#002 Opera
東京都・17歳女性「訳あって同じ家に住んでいる年上の男が本当にクソ過ぎて毎日喧嘩ばかりしています。何でも良いのでギャフンと言わせる方法ってありますか?無かったら仕方ないのでシンプルに殴ろうと思います」
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錆び付いたシャッターを無理矢理抉じ開ける作業から祐介の1日は始まる。
店と言っても客が来る事は珍しく最早趣味の領域であったが、こうして決まった時間に開店することは彼のルーティンであった。
店舗の前を掃き掃除し、ガラス窓を磨く。商品に薄らと積もった埃を払い、床のモップがけが終わる頃には寝坊助の居候が目を覚ましてくる。
窓際に据えられたソファにドカッと腰を下ろしたシェリーは、まだ眠そうに大欠伸をしている。ダボダボの白いシャツと黒いホットパンツは彼女が寝巻きとして着ているものだった。
「おはよう、シェリーちゃん。まだ着替えてないんだ」
祐介が掃除をしながら声を掛けるが、面倒臭いのと眠いのとで、ソファの上に三角座りをしたままぼんやりと窓の外を眺めていた。
経験上、彼女の頭が空っぽの時に話しかけると激しくキレ散らかされる事を知っている為、敢えて構う事はしない。
シェリアーナ・シェスカが祐介の店に居候するようになったのは2年程前から。
ある日、京哉が何の前触れもなしに連れてきたのだ。
ギシギシと階段が軋む音が響き、続いて扉が開く。シェリーの起床から30分程遅れてやってきた京哉もまた、怠そうに欠伸を連発していた。
「あれ?京ちゃん、もう起きたの?」
昨日は夜勤だったのに…と続けると、京哉は右手をヒラヒラさせながらシェリーの隣に腰掛けた。
「今日はコレの日」
コレ、と言いながらシェリーの方を顎でしゃくった。その仕草が癇に障ったようで、彼女はポカポカと京哉の肩を叩いて不満を露わにする。
「ああ、お医者さんの所行く日か」
カレンダーに視線を移した祐介は、今日の日付に赤い丸が付いているのを確認して頷いた。
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正午過ぎ、生成りの肩出しワンピースを纏ったシェリーは、仏頂面でジープの助手席に揺られていた。今回の運転手は京哉である。
「…今日、血とか採るのかな?」
「あー、採るんじゃね?色々と」
右手で頬杖を付きながらつまらなそうにハンドルを握る京哉は、適当な返事を寄越した。
「い、色々!?…やっぱり行くのやめる!アタシ、何処も調子悪くないし…」
走行中の車内から降りようとドアハンドルに手を掛けたシェリーを見て、京哉は慌てて腕を引っ張ってそれを止める。
「何ビビってんだよ?医者がこえーとか、ガキか?」
「だって…!キョウヤが不安を煽るような事言うから……」
ぷくーっと頬を膨らませて抗議するシェリーであったが、隣の男にはまったく響いていない様子。眠そうに目を擦っている。
しかし、彼の眠気を覚ますように背後からパトカーのサイレンが響いた。
『そこの違法車両!直ぐに停止しろ!』
バリバリとノイズ混じりの拡声器の声に、京哉は慌ててフロントミラーを確認した。パトランプを焚きながら、3台のパトカーがジープを追跡している。
「やっべ……おい、振り切るから手伝え!」
京哉はダッシュボードを指差した。シェリーは眉間にシワを寄せながら、ハイハイと手を伸ばす。
収納スペースの中にはエンジンルームに直結する伝声管が備えつけてられていた。
もともとガソリン車であったものを改造したこの車には、ハンネス機関が溶接されている。音エネルギーを電気に変えて走る電気自動車になっていた。
生の音楽を吹き込んだ方が音エネルギーの変換効率が飛躍的に上がるハンネス機関の特性上、あらかじめ蓄電したものを使うよりもその場で生成した方が馬力が格段に上がるのだ。
スゥッと鼻から息を吸ったシェリーは、トゥーランドットの第3幕、カラフのアリアを歌い出す。
美しい彼女の歌声にニヤリと口角を上げた京哉は口笛で伴奏を付けながら思い切りハンドルを切ってアクセルを踏み込んだ。
ガードレールが消失している箇所から飛び出し、両側に住居跡が立ち並ぶ古い路地に入り込む。
サイドミラーを畳んでやっとすり抜けられる程細い道を爆走すれば、流石の警察車両も着いて来られない様子。
ふぅっ、と一息ついて伝声管から口を離したシェリーだったが、路地の向こう側に白黒の車体が先回りしているのが見えると慌てて京哉の肩をバシバシ叩いた。
「キョウヤ!前!前!」
「良いから歌ってろ馬鹿!!」
路地から顔を出す間際、ギアを下げてクラッチを一気に踏み込む。ギュルギュルと音を立てながらタイヤが地面を削り、パトカーに接触する間際のところで左折して躱していった。
しつこく追いかけてくる車両の数は段々と増えていた。そのうちの2台が高速で追いつき、ジープの両サイドを押さえつけようとにじり寄って来る。それらを横目で睨みつけた京哉は、振り切れる場所が無いかを探す。
すると、あと数十メートルという所に川が見え、幅員が一気に狭まる橋が架かっていた。しかし、アクセルを踏み込むも思ったように速度が上がらない。
「おい、息上がってんぞ!あと少し頑張れよ!」
苦しそうに声を絞り出し始めたシェリーの顔色は悪く、歌詞は途切れ途切れになる。彼女の様子に目を細めた京哉は、助手席側の追跡車側にハンドルを回して幅寄せすると、軽く擦り付けてガードレールの向こう側に追いやった。
