表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
MELODIST !!  作者: 六児
14/88

#014 Oratorio

ウィーン・71歳男性「部下というか腹心の男が勝手に社屋を抜け出して世界中放浪して困っています。命を狙われている身だという自覚は一応あるようですが、自由にされないと死ぬと煩いのです。非常に困っています」



…………………………………………………………………………………




 夜明けが迫る芝浦埠頭を後に、京哉はシェリーを麗慈に預けて矢波の案内で約3時間の道のりを徒歩で移動していた。

 所々シャッターが開いている店舗跡には人々が集い、自警団と思われる人間が物資を配給している様子が見える。


「東京は特に食料自給率が低いですからね…配給がなければ皆飢えてしまいます…」

矢波はボソボソとそう言いながら、どこから取り出したのかパック詰めされた乾パンを手渡してきた。

「…いや、これだけ渡されても口ん中砂漠になるだろ」

「あ、すみません。水は最重要資源なので争奪戦が激しくて…」

そう言うと、今度は半分程量が減った水のペットボトルを手渡してくる。

「良いって!コレも返すから!」

渡された乾パンを矢波に突き返すと、彼はショボショボと悲しそうな顔をしていた。

 紫がかったおかっぱヘアーと血色の悪い肌、そして大きなクマもあいまって、ヒョロ長い体躯の矢波からは第一印象の時から変わらず生気が感じられない。喋り方も独特で語尾に近付く程トーンとボリュームが次第に落ちていくせいで非常に聴き取りづらかった。




 陽が昇ってくるとまだ蒸し暑く、ジリジリと照り付ける太陽が汗の滲んだ皮膚を焦がす。目的地までの距離の半分程を進んだ所で、休憩がてら調査報告をしたいという矢波の申し出で廃墟の日陰に入った。

「今回の依頼についてですが…」

突然切り出した矢波は、懐から取り出した数枚の写真を砂混じりの床に並べる。

「寺田氏の一人娘、寺田香凜(テラダカリン)18歳は昨年夏に上京してからずっと鶯谷に留まっています」

そう言った矢波は一枚の写真を指差す。

 濃紺の艶やかなロングヘアを靡かせた、目鼻立ちの整った品の良い雰囲気のお嬢様である。

「新興宗教とやらにハマってんだろ?」

矢波がヒヒヒッと怪しい笑い声を出し、京哉は顔を引き攣らせながら一歩後退した。

「とんでもない…あれが宗教ならば、彼女は教祖と言えるでしょう……」

「……は?」

並べた写真の中から一枚を手に取った矢波は、それを京哉の目の前で見せる。

「寺田香凜は9歳の時に死別した祖母からピアノを習っていました。警察に目をつけられかねないからと、父親には再三注意を受けていてピアノに触る事を禁止されていたようなのですが……」

「…まさか、その子が家出した理由ってのもソレ?」

彼女が和やかな表情でピアノを奏でる様子を写した写真を指差しながら、京哉が尋ねる。

「そこまではわかっていません。ただ、彼女が家を出る際、世話をしていた従者を一人連れていたようでして…」

もう一枚写真を手に取って、京哉の前に出す。

蓼原駿(タデハラシュン)、24歳。彼の経歴がどうも怪しい…と言うより、どこを洗っても経歴らしい経歴が見つからないのですよ」

世間一般に好青年ととらえられる容姿をした蓼原の写真をじっと睨み付けた京哉。経歴不明の人間など今のご時世でなくても碌な人間ではない。

「……典型的なペテン師の顔だな」

「でしょ?」

矢波とは意外にも反りが合うようだった。



…………………………………………………………………………………




 廃墟を出た二人は、高層ビルの影を探しながら再び鶯谷への道のりを歩き始める。先程より陽射しが強くなっており、すぐに汗が滲んできた。

「その、さっき言ってた、あの子が教祖ってのはどういう意味?」

「ええ…寺田香凜は鶯谷で一番高いビルの屋上で毎日ピアノリサイタルを行っています。警察の動きが鈍る22時から翌朝4時までぶっ通しですよ」

管楽器では到底考えられないな、と思いながら京哉は矢波に問いを重ねた。

「そのリサイタル目当てに人が集まってて、まるで宗教…ってことなら、本部にさっさと報告すれば脈無しで話は済んだんじゃねーの?」

「いいえ…確かにあれは洗脳ですよ。ボクがまだ本部に連絡出来ていない事が一つあるのですが……」



 一週間前、楽団(ギルド)からの要請で調査に向かったという矢波は、まずは隣のビルの屋上から双眼鏡でリサイタルの様子を伺った。そして、すぐにその異質さに気が付いた。聴き入っている観客は皆涙し、拝む様な格好の者も多々見受けられる。

 そして最も奇妙なのは、午前4時に演奏を終えた香凜がその場を離れた後の事である。20人程集まっていた聴衆らが次々とビルから転落していったのだ。

 聴衆が全員飛び降りると、グランドピアノにカバーを掛けた蓼原が最後に非常階段を降りて屋上を後にした。


 数日間外から様子を確認した後、昨夜、耳栓をした状態でリサイタルの聴衆に混じった矢波。涙する彼らであったが、途中からブツブツと独り言を言い始めたという。目の焦点は定まらず、そのままの状態で聴衆は次々とビルの屋上から飛び降りていった。

 いつまでも飛び降りない矢波を不審に思った蓼原が近付いてきた為、彼は仕方なく飛び降り、あらかじめ開けておいた下の階の窓から屋内に侵入し難を逃れたのだという。



「曲を聴いた人間が全員飛び降りた…?」

「はい。寺田香凜がそれに気が付いているかはわかりませんが、蓼原駿の方は確実にそれが目的のような動きでしたね…」

これから楽団(ギルド)に報告するところだ、と言った矢波に連れられて彼が根城にしている雑居ビルの一室に案内された京哉。

 日差しが入らない構造の室内はひんやりとしており、落ち着かない内装を抜きにすれば都内では最高級の廃物件であった。

 しかし、室内を物色していた京哉は壁に飾られていた絵画の裏側に貼られていた一枚のお札を見つけてしまう。よく見ると天井や壁にもお札が貼られている所があり、徐々に背筋が寒くなってきた京哉は慌てて矢波を探して部屋中を忙しなく動き回っていた。


