#006 Nocturne
東京都・30歳女性「最近とても運が悪いんです。具体的に言うと…2回死にかけています。あ、1回目はほぼ死んでます。何か幸運を呼び込める方法はありますか?オススメの壺があったら是非紹介して欲しいです…」
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これは確か、マダム・バタフライの曲…。
穏やかな朝日が差し込む窓辺で、美しい歌声と共に目覚める。
身体は鉛のように重く、まだ指先しか自由に動かす事はできない。
見覚えのある白のツインテールがふんわりと揺れている。不意に振り返った彼女の大きな金の瞳と目が合うと、彼女は何故か大粒の涙をボロボロと流し始めた。
「キョウヤ!レイジ!起きた!」
シェリーの歓喜の叫びを聞き、別室にいた二人が駆け付けた。
部屋に入ってくるや否や、京哉はシェリーの後頭部を引っ叩く。
「うっさくすんな、馬鹿!」
「馬鹿って言うな!馬鹿!」
「おい、外でやれ馬鹿ども」
相変わらず煩くするのが得意な二人を横目に、麗慈は茅沙紀に繋がれていた様々な医療機器のチェックを行う。
「無理して動かなくて良い。まだ血が足りてねーから」
そう言いながら点滴を交換し始めた麗慈を目だけで追う茅沙紀。
「…私……もしかして、また死にかけてましたか?」
「あー。あと1ミリでもズレてたら、確実に死んでたな」
七白によって刃物が身体を貫通した茅沙紀であったが、奇跡的に致命傷を避けていたという。
適切な医療を受ける事が難しい今の日本で、これだけの重傷を負いながら二度も命を取り留めるなど、どれ程の確率なのだろうか。
「あの…七白さんは…」
彼女の問いに、ガルガルと啀み合っていた二人が静かになる。シェリーを引き剥がして隣のベッドに放り投げた京哉は、眉を顰めながら即答する。
「…即死だろ。何であんな奴の事気にしてんだ?」
「えっと…そうですよね……刺されたのに…でも、私が病院から逃げ出して流れ着いた新宿で優しくしてくれた人で…」
茅沙紀の返答に、京哉は黙ってしまった。その代わり、と言わんばかりにシェリーが口を挟む。
「優しいフリして近付いたんでしょ。あの男、キョウヤを狙ってた……アンタが知り合いだって知ってたみたい」
そして、近付いたところで自爆に巻き込む、という魂胆だったのだろう。
「……キョウヤもアンタも…死ななくて良かった…」
爆散する七白を至近距離で目撃してしまったシェリーは、まだ少し手が震えていた。ヒトの血肉が弾け飛ぶ様を目にして普通でいられる人間の方が珍しい。
「で…何でまた[[rb:京哉 > コイツ]]の所になんて行ったんだ?病院から逃げ出したって言ってたが…」
カルテへの書き込みが終わった麗慈が茅沙紀に問い掛けた。
音楽家という素性を隠して生きていけたら、あのままニュー千代田区に住んでいたのだろう。しかし、彼女にはそれが出来なかった。
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それは、茅沙紀の素性を調べる為に警察が音楽家登録リストの検索に乗り出した日だった。
記憶喪失の身元不明者を演じ続けるには流石に無理があったし、いずれはこうなるとわかっていた。
現在の日本で、個人情報を証明できないという事はつまり、音楽家である事を証明しているようなものである。
入浴時間に看護師達の目を盗んで病院を抜け出し、時には一晩草むらで捜索隊の目をやり過ごす日もあった。
残暑厳しい中、吹き出す汗を拭いながら、ひたすら徒歩で移動し続けていくつもの区を転々とした。
こうまでして彼女を突き動かしたのは、彼のあの言葉であったという。
「地下のオーケストラにいた時は…いつもずっと、自分はいつ消えてしまってもいい、むしろ消えたいと思ってたんです…」
