#019 Sonatine Ⅱ
神奈川・当時29歳女性「料理が苦手で困っています。息子の為にと思ってお米を炊いてみたんですが、3キロの茶色い塊が出来てしまったり…。誕生日にはケーキだけでも作りたいんです。簡単なやつ教えてくれますか」
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クリスマスイブの夜だった。
キーの位置を思い出して指を添える。管から奏でられる音を想像しながら指を動かすのは彼の日課だった。
他の子供達に見つからないように、部屋の隅で母に習った曲の数々を練習する。
明日、京哉は誰にも祝われなくなって3回目の誕生日をこの孤児院の中で迎える。
警察に捕まったあの日から3年間、彼はずっとこの施設の中にいた。DNA鑑定の結果、日本政府が保有する音楽家データベースの中に照合する者はなく、オーストリア政府には捜査協力を拒まれたという。
通常、音楽家の親から引き離された子供は専門の施設に収容されるか、素性を隠して普通の孤児院に入れられる。
しかし、彼は音楽家の子供であるという事を公にされた挙句、活動家と政府の抗争で親を失った一般家庭の子供達が入る院に収容されてしまっていた。
突然髪を引っ張られ、廊下に引き摺り出された京哉は子供達に囲まれて床に押さえつけられた。
「またコイツ、変な事してたぞ!」
「頭おかしいから仕方ねーんだよ。音楽家の子供だから!」
そう言いながら、彼らは京哉の頭からバケツの水を被せる。廊下が一面水浸しになったところで、一人の子供が職員を連れてやってきた。
「せんせー!コイツが廊下汚してたよー」
「あと、また変な事してたー!」
指を差しながらある事無い事を告げ口をする子供達の姿に、京哉は髪から滴る水をそのままに視線を伏せた。
音楽家は自分達の親が抗争に巻き込まれて死ぬキッカケであると教え込まれた彼等にとって、京哉は憎い仇なのである。院に収容されてからずっと虐めを受けていた。
「君たちはクリスマス会に行きなさい」
職員がにこやかにそう告げると、子供達は嬉しそうに騒ぎながら走り去っていった。
クリスマスイブの夜は孤児院でも特別なパーティが催されていた。しかし、当然のように京哉は参加した事がない。
職員に引き摺られて狭い用具庫に押し込められる。外から鍵が掛けられ、職員が去る足音が聞こえなくなると窓の無いこの狭い空間は不気味な程の静寂に包まれた。頬に新しくできた痣を手でなぞると、唇に触れた小指に血がついていた。
今にも崩れ落ちそうな程高く積まれた机や椅子等の備品を眺めながら、一人床に蹲る。年の瀬も近付いており、濡れた服のままでは室内でも凍り付くような寒さであった。
誕生日は、毎年母親が祝ってくれていた。不器用で料理が下手な彼女だったが、毎年手作りでお祝いの料理を用意していた。シエナと最後に過ごした5歳の誕生日には、ボウルいっぱいのプリンに細い蝋燭が刺されていたのを思い出す。
その数日後に、母親が目の前で殺害されるなどその時は予想もしなかった。
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眠気に襲われ瞼を閉じ掛けた時であった。用具庫の鍵が開けられて乱暴な音を立てながら扉が開く。ドスドスと大きな足音が響き、京哉は目を覚ました。
用具庫に入って来たのは職員達の中でも一番大柄な男で、京哉が最も恐怖を感じていた人物であった。咲田善文は自身の親も活動家の起こした反政府運動に巻き込まれて亡くし、酷く音楽家を憎んでいるこの施設の出身者だった。
咲田は後ろ手に用具庫の鍵を閉めると、ズリズリと靴底を鳴らしながら京哉の前まで近付いて来た。
「立て」
短く命令されて立ちあがろうと腰を浮かせた京哉の腹を蹴った咲田は、床に倒れた彼の背中を更に蹴って転がす。
「立てよ、社会の屑が」
咲田は音楽家やその子供の事を社会に不必要な[[rb:芥 > ゴミ]]と呼んでいる。
咳き込む京哉の襟首を大きな手で掴んだ咲田は、彼の背中を背後に積まれた机に強く押さえ付けながら顔を近付ける。
「可哀想になァ?音楽家らから産まれてきちまったばっかりに、今年も不用品倉庫の中で一人寂しいクリスマスを迎える訳だ」