「何してるんですか、右神さん?」

カーテンの向こう側から現れた自分の姿に驚いた京哉を見て、矢波はまたションボリと肩を落とす。



「何なんだよ、このお札!不気味なやつ!」

「ボクが来る前から貼ってありましたよ。このマーク、最近東京の至る所で見るんですよね……目の形のような。ボクからしたら、こっちの方がよっぽど新手の宗教に見えますが…」

気味が悪いなら剥がしちゃいますね、と言いながら全ての札を剥がした矢波はそれを備え付けの灰皿の上に丸めて置いてライターで火をつけて燃やした。




…………………………………………………………………………………



 ニュー千代田区画に聳える新しい高層ビルの最上階。折角の全面ガラス張り窓に分厚い暗幕をかけて室内を暗くし、だだ広い空間の中心に置かれた大きな蝋燭の炎だけで周囲を照らしていた。

 蝋燭を背に、目隠しをして坐禅を組んでいた作務衣に金の辮髪の男は何かに気が付いたように突然立ち上がる。同時に、ノックの音が響いて両開きのドアが放たれた。

 ネイビーのスーツに身を包んだ銀髪の男は、右手を上げながら辮髪の方に声を掛けた。


「邪魔して悪いね、ガブリエル。調子はどうだい?」

ガブリエルと呼ばれた辮髪の男は、目隠しを外しながら肩をすくめてみせた。

「ざんねーん。居場所は特定できたけど、それだけね。でも、良いもの見させてもらったから私は満足ね」

良いもの?と聞き返す銀髪の男は、スーツの胸ポケットから3枚の写真を取り出した。京哉、麗慈、茅沙紀の顔が写ったものだ。

「ミスタートノザキから渡された手配者リストだ。この中に君が見えた奴はいるかい?」

写真を受け取ったガブリエルはそれを舐め回すように見つめる。そして、1枚を宙に放り投げると残りの2枚を銀髪の男に向けた。

「垂れ目の可愛い坊やと、短髪の坊や。この二人は今朝方、芝浦埠頭駅にいたわ。どっちも私好みの鍛え方してたわよ」

「え?」

銀髪の男がどう言う事かと聞き返すと、辮髪は咳払いをして気にするなと手のひらを左右に振った。


「垂れ目の坊やは鶯谷に移動したわ。それで、こっちの女の子。彼女はまだ私のネットワークの何処にも引っかかってない…どっかでのたれ死んだかしら?」

茅沙紀に関しては特段興味無さそうに語るガブリエルの様子に、銀髪の男は苦笑いを浮かべた。

「上海でユリエルが彼に会っていたらしいが、もう日本に戻ってきたのか。楽団(ギルド)は相変わらず人使いが荒いようだ」

「可哀想に…この子達も勧誘してあげたらどうかしらミゲル?異端(カルト)の使徒として」

愛おしげな眼差しで写真に頬擦りするガブリエルの提案に、ミゲルと呼ばれた銀髪の男は顎に手を当てて考え込んだ。

「ねぇ、殺しちゃうなんて可哀想よ。あの子だって元は…」

「彼らにその気があるなら大歓迎さ。彼らはタクト・ウガミの超絶技巧を習得しているから戦力的にも欲しい存在ではあるからね」

茅沙紀の写真を拾い上げたミゲルは、部屋の中央に据えられた巨大な蝋燭の火に手を翳しながら目を細める。

「さあ…そろそろ相見(あいまみ)える準備はできたかな、楽団(ギルド)の諸君よ……」



 自らを異端(カルト)と名乗り、各国政府と手を組んで民衆運動を潰してきた彼らの本拠地は今、日本のニュー千代田区画内にあった。

 日本政府からの依頼を受け、異端(カルト)は今や全国に使者を派遣して活動を本格化させている。彼らが持つ旋律師(メロディスト)と酷似した戦闘能力で反政府運動を制圧し、全国に潜んで諜報活動を行う旋律師(彼ら)を殺害して回っていた。



…………………………………………………………………………………




 寺田香凜は夢の中にいた。大好きだった祖母に教わった大切なピアノ。それに火を付けて燃やした父親の罵倒する声。彼女の閉ざされた目から流れた一筋の雫を拭ったのは、常に傍に控えている蓼原であった。

 なぞられたら感覚で目を覚ました香凜は、慌てて顔を上げて彼の方を見る。

「……駿、また私の寝顔を見てたの…?」

ニコリと笑った蓼原は、上体を起こした香凜の肩にストールを掛けながら答える。

「はい。何時も傍でお仕えするのが私の役目ですから」

爽やかな表情を見せる蓼原に頬を赤くした香凜は、慌てて時計を確認した。時刻はもうすぐ22時というところ。

「今日もたくさん来てくれているのかしら…?」

「ええ、お嬢様の演奏を楽しみに一時間前にはいらっしゃってる方もおられましたよ」

嬉しそうな様子の香凜に、蓼原は脇に抱えていたハードカバーの本を手渡す。無地の表紙を手で撫でると、彼女は愛おしそうな眼差しでページをめくった。

「…最初はとても難しくて大変な曲だったけれど、とても素敵ね。お客さんの中には泣いてる方もいてびっくりしたわ」

「はい。霊歌(スピリチュアル)にはその名の通り、人々を癒す効果があるのでしょう。日々の不便な生活に焦燥し切った皆さんの事ですから、癒しを求めておられるのです」

本をパタンと閉じた香凜は、膝の上にそれを乗せると両の掌で頬を叩いて気を引き締める。そして、8畳程の部屋と隣の空間を隔てている蛇腹状のセパレートの布の方を見やった。

 手を組んでそこに顔を近付けると、祈りを捧げるように何やらブツブツと小声で呟いている。そんな彼女の様子を、蓼原は一歩離れた場所から神妙な面持ちで見つめていた。

「さあ、そろそろ行きましょうか……駿!」

ふと顔を上げた香凜の笑顔は煌々としている。





 非常階段を昇って屋上に姿を現した二人の様子を、京哉と矢波が隣のビルから双眼鏡で眺めていた。今日は50人程の聴衆がおり、中には小さい子供までいた。

「右神さんはこの距離でも耳栓した方が良いですね」

矢波に促され、京哉は耳にウレタン製のスポンジを詰める。旋律師(メロディスト)はとりわけ聴力に優れている為、香凜が奏でる曲に災厄が込められていた場合を考慮しての行動だ。