もう一台のパトカーが一気に詰め寄ってくると、今度は運転席のドアを開き、相手のフロントドアを思い切り蹴り付ける。バランスを失って後方によろけた所でアクセルを踏み込み、橋を先に通過して一気に千切った。
橋の手前でパトカーが次々と欄干に衝突し炎上している様子を確認すると、京哉はようやく一息つく。そして、シートベルトにもたれ掛かってぐったりと項垂れているシェリーの肩を掴んで背もたれに戻してやった。
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バイタルを計測する機械から伸びるケーブルを外し、患者の顔に白い布をかける。
電気を消すと、厚手のカーテンで陽光を抑え込んでいる室内は一気に薄暗くなった。
所謂便所サンダルの硬いゴム底を突っかけながら廊下に出た長身の青年。栗色ベリーショートの髪を揺らしながら歩く彼は、白衣の胸ポケットから取り出したPHSを操作し始める。
「ああ…今日は暑いから、早めに焼いてやってくれ。裏口の鍵は開けとくから」
短い会話を終わらせると、PHSを仕舞いながら部屋の前に貼られていたビニールテープを剥がして丸めた。患者の物と思しき氏名が殴り書きされていたものだが不要になったのだ。
膨大な枚数の書類と分厚い本が並ぶ本棚の横を通り過ぎ、薬品の載せられたバットが場所を占有するデスクまで辿り着くと、目の前の幹線道路を新宿方面から近づいて来る排気音に耳を傾けた。
窓際まで歩み寄り、閉め切ったカーテンの端から外の様子を伺う。グレーのジープがガタガタと悪路を進みながら減速していき、彼のいる建物の手前に止まった。
ドアが開き顔馴染みの姿を確認した白衣の男は、眉を潜めながら窓の外の様子を睨みつけて呟く。
「アイツは普通に遅刻してきやがるな…」
踵を返した男は白衣に手を突っ込み再び廊下に戻ると、今度は先程出てきた部屋とは反対方向に進んだ。突き当たりに見える階段を降り踊り場に差し掛かったところで、丁度建物の入り口から姿を現した京哉と目が合った。そして、彼が背負っているシェリーの様子に首を傾げる。
「急患だとは聞いてねーんだけど?」
「多分食い過ぎでぶっ倒れただけだから問題ねーよ」
ヘラヘラと笑っている京哉の返事に、ぐったりしていた筈のシェリーが拳を振り上げて彼の脳天に振り降ろした。
あ、本当だ。と呟いた白衣の男の方も睨んだシェリーは、もぞもぞと身体を揺らして京哉の背中から飛び降りる。
シワの無い綺麗なシーツが敷かれた診察台の上に寝かされたシェリーは、不機嫌そうに唇を尖らした。
「で、歌い過ぎて喉やられた訳か」
「なっさけなーい」
診察室の入り口でチャチャを入れてくる京哉を手で追い払うと、男はシェリーの顔の前に聴診器を持ってきた。
ぐぬぬ…と歯を食いしばりながら、シェリーはワンピースの胸元のボタンを外してはだけさせる。
彼女の腹には胸の下から臍の上にかけて大きな四角い縫合痕がある。その縫い目の周辺に聴診器をあてると、男は無表情のままカルテに何かを書き込んでいった。
「痛む事は?」
「…たまに」
「熱っぽかったりは?」
「…それも、たまに……」
ギュッと目を瞑ったまま答えるシェリーを一瞥すると、男は「もう良い」と声を掛けて診察台から机に戻った。
若乃宮麗慈は旧渋谷区で彼らを専門に診る医院に派遣されてきた医者である。
医院と言っても彼以外のスタッフは存在しない。此処に運ばれてくるのは、死んだ人間かほぼ死んでいる人間のみで人手は十分足りているからだ。
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ボタンを留め直しながら上体を起こしたシェリーは、スラスラと紙の上を滑るボールペンの動きを睨みながら問う。
「…血、採る?」
「おう、少し待ってろ」
「……血…だけだよね?」
「あ?」
妙に怯えた様子を見せる彼女に、椅子から立ち上がった麗慈は窓際に置いてあった大きなテディベアを引っ掴んでそれを手渡した。
「はいはーい、怖くないですよー」
全く感情のこもってない声色で子供扱いしてくる麗慈の様子にブチ切れたシェリーは、直様テディベアを投げ返す。
廊下まで聞こえてくる彼女の怒鳴り声を聞きつけ、閉め出されていた京哉が再び顔を出した。
「え?なに?セクハラされた?メスガキの癖に、そんなので騒ぐんだお前」
「入ってくんな!」
ギャーギャーと騒ぎ続ける彼女の腕に手際よく駆血帯を巻き付けた麗慈は、見ていない間に素早くアルコール除菌を済ませ採血針を刺す。
「暫くココ、押さえとけ」
小さな絆創膏を貼られ、シェリーはキョトンとした表情を浮かべていた。
「…終わった?」
「終わった終わった。もう一本採っておくか?」
もう一度駆血帯を巻こうとしてくる麗慈から素早く離れたシェリーは、勢い良く壁に背中を打ち付けた。
「若乃宮先生、お預かりしますねー」
その時、カラカラとキャスターが床を這う音が近付き、診察室の前で止まる。引き戸が少しだけ開き、丸い眼鏡をかけたスーツの男が会釈してきた。それに右手を上げて応えた麗慈は、彼の方に目もくれる事なく文字を書くことに集中している。
ストレッチャーに乗せられていたのは、京哉とシェリーがこの医院に到着する前に息を引き取った旋律師だった。彼もまた、普通の医療では蘇生不可能な程の怪我を負い、此処に運ばれてきたうちの一人である。
