#015 Traumerei
ウィーン・42歳女性「教え子で二回り歳の離れた青年と良い仲になってはどうかと、彼の父親が勧めてきたのですが…これは冗談でしょうか?毎日冗談しか言わない男なので本心かどうかわかりません。でも万が一文字数
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リング通りに社屋を構える楽団本社。雨が降り頻る中執り行われていたのは、取締役社長含めた上層部による重要な会議である。
最上階に設けられた会議場でコの字に向かい合うように設置されたソファの一つに腰掛けた託斗は、大きな欠伸をしながら退屈そうに天井を眺めていた。
議題は異端による旋律師への被害状況確認と今後の対策である。
先日の鶯谷での一件で判明した元旋律師による背信行為を受けて、全世界に派遣している人員の所在調査と共に死亡者リストの再確認も行われた。
「異端の拠点は今、日本政府のお膝元にあるって事だけど……何か事前の動きは無かったのか?」
「新宿の一件で現場はかなり混乱してたからね…」
「日本にいた奴らが仕事してなかっただけなんじゃねぇのか?タクトの倅は何してたんだ?」
全員の視線が一斉に託斗に向けられ、もう少しで寝落ちしそうだった彼はもそもそとソファに深く座り直す。会議の内容など何も耳に入っていなかった為、苦笑いを浮かべながら聞き直した。
「……な、何が?」
「お前の息子だよ。ちゃんと仕事してんのかって聞いてんだ」
乱暴な物言いの大男はアメリカ支部を取り纏めるジョセフ・アーロンである。言葉遣いのわりに厳格な男で、適当に生きていたい託斗にとっては天敵であった。
「そりゃあ……やってんじゃない?」
「アイツはもともとヨーロッパ担当だろ?何で日本に行かせたんだよ」
「あの子が行きたいって言ってたから行かせてやったまでさ。逃げた訳じゃ無いんだから別に良いだろ?」
収拾がつかなそうな二人の言い合いに、間に割って入った人物がいた。ワインレッドで緩くカールする髪をポニーテールにまとめ上げた精悍な顔付きの女は、海のように深い青色をした瞳で彼等を牽制した。
彼女の名はミーア・ウィルソン。ヨーロッパ支部長を務める人間であった。
「彼はアジア地区の応援に行ってるだけだよ。それに、今は彼の所属の話は関係ないだろう?異端について議論したらどうなんだ?」
スクッと立ち上がったミーアは、議長の隣に座るロジャーの前まで歩み寄った。
「スペインで3人、フランスでは5人…直近6ヶ月でこれだけの犠牲者が出ています。新人は1名だけで、後の7名は中堅の旋律師でした。その他、サポート役の人間も何人か殺されています」
そう言いながら、殺害された調査班の人間が身につけていた小型カメラの映像から抜粋したという1枚の写真を彼に手渡す。
「二人の旋律師と共に行動していた彼は、バルセロナの地下で惨殺されました。三人とも脳が溶けて耳や鼻から流れ出ている状態で発見されています」
写真にはボヤけてはいるもののスーツの男と子供のような姿が写されている。
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「……この子連れが旋律師を手にかけたのか?」
ロジャーが老眼鏡越しに訝しげな表情で写真を凝視しながら問うと、ミーアは首を縦に振った。
「異端の構成員には少なくとも旋律師と同等の戦闘能力を有する人間が多数在籍しているものと見られます。そして…旋律師の殺害された現場のうち、数カ所で同じような子連れの姿が発見されているとなると…」
スキャナーに読み込まれた写真がプロジェクターから投影され、会議室の面々はスクリーンに映し出された子連れの男の姿に釘付けになる。
「この子供が…何らかの能力を有する可能性があるな」
ジョセフが口髭を指で触りながら呟く。