 静かな前奏と共に小さな演奏会が始まる。

 聴き入っている聴衆は泣き出している者が殆どだった。じっと彼らの様子を観察していると、何人かが空中を両手で掻くような動きをしている。中には、天高く手を伸ばしている者も。

「……何やってんだ?」

「さあ……聴いた張本人に教えてもらわないことには何とも…」

矢波の回答に、京哉は何かを閃いた様子で指示を出した。


 そして、午前4時。リサイタルも終わりに近づき、京哉は立ち上がって何処かに向かう。彼の様子を気に留めることもなく隣のビルの屋上を双眼鏡で見張り続けていた矢波は、香凜が建物内に入るのと同時に聴衆が次々と飛び降り始めるのを確認した。

「右神さん、次です!」

矢波は手元のトランシーバーに向かって合図を送る。すると、いつの間にか見張っていたビルに移動していた京哉が最上階の窓を開けて右腕を振った。窓枠に膝の裏を引っ掛けて上半身を外に出すと、屋上から飛び降りてきた少年を抱き止めて屋内に素早く戻る。

「ちょっとだけ我慢してろよ」

狂乱状態の少年の口を手で塞ぎ、滑るように階段を駆け降りて矢波の待つビルに再び駆け込む。



…………………………………………………………………………………




 廃ビルの一室に少年を担ぎ込み、矢波に彼を押さえておくように指示を出した京哉はジュラルミンケースからフルートを取り出した。青白い光がフロア一帯を照らすと、刃渡り20センチ程のファイティングナイフが手元に出現する。

 突如、刃物を取り出した京哉が近付いてきた為、矢波は何事かと焦り出した。

「しっかり押さえてろ!暴れたら危ねぇから!」

少年の胸元に左手を突き立て、黒い因果の鎖を引き摺り出す。禍々しい光を放つ骸骨が姿を現すと、矢波は目を輝かせた。

 引き摺り出した災厄に刃を突き立てれば、キンと甲高い音と共に紫色の光を放ちながら鎖がボロボロと砕けていく。少年の身体から因果が断ち切れ、それまで暴れていたのが嘘のように彼は力無く床に手足を放り投げた。

「アレが災厄…ボク初めて見ましたよ……って、どうしたんですか?右神さん、手……」

興奮気味な矢波の視線の先に立つ京哉は左手を押さえていた。ラウ・チャン・ワンの因果を断ち切った時程ではないが、全体的に火傷をした様に赤くなっている。

「いってぇ……けど今はそっち。ガキの様子は?」

少年の近くにしゃがみ込み、顔を覗く。ゆっくりと瞼が持ち上がり、自分の顔を覗き込む二人と目が合った。

「…あれ……?此処どこ…?」

キョロキョロと周囲を見回す少年は怪我も無く元気そうであった。安堵の表情を浮かべた京哉は、ニッコリと笑って少年に話し掛ける。

「君、さっきビルの屋上で何してたの?」

見ず知らずの大人に声をかけられた少年は一瞬怯えたものの、笑顔で返事を待つ京哉を見て恐る恐る口を開いた。

「……ママ…に……また会えるって言われて…」

「ママ?」

「うん……少し前、警察の人に連れてかれちゃって…パパに聞いたら、ママは死んじゃったからもう会えないって…」

涙ぐんでしまった少年の頭を撫でた京哉は、矢波と目を合わせる。

「……君に、ママと会えるって言ったのは誰かわかる?」

少し考え込んだ少年は、ハッとした表情で答える。

「うん。顔は良く見えなかったけど…多分ピアノのお姉ちゃんの横に立ってた人」

ピアノの横…蓼原の事であろうか。睨んだ通り、彼が諸悪の根源の可能性が出てきた。

「……ピアノを聴いてた時、何があったか覚えてる?」

少年は首を横に振った。錯乱状態になった後の事は何も覚えていないらしい。

「…ピアノの演奏を聞けば死者に会える……一種の降霊術でしょうか?」

「この子達が聴かされた曲が盗作されたモンなら、制約もクソもねぇ。放置しておけば、これからも上海の時みたいに多くの人死が出る筈だ。急がないと…」

スクっと立ち上がってグランドピアノの方を睨んだ京哉の横顔を見上げながら、矢波は「制約…ですか…」と呟きながら何か考え込む。

「矢波、アンタはその子を父親の所まで送り届けてやってくれ。僕は先に調査を進めてる」

指示を受けてコクリと頷いた矢波と別れた京哉は、屋内に続く扉を潜り階段を駆け降りていった。



…………………………………………………………………………………




「香凜、ピアノなんて弾くんじゃない!警察に目を付けられるだろう!あれほど注意したのにまだわからぬのか!」

「お嬢様…いけませんよ。旦那様の仰る通り、音楽などに触れては…」


 彼女の周囲には、否定する者しかいなかった。祖母はエネルギー革命の前を知る人間。由緒ある家系に産まれた女子の嗜みとして、幼い頃からピアノを習ったのだと聞かされた。

 祖母と共にピアノを演奏する時間は彼女にとってかけがえのないものだったのに。


 大事な形見であるグランドピアノに火を放ったのは父親であった。香凜は使用人たちに取り押さえられて燃え盛るそれに近付くことすら許されず、消し炭になっていく様を唯黙って見ている事しかできなかった。