「葬儀屋じゃん。また誰か死んだ?」
「今月はコレで6件目。そろそろお前の死体も運ばれてくんじゃねーかと思ってるんだけど」
「酷くない…?」
二人の会話の内容を聞きながら、シェリーは引き戸から廊下の方に顔を出してスーツの男を見送っていた。
「…楽団の人?」
「ああ、此処はコイツら専門の診療所だからな」
「旋律師って、音楽家なのに何でそんなに命狙われてるの?」
診察台に腰掛けたシェリーは不思議そうに首を傾げる。彼女の問いに手を止めた麗慈は、その答えをボールペンのペン尻でポリポリと頭を掻きながら考えた。
「音楽家…だからだろ。旋律師か否かは関係なく殺されてるからな」
「そうなの!?じゃあ、キョウヤも狙われてる?」
「政府が一番殺したがってるだろうな」
哀れみの表情で見つめてくるシェリー。京哉は不満げな様子で口を開いた。
「僕らが狙われるのは構わないんだよ。狙われる為に依頼受けてる訳だし?」
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楽団の本部はオーストリアにあり、世界各国からの様々な依頼を受けて方々に音楽家を派遣している。
ハンネス機関が世に出た事で音エネルギーの存在が明るみになったが、楽団が発足するより前から旋律師のような人間は世界中で暗躍していた。
「ほれ、今朝の新聞だ。…ハンネス機関の開発が武器転用を可能にしたってのはまったくの出鱈目なんだよ。最初から楽器一つで殺しでも何でもできるヤバい奴等はいたって話」
麗慈は今朝届いたという新聞をシェリーの方に投げて渡す。受け取ったは良いものの、紙面を見つめても文字情報は彼女の頭の中には入ってこない。
「何て書いてあんの?」
京哉の方に上下逆さまの一面紙を向ける彼女を見て、麗慈は彼女がドイツ人である事を思い出した。
「うわっ……一面は先週の迎賓館襲撃事件じゃん」
「キョウヤが仕事って言ってたやつ?」
「そうそう……へぇー、主犯格はすっごいアイドル級イケメンだって。悪徳議員をやっつけて、アメリカの平和を守りましたーって書いてあるな」
絶対ウソじゃん…と呟くシェリーは、新聞を麗慈に投げ戻す。
「コイツがイケメンかどうかは知らんが、アメリカでの規制法は棄却されたらしいな。これで楽団もかなり動きやすくなんだろ」
例の一件の後、アメリカに帰国したジェザリックは議会を説得する事に成功していたのだ。彼とのやり取りを思い出して、京哉は天井を見つめながら1人でニヤニヤしていた。
旧新宿区方面に向かって走るジープの中で、京哉は機嫌良さそうに鼻歌をうたっている。対照的に助手席のシェリーは何か思う所があるようで眉間にグッとシワを寄せたままシートの上で両脚を抱き寄せていた。
「何だ?マジで麗慈にどっか触られたか?」
「…触られてないから」
じゃあ何だよ?と続けて問う京哉に、シェリーは口籠もりながらも言葉を紡ぎ出す。
「あの…さぁ……」
「おう」
「キョウヤは、何でアタシを引き取ったの…?」
そう問うたまま顔を合わせようとしないシェリー。
「何で今更そんな事聞くんだよ?随分前の事だろ?」
あからさまに面倒臭いという雰囲気で眉を顰めた京哉。彼にとってそれは、あまり答えたくない質問であった。
「だって…旋律師って命狙われるような仕事してんじゃん。アタシ、戦ったりできないから…あ、足手纏いになるだけなのにって思って…」
そう続けたシェリーは、先程医院で麗慈と話していた事が心につかえていたのだろう。膝を抱えたままチラチラと目だけで京哉の表情を見て、彼が答えてくれるかを伺っていた。
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2年前の12月某日。
京哉はかつて頻発していたゲリラ豪雨によって地上に溢れかえった雨水を緊急排水する為に作られた豊島区の地下施設にいた。
そこは先日、闇市と呼ばれる違法競売が開催された場所で、音楽等禁止法に抵触する数々の品が出品してされていた。
「楽団が寄越したのはお前か?」
レッドフォックスの毛皮をあしらった上質なコートを纏った大柄の男が現れ、長身の京哉を更に上から睨み付ける。
藁科長治は大財閥・糸魚川カンパニーを一代で築き上げたやり手で、自警団に多くの資金提供をしている反政府派の活動家だ。
ジロジロと訝しむような視線を向けられ苛立ちを感じる京哉だったが、旋律師の作法は[[rb:楽団 > ギルド]]の掟で守らねばならない。ボウ・アンド・スクレープで頭を下げると和かに笑ってみせた。
「ご依頼いただき、ありがとうございます」
京哉の貼り付けたような作り笑いを見て、藁科は顔を引き攣らせた。
彼は今回、非常に高額な品を落札したのだという。しかし、先日の違法競売の内容は政府も知る所であり、藁科の邸宅がある奥多摩までの道のりには既にいくつもの検問が設置されていた。藁科から楽団への依頼はそれらを全て突破し、落札品を守り切るというものである。
藁科と使用人達に案内され、施設の最下層まで到着した京哉。等間隔に埋め込まれた壁のLEDを頼りに暗い通路を進んでいくと、明らかに後付けされた真新しい区画が目に入る。そして、厳重に鍵の掛けられた扉の向こうに大型の金庫が現れた。