「画像データを全員に頒布した上で、この子連れに遭遇した旋律師は特に警戒するよう呼びかけた方が良いかと」
ミーアの提案に、ロジャーは大きく頷きながら立ち上がった。
「私もミーアの意見に賛成だ。これ以上仲間を失う訳にはいかない。また、今後の依頼については必ず3名以上で事にあたるように全員に通達してくれ」
ロジャーの合図で会議が終了すると、託斗の隣に座っていた男が彼に耳打ちしてきた。
「楽譜が異端の目的なら、アンタを誘拐しようなんて考えてたりしてね」
それを聞いた託斗はニヤニヤと笑いながら手を振って否定する。
「こんなオッサン攫っても楽しくないでしょーに。拷問なんかされたらすぐ死んじゃうもん」
「あー、打たれ弱そうだもんね」
二人で賑やかに笑っている様子を横目に、ジョセフは不機嫌な様子でミーアの横を足早に通り過ぎようとした。
「待て、アーロン。君は確か、今夜の便でアメリカに帰る予定だったな。何人か護衛をつけよう」
彼女の方に踵を返したジョセフは鼻で笑いながらその申し出を断る。
「俺も見縊られたものだな。そんな余裕があるなら一つでも多く依頼に向かわせる事だ」
「……そうか。気をつけろよ」
ドスドスと足音を立てながら会議場を後にしたジョセフの背中を見送ったミーアに、今度は託斗が話しかけた。
「さっきはありがとう。助かったよ」
「…いい大人が不毛な喧嘩をするな。それに、彼をアジア地区に貸してるのは事実だからな。一日も早く戻ってきて欲しいよ」
呆れ顔でそう返した彼女に、託斗はしたり顔を見せる。
「こっちにいる時はずいぶん世話してくれてたからね。アイツも君ならアリなんじゃない?」
それまで凛々しい表情で毅然とした態度を取っていたミーアだったが、次第にその頬は赤くなり託斗の肩をバシバシと叩き始める。
「へ、変な事言うな!自分より二回りも若い男なんてこちらから願い下げだ!」
ドアの向こう側に消えるまで羞恥を掻き消すようにウダウダと託斗を罵倒し続ける彼女を見送る。そして、会議場にロジャーと二人きりで取り残された託斗は再びソファに腰掛けると、脚を組んで大きく溜め息をついた。
「何?言いたい事あんだろ?」
ロジャーは託斗の言葉を聞いて自分の席を離れると、彼の隣に移った。
「タクト…お前を失ったら楽団は一気に力を失う。頼むから着の身着のままにフラフラと出て行くのはやめてくれ」
「あーはいはい、また楽団の利益がどーのこーのね。そんなに心配なら昔みたいに…」
そこまで言うと、託斗は急にやる気が失せたように押し黙ってソファから立ち上がった。
「……お望み通りしっかりとお留守番しててやるよ、ロジャー。ちょうど書きたかった曲もあるし」
背を向けたままヒラヒラと手を振って会議場から去っていく託斗の顔からは、普段の胡散臭い笑顔は消えていた。
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新宿区内の雑居ビル群の中を彷徨う京哉とシェリーは、新しく指定された住まいを探して歩き回っていた。
「前住んでた所よりゴチャゴチャしてんなー…今日中に見つけられんのか?」
文句を垂れながら額の汗を拭った京哉は、楽団から伝えられていた『虎の絵』を探していた。
様々な店舗がより合わさっている雑居ビルの一つ一つを見て回るのは大変骨が折れる。情報漏洩防止のためとはいえ、必要最低限の情報すら与えられていない中、二人は途方に暮れながらかれこれ3時間は一帯を右往左往していた。
「いくら探したって虎の絵なんて無いじゃん!もう歩きたくないーっ!!」
騒ぎ出したシェリーが駆け出すと、廃墟の日陰に座り込んで動かなくなる。続いて砂だらけの地面に五体投地する彼女だったが、コンクリートが剥き出しの天井を見つめながら京哉に向けて大声で叫んだ。
「あったー!虎の絵ー!」