 彼女は何日も泣き濡れた。誰とも会話をせず、食事も喉を通らず、酷くやつれた姿になったという。

 そして、困り果てた寺田颯斗の元に示し合わせたかのように尋ねてきたのが、蓼原駿であった。



「お嬢様、新しい使用人として寺田家に仕えることになりました。蓼原と申します」

若くて容姿の整っている蓼原は、箱入り娘として育てられた香凜にとって初めて異性を感じさせる存在であった。

 蓼原は香凜の良き理解者として常に寄り添っていた。話をよく聞き、的確なアドバイスをし、彼の言う通りに動く事で大抵の物事は上手くいった。

 香凜は祖母の話もよく蓼原にしていた。ピアノを教えてくれた大事な存在であること、そして、思い出の詰まったピアノを父親に燃やされてしまったこと。


「お嬢様、ご提案がございます」


 蓼原にかなり心酔していた香凜は、彼の言う通り家を出た。そして二人きりで旅をしながら東京の鶯谷に辿り着いたという。


「この蓼原が、お嬢様の一番の願いを叶えて差し上げましょう」


そう言って連れて来られた廃ビルの屋上には、艶のある漆黒のグランドピアノが据えられていた。そして、蓼原は喜ぶ彼女に一冊の楽譜を手渡した。


「これはお祖母様が大事になさっていた楽譜だそうです。是非、お嬢様に弾いていただきたいと思い、持ち出してきてしまいました」


失ったと思っていた祖母の形見がまだあったのだと、香凜は心から喜んだ。





 そよ風にはためくカーテンの音で、香凜は目を覚ました。窓はいつも全て締め切っていたはずなのに。


「金持ちのお嬢様なのに、こんなカビ臭い所で寝てんだな」


聞き覚えのない声に驚いた彼女は、すぐさま上体を起こして周囲をキョロキョロと確認する。

 寝ていたソファから離れた場所に置いてあるオフィスデスクに腰をおろして彼女の方を見ていたのは、京哉だった。


「……出ていきなさい。人を呼ぶわよ…」

「あぁ、あの使用人だろ?ついさっき出て行ったな。近くにはいねーよ」


デスクから降りた京哉は部屋を見回しながら香凜の目の前まで歩み寄ると、彼女が枕元に置いていたハードカバーの本を手に取った。




…………………………………………………………………………………




 パラパラと中身を確認した京哉は、それを香凜に返して天井を指差す。

「聞かせてよ。君のピアノ」

ニコリと笑った京哉は、まだ訝しげな表情で睨む香凜の手を取って立ち上がらせた。慌てて手を振り解こうとする彼女の肩を掴み、グイグイと押して出口に向かわせる。



 風の強い屋上に出ると、グランドピアノの隣に人影が見えた。風に髪を散らしながら京哉の方をじっと見据えている。

「あれ?嗅ぎつけんの早くない?もしかしてお嬢様の事盗聴とかしてんの?」

京哉が揶揄うように尋ねた相手は、蓼原だった。駆け付けてくれたのだと嬉しくなった香凜だったが、彼の様子が普段と異なる事に気がつく。

「……駿?どうしたの?」

二人と対峙した蓼原は深々と頭を下げた。

「お待ちしておりました…楽団(ギルド)から派遣された旋律師(メロディスト)の方ですね」

最初から見抜かれている事に驚いた京哉は警戒して一歩退がる。


「……待ってたって何?やる気満々な訳?」

蓼原にずっと視線を向けたまま、京哉はジュラルミンケースに手を掛けた。

「旦那様の所にやっと届いたんですね…これで私は…」

要領を得ない蓼原の言葉に眉を顰めた京哉は、視線の端で一瞬光った太陽光の反射に違和感を覚えて彼の方に駆け出す。

 その瞬間、音速を超える鉄の塊が空気を割いて横切り、彼らの立つ屋上の床にめり込んだ。蓼原を押し倒して姿勢を低くしながら、京哉は放たれたライフルの弾を確認する。

 赤々とした血糊が床に撒き散らされており、彼の手にも生暖かい液体がドロドロと纏わりついていた。

 蓼原は胸を貫かれており、苦しそうな呼吸を繰り返している。

「駿っ!」

顔面蒼白になりながら蓼原のもとに駆け寄ろうとした香凜の足元に数発の弾丸が打ち込まれ、彼女はその場で尻餅をついて倒れた。

「アンタはそこに隠れてろ!」

鮮血が次々と湧き出る胸元を手で押さえつけながら蓼原をグランドピアノの下に避難させると、ようやく狙撃手による攻撃が止まった。

「おい、何でアンタが狙われてんだよ!?」

焦点の合わない虚な視線を京哉の方に移した蓼原は、血が滲む口元に薄らと笑みを浮かべる。

「……全てを…此処に記録……しています………気を付けて…ください……彼は…」

彼の呼吸が完全に止まっているのを確認すると、その手に握られた白い布を受け取ってズボンに素早く仕舞い込んだ。

 周囲を警戒しながら立ち上がった京哉は、息を引き取った蓼原に抱きついて泣き叫ぶ香凜を見下ろす。

「何で……!?私の大事な人は必ず目の前から去ってしまうわ……!」

恐らく祖母の事を言っているのだろう。いつまでも泣き続ける彼女の肩を叩いた京哉は、隣にしゃがみながら説得を試みた。



…………………………………………………………………………………




「中に入るぞ。まだ近くに狙撃手が潜んでるかもしんねーから」

それでも動こうとしない香凜を引き剥がした京哉は、血だらけの蓼原をグランドピアノの下から引き摺り出し、ほぼ同じような体格の彼を無理矢理背負って非常階段を降り始めた。

 ようやく立ち上がった香凜は涙を拭って時折躓きながら京哉の後を追って歩く。



 彼女が元いたフロアに蓼原の遺体を担ぎ込むと、おどおどしている香凜の方に向き直った。

「…アンタを連れ戻せって、親父さんから依頼を受けてる。使用人も死んじまったんだから、そろそろ家に帰ったらどう……だ……」

京哉の言葉でまた酷く泣き始めてしまった香凜に、今度は彼の方が焦り出す。流石に今のはデリカシーが無い物言いだったかと反省した京哉は、咳払いをしてもう一度口を開いた。

「心配してる人が待ってる。僕が手伝うから一緒に帰ろう」

今度こそと彼女の顔色を恐る恐る伺うと、鼻をズビズビと啜りながら首を横に振っている。

「……父様はお祖母様が遺した大事なピアノを燃やしてしまったの。ピアノも弾いてはダメだって……そんな理解の無い人の元には帰れないわ」

じゃあこれから一人でどう生きるのだと文句を言いたくなる気持ちを抑える。

 京哉が彼女の扱いに苦しむ中、突如部屋の中を駆け出した香凜は隣の空間とを隔てていたセパレートの前に立った。そして、取手を両手で握ると勢い良くスライドさせる。



…………………………………………………………………………………




 その瞬間、京哉は目を見開いた。

 黒く塗り潰された壁や天井には、彼が芝浦ふ頭駅のトイレや矢波の根城で見かけた気味の悪い紋様の描かれたお札がビッシリと貼られている。

 その中心に飾られている一際大きな瞳をモチーフにしたマークの前で手を組んだ香凜は床に跪いた。


「…あ、あのーコレは?もしかして、マジで何かの宗教だったりする?」


眉をひくつかせながら尋ねた京哉に、彼女は祈りの体勢のまま返す。



「想いは繋がってるんだって、あの方々が教えてくださったんです。何処にいても見守っていてくれるのだと」



 香凜の奇行を遠目で眺める京哉の前で、彼女は徐に立ち上がると蓼原の遺体の前にしゃがんで彼の投げ出された両手を持ち胸の前で組ませる。

 行政がまともに機能しなくなって以降、死者の火葬もその手続きに大変苦労を要するようになっていた。抗争で多くの死者が出た場合は、戦時中のようにその場で火葬することも多い。そして、蒸し暑い中、彼の遺体をこの場に留めておくのは衛生的に良くない。