ゲラゲラと至近距離で笑う咲田を虚げな目で見る。
京哉はこの施設で過ごす中で、彼等は敵を作って攻撃し続けなければ自身に与えられた境遇の中を生きていく事が出来ない人種なのだと悟っていた。
社会への不平不満を全て音楽家やその子供にぶつけなければ、何もかもが上手くいかないもどかしさを発散できないのだ。
「何だよその目はァ?」
いびるつもりが、逆に窘めるような目で見られた事に腹を立てた咲田は京哉の顔目掛けて拳を振るった。
「知ってんだぞ、お前っ…父親の顔も見た事ねーんだろ!?音楽家の母親が無責任な男とヤってガキ作って、結局逃げられてんじゃねーか!」
当時の京哉には咲田の浴びせる暴言の意味はわからなかったが、母親を馬鹿にされてることだけは理解していた。震える手を握り締めて彼を睨み付けると、激昂した咲田は更に顔を殴り付けてきた。
「殺してやるよ!お前らなんか生きてても意味無ぇんだよ!!」
何度も襲いかかる拳を受けて、京哉の意識は段々と遠退いていく。本当に今日死んでしまうかもしれないと思いながら、徐々に目の前が真っ暗になっていった。
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結婚を期に危険な旋律師としての仕事から身を引いた梓は、教育係として指導方法の勉強をしながらあの時できなかった事を実行していた。それは、親を失った子供達の預け先となっている施設の健全性調査である。
友梨のような院長が取り仕切る院はそうそう無い。しかし、自分が預けた先で不遇な扱いを受けている子供がいれば救わなければならない。
この日、梓がバイクで向かったのは京哉が預けられている孤児院だった。かつて政府の手配した警官隊と楽団が手を組んだ自警団が衝突した際、何人かの孤児を梓がこの施設に預けていたのだ。
「こんにちはー」
梓が職員達の詰所を尋ねると、彼らはにこやかに立ち上がって挨拶を返した。
「新妻さん、お久しぶりです。何年ぶりでしたっけ…」
「あんまそういうのは数えないようにしてんのよ…歳とってるって実感しちゃうから」
出迎えた職員と苦笑いを交わしながら、梓は院の中を見て回る。子供達は皆寒い中元気に駆け回っており、梓はすれ違う度に挨拶を返す。
子供達が普段屋内で過ごしている部屋や寝室、食堂まで目を通したが、特段変わっている様子はない。
「皆元気そうで良かったです。お忙しい所ありがとうございました」
梓が会釈すると、職員も笑顔で返す。
「またいらしてくださいね。外までお送りしましょうか?」
「いえ…ちょっとお手洗い借りてから帰るので、ここで…」
職員の見送りを断った梓は通路の先にあった女子トイレに入ると、個室の中で背中に背負っていたジュラルミンケースからヴァイオリンを取り出す。弓が弦の上を滑り始め、周囲の人間の視覚を狂わせた。
通路を駆け出して職員と同行した際には見れなかった場所を回っていると、院の裏に据えられた物置の影に座っている子供を発見した。
近付いてみると、その子供は身体の右側で指をパタパタと動かしている。手を叩き、目の前に突然姿を現した梓の姿に子供は目を見開いた。
「こんにちは。えぇと……ごめんね、男の子?女の子?」
中性的な見た目をしていたその子供は、右目を前髪で隠していた。見えている方の長いまつ毛を従えた目を瞬かせながら答える。
「……おとこ」
「そっかぁ!…お名前聞いても良い?」
隣にしゃがみ込んだ梓が名前を問うと、彼は一瞬答えを考えるように視線を逸らした。
「…みやの…きょうや…」
京哉はそう答えると、じっと足元を見つめた。他の子供とは明らかに雰囲気の違う京哉の様子を不審に思った梓は、そっと彼の前髪に触れてどかした。隠されていた方の瞼には血膿が溜まり、痛々しく腫れている。頬にも痣があった。
「お顔、どうしたの?痛くない?」
「……階段で転んだ。痛いけど、大丈夫」
咄嗟に嘘をついた京哉は立ち上がってその場から離れようとしたが、立ち眩みでよろけてしまい梓に支えられる。
「ちょっと…本当に大丈夫?ちゃんと食べてる?」
平気だと言い張って逃れようとする京哉の手を掴んだ梓は、ある事に気がついた。
「手、大きいね。よく言われない?」