日に数時間、強制的に演奏をさせられ歯車のように扱われていた彼女達に、希望など見出せる訳がなかった。
「でも、助けていただいた時に… 何かを変える力を手に入れたいと思った時は歓迎するって言われて、こんな私でも違う生き方をして良いんだって思えたんです」
真っ直ぐに天井を見上げる茅沙紀がそう語ると、京哉と麗慈が顔を見合わせる。そして、彼女に背を向けて距離を取るとヒソヒソと小声で話し始めた。
「親父の言う事真に受けたのか…」
「良くねぇな」
あの…と続けた茅沙紀の方に向き直る二人。
「私がこれからも音楽家として生きていく方法…教えていただけませんか?」
それは、間違いなく茨の道だった。
音楽で食う、なんて話とは次元が違う。その選択をした時点で、命の保証は無い。
しかし、音楽等禁止法の下、既に一度自由と尊厳を奪われた彼らに、真っ当な生き方などできない社会である事も事実である。
「まぁ…託斗の推薦があれば、楽団に入るのは問題無いとして…」
うーん、と難しそうな顔をして腕を組む麗慈に、茅沙紀は固唾を飲む。
「アンタ、命令されれば人殺しもできんの?」
茅沙紀のベッドに腰掛けた京哉は、真顔で問い掛ける。
「旋律師は正義のヒーローじゃない。命令には絶対服従だし、逃げれば処刑される」
真っ直ぐな京哉の視線に耐えきれず、茅沙紀は目線を逸らす。
彼らにとって、楽団に所属するという事はきっと、生きる為の手段では無いのだろう。そうせざるを得ない理由があったのだ。
「…ごめんさなさい。今は、それでも良いから…って言えないのが正直な気持ちです…」
茅沙紀が絞り出した返事に、京哉は無表情を解きニコリと笑った。
「これも縁だから。僕は右神京哉。こっちは若乃宮麗慈。そんで、あのメスガキはシェリアーナ・シェスカ」
京哉が差し出した手を、茅沙紀が弱々しく握る。
「…ありがとうございま「何でアタシだけ変な紹介すんだよ」
シェリーは京哉の後頭部を履いていたスリッパでスパーンと叩いた。あまりにも良い音が響き、茅沙紀は目をパチクリさせて固まる。
「…ってぇな!」
「自業自得だヴアアァカッ!」
額同士を押し付け合い至近距離で怒鳴りあう二人。いきなり始まった喧嘩に戸惑う茅沙紀を残し、麗慈はカルテを小脇に抱えて病室から出て行ってしまった。
「ちょっと!お二人とも落ち着いて!あと、置いていかないで!ちょっとー!」
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爆発現場となった場所では、警察の人間が多く押しかけていた。周辺住人に聞き込みをして回っており、現場の真正面に立地する良縁屋にも警察が聴取にやってきた。
「シャッターを閉めた後だったので、2階にいました。大きな音がして慌てて外に出たらあの騒ぎで…」
「そうですか…こちら、なにか販売されているんですか?」
がらんどうになった店舗の床に目を付けた警察官の一人が問う。
爆発後すぐに外に飛び出た祐介は、店舗裏に駆けていく京哉を見つけ後を追った。その時に面倒事に巻き込まれるかもしれないから、ハンネス機関は隠せと警告を受けていたのだ。
祐介は彼の指示通り、店舗床に置かれていた返却済みのハンネス機関を台車に乗せて廃ビルに運び込んでいた。
しかし、それがかえって仇となってしまった。警察の質問に、思わず口篭ってしまう祐介。
「こちらにはお一人でお住まいですか?」
「…はい」
「そうですか。…失礼ですが、2階を確認させてもらってもよろしいですか?」
2階には京哉の荷物が置かれている。楽器こそ彼が常に持ち歩いているが、燕尾服や楽譜の類は動かぬ証拠になってしまう。
詰め寄る警察官のつま先は、既に店舗奥の扉へと向けられている。任意捜査など存在しない。彼らが居住スペースに強制的に立ち入ろうとしたその時…