複数人の使用人が協力して何十個ものダイヤルを同時に回し、最後に藁科の手をかざして生体認証を通す。1メートルはゆうに超えるであろう分厚い金属の扉は、蒸気を噴出しながらゆっくりと手前に開いていった。
「現代を代表するドイツのオルゴール造形師オルバス・シェスカが処刑前、最後にこの世に生み出した最高傑作だ」
藁科が狡猾な笑みを見せながら薄いレースのカーテンを引く。ひんやりと冷たい空気が充満した空間には、酸素を供給するモーター音だけが絶え間なく響いている。
金庫の中央、小さな投光器が顔を向けるその先、アクリル張りの水槽の中に白い髪の少女が蹲っていた。微動だにしない透き通った肌の彼女の姿に、京哉は訝しげな表情を向ける。
「…人間?」
「シェスカは実の娘から臓物を全て摘出し、替わりに妻の骨で組み立たハンネス機関付きのオルゴールを埋め込んだのさ…」
心臓が無いのに生きている、奇跡の逸品だ!と隣で叫ぶ藁科。彼の説明はどこを取っても全て常軌を逸しており、とても傑作と呼べる代物ではない。
それは、実の娘を使用した人体実験の結果なのだから。
ひとしきり笑い終えた藁科は京哉の方に向き直ると、金の話をしようと切り出してきた。
「小僧、お前にはコレの護衛をしてもらうわけだが…報酬は言い値で構わないと伝えてあったはずだ。いくら欲しいんだ?」
使用人の1人が藁科の合図で動き、京哉の前に小切手とペンを差し出す。言い値と突然言われても、何を基準にしようかと思い悩んでいた彼はふとアクリル板に閉じ込められている彼女の方を見やった。
「…ちなみに、そこの最高傑作とやらはおいくらで落札したんですか?」
「ふん、自らの目で確かめてみると良い」
そう言うと、藁科は京哉に金庫の中に入るよう促した。
金庫内では京哉が一歩足を進めるたびに、甲高い金属音が反響する。近付いてきた彼の足音に顔を目元まで上げた少女は、それがアクリルの前で止まると大きな金色の瞳で睨み付けた。
「寒くねーの?」
ドイツ語で話し掛けると、彼女は目を丸くする。
「…アンタに関係ないから」
そう言うと、彼女はすぐにまた顔を伏せる。そして、シースルーのような薄い生地で繕われた白いワンピースで覆われた身体を、自分の腕で抱きしめるようにして隠した。
藁科の趣味なのか知らないが、裸体がほぼ透けて見えてしまうような服だけを与えられている少女を、あまりジロジロと見る訳にもいかない。藁科の方を振り返った京哉は、彼が右腕を指差している事に気が付きその意図を察する。
少女の右側に回り込んで二の腕の辺りを凝視すると
、そこには消え掛かった水性ペンで230万ドルと書かれていた。
金庫に背を向けて藁科の近くに戻ってきた京哉は、使用人からペンを取り上げて小切手の上でスラスラと走らせる。そこに書き込んだのは230万ドルの文字…。
突き返された紙切れに書かれた桁違いの金額を目の当たりにした藁科はすぐさま顔を上げて京哉を睨み付けた。
「おい、言い値で良いとは言ったが、コレはやり過ぎじゃないのか?」
「もし彼女に傷一つでも付けてしまったら、ギルドから賠償金として同額をお支払い致します」
ニコリと笑った京哉の胡散臭い表情に嫌悪を抱いた藁科。しかし、彼はその商売柄、契約書の類にはよく目を通す。ギルドから送付されてきた書面にも、依頼失敗時には報酬と同額の賠償金を支払うという旨が書かれていた事を思い出した。
藁科は顎に蓄えた髭を指で弄りながら悩んでいたが、ふぅっと溜め息をつくと思い切って小切手に判を押した。
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午前0時丁度に、少女の閉じ込められたアクリルケースがトレーラーに移される作業が始まった。白い燕尾服に着替えた京哉は、アクリルケースと共にコンテナの中に収容される。閉ざされた空間の中には小さな照明が一つと、床面に固定されたパイプ椅子が一脚備え付けられていた。
コンテナの扉が閉ざされてから数十秒後にはエンジンが始動し、ガタガタと小刻みに揺れ始める。緩急を付けながら前後左右に揺さぶられる感覚から、地下施設を出発したのだと理解した。
移動中は周囲を警戒しつつも椅子に座って身体を揺られるだけの時間。退屈そうに欠伸をした京哉は、ふとアクリルケースの中に視線を移す。やはり少女は寒そうに小刻みに震えていた。
「寒いなら毛布でも貰えば良いだろ?」
京哉の声にピクリと肩を揺らすものの、彼女は顔を上げることはない。小さく蹲ったまま首を横に振った。
「…アンタ…私がアイツにとって箱入り娘か何かだと思ってんの?」
細められた金の瞳と目が合う。
「珍しいから手に入れた…そんだけの話でしょ?」
これまでも、ずっと。と続けた声色は、彼女がこれまでに受けた扱いを物語っているようであった。
15歳になるまで…藁科のコレクションになるまで、彼女はどのような人生を送ってきたのだろうか。人間であるにも関わらず、禁止物として謂れのない迫害を受けたのかもしれない。京哉は、きっとまともではないソレを考えるのを止めた。
そして、足元のスーツケースからフルートを取り出すと、キーの上で長い彼の指が踊り始める。
音はエネルギーとして昇華するため、フルートの音色は聞こえない。コンテナ内が突然青白い光に包まれると、少女は慌てて顔を上げた。
「…な、なに?」
アクリルケースの前に立った京哉の右手には、刀身が青く揺らめくアーミーナイフが握られていた。