「………うん。お母さんが、小さい時からちゃんと開いて練習したら、大きくなるって言ってたから…」
京哉の答えを聞いて、梓はすぐに彼が音楽家の子供だと気が付いた。それなら、この施設に彼がいるのはおかしい。
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「さっき、もしかしてフルートの練習してた?」
言い当てられた京哉は、緊張した面持ちで地面をずっと見つめていた。その問いには答えない。
「…私も手、デッカいんだよ。生まれつきなんだけどさ、すごい不便!ヴァイオリン弾きにとってはね」
梓が音楽家であることを明かすと、京哉は目を見開いた。
「……僕… ヴィドールのフルートとピアノのための組曲、吹けるようになりたいんだ。お母さんと約束したから」
彼の口から出されたまさかの曲名に、今度は梓が目を見開く。
「あんな難しいやつ吹けるようになりたいんだ。すごいなぁ…」
ミヤノという苗字で有名なフルーティストは彼女の記憶には無い。孤児院に預けられている彼に親の事を聞くのは酷だと思いながらも、ここに預けられている理由を探らなければならなかった。彼の怪我は人為的なものだという確証があるからだ。
「ねぇ、お父さんかお母さんが有名な音楽家だったりする?」
意を決して尋ねた梓は、京哉の顔色をこっそりと伺う。
「……わかんない。お母さんはずっと家にいたし…お父さんは……見たことない」
意味深な発言をした京哉に、複雑な家庭環境を想像した。彼にもう少し質問をしてみようと向き直った時、近づいて来る足音を聞いた京哉の顔色が変わった。
「なにやってるんですか?」
そこに姿を現したのは咲田だった。彼の右手に包帯が撒かれているのを梓は見逃さなかった。
「少しお話してたんです。もう帰りますね」
立ち上がった梓は、去り際に咲田からは見えない位置から京哉の服の袖裏にそっと触れていった。
院の敷地から出て、スーツの胸ポケットにしまっていたイヤホンを耳に装着する。そこから聞こえるのは、咲田の怒号と何かを殴り付けるような鈍い音。眉間に皺を寄せて目を細めた梓は聞くに耐えない音の数々を受け止めながらバイクに跨った。
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梓のバイクが辿り着いたのは、旧都営住宅の集う団地。ここの最上階の一部屋が彼女が結婚相手と暮らし始めた新たな隠れ家である。
結婚と言っても音楽家である彼女と相手の間には書類上の婚姻関係は無い。これは、一般人である相手を守る為の方法であり、楽団に所属する人間にとっては当たり前の事だった。
所々錆びた鉄のドアを開けて部屋に入ると、食卓の上に書き置きがある。小さなメモ紙を手に取ると、そこには彼女の夫の文字で『海に出てきます』と書かれていた。彼は遠洋漁業船の乗組員で、年に数回しか家に戻らない。馴れ初めが全くの謎ではあるが、お互い惹かれあって結婚したのだ。ちなみに、夫の方は梓の本当の職業を知らない。
「ま、都合良いか」
そう独りごつと、奥の部屋に隠してあった黒電話を引っ張り出した。ジャラジャラとダイヤルを回しながら電話を掛けたのは、オーストリアにいる彼女の同僚。
『はい、にっこり巻き巻き寿司でーす』
馬鹿みたいに明るい声色で電話に出たのは、託斗だった。苛立ちを感じながら梓は彼に問う。
「音楽家の孤児が、音楽家を妬んでいる子供達のいる孤児院に預けられちゃってるのって、何でだと思う?」
『何それ。可哀想に…いじめられちゃうじゃないか』
そうなのよーと相槌を打った梓は、考え込んでいる様子の託斗の回答を待つ。
『僕が政府側の人間だとしたら…その子を囮に酷い扱いをして親を誘き出すかな』
「……アンタ、とんでもない外道ね…」
しかし、その生死も含め彼の親についての情報は得られていない以上、託斗の言うような可能性も無きにしも非ずであった。政府が情報を欲するような重要人物が彼の親である事も考えられる。
『質問はそんだけ?僕、今ロジャーから頼まれた曲の仕上げで忙しいんだけどー』
「ちょっと待って!託斗はミヤノっていうフルーティスト知ってる?」
二つ目の梓の問いを聞いた託斗は黙り込んでしまった。
