとしか考えられない。
「……どんな奴らだった?」
「3人組で…男二人は多分日本人でした。女のガキは少なくともアジア人じゃねぇよ」
「日本人…珍しいわね。ちょっと調べてみる!」
男達から情報を得た女は路地の向こう側へと駆けて行ってしまい、彼らが鳥籠の中から出られるのは随分先の事になりそうだった。
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楽団本社のエントランスロビーに、間違いなく場違いな恰好をした男が現れた。
警戒した受付嬢が眉を顰めながらそっと立ち上がると、カウンターに歩み寄って来た男は慣れた様子で包帯に包まれた右手を上げた。
「タクト!日本に行っていたんだろ?何してたんだよ」
タイミング良く受付嬢の背後を通った上司の男が声を掛け、彼女を他所に二人で親しげに話し始めた。
「愚息に指導してきたんだよ。もっと日本に居たかったんだけどさ、警察に追われそうだったから帰ってきたよ。ホント窮屈な国になっちゃったよねー」
日本から帰国した託斗は、やれやれと溜め息をつきながら紙袋を彼に手渡した。
「はい、お土産ー。みんなで分けて食べてよ」
エレベーターの中に消えていく彼を見送ると、男は紙袋の中身を覗き込んで笑い始めた。
「北海道と京都って確かかなり離れてるだろ?しっかり楽しんできたんじゃないか」
夕張メロンの練り込んであるキャラメルの箱と生八ツ橋の箱を取り出し、隣で呆けている受付嬢に手渡した。
「あのー…今の人って?」
「君は知らなかったか。彼は楽団専属の作曲家兼指揮者だよ。ああ見えて結構凄い奴なんだ」
ほう…と生返事を返した受付嬢は、キャラメルの箱を包むシュリンクの一部が破れていることに気が付いた。
白い包み紙を開けて甘い匂いのする茶色の立方体を口に放り込むと、最上階にあるロジャーの部屋にノックもせずに進入する託斗。
突然の来訪者に何事かと目を丸くしていたロジャーは、彼の姿を確認すると安心したように書類仕事に戻っていく。
「タクト、人の部屋に入る時はノックしなさいといつも言ってるだろ?」
「思春期の子供の部屋でもあるまいし、別にやましい事してねーなら良いじゃん」
子供のような反論を口にする託斗は、ロジャーの机の前まで来ると踵を返して天板に腰掛けた。彼の尻の下に敷かれた書類を慌てて救出するロジャーは託斗の機嫌が悪いのだと察する。
「可愛い息子と久しぶりに会えて良かったじゃないか。何か不満でもあるのか?」
「あるね、不満だらけ!……異端の動きが大胆になってきた。盗作の楽譜を使って世界中で僕らの関係者を狩り始めてる」
急に真剣な表情になった託斗に、ロジャーが問う。
「タクト、盗作っていうことは紛い物ということになるんだろ?それだけで楽団の旋律師と張り合えるだけの力を得られるのか?」
一般に、楽団に所属する音楽家全員が旋律師と呼ばれており、皆エージェントとしての教育を受け世界中で暗躍している。
彼らは高い演奏技術を持つが故、生み出せる音エネルギーも外界の音楽家達より秀でていた。戦闘においても申し分ない能力を発揮している。
しかし、超絶技巧を受け取った奏者達は更にその上をいく実力の持ち主であった。
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「超絶技巧全21楽章を完奏出来たとしても、制約がある限り滅茶苦茶に異能を使える訳じゃない」
ほら見て、と続けた託斗はロジャーの目の前に包帯に巻かれた自身の腕を見せた。
「宇迦之御魂神と那珂島茅沙紀の因果を京哉に断ち切らせる為に、僕が魂から引き摺り出した時にやられたんだけどさ、麗慈の奴はこの傷見て消毒ポンポンしかしてくれなかったんだよねー」