 根っからのお嬢様と見受けられる、ましてやまだ18歳の彼女にその手立てがあるのかと言えば、確実に無いだろう。お節介とは思いながらも、京哉は彼女に問う。

「……早いうちに火葬した方が良い。アテはあんのか?」

すると、驚く事に香凜は京哉の方を見上げながら首を縦に振ったのだ。思えば、ずっと近くで生活をしていた人間が死んだと言うのに、今の彼女はやけにアッサリとしているように見える。

 京哉は悪い想像に駆られながら、彼女が開け放った不気味な空間を再度見やった。



…………………………………………………………………………………




 正午近く、根城に戻っていた矢波と合流した京哉は頭を抱えながら派手な色のソファに踏ん反り返っていた。

「……蓼原が死にましたかー…諸悪の根源がいなくなってしまいましたね」

ボソボソと呟いた矢波は、京哉が香凜の所からくすねてきたハードカバーの楽譜を手に取った。

「それにしても、右神さん…何故彼女にこの曲を弾かせようとしたんですか?危険じゃあ…」

「あー…そんなん、少し聴いたぐらいじゃ大丈夫だからに決まってんじゃん…」

面倒臭そうに返した京哉は、反動で上体を起こすと膝に両肘を付いて額の前で手を組む。

「22時から朝4時までぶっ通しで聴かせなきゃいけない程、聴衆と災厄の間に因果を結ばせるには時間がかかるんだって思って」

なるほどーと相槌を打った矢波は、食い入るように京哉に質問した。

「遅効性の場合って…あり得るんですか?後からジワジワ効いてきて…」

「いや、ねーだろ。生音はその場にいないと聴けないのと同じで、耳に残ってる間しか効果はねーんだよ」

それはそれは!と相槌を打ち、何故か嬉しそうな様子の矢波の引き笑いが不気味で彼の顔を凝視する。右頬の辺りに擦過痕ができていた。

「どしたの、ココ?」

自分の頬を人差し指でトントンと示すと、矢波は一瞬キョトンとしながら痩けた頬を掌で撫でた。

「えー…さっきちょっと寝ちゃった時にベッドから落ちたからですかね…金縛りみたいなのにあって…」

「やめろよ!こんな部屋に住んでっからだよソレ!」

ヘラヘラと笑って頭を掻いている彼を睨み付けると、京哉はゆっくりと立ち上がった。

「おでかけですか?」

「おう。お前は否定してたけど、やっぱりあのお嬢様、変な宗教ハマってるみたいだったぜ?僕は今からソレ調べに行くから」

矢波から楽譜を取り上げた京哉はジュラルミンケースを背負って出口に向かう。

 一人部屋に取り残されそうになった矢波はフゥッと息を吸い込むと、ゆっくりと立ち上がって京哉の背後に歩み寄った。






…………………………………………………………………………………





 新宿地区の統治を担当している遍玖会自警団本部。市谷砂土原町の一角に構えられた荘厳な日本家屋の門戸前に、白いツインテールの少女が仁王立ちしていた。そして、両手を口の横に添えると大きく息を吸って声を張り上げる。


「アッスーーーー!あーそーぼーーー!」


何回か叫んだ後にインターホンを連打する彼女を見て、麗慈はジリジリと距離を取った。


 やがて奥の母屋の中からドカドカと大きな足音を立てながら出てきた狐顔の男がシェリーの手を引っ掴む。


「だあぁーーっ!やめい言うとるやろ毎回毎回っ!アイツやな、京ちゃんに教わったんやろ、ソレ?」

「アッスーが早く出て来ないんだもん」


門戸が開けられたのを良いことに、敷地内に駆け込んでいったシェリーを呆れ顔で見送った阿須賀は、離れた所に立っていた麗慈に気がつく。


「あ?何や、今日は医者の兄ちゃんが来たんか。京ちゃんは?」

「仕事。俺もこれから新しい医院に戻るから、シェリーの事ヨロシク」

それじゃ、とそっけなく踵を返す麗慈の肩を慌てて掴んだ阿須賀は、米神をピクピクさせながら作り笑いを浮かべていた。

「ヨロシクやあらへん…あの嬢ちゃん怖いんやて!ワシらには扱えん!」

「大丈夫、俺も無理だから」

「ぁああっ!待って!ホンマに!」

必死に食い下がる阿須賀が振り切られると、顔を上げた瞬間にはもう麗慈の姿は何処にも見えなくなっていた。

 ガックリと肩を落として項垂れる阿須賀を呼んだのは、屋敷の玄関から顔を出した使用人。

「若頭ー、お電話ですよー!いつもの方からー!」

いつもの方と言われた彼は、グッと眉を顰めた。


 庭の池を覗き込んでいるシェリーの首根っこを引っ掴んで屋内に引き摺り込み、使用人に彼女をもてなす様に任せて廊下を駆けていく。

 辿り着いた1番奥の部屋の襖を開けると、床の間に黒電話が鎮座していた。受話器は本体の横に添えられている。


「…宍戸です」

訝しげな表情で電話に出ると、聴き覚えのある男の声でやたらと丁寧な挨拶が返ってきた。


『お忙しい所大変恐れ入ります。にっこり巻き巻き寿司でごさいます』

「……にっこり…」


やけに陽気な店名とのギャップに、阿須賀は吹き出しそうになるのを我慢しながら要件を尋ねた。


「で、何を手伝えって?」

『察しが良いね、アッスー。ちょっと出張お願いしたいんだけどさ…』


淡々と告げられる指示内容を聞きながら、阿須賀は腕時計に目を落とした。


「すぐに向かうわ。緊急サービスっちゅう事で、色付けてな」

『えー…上乗せは厳しいけど、困り事があれば無料で解決してあげるよ。アイツが、ね』



チン、と受話器をボックスボタンの上に戻した阿須賀は元来た廊下を駆け出して玄関を飛び出す。

 大急ぎで門戸に向かって走る彼の姿を見たシェリーは縁側から叫んだ。


「アッスー!どこいくのー?」

その場で駆け足しながら振り返った阿須賀は胸の前で合掌しながらニッカリ笑った。

「ちょっくらオカルトかじって来るわ!嬢ちゃんはお菓子食べ過ぎんようになー!」

手を振りながら敷地の外に駆け抜けていった阿須賀に手を振り返したシェリーは、客間に戻ると既に4個目のどら焼きの包みを開け始めていた。




…………………………………………………………………………………




 パチパチと弾ける焚き火の音で重い瞼を持ち上げる。既に辺りは暗くなっているようだった。目の前にはドラム缶が置かれており、その中でクズ木が燃やされている。熱気で首筋からは滝のように汗が流れており、昼過ぎに血で汚れて着替えたシャツがグシャグシャになっていた。