『緊急連絡!遍玖会新宿自警団とみられる構成員が複数集け…っうわあああっ!』
突如受信した無線連絡に、聞き込みを行っていた警察官たちは慌てて踵を返した。ドタドタと忙しない足音が遠退きやがて聞こえなくなると、祐介は一気に脱力した。
2階に上がり窓から外の様子を確認すれば、自警団と思われる男達が警官隊と衝突している様子が見える。
事故調査の為と言えど、一度居住区に侵入した彼等が手ぶらで引き下がるわけが無いと踏んでいたのだろう。
何かと因縁を付けて強制捜査に乗り出す筈だと。案の定、他の住民達の元に聴き取りに入った警察官らも執念深く室内に入り込もうとしてきたらしい。何人もの住人が屋外まで出てきて、大声で自警団を応援していた。
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警察官達が新宿の街から立ち去った翌日の朝方、裏手の空き地の物音に気が付き、祐介は目覚めた。
疲れた様子で背中にシェリーを背負って戻ってきた京哉は、店舗の床から金属塊が消えているのを確認する。
「おかえり。京ちゃんに言われた通り、夜のうちに移動しておいて正解だったよ」
そう言って二ヘラと笑った祐介の顔を、京哉は見る事が出来なかった。
自爆した男は、見間違う筈も無い……三年前、凌壱と連んでいた政府の人間であった。
茅沙紀を着けていたということは、あの発電所爆発事件と京哉達の関与まで政府が嗅ぎつけていた事になる。
執念深く京哉を探していたあの男は、彼が一番油断するであろう瞬間に飛び出していき、犯行に至った。
目の前で茅沙紀を刺したのは、もし自爆に京哉を巻き込む事が出来なかったとしても、遺恨を残す狙いがあったのだろう。
旋律師にとって、普通の音楽家が巻き添えを喰らって被害を被る事が一番の心傷だと知っていたのかもしれない。
そして、政府に居場所がバレた今、これ以上同じ場所に居座り続ける訳にはいかない。
ジリリリリッ、と黒電話のベルが鳴り、京哉の背中で熟睡していたシェリーが驚いて目覚める。
『真実を述べよ』
「ケーププリムローズ」
合言葉から始まる楽団からの伝令。
『キョウヤ、悪い知らせと悪い知らせがある』
「良い知らせから聞くわ」
シェリーを床に投げ捨てた京哉は、カウンターテーブルに突っ伏す。背中をドスドス蹴られているが気にしている場合ではない。
『まず一つ目…この電話回線、昨晩から異様なノイズが混じるようになってね。まだセキュリティを解析されてないみたいだけど、盗聴されるのも時間の問題だ』
事態はより悪い方へと動きそうであった。
『そんでもって、二つ目…自らを異端と名乗る新興オーケストラが日本政府と秘密裏に手を結んだそうだ』
オーケストラと日本政府。相反する二つの組織が結託したという情報に、京哉は耳を疑った。
「……は?なんで音楽家と…」
『異端についての調査はまだ途中段階だけど、カナダでの旋律師殺しは奴らの仕業なんじゃないかって話だな』
京哉は託斗からもたらされた情報を思い出す。
盗作された彼の楽譜が、何者かによって悪用されているという事実。
『楽団と全面的に争うつもりなんだろうね。その為には、敵とも手を組む』
「……上等。そんで、今回の依頼はその異端を潰しに行くんだな?」
全然違うよー、という間の抜けた返事に、京哉はカウンターチェアからずり落ちそうになった。
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『この後、楽団から直々に話をつけて遍玖会にユウスケ・ジンドウの保護を要請しておくよ』
「祐ちゃんだけ?シェリーは?」
自分の名前が聞こえてくると、京哉の背後で暴れていたシェリーがピタッと動きを止める。