「アズサの弟子か…大己貴命を使ってはくれなかったのか」
「この程度では使いたくなかったんだよ。奴は異能で怪我を治癒させる代わりに耐え難い睡魔に襲われる…使うたびに睡眠時間は長くなり、やがて目覚めなくなる。これが、異能を得ると言う祝福に対する災厄ね」
ロジャーは神妙な面持ちで更に問いを重ねた。
「お前の楽譜を模倣したモノにも、制約があって何かしらの災厄がもたらさせるはず、ということか…」
「その通りー!…でも、僕は今回の宇迦之御魂神の件で一つ解った事がある」
託斗は机から降りると、部屋の壁面に埋め込まれた巨大な本棚の前に仁王立つ。分厚いハードカバーに綴じられたそれらの背表紙をじっと眺めると、勝手にその中の1冊を手に取った。ロジャーが保管していた第17楽章の楽譜である。裏表紙の焼印は消えていた。
「僕の意図した表現で完奏しないと、祝福を受けることなく災厄に蝕まれる……」
茅沙紀は発電所の地下施設で岡島によって無理矢理楽譜スコアを演奏させられていた。そして、茅沙紀の精神を稲荷が護り、躯を荼枳尼天が奪った。
「だから僕は超絶技巧の練習をさせる時、必ずマエストロに師事させてる。もし盗作が制約を無視した使い方をされてるとしたら、本来の異能を享受した訳じゃなくて……災厄が暴走してるだけなんじゃないか、ってね」
楽譜を本棚に戻した託斗は、今度は来客用のソファに寝そべって天井を仰ぎ、両手を上げて指揮棒を振るかのように軌道を描いた。
呑気に鼻歌までかましている託斗の近くまで歩み寄ったロジャーは、両腕を組みながら目の前の子供のような大人を見下ろす。
「盗作が多く流通すれば、それを知らずに災厄の餌食になる者もでそうだな」
「そうなったらなったで、僕らが因果を断ち切ってやるまでさ。また新しい食い扶持ができたね、社長」
「……気楽で良いな、お前は。第一、そんな危険な代物をよく息子に手渡したな。彼も災厄を被るんだろ?」
呆れ顔のロジャーを見上げた託斗は、そうだねぇーと呟くように返す。そして上体を起こしてソファに座り直すと、深く溜め息をついた。
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上海市内を南下し、寿寧路という繁華街裏に屋台が集う通りに辿り着いた京哉達。現地人の話によると200メートル程のこの短い屋台街の中に、例の大衆食堂があるという。
時刻は21時。腹を空かせた白い野獣の不機嫌メーターが上限に達する直前である。一刻も早く依頼についての手掛かりを得て楽団の手配した宿に辿り着く必要がありそうだ。
「麗慈ー……この通りにあるってのは確かなのか?」
「さっきのジーさんはそう言ってたけどな」
そう言いながら、既に2往復している。
「…耄碌ジジィに聞いてんじゃねーよ」
シェリーに釣られて京哉も不機嫌になりつつあり、保護者は頭を抱える。
そうして、お手上げ状態で立ち止まってしまった三人の前に、やたらガタイの良い青年が笑顔で歩み寄ってきた。
「お兄さん達、観光?」
あまりにも胡散臭い笑顔に、麗慈は眉を顰めて警戒した。
「観光…ですけど……」
「元気なさそうだね。困り事があるならウチの店に来るかい?情報通なキャストが集まってるからさ」
「…あっ、そーいう感じの…」
しょんぼりと俯いて座り込む京哉の肩を叩いた麗慈は、シェリーに聞こえないように耳打ちした。
「…多分、キャッチ。店入れば情報教えるって言われてるけど、どーする?」
「はー!?ぼったくりに決まってんじゃん…つーか、シェリーが入れないだろ…そんな店」
「だよな…」
すくっと立ち上がって踵を返した麗慈は、断りの返事をしようとキャッチの男に歩み寄った。
「すみません、探してる店があるので…「わぁ!良いね!」