彼は切先をアクリルに突き立てると、刃の周囲がズルズルと溶かされ、やがて分厚い透明な壁を貫通する。そのまま刃を1メートル四方にずらし終えると、最後に足で蹴り飛ばして少女のいる空間との間に大穴を開けた。
少女は京哉の奇行を目の当たりにし、慌てて後退って彼との間に距離を取る。
「何やってんだよ…!?こんな事して、アイツに何言われるか…」
「僕は傷付けなければ問題無いって事になってるから大丈夫、大丈夫」
ヘラヘラと笑いながら少女の方へと歩み寄る京哉の右手の中で、アーミーナイフが青白く光を放ちながらフルートの形に戻っていく。
少女の隣にあぐらをかいて座った京哉は、ニヤニヤしながら少女の顔を覗き込んだ。
「…ジロジロ見んなよ」
「まつ毛長っ。ドイツ人って皆そんなだっけ?」
見るなと言ったのに一向に言う事を聞いてくれない京哉の視線から逃れるように、少女は顔を逸らすして不機嫌そうに溜め息を吐く。無視を決め込もうとしたが、突如肩から伝わってきた暖かな感覚に、思わず顔を上げた。
白い燕尾服は、それまで京哉が着ていたものだ。
「……あったかい」
少女は襟を掴み、小さく折り畳んだ身体をギュっと包み込んだ。
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父親が狂い始めたのは、母親の病気が見つかってからだった。
それまでも工房に籠る事が多かった彼だが、妻の余命を聞いたその日から、ますます家族を顧みなくなった。
「パパは最初からあーいう人だったからねぇ」
病室で花の水を替える少女に、母親は笑いながらそう言った。
「でも、ママが病気なのに一度も顔出さないなんて…」
オルバス・シェスカは若くしてその才能を認められたオルゴール作家であった。彼が作り出す独特な音色は、死後の世界と表現されている。
「良いの!…ママはパパがオルゴールを作る姿が好きなの。私がこんな風になっても、惚れた時のまま変わらない彼でいてくれるなんて、ある意味幸せ者ってやつ?」
呑気に笑い飛ばしていた少女の母親だが、それから1ヶ月も経たないうちに容体が悪化し、帰らぬ人となった。
葬式にも顔を出さない父親を、少女は憎んでいた。
母親の墓参りは彼女の日課になっており、その日は強い雨の降る中だったが、欠かさず百合の花を持って墓地に向かっていた。
「……誰?」
母親の墓の位置に、黒いロングコートを纏ったびしょ濡れの男が立っていた。
目を凝らすと、初めは気が付かなかったが、その男は酷く窶れたオルバスであった。
「…何でアンタが此処に……」
オルバスの手に握られていた大きなスコップがあまりにもこの場に不相応で、少女は混乱した。
そして、彼の足元に転がる土に塗れた白い塊が母親の骨である事に気が付いた時には、薬品を嗅がされて意識を手放していた。
ぼんやりとした眼差しで足元を見つめていた少女は、淡々と語り出す。
「オルゴールの振動弁とシリンダーに人骨を使う…それが、唯一無二の音色を生み出すオルバス・シェスカの秘密だった」
オルバスはこれまでにも、墓地から人骨を拝借してはオルゴールの部品として加工していた。
しかし、彼の思ったような音色を奏でる素材を引き当てる確率は低く、そのうち自ら好みの骨格の人間を殺めて、その骨を使った作品を作るようになっていった。
「…アイツが死刑に決まった時、心から清々した……」
でも、と続けた少女は燕尾服の襟を握る手に力を込めて、顔を膝に埋めながら叫ぶ。
「アタシの半分はアイツの血なんだよ…!」
己が欲望の為に多くの死者を侮辱するに飽き足らず、生きる者の魂をも軽視した男の娘である事は、どう足掻いても変えようのない真実。
「こんな…化け物みたいな躰にされてまで生き続けるなら……せめて、生きてる方が辛いくらい惨めじゃなきゃダメじゃん……っ!」
今まで数々のコレクターの手に渡ってきたであろう彼女は、一度もそこで受けてきた扱いを拒絶してこなかったのであろう。
それが、血の咎に対する禊だと信じて。
「……だから、コレ…返す……」
少女は燕尾服を手に取ると、京哉の方に差し出した。
「優しくされたの久しぶり過ぎて、なんかよくわかんなくなっちゃった……でも、ありがと…」
彼女の頬を伝う涙に目を細めながら、京哉は燕尾服を受け取る。
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最初の検問でトレーラーが停車すると、コンテナの外から多くの足音と怒鳴り声が近付いてきた。
「開けろ!積荷を確認する!」
ガチャガチャと乱暴に止金が外され、扉が開かれる。懐中電灯を持った警察官がコンテナの内部を隅々まで確認するが、積まれていたのは空のパレットだけ。
コンテナの中は二重構造になっており、少女と京哉が乗り込んでいる空間とは壁一枚で隔てられていた。警官らが外観と内観の奥行きの違いに気づかなければ、無事にこの場をやり過ごすことができる。
糸魚川カンパニーのトラックと見るや否や、禁止物の運搬車だと息巻いていた彼らは、違和感に首を傾げながらも荷台から降りて運転手に尋ねた。
「どこに向かうつもりだ?」
「本社です。この車両がもうじき点検なので、車庫に入れておく予定なんですよ」
運転手は警察官に車検証を見せる。提示された紙をふんだくった彼らは内容を確認し始めた。確かに今冬に定期点検を迎える車両である事を証明している。警察官は、舌打ちをしながらそれを突き返した。