「おーい、聞こえてる?今日会ったその子の苗字がミヤノらしいのよ。ミヤノキョウヤくん」
梓がそう言った途端に託斗は受話器をガシャンと叩き付けるようにして通話を終了してきた。大きな音に受話器から耳を遠ざけた梓は、訝しげな表情をしながらボックスボタンに受話器を戻す。
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書きかけの五線譜をデスクの上に広げたまま、託斗は外に出る準備をしていた。自室の内鍵を開け、廊下に誰もいないかを確認する。
地下から地上へ続く階段を駆け登りエントランスを通り過ぎる間際、運悪く外出先から帰ってきたロジャーに見つかってしまった。
「タクト!何やってるんだ…?」
ツカツカと大理石の床を靴底で鳴らしながら近付いて来るロジャーは、託斗の手荷物を一瞥するとその外方を向いた顔を覗き込むように尋ねる。
「……許可は出してないぞ。何処に行くつもりだ?」
息を呑んで周囲の状況を目だけで確認した。警備員達が玄関前に集まっている。このままロジャーを無視して出て行く事もできるが、エントランスで大立ち回りすれば彼等を傷付けなければならなくなる。
「……日本に…行く」
託斗が絞り出した回答に、ロジャーは眉を顰めた。
「何故…?」
そう短く聞いてきたロジャーの顔に表情は無かった。
「……タクト、答えなさい」
さらに高圧的な声色で問われ、託斗は下唇を噛みながら足元を見つめた。そして、深く息を吸い込むと顔を上げてロジャーと向き合う。
「……僕の…息子が捕えられてる。早く助けないと命が危ない」
愕然としたロジャーの顔を見やると、託斗は再び玄関の方を向いて歩き出した。その場にいた全員がシンと静まり返り、彼が進む先に道を譲る。
建物を出てリング通りを走り出した託斗は、隣国のイタリアに出て港に向かうつもりだった。日本に向かう船を探して密航するのである。
そんな彼の背中を1台のセダンが追う。助手席の窓を開けて声を掛けたのはロジャーだった。
「タクト!乗りなさい!船じゃ何日かかるかわからない!飛行機で向かうんだ!」
ロジャーは偽造したパスポートを託斗に見せる。息を切らしながら暫く考え込んだ彼は、観念したようにその足を止めた。
空港に向かう車内では、後部座席に移ったロジャーから詰問を受けることになる。
「……お前達が何か企んでいるのは知っていた。何故日本なんだ……私がどれだけ探したと思って…」
窓の外をじっと見ながら返事を寄越さない託斗。ロジャーは深く溜め息をつきながら腕時計に視線を落とした。飛行機の時間が迫っており、運転手に急ぐように促す。
「タクト、何故黙っていた?せめて私には言って…「アンタには一番知られたくなかった。シエナの事だって、僕は許してない。……旋律師にはさせたくなかった」
ロジャーの言葉を遮った託斗が早口でそう突きつける。膝の上に握られた手は怒りに震えていた。
「楽団の人間に真っ当な未来なんて無い。ましてや血の繋がりがあるなら、その子は外界で普通に生きていける訳がない。今回の件でわかっただろ?」
楽団の中枢を担う音楽家の一人である託斗が、京哉を捕らえた人間の思惑通り日本に誘き出されようとしている。京哉は巻き込まれたのだ。そして、同じく巻き込まれたシエナの安否も不明である。
ウィーン国際空港の明かりが見えてくると、ロジャーは託斗に自分のPHSを差し出した。
「日本に着いたらアズサに連絡をするんだ。こちらから先に詳細は伝えておく。……後の事は、その子をオーストリアに連れてきてからだ」
ロータリーに停止した車のドアを開きながら端末を受け取った託斗は、彼の方を振り返るとこもなく空港の中に走って行った。
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早朝、頭まで包まっていた毛布から顔を出した京哉は周囲を見渡す。そこは用具庫よりも狭く、暗い空間である。
他の子供達に閉じ込められた2畳程の床下収納で夜を明かした。下から押しても蓋の部分は持ち上がらない。上から何か重しをされているのだろう。空気がかなり薄くなっており、もう長居は出来ないと感じていた。