麗慈の話を遮って喜び始めた男は、座り込んでいる京哉の腕を掴んで無理矢理持ち上げる。三人の目が点になっている間に、男の後方からゾロゾロと同じくらい体格の立派な男達が現れた。
「えー!?なになに!?あらやだっ!可愛い子ー!」
「ウチの店きなさいよ!うんとサービスしちゃうんだから!」
彼らの会話を聞いて全てを察した麗慈は、両腕を抱えられて身動きの取れない京哉に哀れみの視線をむける。
「えっ!?なに!?なになに!?麗慈!?僕バラされる!?怖いんですけど!」
飛び交う言葉の意味が解らず混乱する京哉を見て、彼等は益々嬉しそうに盛り上がっていた。仕方ない、と助け舟を出すべく麗慈が再び話をする。
「そういう店なら、この子もいるんで遠慮させてください」
「あらやだ、彼氏だった?ごめんなさいね…そういうことなら…「いえ、断じて違います。ご自由に連れてって煮るなり焼くなりしてください」
麗慈が必死に説得してくれていると思っている京哉は緊張した面持ちで彼の方を見つめていた。そして、目が合った瞬間に合掌され、期待してしまった分一気に地の底に叩き落とされるように絶望した。
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捕獲されたエイリアンの有名な写真の如く、両腕を筋骨隆々な男にガッチリと掴まれて引き摺られていく京哉の後ろを、少し距離をあけて麗慈とシェリーが追う。
寿寧路を離れ、雑居ビルの立ち並ぶ一角に入ると、ネオンが煌びやかな看板が見えてきた。
京哉は中国語がわからない、シェリーは未成年で店には入れないが外に1人で置いておく訳にもいかない、と説明すると、キャッチの男は全く理由のわからないサムズアップをして三人を店の中に押し込んだ。
怪しげにライトアップされた店内の雰囲気に小首を傾げる無垢なシェリーの両目を手で塞いだ麗慈。京哉は奥の小部屋に連行されていった様子だ。
コの字の形をしたソファの真ん中にシェリーと麗慈が座ると、ウェイターの男が目の前にメニューを広げた。
店の雰囲気とは裏腹に、書かれている飲食物の内容はごく一般的だった。しかし、右端の値段の欄に目を移した麗慈はスッと血の気が引く。
「…て、手持ちがあまり無いので……」
「レン・クー様より先にお支払い頂いておりますので、ご自由にどうぞ」
全く聞き覚えのない名前に、麗慈は訝しげな表情をした。
「……レン・クー?」
そう聞き返した丁度その時、店の入り口から1人の男が姿を現した。そして、迷う事なく二人の座る卓に歩み寄ると、和かな表情を浮かべながらソファに腰を下ろした。
細身で長身、フェザーパーマの掛かったワンレン黒髪マッシュヘアのスーツ姿の男。縁の太い眼鏡も相まって知的な印象を受ける。
「驚かせてしまい申し訳ございません。私はレン・クーの使いの者です」
話し方も仕草も爽やかな好青年であり、胡散臭さも感じられない。もしやと思い、麗慈は楽団の依頼人かどうかを確かめる合言葉を発してみる。
「宵の雨は」
「始まりの宴と共に……お待ちしておりました。楽団のエージェントの方々」
ハンカチで目隠しをされたシェリーの口にオムライスを運んでやると、まるで鳥の雛のように嬉しそうに口を開ける。
その様子を和やかな表情で見守る青年は、自らを李と名乗った。そして、依頼の内容へと話を移す。
「若乃宮さんは、一年程前から上海の一部の街に蔓延る福音と呼ばれるドラッグについてご存知ですか?」
「…いや……聞いた事も無いな…」
麗慈の答えを聞いて、李は一枚の写真を差し出す。そこには、ミイラの様に痩せ細り地を這う複数の人間が写っていた。その中には幼い子供の姿も見られる。
「福音を摂取したと思われる人間の成れの果てです。彼らは全員更生施設に収容されていますが、離脱症状の苦しみや激しい幻覚による錯乱、凶暴化によって再び社会生活に戻るのは不可能とされています」