 それから数十秒後、やっと手足の感覚が戻ってきた頃、自分が電信柱に磔にされている事に気がつく。


「魂は本来、平等であるべきだった」


 突如頭上のスピーカーからハウリング混じりに響く聞き覚えのある声が耳を劈く。あまりの不快さに京哉は思わず目を瞑った。


「しかし、人を創造した神は彼らと我々の間に隔たりを設けたのです」


ジャリジャリと砂を踏みしめながら近付いてきた足音に顔を上げると、紫色の祭服を纏った矢波がこちらをジットリとした目で見つめている。


「ごきげんよう、右神さん。効いたでしょ、あのおクスリは。ゾウも一瞬で卒倒するくらいの強力なやつ使わせてもらいました」

「………矢波…お前…」


楽団(ギルド)から派遣された人間では無かったのか。そう問う前に矢波が再び口を開いた。


旋律師(メロディスト)が来る事は予想できました。鼻は良いと聞いていますからね。だからボクらも警戒していました。憎き敵の動向ですから」


憎き敵…楽団(ギルド)の事をそう呼ぶ者達は多い。しかし、矢波の正体はそれまでの経緯を考えても予想がつく。

「お前……異端(カルト)…か…?」

「………はい。その通り」

ニッコリと不気味な笑いを見せた矢波は上機嫌で踵を返し、京哉に背を向けた。


 空き地の高い塀には、例の不気味なお札がビッシリと貼られており、京哉と焚き火をぐるりと囲う人々の額にもお札と同じマークが書かれていた。


「彼らは自由を求めて我々の導きに従う者達……従順な使徒です」


仰々しくそう宣った矢波は、人集りの中から香凜を呼び出した。彼女の額にも例の如く不気味なマークが描かれている。



「さて…貴女はまた大事な人を失ってしまったそうですね……お可哀想に」

「………」


黙ったままの香凜は、気持ちの悪い程ニッコリと晴れやかな笑顔を見せていた。


「香凜さん、今日初めての方もいらっしゃいますので、どうぞ説明してさしあげてください」


両腕を広げた矢波に促され、香凜は焚き火の正面に立ちながら深く一礼した。


「我々は深い悲しみの中におります。愛する人間を、奴等の身勝手により失ったからであります」


奴等と言いながら、香凜は京哉を指差した。


「しかし、亡者とはいつまでも心を繋ぎ止めておくことができます。彼等はいつ、何処にいても、我々を見守っていてくださるのです」


額のマークを指差すと、周囲を囲む人間も同じように額を指差した。


「信じる者こそが正であり、彼等からの祝福を享受するに値する価値ある魂なのです」


一気に拍手が沸き起こり、異様な雰囲気に拍車を掛けた。

 そして、軍手をはめて鉄製のトングを持った香凜は、燃え盛るドラム缶の正面に立つ。三段程の低い脚立に昇って焔を上から見下ろした。トングを持った方の手を徐に缶の中に突っ込むと、真っ赤に熱された剣の形をした金属の塊を取り出す。


「亡者との繋がりを保つ為に、無価値な魂を捧げるのです。信じぬ者の魂を捧げるのです。そして、創造主の寵愛を受けた憎き音楽家の極上の魂を…」



…………………………………………………………………………………




 軍手の上から耐熱グローブをはめた香凜は、満面の笑みを浮かべながら燃える剣の柄を握る。そして、その重さに耐えながら腕を震わせ、上段に構えた。

 その剣をどうするつもりなのかは想像に容易い。磔にされた京哉のもとに躙り寄る香凜の目は怒りに満ちていた。抵抗できない状態では、いくら素人の攻撃と言えど重傷は免れない。