コンテナの壁面に聞き耳を立てていた京哉は、トレーラーのエンジンが再始動したのを確認すると、素早くその場にしゃがみ込んだ。車体を左右に大きく揺らしながら、トレーラーは悪路に戻っていく。
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藁科の邸宅に警察が強制捜査に入ったのは、トレーラーが豊島区の地下施設を出発した直後であった。
窓という窓から催涙弾が投げ込まれ、使用人たちの身柄が次々と確保されていく。突入した機動隊員の動きに一切の無駄が無い事から、邸宅の見取り図や詳細な情報は警察に筒抜けになっていると推測される。
乗り込んできた機動隊員達は、藁科が長年かけて集めてきたコレクションの数々を無造作にダンボールに詰め込んで押収していった。
音楽等禁止法によって所持、使用が取り締まりの対象となっている楽器や楽譜の数々。闇市で競売にかけられているそれらの資産価値は日夜上がり続けており、この強制捜査によって藁科は多大なる経済損失を被る事になる。
これによって彼が出資をしている自警団の資金力を弱め、反政府運動を鈍らせる事が警察、そして政府の狙いであった。
改正憲法施行後、音楽等禁止法に抵触した者…とりわけ警察や政府の動きを妨害しようとした者、またはそれを間接的に援助した者は厳罰に処される事となっており、逮捕の後に極刑、又抵抗するようならばその場で処刑となる場合が殆ど。
悪法により牛耳られた法治国家、それが現在の日本なのだ。
警官隊の突入を受け、藁科はすぐさま地下シェルターに逃げようと駆け出していた。しかし、行く手を阻んだのは壁を焼き天井にまで燃え広がっていた炎である。
警察は自警団に深く肩入れしてきた藁科のそれまでの所業から、彼を逮捕ではなくその場での処刑が妥当であると考えたのだ。
目を剥きながらバチバチと火の粉が舞う廊下を一心不乱に駆け出した藁科は、これまで築いて来た富が灰となって焼け落ちていく様を目の当たりにする。制御を失った国家権力とは、国民を塵とも思っていないのだと思い知らされた瞬間だった。
熱せられた空気が肺に取り込まれ、息苦しさに咽せ返りながら脱出した邸宅の庭先で、藁科は壊れたように愉快に笑うしかなかった。
[newpage]
山間の道をトレーラーが進む先に、最後の検問が迫っていた。京哉はドライブモニターの映像を確認しながらコンテナの壁際に体側を密着させる。
これまで通り、数人の警察官がコンテナに近づき、積荷の確認をしている様子だった。カンカンと金属の側壁を叩いて回る音が聞こえた後、これまでのように足音が離れていく。
また問題なく検問を通過するかと思われたが、ある異変を京哉の耳が感じ取っていた。頭上を移動する僅かに金属が軋む音。
「………ッ!」
京哉が駆け出すのとほぼ同時に、スターターロープを引く音、そしてバリバリとけたたましいエンジンの起動音がコンテナ内に響いた。
耳を劈くような不快音と共に、アクリルケースの直上で火花を上げながら金属を切り裂くチェーンソーの刃が高速回転するのが見える。
少女の手を引いてアクリルケースから脱出すると、京哉は二重構造の仕切りを蹴り飛ばして扉から外に飛び出した。
トレーラーを取り囲む警察官達は、2人に向けて咄嗟に銃口を構える。少女へ足元にしゃがむ様に指示を出した京哉は、フルートのリッププレートに下唇を乗せた。
「旋律師だ!威嚇無しで撃て!」
白い燕尾服を見るや否や、全ての銃口が京哉一人に向けられる。間髪入れずに引き金か引かれるものの放たれた弾丸は彼に辿り着く前にドロドロに溶けて地面に落下し、鈍色の水溜まりを作った。
フルートによって生み出された音の波は拳銃の弾丸より早く対象物に到達する。銃口付近で溶けた弾丸が詰まることで、次に放たれた弾はその場で炸裂し、警察官達を一斉に吹き飛ばした。
「ッ…貴様ぁっ!!」
裂傷を負った腕を押さえながら京哉を睨む様子を見て、彼は口角を大きく上げてしたり顔を見せた。
「整備不良なんじゃねーの?人のせいにしないでくださいますぅー?」
そう満足気に言い放つと、直様少女を姫抱きの恰好で掬い上げ、ガードレールを飛び越えて山の斜面を滑り降りていく。
「にっ…逃すなっ!!応援要請だ!!」
道路にのたうち回っていた警察官達は息を切らしながらパトカーの方へと戻り、無線に手を伸ばして本部に連絡を入れた。
「第七検問より緊急要請!旋律師1名が藁科氏の落札品を持って逃走中!」
『こちら警視庁機動隊本部。了解。機動隊を出動させ空からの捜索にあたる』
ノイズ混じりの通信が途切れると、検問周辺に停車していたパトカーのパトランプが一斉に点灯し、入り乱れるサイレンの音と赤い光が木々生い茂る山中を異世界の様相に変貌させていた。
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尾根まで下ってくると、周囲は背の高い木々に囲まれていて月明かりも届かない。降りた先が川になっていなかっただけマシだが、年の瀬の寒さは彼女の薄着には堪える。
「おい、こんなんで凍死とかマジでつまんねーからやめろよ」
腕の中で目を閉じガタガタと震えている少女からは、虚勢の返事も聞こえない。
状況的には早くこの場から立ち去らなければならなかった。しかし、彼女が死んでしまえば護衛もなにもないのだ。