「…子供まで……かなり蔓延しているな…警察は?」
「警察は今、音楽家や楽器、楽譜類の取り締まり以外では動きません。あなた方の国と、状況は似ています」
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「…そうか?日本に比べるとかなり自由な暮らしをしてると思うが…」
商店や屋台が連なり、活気あふれる様子は今の日本には無い。電気に関しても普通に供給されているように見える。
「人が多すぎるんです、この国は。だから、取り締まりの手が及んでいない場所も多い。闇市が良い例ですよ」
膝の上に肘を置き胸の前で手を組んだ李は、前屈みになって額を手の上に乗せる。
「巨悪すらもナリを隠せてしまうのが大都市上海です。そして、無能な警察と汚職に塗れた政治家の所為で民衆が泥水を飲む……。レン・クーは今回、そんな国の汚点の一つをあなた方の手で浄化していただきたい、と今回の依頼をさせていただきました」
目の前のローテーブルに一枚の紙が置かれた。
「……武闘賭博。地下闘技場みたいな感じか?」
「政府や警察高官に強いコネクションを持つ人物によって年に一度開催される無法地帯の祭典です」
各スポンサーが腕によりをかけて育て上げた格闘家達の強さを競わせる大会であるという。格闘技の大会と言われれば聞こえは良いが、実際は武器の使用が許されたデスマッチであった。
試合の度にその勝敗に金銭を賭け、流れ出る鮮血に熱狂するという。専用の闘技場は上海市のど真ん中に聳え立っており、通称『死出への監房』と呼ばれている。
「この武闘賭博において絶対王者と言われているのが、ラウ・チャン・ワンです。彼が王者でいる限り、この馬鹿げた殺人ショーは無くならない…」
神妙な面持ちで語る李に、麗慈は尋ねる。
「…その理由は?」
「大会への出場資格は、強力なスポンサーがいる事。彼のバックには大会主催者であるサム・ツェーファがいます。サム・ツェーファは上海市の各地を牛耳るマフィアの親玉です」
主催者があつらえた最強の武闘家を打ち負かす者は大会が始まった10年前より唯の一人も現れていない。
「巨悪が上海の頂点としてのさばっている以上、垂れ流される犯罪によって民衆は苦しみ続けます」
麗慈は先程李が提示した写真に再び視線を落とした。上海に蔓延る悪が齎す毒が市民を蝕み続けている。その状況は上海の街を牛耳る者を排除しない限り変わらないのだと言う。
「王様ジャンケンみたいだな…」
「ええ…しかし、ラウに勝つ事ができれば、サム・ツェーファによって破壊されたこの街を取り戻す事ができるのです」
姿勢を正し、スーツの襟も正した李が麗慈に向き直り、深々と頭を下げた。
「今大会、大財閥当主であるレン・クーがあなた方のスポンサーとしてバックアップ致します。必ずや優勝し、上海を救ってください」
こちらは前金です、と言った李はスーツケースを取り出し、ローテーブルの上に置いた。蓋を開けて中身を見せられると、敷き詰められた札束は軽く30万ドルはある。
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李の真っ直ぐな眼差しに、麗慈は眉を顰めて頭を掻く。やはり厄介な依頼であった、と嫌な予想が当たってしまい気分が落ちた。
「一つ聞くが…楽団は基本、表舞台での任務は受けない。旋律師の顔や氏名が晒されると都合が悪いからって理由なんだけど…本社を通ったって事は何か手があるのか?」
「はい。こちらで偽の戸籍情報を作成いたしました。大会期間中は中国人として振る舞っていただけます」
成程…と相槌を打った麗慈は、次の懸念事項について問う。