シェリーに続いて廃墟に入った京哉は、彼女が嬉しそうに指差す天井に視線を移す。そこには、スプレーで落書きされた動物の絵があった。しかし、非常にシンプルなタッチで描かれていたそれは、虎というよりは虎柄の猫のように見える。そして絵というよりはむしろ、ただの落書きとも言える。
「虎…か?」
「どう見ても虎じゃん!このビルだったんだよ!はい正解ー!」
床に投げ出していた脚を天井に向かって90度上げて反動をつけると、勢い良く立ち上がったシェリーはそのまま勝手に階段を駆け上っていってしまった。
納得できない様子の京哉も仕方なく彼女の後に続いて階段を登っていく。
2階フロアの1番奥に鉄製の頑丈な扉を見つけたシェリーは、京哉に構わず先に中に入ってしまった。
「おい、待てメスガキ…まだ此処だって決まった訳じゃ……」
扉を開けると、受付という看板が張り付いたカウンターテーブルと向かいの待合室…以前は歯医者か何かだろうかと予想しながら先に進む。そして、長い廊下にズラリと並べられた女達のバストショット写真が目に飛び込んできた。絶対に此処ではないと確信した京哉の嫌な予感は的中し、奥から戻ってきたシェリーは訝しげな表情をしていた。
「なんかこの店変。全部の部屋にお風呂ついてる」
「……おう。多分此処じゃねーよ。ってか、勝手に入ってくんじゃねーよ。先住民がいる可能性だって…」
その時、奥から扉を閉める物音がして二人は同時にその方向を見やる。グレーの上下スウェット姿で髪とも髭ともわからないチリチリの毛で顔全体が覆われている男がノソノソと姿を現すと、京哉はシェリーを肩に担いで慌てて鉄の扉から外に出た。
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「先住民…いた…」
呆然としているシェリーの頭をパシンと叩き、京哉は階段を降りてビルの外に向かう。
雨雲が近付いているという予報があり、ジメジメとした空気が漂っていた。先程まで顔を出していた憎い太陽も、今は雲の中だ。じきに雨も降り出すだろう。一刻も早く新居に辿り着きたい。
そう思っていた矢先、二人の目の前に身長2メートルはあろうかというスキンヘッドでサングラスの男がビルの物陰から突如姿を現した。あまりの威圧感に、人中に生やしたちょび髭で微塵もお茶目さを演出できていない。
タンクトップにブーツインしたニッカポッカという強面スタイルで二人の目の前までやって来ると、彼らを見下ろしながら声を掛けてきた。
「ついてきな、ニイちゃん」
それだけを告げると踵を返して歩き出してしまった男に、京哉とシェリーは顔を見合わせる。
突然現れた男について来いと言われて素直に従える訳がない。いつまでもその場を動こうとしない二人の元に戻ってきた男は、あろうことかシェリーを右腕で持ち上げ、京哉を左肩に干し布団のように乗せて歩き始めた。何という怪力であろうか。
「すっ…すみませーん!おろしてくださーい!人違いですって!」
京哉が背中をバシバシと叩くが、男はハハハッと笑い飛ばすだけ。そのまま複雑に入り組んだ路地に進入していくと、小洒落たレンガ造りの喫茶店が一階に入るテナントビルの前で止まった。
「おーい、連れて来たぜー!」
ガハハーッと豪快に笑った男の声で、ビリビリと小刻みに揺れた喫茶店の扉の向こう側から、見覚えのある青年が姿を現した。
「………えっ?」
驚きのあまり口をパクパクさせている彼と目が合い、仁道祐介はヘラヘラと笑いながら約1ヶ月ぶりにその言葉を二人に聞かせた。
「おかえり、京ちゃん、シェリーちゃん」
大男が二人を地面に降ろすと、シェリーはピョンピョンと飛び跳ねながら祐介に飛び付く。
「なんでなんで!?もう会えないと思ってたのに!」
「はは、何ででしょうかー。まぁ、色々あってね。楽団の人に、また二人のお世話してって頼まれちゃってさ」
ほんわかと再会を喜んでいる二人を目の前に、京哉は大男にどうしてここまで連れてきてくれたのかと尋ねた。すると、彼は自分の左の二の腕を指差す。そこには虎の顔の刺青が彫られていた。