子供達が起きるまで運指の練習をしながら待っていようと手を構えた時、頭上で大きな音が響く。蓋が持ち上がって懐中電灯の明かりに照らされると、眩しさで目を瞑っている間に腕を掴まれて外に引き摺り出された。恐る恐る目を開けると、そこには咲田と複数の職員が立っていた。
「施設内にいて安心したな。行方不明になったら警察に怒られちまうからさ」
「まったく…夜通し探させやがって……わかってんだろうな?」
にじり寄ってきた咲田が京哉の襟首を掴んで宙吊りにすると、次の瞬間には拳が飛んできていた。閉じ込められていた事は明らかであり、他の子供達による悪戯だと職員達は全員理解している。それでも、音楽家の子供であるという理由だけで京哉がいつも責められていた。
職員達が拳を振り上げたのが見えて反射的に腕で頭を覆ったその時、高い塀を乗り越えて院の運動場に1台の大型スポーツバイクが侵入してきた。ヘッドライトの明かりは真っ直ぐに京哉達の方に向かってきており、スピードを緩める事なく突っ込んできたタイヤが窓を破壊してガラスが散乱した。
突然の出来事に混乱する現場。職員達は警察に連絡しようと踵を返すものの、青白い光に包まれた瞬間周囲の違和感に気がついて足を止めた。自分以外の人間、先程突入してきた筈のバイクの姿が見えない。
あたふたしているうちに首に受けた衝撃で昏倒した彼らは、ガラスが散らばる床に倒れ伏していく。ギュッと目を閉じてその場に蹲っていた京哉は、手を叩く音とともにゆっくりと顔を上げた。バイクの排気音が響く廊下で、フルフェイスのヘルメットをすっぽりと被ったライダースーツの人間がヴァイオリンを手に持っている。
「大丈夫!?助けに来たよ!」
聞き覚えのある声の主はヘルメットを外してそれを京哉の頭に被せた。そして、タンデムシートに彼を乗せた梓はヴァイオリンをジュラルミンケースに仕舞いながら長い黒髪を束ね始めた。
「……何で…?」
大人用のヘルメットをグラグラさせながら手で押さえる京哉は震える声で尋ねる。
「それは、君のお父さんに直接聞いてみな」
ウインクをしてシートに跨った梓は、京哉の腕を腰に回させてスタンドを蹴り上げた。
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けたたましい排気音を響かせながら廊下を走り抜けるバイクは、咲田が逃げる際に開け放った渡り廊下のドアから屋内遊技場に入っていく。
徐々に朝日が差し込んでくる中、組み立て式の室内遊具の数々が壊れた状態で床に散らばっている。
一番奥のステージの上では二つの人影が対峙していた。バイクを停車させた梓は、その人影に向かって大声を張り上げる。
「程々にしときなさいよー。頭にキてんのはわかるけど」
ステージの壁際に座り込む咲田の前に立っている人影は踵を返すと、残念そうに肩をすくめながら返してきた。
「まだ12回しか殴れてないから、ちょっと待っててよー!せめて顔面の骨は折っていきたいんだよー!」
季節外れの甚平にマフラーを巻いた奇妙な服装の彼は、見ていない隙にと背後から襲い掛かってきた咲田を回し蹴りで薙ぎ払う。
「この子寒がってるから!あと1発で鼻の骨粉砕しておしまいにしなさいってば!」
そんな恐ろしい事を口にする梓を横目に、京哉は咲田と対峙している男の方をじっと見つめていた。
鼻血と脂汗が混ざってドロドロに汚れた顔を歪めながら、咲田は目の前で仁王立つ男に向かって叫んだ。
「何なんだお前はっ!?こんな事して良いと思ってるのか!?」
うつ伏せになり痛めた脚を引きずりながら床を這う咲田の背中を思い切り踏み付けた託斗は、助けを乞うように悲鳴をあげる彼を見下す。
「こんな事…?こんな事って一方的な暴力の事かな?」
咲田の肩を蹴り上げて仰向けに戻すと、情けない事に恐怖で涙を流し始めていた。呆れ顔でわざとらしく溜め息をついた託斗。
「本当は全員を殺して回りたい所だけど、連れがうるさくてさ……仕方ないね」
鈍い音と共に託斗の拳が咲田の鼻の骨を折って顔面にめり込む。それまでジタバタともがいていた手足は床に力無く投げ出されており、折れた歯の隙間からシューシューと息が出入りする音だけが静かな空間に響いていた。