「戦うのは俺じゃなくてもう1人の…」
そこまで言った所で、小部屋のドアがうるさく音を立てながら開き、衣服を乱され疲弊し切った様子の京哉が飛び出してきた。わんわん泣きながら麗慈の背中にしがみつく。
「うわあああぁん!麗慈のバカ!ど畜生!もうお嫁に行けない!」
ドカドカ背中を殴りながら騒ぐ京哉を見て、李はズレたメガネを片手でそっと直す。
「…もしかして……」
「……ああ、こっちが…」
苦笑いを浮かべた李を、京哉が横目で睨みつける。
「誰、コイツ?アイツらの仲間?」
「ちげーよ…依頼人の使用人らしい。お前が舐り回されてる間に内容も全部聞いておいた」
麗慈の言葉を聞いて、京哉は顔面を両手で覆いながら号泣し始めた。
「あ゛あ゛あ゛ッ!ごわ゛がっだっ!!誰も信じられない!」
再び騒ぎ始めた京哉の首根っこを掴み、満腹になって居眠りを始めたシェリーを背負うと、麗慈は歯を食いしばりながら席を立った。
「あの、こちらは…?」
スーツケースの蓋を閉めてそっと前に出してきた李に、首を横に振って答える。
「楽団では前金は貰わない。割に合わないと判断した時点で依頼は放棄させてもらうからな。金のやり取りは本部とやっておいてくれよ」
そう告げた麗慈だったが、出口に向かう途中に立ち止まると李の方を振り返った。
「そういえば…大衆食堂、黄鶏ってのは…?」
「ああ…ここらへんの地域での隠語です」
その大衆食堂を探している人物は顔も知らない取引相手を探しているから、寿寧路に向かわせなさい。短い屋台街を何度も往復しているはずだから、迎えに行ってあげなさい。…という暗黙のやり取りがあるのだという。
李は何処に潜んでいるかわからないマフィアの手の者を警戒し、初めから人の出入りが少ないこの店で依頼に関するやり取りをするつもりだったのだろう。
自然な流れで観光客に扮していた三人をキャッチさせ、店に誘わせた。あの驚き様から察するに、京哉がもみくちゃにされたのは、きっと李にとっても事故だったのだろう。
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上海市中心部に聳える高層ビルの最上階が彼等の砦であった。
全面ガラス張りのリビングから市民らが作り出す夜景を見下ろしながら、サム・ツェーファは太い葉巻の煙を肺から一気に吐き出した。
華美な装飾の施された家具、調度品の数々、そして床に敷かれたアムールトラの絨毯。室内に存在する全てのものが一級品であるこの空間で唯一似つかわしくないのは、目隠しをされ、後ろ手に縛られて床でのたうち回る一人の男の存在だけ。
「奴の調子が上がってないそうじゃないか。先日の試合でも投薬で辛くも勝利したと聞くが?」
葉巻の火を男の額に押し付けながら問うサム。足元で叫ぶ男を、まるで汚物を見るような蔑んだ目で一瞥すると、後方に控えていた側近に合図を送る。
すかさず男に歩み寄った2人の側近は、彼の脇に腕を入れて持ち上げると、モーター音と共に自動で開かれていく大きな窓の際まで引きずっていった。
カーテンが激しくはためく音と、体に感じた強烈な風で事態を察した男は泣き叫び始めた。
「首領…ッ!奴はもう戦い続けるには歳を取りすぎています!そのうち、どんな投薬も効かなくなってしまいます!……それでもあなたは…」
サムが右手を上げたのと同時に、側近達が男を窓の外に蹴り落とした。地面に吸い込まれていった男の断末魔はすぐに聞こえなくなる。
不機嫌な様子で革張りの大きなソファに腰掛けたサムの元に、一人の使用人が駆け寄ると、彼の斜め後方で跪いて要件を述べた。
「首領、来客でございます。」
「客だァ?俺は今、気分が悪い…見てわからぬか?」
ギロリと三白眼に睨まれた使用人は、肩を震わせながらも再び口を開く。