『君とシェリアーナ・シェスカは明日の朝6時までに横浜港に向かって、「イースト・アラベスク」という客船に乗って欲しい』
京哉には聞き覚えのある船の名であった。
イースト・アラベスク…公海のみを航行し続ける海上の無法空間。船内には専属のオーケストラが常時クラシックを奏でており、彼らの生み出す音エネルギーが船を動かしている。
船内には映画館、劇場、カジノ、ジム、バーラウンジなど様々な施設が充実しており、音楽愛好家の富裕層がこぞって乗船したがるという。
『今回の依頼は、イギリスのロイヤルファミリーからだ。オリヴァー王子は大の音楽好きで定期的に乗船しているらしいんだけど……そんなイースト・アラベスク…この一年で船内での乗客の自殺が何件も発生しているらしい』
「いやいや、そんなの営業停止モンだろ」
呆れ顔の京哉に対して、受話器からはお馴染みの笑い声が響く。
『これがね、溟海の亡霊に誘われて海に飛び込むとか何とか……オカルトで営業は止められないでしょ、流石に』
「で、オリヴァー王子とやらを亡霊に心奪われないように護衛でもしろと?」
『違う違う、今日は全然冴えてないねキョウヤ。お疲れかい?』
いちいち癪に障る奴だと内心イラつきながらも、さっさと電話を切りたい京哉は続きを話すように促した。
『客船の運営会社はね、この亡霊の正体を突き止めた人間にイースト・アラベスクを1日貸し切る権利を譲渡するんだとか。よく分かんないんだけど、音楽好きの富裕層にとっては最も栄誉な事とされてるんだってさ』
よくわかんない事に拘るのって金持ちアルアルだよね?と付け足した部分にだけは、京哉も納得した。
「で、王子もその権利目当てに乗船したい…と。え、でもそうなると僕達関係無いよね?」
『うん、王子とは関係ないよ。依頼人は彼の母親だからさ。息子が心配だから公務で忙しい自分に代わって遠くから見守ってて欲しいんだって』
何だそりゃ、と気が抜けるような依頼内容である。しかし、それだけなら楽団の査定は通らないはずだ。
『楽団としては、亡霊の方に興味があるんだよ。得体の知れない現象は超絶技巧との関わりを疑って然るべき!例の第21楽章と関わりがあるかもってロジャーは睨んでる。でもさ、イースト・アラベスクのチケットって入手困難なんだよね。だから今回やっと船内の調査ができるって訳』
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受話器をブロックボタンの上に乗せ、会話が終了する。祐介とシェリーはじっと京哉の方を見ていた。
「祐ちゃん…折角この店が軌道に乗って来た所悪いんだけどさ……」
「暫く身を隠せって感じ?なんとなくそうなるんじゃないかなって思ってたけどね」
新宿に住みたいと言った京哉の願いを聞き入れ、祐介に話を付けたのは周平太だった。
共同生活をする上で、京哉からは身の危険が生じる可能性がある事は十分に説明した。それでも良いよ、と京哉の身の上を知りながらも快諾してもらった事が、彼には嬉しかったのだ。
だから、はははっと笑った祐介を見ていると胸が痛む。
楽団がこの依頼を京哉に回したのは、一時的に日本政府の目から逃れさせる為であろう。シェリーを同行させるのも同じ理由。きっと麗慈も海外に一時的に飛ばされる。
そうして、熱りが冷めた頃、また日本に派遣されて、祐介ではない違う人間の住まいを隠れ蓑に日々任務で返り血を浴びるのだ。
「寂しくなるなぁ…まぁ、でもまた帰ってきたら嫌ってぐらい騒がしくなるから、少しの間休養期間だと思って待ってるよ」
決して、そんな未来は来ないのに。そう思いながら、作り笑いを浮かべるしかない京哉の横顔を、シェリーは珍しく静かな様子で眺めていた。
その晩、頭から布団を被ったシェリーは、不機嫌そうに唇を尖らしていた。