京哉は少女をそっと地面に降ろすと、燕尾服の上着をかけてやる。そして、再びフルートを構えて息を吹き込んだ。足部管側からほろほろと花弁のように分解しながら宙に舞う金属片。それらが放つ青白い光で周囲の状況を把握する。右手に集まってきた金属片を地面に翳すと、周辺の落ち葉が火花を散らし始めた。
「いけそうだな…」
そう呟くと、手で地面を撫でて落ち葉を一箇所に集め、もう一度金属片に点火する。そこに、落ちていた小枝を焚べて作った焚き火は、素人作にしてはよく燃えていて上々の出来栄えであった。
パチパチと心地の良い破裂音が耳に届き、同時に顔が火照る程の暖かさを感じる。
薄らと瞼を持ち上げた少女は自分を包み込む温もりの正体に気が付き、肩を震わせた。耳のすぐ上辺りに吐息を感じる。
恐る恐る振り向くと、彼が背中に密着しており、その長いまつ毛が揺れていた。
「なっ……にして…」
「寒くて死なれたら骨折り損だから、温めてる」
本当は早く屋敷に向かいたいのに、と嫌味を付け加えながらも、少女が無事目覚めて安心した様子で口元には笑みを浮かべていた。
「GPSの位置情報が正しければ、藁科の邸宅は案外近いらしい」
懐から取り出したPHSは楽団から旋律師達に配布されている社給品である。通常の携帯電話と異なり特殊な衛生回線で通信を行う為、通常電波の届かない場所でも情報のやり取りが可能となっていた。
目的地に向かう為に立ち上がった京哉は目の前で静かに燃えていた焚き火に土を被せて消火する。途端に冷たい空気が少女を包み込み寒さに震え上がった。
京哉は裸足で落ち葉の上に立ち上がった少女を見て暫く考え込んだ後、燕尾服のスーツを脱いだ。再度肩からそれを掛けてこようとする京哉の手を必死に追い返そうとする少女。伏目がちになりながら彼に訴える。
「だからそれは…」
「僕が君を背負って歩くから。預かってろって意味」
背負う!?と聞き返すが、すかさず目の前で背を向けてしゃがみ込んだ京哉に催促された。おずおずと燕尾服に袖を通すと、手をパタパタと動かして急かす彼の背中に身体を預けた。
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木々の間隔が空いた場所までやって来ると、足元を月明かりが照らしてくれる。
途中、幅5メートル程の小さな川が流れていたが、京哉は川の深さを確認するとそのままま水の中を突き進んでいった。
膝まで水に浸かっている様子に、少女は罪悪感を覚えながら、彼にしがみつく腕に力を込めた。
暫くなだらかな山道を進み、GPSを確認しながら示された方向を眺めると、京哉は目を見開きながら呟いた。
「…燃えてる……」
数百メートル先、宵の空を橙に染め上げる大火事が見えた。何事かと息を呑んだ二人は、状況をいち早く知るべく足場の悪い山道を急ぐ。
距離が近付くに連れて、広大な敷地が赤々と燃え上がる様が鮮明になっていった。
「どうしてこんな事に…」
少女は京哉の背中から降り、轟々と燃え盛る邸宅の姿に呆然とする。藁科の所有物である彼女は、この異国の地において他に居場所は無い。そもそも藁科はどこに行ってしまったのだろうか。
建物の元の姿を想像できないほど焼け落ちてしまっているだだっ広い空間。右から左へと視線を移して瓦礫の山を見渡す。
「おい、あそこ…!」
京哉が指差した先には、燃え落ちる建物の中から這い出してきた人影があった。ユラユラと朧げな足取りで2人の方へと歩み寄ってくる。
身体の殆どが煤で黒く塗り潰されており、右往左往しながら近づいて来る様子に恐怖を覚えた少女は、京哉の背後に退がった。
「あぁ……遅かったな…」
焼けた喉から声を絞り出しているのか、苦しそうに咳き込む。
「俺が失ったのは家だけじゃない……海外の取引先の信頼も…贔屓にしてやってた自警団との繋がりも…全部だ」
彼の家が燃えた程度では、糸魚川カンパニーの経営が大きく傾く要因にはならない。しかし、競売品の輸送という彼の資産が大きく動くタイミングで、政府と警察は彼が利用できるコネクションの全てを先回りで遮断していた。藁科の会社は一夜にして、この邸宅と同じようにボロボロに崩れ落ちてしまったという訳だ。
失意の底、という表現が今の藁科の心境を表すには相応しい。しかし、そんな彼の表情はあっけらかんとしていた。
「…いや…まだ残っていたな……」
震える腕を持ち上げて、少女の方を指さす。
「どうだ小僧?俺からその女を買わないか?」
藁科の思わぬ発言に、京哉は眉を顰める。
「唯一無二の逸品だ…。そうだ…!子も孕めない身体だから好きな様に…「黙れ……下衆野郎…」
低く唸るような声で、京哉が藁科の言葉を制す。
「貴様…依頼人に向かって何という口の利き方だ…」
「もう客でも何でもねーよ。契約書、読んだだろ?」
依頼人に報酬を払う能力が無いと見込まれた時点で、取引契約は無効となる。
「…ふん、そうだったな」
京哉を睨み付けた藁科は、次に少女を手招いた。
「こっちに来い」
不気味な笑みを浮かべる様子に戸惑いながらも、少女はゆっくりと歩み寄った。歩み寄るしかなかった。
所有物である以上、藁科の命令には従わなければならない。京哉にも、彼女を止める権利は無かった。
真正面まで近付いた少女を見下した藁科は、突然煤で真っ黒に汚れた手で彼女の髪を鷲掴みにし、燃え盛る瓦礫の中へと投げ飛ばした。ガラスの割れる音と共に、少女の身体は炎に包まれる。