「申し訳ございません…!た、ただ…彼らは自分達を福音の売人だと名乗っておりまして…」
福音という単語に、サムは眉を顰めた。
彼等が牛耳る上海の一部で蔓延している、強力なドラッグの名である。
「…俺のシマで勝手に金を稼いでいた奴らか……自らお出ましとは良い度胸だ」
通せ、と命令したサムは手すりに肘を付き、扉の方を睨み付けた。
引き戸の滑車が床を滑る僅かな音と共にそこに姿を表したのは、カッチリとスーツを着込んだ三人の男達だった。
「お初にお目に掛かります。我々、福音を産み出した異端という者です」
一歩前に踏み出したのは、顔の半分を白い面で覆った金髪の青年。彼の話す英語を、もう一人のスーツの男が北京語に翻訳する。
「外国人か……ウチの縄張りで好き勝手やっているそうだな?そんな商売を許した覚えはねぇぞ?」
威圧的に返したサムに対して、面の男は怪しい笑みを浮かべている。
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「ご心配をお掛けして申し訳ございません!……ですが、我々は何も…貴方様に楯突いて金稼ぎをしようなんて考えは毛頭ございませんよ!……むしろ、貴方様のお力になりたいのです」
控えていたもう一人の男が手に持っていたスーツケースを開き、サムの目の前に差し出す。そこにはハードケースの冊子が収められており、表紙には何も書かれていない。
「何だコレは?」
「福音でございます…」
福音はドラッグと聞いていたサムは立ち上がって激昂する。
「俺をバカにするのか?コレの何処がドラッグだというのだ!?」
「これは、楽譜でございます。奏でる事により、聴衆の精神に作用し、一時的な多幸感、有能感に包まれます。そして…効果切れと同時に、飢えた猛獣の如き凶暴性を発揮するのです」
にわかには信じ難い面の男の証言に、サムの怒りは収まらない様子だった。聞くだけでドラッグのような効果を得る音楽など、彼の人生では一度たりともその存在を聞いた事がない。
おやおや、と困り顔を見せた面の男はポンと手を叩いて、これ名案とばかりに自信満々の表情で続けた。
「貴方様が飼われておいでの格闘家の…ラウ・チャン・ワンでしたか?彼の次の試合で、その効果をご覧に入れましょう!」
「奴は無敗の王だ。そんな得体の知れない音楽や貴様らの提案に乗るとでも思ったのか?」
鬼の形相でのしのしとにじり寄ってくるサムに、面の男はニヤリと笑ってみせた。
「では、代わりに…道端の小僧に不成者の集団でも殺させましょう。その様子を見ていただければ、貴方様もきっと、この福音の虜になりますよ…」
何度凄んでも能天気な笑顔を見せる面の男に底知れぬ気味悪さを覚えたサムは、早く彼らを追い出したいという気持ちも相まって、やれるものならやってみろと口走っていた。
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上海市の中心部、死出の監房と呼ばれている武闘賭博の会場を見下ろせる位置にある高層マンション。レン・クーの計らいで、大会期間中はその一室に身を置く事になった京哉達。
4LDKの広々とした間取りに、充実した家具や電化製品の数々。あてがわれた部屋に入った彼らは、おぉ…と感嘆の声を漏らす。
「私は皆様の世話係として下の階におりますので、ご用があればなんなりとお申し付けください」
カードキーを手渡しながらそう告げた李は、キッチリと頭を下げて玄関の向こう側へと消えていく。
鍵を受け取った麗慈がリビングに戻ると、すっかり元気を取り戻した京哉と目覚めたシェリーがどの部屋を使うかで喧嘩をしていた。
またコレの仲裁をしなければならないのか、と溜め息をついた麗慈は、二人をソファに座らせてその間に自分が陣取る。