髪の毛をわしゃわしゃとタオルで拭きながら戻ってきた京哉は、そんな彼女の背中をつま先で小突く。しかし、いつもの罵声は返ってこない。
「何むくれてんだよ…早く寝ろよ。明日は僕と一緒に朝から…「……もう、ユウスケに会えない?」
彼女の声は震えていた。静かに視線を伏せた京哉は、シェリーが敷いておいた布団に腰を下ろす。
「…会えねーよ。此処にも戻らないから、忘れ物すんなよ」
そう言うと、シェリーはバッと勢い良く布団をめくって京哉の方に四つん這いで近付いた。
「どうしても…ダメ?」
「ダメ」
「アタシだけ残ったりも?」
「は?お前こそ此処にいたら…」
それ以上は言ってはいけない事だと、ギリギリのところで理性が働いた。
「祐介に迷惑かけられない」
言い聞かせるように静かな声色で言うと、シェリーは眉間にグッと力を込めて下唇を噛んだ。
シェリーにとって、この新宿の住まいは彼女が父親の手によって作り変えられてから初めて自由に生きることのできた大切な場所であった。祐介と離れたく無いという気持ちも京哉は理解していた。
しかし、自分と同様に、シェリーはこの日本の地では真っ当に生きられない。そして、周囲を巻き込む。
大きな金の瞳からボロボロとめどなく流れる涙を両手で拭っているシェリーの頭に手を置いた京哉は、そっと彼女を抱き寄せた。
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「…はい。承知しました」
黒電話の受話器をチンとボックスボタンに乗せたあと、麗慈は手を組み頭の上で大きく伸びをした。
楽団からの連絡は、医院を離れ京哉の任務に随行するように、というものであった。
彼にとっては比較的穏やかに過ごせていた場所で、それなりに気に入っていた。明日の午後には[[rb:楽団 > ギルド]]の派遣した人間によってこの場所はもぬけの殻になっているだろう。
「…そうなると、まずいな……」
茅沙紀はまだ動ける体ではない。それに、政府に狙われているのは彼女も同じである。
天井を見上げながら伸ばしていた両腕を頭の後ろに持っていき、深くため息をつく。そして、書類やら薬品やらが乱雑に置かれている机の上を眺めた。ふと、紙の束に埋もれている写真立てに目をやる。
彼が超絶技巧を習得した後、ヴァイオリンの師匠である彼女と日本で再会した際に撮った写真だった。記念だからと言われて無理矢理撮影させられ、飾らないと殺すと脅迫されているという。
「…いやいや、無い無い。あの人は無理」
独り言を呟きながら写真から視線を逸らした時、茅沙紀の入っている病室からコールを受信した。
「ほんっとにすみません…ご迷惑おかけして…」
「良いよ、まだ一人じゃ動けないから」
車椅子に載せた茅沙紀を押して廊下を進む麗慈は、ペコペコと頭を下げる彼女を一瞥しながらトイレの前で止まった。
彼女の治癒度合いから見るに、介助されながら無理矢理身体を動かすくらいならカテーテルを使ってあげても良いのだが、本人が頑張ると言うので望む通りにしてあげた。
「…はぁ……すみません…」
個室のドアの向こうでまた謝罪を口にする茅沙紀。小心というか、恐らく人が良すぎるのだろう。何でも遠慮するし、本心を聞かれるのを躊躇う。
「若乃宮さんはお医者さんだってわかってるんですけど…出会い方がアレだったもので、なんというか羞恥が先に来てしまい…」
そして、妙な所ばかり馬鹿正直だ。
「いや、そこで俺が押し通すのも逆にヤバいでしょ。良かったよ、コレで」
病室まで茅沙紀を連れ帰り、車椅子からベッドに戻す介助をする。掛け布団を胸元までかけてやり、踵を返そうとした時に彼女の声がそれを引き留めた。