咲田の顔の横にしゃがみ込んだ託斗は、襟首を掴んで鼻先がつくほどの距離で彼を睨み付ける。
「音楽家がテメェに何をした…?京哉が何をした!?……世の中に不平不満があるなら、まずは自分のその腐った性根でも叩き直してから出直して来い」
託斗が手を離して立ち上がると、咲田は床に後頭部を打って気を失った。
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孤児院を囲んで集まり始めていたパトカーの間を梓のバイクがすり抜けながら進む。
託斗と梓の間に挟まれてバイクに跨っていた京哉は、シールド越しに父親の顔を見上げた。年齢の読めない端正な顔付きの男。京哉の視線に気が付いた託斗は彼の肩をポンと叩いた。
旧都営住宅の部屋に戻ると、梓は救急箱を託斗に手渡して黒電話の部屋に向かっていった。部屋の中をキョロキョロと見回している京哉は託斗に手を引かれてソファに腰掛ける。
託斗が救急箱の中身をガサゴソと漁っていると、彼の様子をじっと見つめていた京哉が不安げな表情で尋ねた。
「……おとう…さん……なの?」
「うん。右神託斗。君のお母さんはシエナ・シルヴェスター・ミヤノ…だろ?」
母親の名前を聞いた途端に、京哉は両目からポロポロと大粒の涙を流して堰を切ったように泣き始めた。
「泣かせてんじゃねーよ、ダメ親父!しっかりしろ!」
鳴き声を聞いて、梓は受話器を耳に当てたまま顔を覗かせた。ダメ親父…と繰り返した託斗は、救急箱を床に置いて京哉の隣に腰掛け、彼の頭を撫でた。
「あー…ごめん、ごめん…何がごめんなのか良くわかんないんだけど……何か言いたい事あるのかな?」
そう尋ねると、京哉は手で涙を拭いながら膝を見つめた。
「……ごめんなさい…」
脈絡もなく謝ってきた京哉に、託斗は益々混乱してしまう。
「何か…あった?」
もう一度ゆっくりと尋ねると、京哉は痣だらけの顔を上げて託斗を見上げる。
「…お母さん……僕のせいで死んじゃった………」
「………」
目を見開いた託斗。隣の部屋で梓も彼らの方を振り返っていた。
「僕がフルート吹いたから…警察の人が家の中に入ってきて……お母さん、僕の前で……」
嗚咽を漏らしながら泣き出し、そこからは言葉を発する事ができなかった。託斗は京哉を抱きしめながら梓の方に視線を送る。コクリと首を縦に振った彼女は一度受話器を置いて更にどこかにダイヤルを回し始めた。
オーストリアまでは船で戻る事になった。京哉の分の偽造パスポートが用意できないからである。イースト・アラベスクと同様に公海上だけを進む密輸船は、楽団がよく密入国の際に使用する移動手段であった。監視の目を掻い潜りながら東京湾発の高速船に乗り、続いて密輸船内に乗り込む。
右目を眼帯で覆った京哉と手を繋ぎながら楽団が手配したコンテナルームに向かった託斗は、入り口でチケットを確認している船員にイタリア語で尋ねた。
「スロベニアまではどれぐらいかかる?」
海に面していないオーストリアまでは、スロベニアの港を経由して更に電車を乗り継ぐ必要があった。
「そうだね…大体1ヶ月とー……ここのところイタリアの海上警察に目をつけられてるから、下手したらプラス2週間は降りられないかもな」
船員に礼を言ってコンテナ内に入ると、京哉を二段ベッドの1階に座らせた。じっと黙ったまま指を動かしている京哉を見て、託斗が曲名を言い当てる。
「ドップラーのハンガリー田園幻想曲だ」
すると、驚いた様子の京哉は顔を上げて左目をパチクリさせていた。
「何でわかったの?」
「そりゃあ、有名な曲だからね…そっかー、もうそこまで吹けるようになってるのかー」
にっこりと笑った託斗に対して、京哉は首を横に振る。
「…わかんない。お母さんが吹いてくれてたから指はわかるけど、本物でやったことない」
5歳のあの日以来、彼はフルートに触れていなかった。シュンとしてしまった京哉の隣に座った託斗は、彼の顔を覗き込みながら尋ねる。
「……京哉は、これからもフルート吹きたい?」
オーストリアに戻れば、きっと京哉は旋律師になるための教育を受けさせられる事になる。託斗は内心、京哉がもう吹きたくないと言う事を期待していた。