「協力者ってやつだな。上の雀荘に住んでる鬼頭だ。宜しくな」
差し出された鬼頭の左手首には、楽団御用達の調律師の証であるリンドウの刺青が彫られていた。
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京哉の新たな隠れ家は、元喫茶店の内装はそのままに、奥の厨房と2階が居住スペースに改造されていた。今回はシェリー念願の彼女の個室も存在する。
楽団の派遣したスタッフによって、室内には既に彼等の荷物が運び込まれていた。
シェリーは喫茶店部分が妙に気に入った様子で、オレンジ色の合皮貼りのソファに座りながらご機嫌で外の様子を眺めていた。
カウンター席に座った京哉は、祐介、鬼頭から彼らに伝えられていた情報を聞き取る事にした。
「えっと、鬼頭サンは…」
京哉がそう切り出すと、鬼頭は彼に顔をグッと近付けて首を横に振る。突然の恐怖体験に硬直している京哉を見て、祐介が笑いながら言葉を足した。
「創くんだよ、京ちゃん」
自己紹介では苗字で名乗った癖に、彼は鬼頭と呼ばれるのが嫌いなようだ。瞬きを繰り返しながら何とか落とし込んだ京哉は、改めて彼に話し掛ける。
「創くん……は…」
すると、鬼頭はニッコリと口元に笑みを浮かべて人差し指と親指で丸を作って見せた。面倒臭い人間が増えたと思いながら、京哉は続ける。
「調律師らしいけど、楽団からは何て言われて来たの?」
「ああ、俺はお前さん達の楽器の調律と修繕、あと物資の調達だな。本部は近々、異端との大規模な衝突が起こると踏んでるそうだ」
京哉は旋律師になってから、何度か外部組織との衝突を経験してきた。しかし、これ程までに楽団が相手を警戒して全面的に備えを進める事はなかった。余程、甚大な被害が出ているのだろう。
その後、祐介が淹れた煎茶をコーヒーカップで2杯飲み干した鬼頭は、後で楽器の状態を見てやるから来いと言い残して喫茶店から去っていった。
「創くん、ああ見えて手先すっごい器用なんだよ。あみぐるみとか作っちゃうし」
手先が器用なのは調律師なので理解できるが、彼の乙女過ぎる趣味を知ってしまい、京哉はその情報は要らなかったと苦笑いを浮かべる。
「で…祐ちゃんは?楽団が同じ人間に潜伏先を頼むなんて初めてなんだけど…」
「うん。それは言われた。再三ね。危ないから、関わらない方が良いって」
京哉達がイースト・アラベスクに乗船して日本を出た次の日。遍玖会自警団本部に匿われていた祐介あてに、楽団からの連絡が入った。
『この前はお邪魔したね』
その声は託斗であった。日本語が喋れる伝令係がいない為、作曲家である彼がいつも駆り出されるのだという。
『さて、とりあえず自警団に守られてるうちは早々に危険な状況に陥る事はないと思うのだけれどもー……これからどうする?』
「これから、と言いますと?」
楽団の通例では、危険に巻き込まれた協力者に関しては可能な限りサポートした上で、本部の目が届くオーストリア国内に亡命させるのだという。
『京哉とは長いんだっけ?』
「彼が18歳の時からですから、3年ぐらいですかね…」
祐介の返事を聞くと、託斗はパチパチと賞賛の拍手を送った。
『最長記録だ!アイツ、ヨーロッパを回ってた頃は何人も協力者が変わっててねー』
シェリーとの不毛な喧嘩を日々仲裁させられていた身としては、その協力者達と馬が合わなかったのかと想像してみた祐介だったが、託斗の次に放った言葉がそれは間違いだと否定する。
『…全員死んでるんだ。だから、3年ももつだなんて考えてなかっただろうね』
「何かに…巻き込まれて亡くなったんですか?」
まぁね、と言葉を濁した託斗。そこは楽団に深く関わる事柄なのだろう。
『仁道くんも、このままアイツと一緒にいたら死んじゃうかもね。今、ヤバい事に巻き込まれてるからさ…ウチの会社』