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「若乃宮さんも楽団の人っていうことは…何か楽器をやっていらっしゃるんですか?」
「ん?…あぁ、そうか…」
前回、彼女の前で大己貴命を演奏した際は意識を失っていたのだ。
「ヴァイオリン。アンタは?」
「わぁ!私も同じです!へぇ〜…聴いてみたいな……って、またすみません…度が過ぎたお願いを……」
「いや、そんな事はねぇけど…」
そう返した麗慈は、少し考え込んでから診察室に戻る。そして、ジュラルミンケースを抱えて再び茅沙紀の病室を訪れた。
チューニングをしてから構えると、ブラームスのバイオリンソナタ2番イ長調を奏でる。優雅な響きが病室を包み、茅沙紀は目を閉じて幸せそうに聞き入っていた。
「……なぁ…度を超えたサバサバ系の女と暮らせる自信はあるか?」
「え、えぇ?いきなり何ですか!?っていうか喋りながら普通に弾いてる……」
麗慈の突拍子もない質問に、茅沙紀は困惑している様子だった。
「そうですねぇ……嫌われなければ割とどんな人とも一緒に暮らせるような気はしますけど…。何でそんな事聞くんですか?」
「あぁ、気にすんな。…じゃあ、もう一つ聞くけど」
「はい?」
「明日の朝、5時に俺を起こせるか?」
そう尋ねるや否や、麗慈は大己貴命の演奏を始めた。薄らと赤い光が放たれると、急に聞き覚えのない曲が耳に入り始めて茅沙紀は首を傾げる。
最後の音を弾き終わり、麗慈はゆっくりと弓を降ろす。
「ブラームスのソナタ、私も大好きなんです!久しぶりに聞けて…あれ?ちょっと?若乃宮さん?!」
ヴァイオリンを彼女の布団の上に落とし、同じく顔面から突っ伏して死んだように眠り始めてしまった。何が起こったのか全くわからない、といった様子の彼女であったが、麗慈に聞かれた二つ目の問いを思い出す。
「と、兎に角…朝5時に起こせば良いんだよね…よし、早起きは割と得意で……あれ?」
茅沙紀は体の中身に残っていた疼痛が無くなっている事に気がついた。恐る恐る服の中に手を突っ込み触ってみても、縫合の痕がチクチクとするだけであった。
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横浜港の船着場には、キャリーケースを引いた上品な身なりの男女が集まっていた。
彼等は皆これからイースト・アラベスクに乗ろうという富裕層の人間である。
ドレスコードの指定された豪華客船。京哉は流石に白い燕尾服を着て表に出る訳にもいかない為、[[rb:楽団 > ギルド]]からの速達で届けられた黒のタキシードを纏っている。シェリーにも淡いエメラルドグリーンのドレスが支給されていた。彼女の火傷痕を隠すように、首や肩はしっかりと布で覆われている。
「なんかハズいんですけど…」
初めて着る上物の服に、シェリーは落ち着かない様子で京哉の前をウロウロしていた。
「何でだよ?もっと恥ずかしい服着てただろ」
「最ッ悪!!」
相変わらずデリカシーのカケラも無い発言で焚き付けられたシェリーにヒールの靴でローキックをかまされ、京哉は海に落ちかけた。
「朝から馬鹿みてぇに元気だな、アンタら」
眠そうに目を擦りながら遅れて到着した麗慈も黒いタキシードを着ていた。
「あれ?麗慈もこっちの仕事呼ばれてんの?茅沙紀は?」
「…あぁ、ちゃんと預けてきた。師匠ん所に」
欠伸をしながらそう答えた麗慈に、京哉は蔑む様な表情をした。
「レイジの師匠?オッサン?」
「いや…バァ……お姉さんだな。楽団では託斗と一緒に、二大年齢詐欺って呼ばれてるから見た目じゃわかんねーよ」
ふぅーんと返したシェリーは、特にその話題には興味無さそうにキャリーケースの上に座って他の乗客達の方を眺めていた。