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「しかしビックリしたよね。確かにシエナと仲良さそうだったけど、アンタ」
それは、日本を発つ前日だった。京哉を寝かせた後、二人で煙草を蒸しながら旧都営団地のベランダで話していると、梓がそんな話を振ってきたのだ。彼女がオーストリアから日本に来たのは8年前。短い期間ではあるが楽団に所属していた頃のシエナとも面識があった。
「相手は教えてくれなかったけど、結婚したって言ってたの、アレってマジだったんだ。冗談かと思ってた」
「酷いなぁ…君にしか教えてなかったのに」
やだ、何それ気持ち悪い、と言われて託斗は落ち込む。
「……神奈川県警のデータベースに残ってたってよ。やっぱりシエナは殺されてた。あの子はDNA鑑定するために東京に連れて来られたって」
「外道の考える事は外道にしかわからないって、本当だったんだな…。まんまと誘き寄せられちゃった」
頭の上で手を組んで伸びをした託斗は、夜景を失った東京の街並みを眺めながら呟いていた。
「…あの子のケア、ちゃんとできる?」
「オーストリアに着いたら、多分僕は懲罰房行きだろうね。暫く会えなくなるし……その間に教育が始まると思う」
教育、という言葉に梓は眉を顰めた。旋律師に育て上げるための厳しいプログラムについては彼女が今一番詳しい。
「アンタ、あの子を旋律師にしたくなくて日本に逃したの?でも、母親にフルート習ってたんだよね?施設でもずっと運指やってたぐらいだし…」
うーんと答えを渋る様な仕草を見せながら、諦めたように眉を下げた託斗は、手摺にもたれかかりながら理由を暴露した。
「……あの子は希望だったんだ。シエナは根っからのフルーティストだったけど、旋律師には向いてなかった。音楽が好きでやってた奴だから…」
オーストリアでの彼女の姿を思い出した梓は静かに首を縦に振る。
「僕達の代で、旋律師が必要な世界を終わらせたかった。京哉は音楽家が純粋に楽器を奏でられる世界でシエナみたいなゴリゴリのフルーティストになってほしかったんだ。……だけど、世の中上手くいかないね。ダラダラと抗争だの反政府運動だのが続いちゃって」
シエナと託斗が夢見た未来で京哉を音楽家にする。
旋律師がその力を必要としなくなる世の中になるように…託斗はそんな願いを込めて超絶技巧の楽譜を楽団に提供したのだ。
「……私、ちょっと心配してたのよね。もしかしたら、あの子を使って楽団の上層部皆殺しにしようとしてたんじゃないかって」
梓のとんでもない想像を聞いて、託斗は愉快そうに笑っていた。
「えーとね、ちょっとそれも考えた事あったよ。ロジャーに怒られた時とか」
ニチャリと笑った託斗に、梓は顔を歪める。
「でも、そんなのは音楽家のすることじゃない。だから……旋律師にはなって欲しくなかったんだよ」
月明かりの下で綺麗に笑って見せた託斗の表情から悲しみが溢れていて、梓はそんな彼を見続けることができなかった。
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モジモジと指先を遊ばせながら俯いてしまった京哉は、静かに首を縦に振った。
「……上手になって、お母さんに聴かせたい曲…あるから」
そうかーと背中を反らせて布団の上に寝そべった託斗は、京哉に見えない様にこっそりと苦笑した。
「じゃあ、オーストリアに行ったら沢山練習しよう。フルートが上手な人が沢山いるからね」
「……お父さんは教えてくれないの?」
複雑な気持ちでその問いを聞いた託斗だったが、黙っていたら純粋な目で自分の方を見ている京哉が可哀想に思えてしまい、笑顔で返す。
「僕は作曲家だからね。ピアノは弾けるけど他の楽器は教えられる程じゃない」
作曲家…と小声で反芻した京哉。ガタガタと揺れ始めたランプを見て託斗は彼の頭をクシャりと撫でた。
「オーストリアに着くまで、色んな事を教えてあげるよ。お父さんの事も、何でも、ね」
何を教えてやろうかと胸躍らせた託斗は、好きな食べ物や乗り物など子供が聞いてきそうな質問の答えを一通り頭に思い描いたが、その手の質問は一切来ることはなくしょんぼりと肩を落とした。
[19] Sonatine Ⅱ 完