 一歩、また一歩と近付いてくる彼女の動きを注視していた時、突然男の声が響く。


「あのー…よろしいでしょうか?」


群衆の中から手を挙げた一人が、身を捩りながら前に出る。まだ額にマークの書かれていない、マスクにサングラスをかけた小柄な青年だった。

 彼の方に向き直った矢波は、香凜に一度剣を戻すように促す。


「貴方は…今日初めていらっしゃった方ですね。ご質問ですか?」

「はい!……魂を捧げるって…どうやるんですか?」


青年が質問すると、人集りからクスクスと笑い声が上がる。それを手で制した矢波は、怪しげな笑みを浮かべながら香凜の耐熱グローブを彼に渡すように促した。


「その日のうちに洗礼の儀式を行うことができる貴方は大変幸福ですね。捧げる為には肉体から魂を解放する必要があります」


亡者の魂が天に導かれる力はとても強く、自身の近くに繋ぎ止めておくにはより大きな魂の力が必要になると説明した矢波。


「此処で洗礼の儀式を行った者は力を得ます。その力をもって奪い取った魂は、貴方と貴方が失った大切な方とを繋ぐ強力な鎖となりましょう」

ニコニコと不気味に笑いながら京哉を指差した。




「……そこに磔にされた男を殺せば良いんですね…」


マスクの青年は香凜から手渡されたグローブをはめ、そのまま躊躇なくドラム缶の炎に手を突っ込むと、燃えたぎる剣の柄を掴んで取り出した。

 ジリジリと歩み寄る青年の姿を見て額に汗を滲ませた京哉であったが、きつく拘束されている為身動きすら取れない。

 勢い良く振りかぶった剣が京哉に向かって振り下ろされる。そして、あわやという瞬間……その切先は彼の胴体を電信柱に縛りつける荒縄を擦り焼き切った。

 矢波が異変に気付いて掴みかかる前に、青年は身軽にバク転しながら距離を取ると、今度は京哉の背後に回り込んで手首と足首の拘束を解いた。


 解放された京哉はふらつきながら地面に降り立ち、剣を遠くに投げ捨てた青年の肩に掴まる。

「標準語ぎこちなさ過ぎて笑っちゃいそうだったんですけど」

「仕方あらへんやろー…関東のど真ん中にいきなりコテコテの関西人出て来よったら、不自然でしゃーないし」

マスクとサングラスを外し、ニンマリと笑ったのは阿須賀だった。その背中には、京哉が拘束される際に矢波が奪った筈のジュラルミンケースが背負われている。


 想定外の事態に慌てふためく矢波は、血相を変えてその場から走り出した。そして、響めく集団に指示を出す。


「その者達の魂なら、あなた方の愛する者を現世に繋ぎ止めるのに十分な対価になるでしょう!早く取り押さえてください!」


矢波の声で一斉に二人の方に踵を返した彼らは、我先にと飛び掛かってくる。


「京ちゃんはアイツ追いかけや!此処はワシに任しとき!」

ジュラルミンケースを投げ渡された京哉は、サムズアップして走り始めた。その動きを止めようとタックルしてきた男を阿須賀が蹴り飛ばして道を開ける。



…………………………………………………………………………………




 途中で祭服を脱ぎ捨て全力疾走する矢波は、路地の間にあるマンホールを開けて地下に逃げ込む。薬の影響でまだ本調子の出ない京哉は時折よろけながら彼の後を追ってマンホールの中に入った。

 非常灯の小さな明かりだけを頼りに、暗く干上がった水道管の中を進んでいくと、前を行く矢波がグレーチングの行き止まりで振り返りながら壁に設置されたボタンを押す。

 警報音が鳴り赤色灯が点滅し始め、奥の天井側から次々と鉄板の仕切りがギロチンのように落ちてきて行手を遮った。

 フルートを構えた京哉は青い炎を纏ったホットダガーで鉄板に幾重もの切れ込みを入れ、靴の底で蹴破って進んでいく。

 最後の一枚を突破した京哉は、ガタガタと震えながら腰を抜かしている矢波の股の間にホットダガーを突き刺した。


「ひっ…」


怯えた様子で乾いた苔の張り付いたグレーチングの壁に背中を打ち付けた矢波の胸倉をつかむと、更に後頭部を打ち付ける程強く押し付けた。


「な…何で…」

「……たった一人で戦ってた男が遺してくれたんだよ」







 蓼原から最期に手渡されたのは、白い蝶ネクタイ。それは、京哉達にとっては見慣れたものだった。

 [[rb:旋律師 > メロディスト]]が着用している白い燕尾服に付属する特注品。裏に一人一人の名前が刻まれているもの。

 手渡された蝶ネクタイには、NISHINO(ニシノ)WATARI(ワタリ)と刺繍されていた。




 蓼原駿…本名、西野渡(ニシノワタリ)。彼はアメリカで行方不明となっていた旋律師(メロディスト)であった。




『私が異端(カルト)に拉致されたのは、一年前。その時私は、死を選ぶか仲間になるかの二択を迫られた』


 蝶ネクタイを分解して広げた布の裏側には、このように書き出された西野のメッセージが刻まれていたのだ。





 長い拷問に耐えかねた西野は、知っている情報を全て吐き、異端(カルト)の一員となった。

 西野は旋律師(メロディスト)ではあったが、彼等の知りたがっている情報は持ち得なかった。異端(カルト)は託斗の書いた3つの大編成と21の超絶技巧の楽譜(スコア)について、そのロジックを知りたがっていたのだという。

 異端(カルト)の者達は楽譜(スコア)を真似て曲を書いたは良いが、いくら実験を重ねても思うような祝福を受けることが出来ない事に剛を煮やしていたのだ。


 役に立たないと見限られた西野は、一冊の楽譜を渡されて富山の寺田家に派遣された。そこで一人娘の香凜を手玉に取り、上京しろという命令を受けたのだ。

 彼女と祖母の思い出を利用し、彼女にうまく取り入ることが出来た西野は、命令通りに東京に向かわせる事に成功した。

 異端(カルト)は全世界に潜む音楽家を炙り出し、模造品の楽譜(スコア)を演奏させて災厄の実験を繰り返していた。香凜もそのターゲットにされたのである。




…………………………………………………………………………………




 鶯谷の地で彼女を待っていたのは、矢波が宗教のように広めていた異端(カルト)による洗脳。彼等は身寄りを亡くし、憔悴し切った人々に手を差し伸べるフリをして、『魂の対価』という出鱈目な思想を植え付けていった。


 異端(カルト)が鶯谷の地で広めた新興宗教の目的は二つ。反乱分子の排除と「目の獲得」である。残念ながら、「目の獲得」という言葉の意味に関しては西野の調査結果には記されていなかった。しかし、異端(カルト)の非人道的な行いについては詳細が述べられている。

 

 異端(カルト)と相容れない思想の持ち主の魂は、自身が会いたいと願う故人の想いを現世に繋ぎ止める糧となる。糧となった人間の魂は浄化され、救われる。そのような彼らの嘘を真に受けた人間によって、矢波を教祖のように崇めた集団が形成されていった。

 西野が香凜に演奏させるように渡された霊歌(スピリチュアル)は、聴いたものが一番会いたいと願う亡者の幻覚を見せる。そして、災厄と因果を結ばされた者は亡者に誘われるように命を断ってしまうのだ。

 より多くの人間を糧として救い、大好きだった祖母の想いを繋ぎ止めようとした香凜は、人死が出る事を知った上で何度も霊歌(スピリチュアル)を演奏していた。


 ただピアノを愛していた一人の少女を東京に誘い、異端(カルト)と接触させ、狂わせてしまった罪の意識に押し潰されそうになった西野は、秘密裏に寺田家に向けて匿名で手紙を送っていた。

 改正憲法施行後は、完全な情報統制で都内からの通信文書の全てが検閲の対象となっていた為、試行錯誤しながらほぼ暗号の様な手紙を約一年間送り続けたという。



『全ての間違いは、私が旋律師(メロディスト)としての意思を貫き、死を選ばなかった事にある。誠に勝手な願いだとは承知の上で、私の記録を受け取った旋律師(アナタ)にお嬢様を救っていただきたい』