ふと、彼女が視線を移した方向に、こちらに手を振っている一人の男が見える。ニコニコと満面の笑みを浮かべている様子が気味悪く、シェリーはキャリーケースから飛び降りて京哉の影に隠れた。
公海を旅するイーストアラベスクまでは、高速船で移動する。横浜港からはかなりの距離があった。
船内の座席に三人並んで座っていると、港でシェリーに手を振っていた男が話しかけてきた。
中肉中背、七三分けの髪をペッタリと貼り付けている肌艶の良い丸メガネ。やはりニコニコと笑っている。
「あの!お隣よろしいですか!?」
顔の上に新聞を乗せて寝ていた麗慈はその声掛けを無視し、その麗慈にもたれ掛かって爆睡していた京哉も当然のように無視したせいで、起きているシェリーが対応せざるを得なくなってしまった。
「…何……?」
顔を引き攣らせてそう答えると、男は嬉しそうに跳ね上がって許可もしていないのにシェリーの隣に座ってきた。
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「わぁ…!日本語話せるんですか!?」
「だから…何?さっきから…」
冷たく遇らうシェリーの態度に、男は頭を掻きながら額に汗を滲ませる。
「ぼ、ボクは横浜で医者をしてる椙浦と申します…!長い船旅になるので、もし体調悪くされたら是非ボクに話し掛けてくださいね!」
椙浦と名乗る男は手を差し伸べてきたが、シェリーは逆に手を後ろに回して距離を取った。
「ま、間に合ってるから…いい……」
「そう仰らずに…!」
「だから……ッ!」
執拗に構われて嫌悪感を覚えたシェリーは、爆睡している京哉の腕を引っ張った。
「こっ…この人……アタシの…かっ…か、か彼氏だから…っ!すっごい怖いから!近寄らない方が良いよ!」
威嚇のつもりでついた嘘だったのに、椙浦は哀れみの表情でシェリーを見始めた。
「…わかりました……折を見てまた話し掛けますね」
それでは、と会釈して去っていく椙浦の背中に中指を立てたシェリーは、鼻息荒く座席にふんぞり返った。
そんな彼女の様子を寝たフリをしながら観察していた男二人は、とうとう堪えきれなくなった様子で笑い始める。
「え!?ナンパ!?今の!?嘘っ!?」
「堅実に将来考えてんなら優良物件じゃね?」
呼吸困難になる程笑い転げている二人の様子に、シェリーは今にも爆発しそうな程顔を真っ赤にしていた。船内で暴れ出して目立っては困ると、京哉は彼女の頭をポンポン叩きながら宥めた。
「落ち着け、シェリー。客船まで辿り着けば何千て乗客がいるんだ。会おうと思ったってなかなか会えねぇだろ」
多分、と付け加えるとシェリーがグヌヌと睨み付けてきたため、京哉は彼女の肩に腕を回して耳打ちする。
「僕が彼氏って事になってんだろ?近くにいれば話しかけてこねーよ」
京哉が寝てるとばかり思って絞り出した渾身の嘘が聞かれていたとわかると、彼女は再度顔を真っ赤にする。
「っ……そ、そうかな…」
「おう。もし話し掛けてきたら『すっごい怖い彼氏』ぐらい演じてやるよ……面白そうだし」
最後の一言を聞いて彼の鳩尾に拳をめり込ませたシェリーは、ふんぞりかえって外方を向いてしまった。
腹を摩りながらニヤニヤしていた京哉は、麗慈に肩を叩かれて目の前のはめ殺し窓の向こうに目を凝らした。
高速船は迂回しながら徐々にスピードを落としていくと、そのまま客船後方に吸い込まれていく。屋根のある空間に入り、待ち構えていた船員達が停止した高速船の周囲で作業を始めていた。
周囲の乗客がゾロゾロと下船のために動き始める中、その行列の中にまたしてもチラチラと視線を送ってくる椙浦を発見してしまったシェリーは、顔を歪ませた。
「さて、僕たちもその亡霊とやらに会いに行きますかー」
列が途切れたのを確認し、気怠そうに呟いた京哉は、徐に立ち上がった。
[6] Nocturne 完