藁科の奇行に目を見開いた京哉は、次の瞬間には瓦礫の中に飛び込んで行き、少女を炎の中から引き摺り出した。
衝撃のあまりポカンとしているが、彼女の身体の至る所が赤く焼けて痛々しい。
「ほら見ろ!傷だらけだ!損害賠償請求で種銭作って一から出直しだ!何度でも這い上がってやるぞ俺は!!」
天を仰ぎながら狂ったように笑い始めた藁科の頬に、京哉の右ストレートが入る。大きく仰け反り、地面に叩きつけられた巨体は、それでもまだ笑い続けていた。
炎で囲まれ酸素の薄くなった空間で動き回った京哉は息を切らしながら、全てを失い壊れてしまった藁科を蔑んだ冷たい表情で見下す。
「……地獄でも商売してろ」
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京哉に担ぎ上げられた少女は、迫り来る炎の中を転がったままの藁科の方を一瞥して眉を顰める。そして、燃え落ちた屋根が彼の上に降り注ぎ完全に瓦礫の中に埋もれる様を目の当たりにすると、京哉の肩に顔を埋めた。
「アタシも…燃えちゃえば良かったのかな…」
ポツリと呟いた少女の表情は今までの虚勢を張ったものとは違い、不安や恐怖を感じて怯える年相応のものであった。
オルバス・シェスカの最高傑作としての価値は、その対価を支払った者のもとでしか担保されない。
少女がこれまで居場所だと思っていたのは、ただ彼女を飾り付けておく為のショーケースの中だけ。
「これからどうすれば良いんだろう」
また、この紛い物の肉体に値段をつけられるのを待つのだろうか。
「名前は?」
真っ直ぐ前を向いたまま、京哉はそう尋ねた。
「お前はオルゴールじゃない。人間だ」
上下に揺られながら、少女は唇を震わせた。名前など、あの日から聞かれる事すらなかった。自分には作品としての価値しか与えられていないのだと思っていたのだ。名を名乗る事など許されない。
それは、彼女がずっと誰かに言って欲しかった言葉だった。父親を憎み、その憎い父親に造り変えられた己の身体を憎み、作品としての生き方しか赦されないと思っていた少女。
彼女はその時をずっと待っていた。
父親の作ったオルゴールとしての禊は終わったのだと、終わりにして良いのだと、誰かに赦して欲しかったのだ。
顔を上げた少女は、金色の大きな瞳を昇ったばかりの朝日に輝かせながら歯に噛む。
「アタシは……シェリアーナ・シェスカ」
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ようやく良縁屋の裏手に戻ってきた頃には既に夕方で空は茜色に染まっていた。
「ねぇ、何で?」
しつこく尋ねてくるシェリーの期待に満ちた表情を見るや、これは逃れられないと観念した京哉。うーん…と唸りながら前髪を掻き上げて悩む。
「理由なんて…あー……可愛かったから?」
「かっ…かわ…!?」
予想だにしなかった返答に、シェリーは狼狽える。そして、頬を僅かに赤く染めながら再度問う。
「こ、こんな火傷だらけなのに……!?嘘だろ絶対!!」
「嘘じゃねーよ」
「じゃあ……どこが?」
顔を真っ赤にしてモジモジと問うシェリーの様子に、京哉は口角を上げてニヤリと笑った。
「知りたい?」
耳貸せ、耳。と手招いた京哉にまんまと近付いたシェリー。どんな返答が来るのだろうかとドキドキしながら彼の口に耳を近付ける。
「乳が小さくて」
米神にビキビキと血管が浮き出るのを見て、京哉はゲラゲラ笑いながら走って逃げ出す。
「最ッッッ低ええええぇ!!!」
シェリーは叫び声をあげながら京哉を追いかけ、何度も罵声を投げ付けた。
いつもの調子で帰ってきた2人をのほほんとした表情で迎えた祐介は、相変わらず子供同士の喧嘩を繰り広げている様子を見て笑っていた。
此処が今の、シェリアーナ・シェスカの居場所である。
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『…なるほどねぇ……それで珍しく任務失敗な訳か…』
カウンターテーブルの端に据えられた黒電話の前に腰を下ろした京哉は、気怠そうに受話器と本体を繋げる螺旋状のケーブルを指で遊ばせながら溜め息をついていた。
『それで、その子はどうする気だい?楽団で預かろうか?』
「いや…暫く僕が預かって面倒見る」
おや?と相槌を打った電話の相手は、クツクツと笑っている。
『そんなに気に入ったんだね。君が面倒ごとを自ら引き受けるなんて』
馬鹿にするように笑い続ける様子に受話器を睨み付けた京哉は、それをブロックスイッチに叩き付けて会話を終わらせようとした。
『気をつけな、キョウヤ。オルバス・シェスカは生前、例の楽譜にも手を出していた形跡が残ってる。オルゴールのシリンダーに刻まれた曲がそうなら……どんな災厄が訪れるかわからないからね』
「……だから預かるって言ってんだよ。慈善活動じゃねーっつーの」
今度こそ電話をガチャ切りした京哉は勢い良く立ち上がると、カウンターの上で手入れの続きのまま放っていたフルートの方に視線を移す。
特注のタングステン製で、通常のフルートよりも重く、肺活量を必要とする仕様にしているのは、音エネルギーによる負荷に耐え得る為。
本来、美しい音色を奏でる為の道具を武器転用せざるを得ない理由が楽団には存在した。
旋律師という名の音楽家と似て非なる者達が生み出された理由が…。
[2] Opera 完