 襟首を掴む手を離すと、矢波は脱力してズルズルと床に吸い込まれていった。そして、クツクツと笑い始める。

「……何が可笑しい…」

京哉が無表情で問うが、答えを寄越さずにただ笑い続けるだけ。痺れを切らし、彼の頬を殴り飛ばすと床に這いつくばりながらヒイヒイと息を切らした。

「リサイタル後に蓼原の表情を見るのが毎度ボクの至高の楽しみでしたよ…奴を貴方に近づけたのは楽譜(スコア)のロジックを解明する為だったのですが、まさか勝手に接触してしまうとは……殺さなくてはいけなくなってしまったのは貴方のせいでもありますよ」



 隣のビルに潜んでいた狙撃手は矢波であった。狙撃に気が付いた京哉によって目標がずれ、直前で軌道修正した時に反動でできたのが顔の擦過痕であった。


「大法螺吹きの下衆野郎が……」

無表情で呟いた京哉は床に突き刺したナイフを抜き、逆手に持って矢波の首筋に当てがう。



…………………………………………………………………………………




 鈍色に光る刃が矢波の首の皮膚を裂こうとしたその時、グレーチングの向こう側から地を揺らすほどの轟音が近づいてきた。

「ボク、こう見えて寂しいのは嫌なんですよね…一緒に死にましょうよ、右神さん」

濁流が一気に押し寄せ、二人の頭上まで水が充満する。マンホールの方に泳いで戻ろうとした京哉の脚にしがみついた矢波がそれを阻止した。



 地上で群がる信者達を散らし、狂乱状態の香凜を拘束していた阿須賀も、徐々に大きくなる地面の揺れに気が付いた。そして、京哉達が進入していったマンホールの蓋が吹き飛び、中から間欠泉のように水が吹き出して柱を成す。雨のように広範囲に降り注いだ水で彼等もびしょ濡れになった。


 その後、湧き出した水が割れたコンクリートの上を撫でながら排出されていくと、次第にその勢いは収まっていく。香凜の腕を引きながらマンホールに近付き中を覗き込むが、水が噴出してから5分程経過しても内部は水で充満されたままだ。

「え…?もしかしてアカンかった?京ちゃん!京ちゃーーーん!」

心配した阿須賀が大声で呼び掛けると、ビチャビチャと波打つマンホールの縁に指がかかり、中から水浸しの京哉が顔を出した。

 ゼェゼェと息を切らしながら伸ばした腕を、阿須賀がもう片方の手で掴んで地上に引き上げる。暫く息を整える為に地面に仰向けに転がっていた京哉の顔を覗き込んだ阿須賀は、フッと鼻で笑った。

「何や、元気そうやな」

「プロの肺活量舐めんな……」

強がる京哉であったがそれまでのダメージの蓄積もあって、満身創痍の状態であった。



 どうにか立ち上がるだけの気力が回復すると、阿須賀が保護していた香凜が発狂している様子に肩をすくめた。

「コレがアンタの娘ですよって送り返しちゃって大丈夫かな?」

「しゃーないやろ。狂ったんは何チャラっちゅう楽譜のせいやのうて、自分が変な宗教に心酔したせいなんやし…」

顔を見合わせた京哉と阿須賀は、同じタイミングで苦笑いを浮かべる。そして両脇で抱えた香凜をズルズルと引き摺りながら、二人は静けさを取り戻した鶯谷の街を後にした。



…………………………………………………………………………………






『あの一帯の廃ホテルを隈なく捜索させたよ。無事に調査班の子の遺体も見つかったそうだ』


遍玖会新宿自警団本部の最奥の部屋に据えられた黒電話を借りて、京哉は楽団(ギルド)と連絡を取っていた。


「…ちゃんと見つかりゃ、死んでても無事(・・)って事になんだな」

『ニシノの件が良い例さ。……まさか彼が異端(カルト)に捕えられていたなんてね。そのお陰でかなり彼等の動きについて掴めた情報もあるけど』


西野が遺した情報によって異端(カルト)旋律師(メロディスト)を攻撃する理由が判明した。


『それにしても…よく鶯谷で専用回線の通ってる場所わかったね?教えてなかったのにさ』


 西野から情報を得て直ぐ、京哉は鶯谷の雑居ビル内のオフィス棚に隠された黒電話から楽団(ギルド)に連絡を入れていた。

 ジャックの問いに、京哉は気怠そうな表情で答える。

「……親父が工事させたんなら、絶対アソコだと思った。『にっこり巻き巻き寿司』鶯谷店の中…」


それは、かつて一世を風靡したとされる大人気宅配寿司チェーンで現在は廃業している店の名であった。


「それはそうと…あのお嬢様は?富山に戻ったんだろ?」

『そうだね。実家に帰ってからは嘘みたいに大人しくなったみたいでさ…どうやって矯正しようかと悩んでた家の人達も全員拍子抜けだったらしいよ』

叫び散らかしていた香凜の様子を思い出し、京哉はケラケラと笑った。

「燃え尽きたのか、塩らしくなったフリをしてるかって所だな」

『どっちにしろ後は寺田家の問題さ。楽団(ギルド)としてはコレで幕引きだね』




 受話器を置いた京哉は庭で野良猫を追いかけていたシェリーを呼び出す。新しい家に向かうからと告げるものの、彼女は外方を向いて唇を尖らせてしまった。


「……ユウスケ、いないんでしょ?みんなに聞いても誰も居場所教えてくれないし」

「本当に知らねーんだろ。楽団(ギルド)が指定した場所だから。裕ちゃんもそのへんは心得て、誰にも教えずに引っ越したんだよ」

早く荷物まとめろ、と言うと仕方なく動き出した寂しそうなシェリーの背中を一瞥する。


「で、京ちゃんは次どこらへん住むの?」

客間で荷造りをするシェリーを横目に、一枚杉の机に肘を着きながら尋ねてきた阿須賀。

「また、あえての新宿区内らしい。すぐ遊び来るからねー」

ニヤリと広角を上げてピースサインを向けた京哉を見て、阿須賀はあからさまに嫌そうに顔を歪め、シッシッと手で追い払う真似を見せる。

「暫く来んでエエっちゅうに……ま、もしかしたらこっちから呼ぶ日も近いかもしれへんけどな」

そう告げた阿須賀の横顔が物悲しさを感じさせる理由を京哉はどことなく察して視線を伏せた。




[14] Oratorio 完

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