まるで他人事のように言う託斗だったが、そこからはトーンを下げて尋ねてきた。
『死ぬ覚悟が無いなら、京哉とはもう関わるなよ』
親切な脅しだと祐介は感じた。本当に彼の身を案じて託斗は言ったのだろう。しかし、祐介の心は最初から変わっていなかった。
「そういう事なら、別に死んでも構わないですよ」
いつもの調子でそう答えた祐介は、彼らとの日常を思い出しながら続ける。
「良いんです、本当に。ああ、もし嫌われてるって言う事でもそんな勝手許さないですよ。今まで散々我儘聞いてあげたんですから……これは俺の我儘です」
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志麻周平太が声を掛けたのは、彼が信頼できる男だと見込んでの事だった。
祐介は新宿に流れ着く前までは、東南アジア各国で機雷除去をするNGO団体に所属していたという。国内の混乱が原因で日本からの助成金が途絶えたことによって活動資金が不足し、彼らは解散を余儀なくされた。
苦しむ人々の生活と常に隣り合って生きてきた祐介は、周平太からの要請を快く受けた。それが、たとえ音楽家を匿うという重大犯罪に手を染める事になったとしても。
しとしとと雨が降る静かな午後だった。周平太が祐介の元に連れてきたのは、顔の殆どを包帯で覆われた京哉。粗方の事情はその時説明され、ジュラルミンケースとその怪我人だけを残して周平太は去ってしまった。
「ど、どうも…仁道祐介です」
「右神京哉。夜は基本いないし、昼過ぎまで寝てたいからあんま話す事無いと思うけど、よろしく」
愛想の良い笑い方をする割には、相手と距離を置こうとしている。片目を前髪で隠してるせいか、あまり表情は伺えない。
「そんなに広く無いけど2階の一部屋は自由に使ってもらって構わないから」
そう言いながら8畳間に案内すると、ニコリと笑いながら窓の外を確認していた。
「わざわざありがとう。それじゃ」
素っ気なくそう言うと、ジュラルミンケースをベルトで肩に掛けて店から出て行ってしまった。
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京哉と出会ってから初めて楽団の存在を知った祐介は、彼の機嫌を伺いながら何度か所属する組織に関する質問を投げ掛けてみた。しかし、まともな返事を寄越してきた事はなかった。
質問内容がタブーなのかと考えたが、祐介は京哉の自分と接する時の態度から、それだけではないのだと理解した。
無駄な人付き合いを嫌う人間には大きく分けて2種類が存在する。一つは、一人でいることが楽だから他の介入を拒む人間。もう一つは、自分から他人を突き放さなければならない理由が明確に存在している人間である。
作り笑いを浮かべて、一見愛想良く振る舞う京哉は後者であると祐介は感じていた。
その日は宵から降り出した土砂降りの雨で目を覚ました。朝になっても京哉が戻っていない事に気が付いた祐介だったが、彼の連絡先や所在を知る由もない。
ただ悪戯に時間が過ぎていくのを焦燥感に駆られながら待っているとその日の深夜過ぎ、見覚えのないネイキッドバイクが店舗の真正面に停車した。
慌てて外に飛び出してみると、タンデムシートから降りてヘルメットを外した人影は京哉だった。
グリップを握る白衣を纏った運転手に小突かれてケラケラとわらっていたが、彼の純白の燕尾服はその大半が赤茶色く染まっている。
「…右神くん……?」
恐る恐る声を掛けると、二人が一斉にこちらを向いた。白衣の方はフルフェイスのヘルメットを被っており素顔を窺い知る事はできない。
「心配したよ…帰って来なかったからさ。何かあった……」
事情を伺おうとすると、京哉はまたいつもの愛想笑いを浮かべてしまった。この表情を見せた時は、何も話す気が無いのだと出会ってから1週間程経過して察する事ができるようになった。