「部屋なら十分あんだろ?何を騒いでんだよ」
「ベッドは2つしかねーんだよ。普通に考えて、僕が1つ、麗慈が1つ、メスガキはこのソファだろ」
「ぜーーーったいに嫌だ!アタシが1つ使うから、キョウヤとレイジでもう1つ使えば良いじゃん!」
シェリーの反論に、二人は声を揃えて「絶対無理」と答える。
不毛な言い争いに、収拾がつかないと見切りを付けた麗慈は二人を放置して備え付けのテレビの電源を入れた。
チャンネルを回しているとニュース映像が映し出されたため、そっとリモコンをローボードの上に戻す。
速報として流れている映像には逃げ惑う市民の様子。上海北部のバラック小屋の連なる通りで連続通り魔事件が発生したのだという。
ただならぬ様子のテレビ映像に、言い合いを続けていた二人も静かになり画面の前に近付いてきた。
「何かの事件?」
「ああ…ついさっき、通り魔だってよ。俺達がいた街だ…」
次に映し出されたのは、見覚えのある男。右腕をタオルで覆い、左手でそこを押さえているが白いタオルが真っ赤に染まっていた。
『いきなりだ!……あぁ、知らねぇガキどもがデケェ肉切り包丁ぶん回して襲ってきたんだ!ヤベェよ…目の焦点合ってねぇし、アイツら…』
チンピラが語った事件の状況に、麗慈は耳を疑う。彼らは確かに観光客を恐喝して荷物を奪うような不成者ではあるが、子供が、しかも集団で彼らを襲うなんて信じられない。
隣でポカンとしている京哉とシェリーにニュースの内容を翻訳してやると、二人も同様に困惑の表情を見せた。
「…何だよそれ……治安終わってる云々よりも、子供がって…」
「全員狂乱状態で最後は自分の首を掻き切って死んだらしい……明らかに異常だろ」
錯乱する現場の状況を繰り返し報道する中、現場のライブ映像に切り替わったとき、画面の端に怪しい半面を付けたスーツの男が映り込んだ。
周囲に緊張が走る中、不謹慎にもニヤリと笑っている。ただの映りたがりかとも思ったが、その口が何かを告げているように見えて、麗慈と京哉は画面のすぐそばに近付いた。
「Did you like it?…お気に召しましたか?ってどういう意味だ?画面が揺れててハッキリとはわかんねぇけど…」
「…気味ワリィ」
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同じ映像が繰り返されるテレビの電源を消し、ソファに戻った二人はローテーブルを挟んで対面に座る。
「にしても…ガキが狂って騒いだぐらいで包丁なんか持ち出すか?最後は自決とか…おかしいだろ。戦時中か?」
背もたれに置かれたクッションの四隅に取り付けられたタッセルを指に絡ませながら京哉がぼやく。
「集団ヒステリーだとしても、行動があまりにも統率されているというかな…誰かがあーなるってわかってやらせたとしか思えねーな」
「それがあの怪しい面被った男?」
右手で顔の半分を隠した京哉が問う。
「それなら話が早いんだけどな……まぁ、俺達への依頼とは関係無さそうだから、変に首突っ込もうとするなよ」
麗慈はソファから立ち上がると、何故か自分の方をニヤニヤしながら見ている京哉が視線に入った。
「…何だよ?」
冷たいねぇ〜と呟いた京哉は、手に持っていた四角いクッションを麗慈に投げ付け、反動を付けて立ち上がる。
「麗慈くん、いつからそんなに大人になったのぉ?絶対に調べる気満々だと思ったのに」
ニヤけながら揶揄ってくる京哉を睨み付ける。
「お前は自分の依頼に集中しろよ。李の話じゃ勝ち残れば連戦になる予定だろ?武闘家のフィジカル舐めんなよ」
受け取ったクッションを投げ返した麗慈に、つまんない奴ーと返した京哉。寝室とを隔てるドアの向こうに麗慈が消えるのを見送って、そろそろ自分も休もうかと思った時。