ニコニコしながら祐介とすれ違い、裏手の勝手口から屋内に消えてしまった京哉の背中を目で追いながら立ち尽くしていると、バイクに跨ったままの白衣の男が声を掛けてきた。
「アンタ、協力者なんだろ」
「…は、はい」
声の方に向き直って返事を寄越す。白衣姿の男はエンジンをかけながら祐介に忠告した。
「アレ着てる時の京哉には話しかけんな。どこに監視の目があるかわかんねぇからな。誤解されたくねーだろ?」
排気音と共に去って行った彼の言葉を反芻する。
誤解…それはつまり、監視の目に京哉の仲間だと思われる事だろう。
「仲間と思われるのは誤解…って事か……」
ボソリと虚空を見上げて呟いた祐介は、彼らとは別の世界に生きているのだと思い知らされた。
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そんな彼等の関係性を変える出来事が起こったのは、京哉が祐介のもとに預けられてから1ヶ月ほど経過し、二人が住まう新宿区に行政の強制調査が入った日の事だった。
機動隊員が抜き打ちで民衆の家々に押し掛け、隅から隅まで調査を行う。潜伏した音楽家を炙り出すという名目で、生活に必要な電気を賄う為に違法発電機器を所持する人間を逮捕するのが目的だった。
「年に何人かは逮捕者が出るよ。あんまり抵抗するようならその場で処刑される事もあるらしい…」
京哉は祐介に促されて、所持していた大量の楽譜といつも肌身離さず持っていたジュラルミンケースを裏の倉庫の隠し戸にしまい終えた所だった。
季節は一月中旬。雪がパラパラと降る寒空の下、2階の廊下の窓からは機動隊員が廃墟の住人を押し退けて中に入っていく様子がよく見えた。
そして、隣の雑居ビルから引き摺り出されたのは小さな少女であった。その手には小さなハンネス機関が抱き締められている。少女がヒビ割れたアスファルトに投げられると、彼女を追うように慌てて母親らしき人間が建物内から飛び出してきた。
祐介の隣に立っていた京哉は、窓を開けてその様子をじっと眺めている。
「この子…っ!妹が風邪を引いて寒いからって……暖房をつけるためにハンネス機関を探して拾ってきたんです……!これはお返ししますから、許してあげてください!」
母親は少女の手から鉄塊を取り上げようとするが、身を翻した彼女はそれを拒む。
「あゆみちゃん寒いとお風邪治らないよ…!これは絶対に渡さない!」
機動隊員達を睨み付ける少女の様子に、彼等はお互い顔を見合わせていた。そして、彼等を押し退けて一歩前に出た隊長格と思しき男は、ハンネス機関を抱き締めて蹲る少女の胸倉を掴み、軽々と持ち上げてしまう。
「…まずい……助けないと…」
祐介が駆け出そうとした所を京哉が呼び止めた。
「助けるって…どうやんの?アンタが身代わり出頭でもすんのか?」
「それでも……あんな小さい子が罰を受けるなんて絶対にダメだ。ソレに、アテならある」
そう言った祐介は、階段を滑り落ちるように降りて外に飛び出す。人だかりを掻き分けながら進むと、男から少女を掻っ攫って盾になるように蹲った。
「貴様!蔵匿罪で逮捕されたいのか!?」
祐介の方に一斉に銃が構えられると、少女の母親は手で顔を覆いながら絶叫していた。もし銃が発砲されれば、少女に当たる可能性もある。
「退けっ!撃つぞ!」
緊迫する現場を窓から眺めていた京哉は無表情だった。無力な人間が飛び込んでいった所で、状況は好転しない。京哉は何人もの協力者の死に様を思い出していた。次の協力者を探す頃合いかと目を伏せた時、祐介が機動隊員に向かって叫ぶ声が耳に入る。
「撃つなら俺だけを狙え!」
母親の方に少女を押し返すと、祐介は立ち上がって両腕を大きく広げていた。
丸腰で対峙する彼をじっと見つめていた京哉は、遠い昔の記憶を思い返す。
警察官達の前で両腕を広げた彼女を一斉に鉛玉が貫通した瞬間を、京哉は忘れる事ができなかった。
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はっと我に帰った京哉が顔を上げた頃には、隊長格の人間が祐介の目の前にいた。そして、至近距離から彼の太腿に向けて引き金を引く。破裂音と共に地面に膝をついた祐介の脳天に、硝煙が立ち上る銃口を突き付けた。
「蔵匿罪が成立したな。懲役と罰金なんてもんじゃ生温い。この場で撃ち殺してやる」
京哉がその瞬間を息を飲んで見守る中、遠くからけたたましい排気音が近付いてくる。
「隊長!新宿自警団です!」
急ブレーキで停車したダンプカーからは大声を上げながら次々と遍玖会の人間が飛び出してくる。たちまち機動隊員達と揉み合いになり、現場は騒然となった。混乱に乗じて祐介を救出した自警団の構成員が、彼を良縁屋の方へと引きずって来るのが見えたため、京哉は急いで階段を降りる。
「アンタ、この人の知り合いか!?」
「ええ…まぁ……」
引きちぎった布で太腿を止血しようとするが、太い血管を傷付けられたのかじわじわと鮮血が滲み出てくる。
「医者に診せたいが、ちゃんと手術ができる施設はニュー千代田区画にしかねぇんだ……一体どうすれば…」
脚を押さえながら額に汗を滲ませる祐介をじっと見つめていた京哉が彼を背負わせるように構成員に頼んだ。
「どこかに連れて行くのか?」
「とりあえず店ん中……医者なら僕が呼ぶ」
京哉の背中の上で揺られながら、次第に意識を失っていった祐介が次に目覚めたのは、4畳の自室の布団の上だった。薄い壁越しに京哉の部屋から話し声が聞こえてくる。重怠い上体を起こしたタイミングで隣の部屋から話し声が移動し、祐介の部屋のドアを開け放った。
入ってきたのは京哉と白衣を纏った男。恐らく、あの日バイクに乗って彼を送ってきた人間だろうと祐介は予想する。
布団の手前でドサッと胡座を描いて座ると、京哉は白衣の方を指差した。
「ちゃんと病院で医者やってた期間は一年だけだから、何かあっても文句言うなってさ。若乃宮麗慈、僕の仕事仲間」
雑な紹介をされた麗慈は、舌打ちをしながら京哉の横に座った。
「……あ、どうも…」
脚の治療をしたのは彼なのだとわかり、祐介はペコリと頭を下げる。
「銃槍の処置はもう100件ぐらいやらされてっから、安心しとけ。動脈掠ってたみたいだけど、命に別条はない」
無表情で淡々と告げてきた麗慈とは対照的に、京哉は和かに笑っていた。そして、突然立ち上がると両腕を広げる。
「撃つなら俺だけを狙えーーぃっ!」
先程の祐介の真似をした京哉はニヤニヤと笑っていた。出会ってから初めて見る表情であった。麗慈に脛を叩かれると、彼の肩に顔を埋めながら何かにツボってしまった様子でゲラゲラと笑っていた。
頭の上にハテナを浮かべてポカンとしている祐介。麗慈は京哉の頭をグイグイと押し返しながら、面倒臭そうな表情を浮かべていた。
「……不運にも気に入られたそうだ。コイツが素を出し始めたら相当厄介だからな」
厄介と言われている張本人はご機嫌な様子で祐介の顔を覗き込む。
「仁道祐介……祐ちゃんって呼ぶから!」
そう勝手に宣うと、そのまま部屋を出て何処かに消えてしまった。嵐が去った後のように静まり帰った室内に取り残された二人は顔を見合わせる。
「……右神くんって、なんかものすごく…」
「ガキだろ?実際、まだ18歳だからアイツ」
身長もあり大人びた雰囲気を纏っていたため、彼の実年齢を聞いた祐介は目を丸くした。
「嬉しかったんだろうな。アイツ、とことん人の運に恵まれない奴だったから。アンタみたいなお人好しの所に住み着くのは初めてなんだろ」
抗生物質の入った紙袋を置いて立ち上がった麗慈は、そう言い残して部屋を立ち去っていった。
窓の外を見る事に飽きた様子のシェリーは長いソファに横たわってスヤスヤと寝息を立てていた。彼女が超重量級であることを熟知している祐介は、二人で上まで運ぼうと京哉にジェスチャーで伝える。