「アレ……もしかして……っ!!」
慌てて彼も寝室に入ると、二つ並んだダブルベッドのそれぞれにシェリーと麗慈が陣取っていた。シェリーに関しては既にダブルベッドの真ん中でスヤスヤと寝息を立てている。
「こういうのは早い者勝ちだろ。お前、ソファ行けよ」
ニヤリと笑った麗慈に掴み掛かる京哉。
「さっき自分が何て言ったか覚えてない!?連戦だから集中しろって!僕が一番休むべきでしょうが!」
「知らねーよ。お前がボサッとしてんのが悪ぃだろうが」
グイグイと扉の方まで追いやられた京哉が食い下がろうとした時、「お前…早く風呂入った方が良いだろ?よく思い出して…」と言われて彼は膝から崩れ落ちた。よっぽど先刻のことが堪えたのだろう。暫く床に伏せて泣き言を言った後、ブツクサと文句を垂れながらリビングに戻っていった。
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早朝のチャイムは李の迎えだった。
ラウ・チャン・ワンが武闘賭博前、最後の公式試合を行うという情報が入った為、敵情視察に行かないかという誘いであった。
朝に弱い二人が文句を言いながら支度を進める中、麗慈は李に昨日のニュースについて尋ねる。
「ええ、もちろん見ました。……今や上海一帯にサムファミリーの手が及んでいない場所は無いと言われていますから、何かしら関連があると思っても良いかもしれません」
李の返事に麗慈は若干戸惑う。間違った考えとも思えないが、いくらサム・ツェーファが憎いとてこじつけが過ぎるような気もする。
「…しかし、気になるのは犯行に走った子供達の様子です。あれではまるで……」
李がそこまで言うと、昨日彼から見せられた[[rb:福音 > ゴスペル]]と呼ばれるドラッグ中毒者の末路を思い出した。
「福音に関する調査は進んでいるのか?」
「それが…その形状から流通ルートまで、あらゆる手を尽くしても何一つ情報が集まりませんでした。しかし、中毒症状を起こす人間は特定の地域の限られた場所に住む集団だったたのは大きなヒントになるかと」
村単位で収容所に隔離されている例もあると聞き、麗慈は思考を巡らせる。
ドラッグの形状は不明であるが、中毒を起こす者の分布は限定的。かつ、子供までその集団に含まれるなど、他の薬物には見られない特徴がある。
「……逆に考えると、福音を個々人に作用させる事が出来ない…とか?例えば、悪意のある人間がガスのような状態で村に充満させる…なんてな」
「なるほど…!その考えにはまだ至っていませんでした。その線でもう一度調査を依頼してみます」
麗慈の推理を聞いた李は嬉しそうにスーツの内ポケットから取り出したメモに何かを書き込んでいる。よっぽど福音が蔓延する事態が許せないのだろう。彼の正義感の強さが伺える。
眠い目を擦りながらウォークインクローゼットに入った京哉は、楽団から送られてきたダンボールの封を開ける。
最初に目に飛び込んで来たのは、夕張メロンの練り込まれたキャラメルの箱と、生八ツ橋。首を傾げながらそれらを取り出すと、下に1枚の便箋が貼り付けられていた。
訝しげな表情でビリっと剥がし、ひっくり返してみると見覚えのある筆跡で文字が綴られている。
『お土産です。シェリーちゃんにあげてね。ナイスパパより』
ちゃっかり観光して帰った父親の顔が浮かび、すぐさま便箋を丸めようとする。しかし、隅の方に小さく文字が書かれているのが見えて、京哉は自分の衝動を堪えた。
『天叢雲剣は一度に8回まで!ご利用は計画的に!でも8回も振ったら君死んじゃうかもね!』
今度こそ便箋をグシャグシャに丸めた京哉は、同じくダンボールの中に詰められた服を引っ掴むと足早にクローゼットから出てゴミ箱に紙屑を投げ入れた。
[8] Requiem 完