細い階段を上り、手前のドアを開けた先がシェリーの新しい部屋だ。前の住人が置いて行ったというベッドの上にシェリーを転がすと、京哉と祐介は音を立てないように素早く廊下に逃げた。
「そういえばさ、京ちゃんからは直接聞いてないよね」
「え?」
階段を降りながら、祐介が尋ねる。
「何で俺の事気に入ったの?」
3年前のあの日の出来事を思い出した京哉は、ニヤニヤしながら答えた。
「何だっけなー。忘れたかも」
「えー…絶対に覚えてるよね、その顔は…」
先に階段を降りきった京哉は、踵を返すと祐介の方に手を差し出す。そっと右手を差し出すと、何も言葉を発さないが京哉は満足げな表情で固い握手を交わしてきた。
「…ずるいよなー。楽団の秘密なのか、京ちゃんの意地悪なのかわかんないんだもんな」
彼のニヤけ顔に釣られて、祐介も思わず笑い出してしまった。
「どっちだって良いじゃん!……またよろしく、裕ちゃん」
協力者という非常に危うい立場を「よろしく」という短い言葉で頼める男は早々いない。これまでの関係性がそれを可能にしていたのだ。
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雀荘『虎穴』は京哉達の新たな隠れ家である4階建て喫茶店の入るビルの最上階にあった。
立て付けの悪い引き戸をこじ開けると、やはり店内の備品は綺麗に残されたままの空間が広がっていた。牌が転がったままの雀卓がフロア内に無造作に鎮座して行手を阻んでおり、鬼頭が待ち構える最奥のカウンターに辿り着くには時間を要する。
ジュラルミンケースをカウンターの上に乗せると、趣味のあみぐるみの真っ最中であった鬼頭がサングラスを直しながら京哉の方に面をあげる。そして、編みかけの可愛らしい猫を手元の作業台の上に置いて立ち上がった。
「おう、来たか」
徐にジュラルミンケースに手を伸ばした鬼頭は、手際よくロックを解除して中身を確認する。三つのパーツに別れて収納されていたフルートをそれぞれ取り出すと、作業台の上に敷いた分厚いクロスの上に並べた。
スキンヘッドの上に乗せていた眼鏡型拡大鏡を右目の前に移動させて、細かなパーツを入念に確認し始める。
「こりゃ、驚いたな……ウィリアム・ハンネスの特注品か…」
「楽団の入団祝いというか…旋律師になるって決めた時にロジャーがくれた。タングステンのフルートなんて他に見た事なかったけど、そんなに珍しいのか?」
拡大鏡を元の位置に戻しながら、鬼頭は唸るような低い声をあげた。
「タングステンを切り出すのは容易な技術じゃねぇ…没後に出回った作品の中では恐らく最高級品だろうな。大事に使うこった」
「え…僕、コレ溶かしたり人体にブッ刺したりしてんだけど…」
京哉がそう言った瞬間に、鬼頭の鉄拳が飛んで来る。
綺麗に磨き終えたフルートを組み立てた鬼頭は、たんこぶをこさえてカウンターに伏せておいおいと泣く京哉にそれを手渡した。
「聴かせてみろ。ムーンライト・セレナーデな」
ヒリヒリと痛む頭部を摩りながら「ジャズかよ…」と呟き、京哉はカウンターチェアーから立ち上がってフルートを構えた。
息を吹き込んだ瞬間から音の違いに気がつく。これが一流のメンテナンスか、と感心しながら京哉は指を動かした。カウンターの向こう側で京哉の演奏を聴いている鬼頭も腕を組みながら満足気に大きく頷く。
そして、オフィスチェアーを回転させて180度後方を向くと、スライドする棚を退かした場所に隠してあったアップライトピアノの鍵盤蓋を持ち上げた。
重厚な伴奏が付き、京哉も興が乗った様子でインプロヴィゼーションを入れると、奥の雀卓に置かれたハンネス機関が作動して薄暗かったフロアを蛍光灯が昼間のように明るく照らす。
ゆったりとした心地の良いメロディーに目を覚ましたシェリーも窓から差し込む月明かりを眺めながら、鼻歌でアンサンブルに参加していた。
[15] Traumerei 完