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MELODIST !!  作者: 六児
13/88

#013 Obligato

ウィーン・年齢不詳男性「伝令係っていうのもなかなか大変なんだよ。相手が常にゴキゲンとも限らないからさ。しょっちゅう嫌味言われるんだ。嫌ンなっちゃうよね!ん?喋り方が癪に障るって?それってジョークかい」



…………………………………………………………………………………




 激しい雨が奥多摩の自然豊かな景色に囲まれた屋敷の屋根に打ち付けていた。

 粗方掃除の終わった室内で梓の淹れた煎茶を飲みながら、茅沙紀はボンヤリと窓の外の様子を眺めていた。


「ねえ、茅沙紀ちゃん何か弾いてみてよ」


窓際まで歩み寄ってきた梓は両手に2丁のヴァイオリンと弓を持っていた。

「あ、ああ…ええと……どうしようかな…」

それらを受け取った茅沙紀は、弾けそうな曲を頭に思い浮かべながら左顎の前に肩当てを乗せた。

 ツィゴイネルワイゼンを奏で始めると、梓もそれに合わせて伴奏する。


「良いじゃん、サラサーテ。捕まる前は結構有名な楽団にいたの?」

「都営の交響楽団に…。と言っても採用してもらえたのが反政府掲げてる超強気な所しか無くて…全然コンサートとかしてないんですけどね…」

えへへ、と後ろ髪を撫でながら返した茅沙紀を見た梓。

 今年で30歳と言う茅沙紀。彼女の年齢を考えれば、音楽家をを目指す相当な理由が無ければプロになろうとは思わないだろう。

 聞いてみれば彼女はかなりのおばあちゃんっ子で、祖母の影響で楽器を始めたのだと言う。規制の始まるかなり前に地元仙台の地方楽団でコンサートミストレスを務めていた祖母に憧れ、自身もオーケストラに入団したいと思い上京したのだと語った茅沙紀。

 そんな彼女の生い立ちを聞いて、梓は顎に手を当てて何やら考え込み始めた。

「ど、どうかしましたか…?」

楽団(ギルド)の同僚にさ、折角預かってるなら育ててみればって言われたんだよ」

「な…何を…?」

恐る恐る尋ねた茅沙紀を、梓はクイっと指さす。

「わ、わわわわ私ですか!?育てるって…楽団(ギルド)の一員として使えるように…って事ですよね?」

冷や汗を流しながら尋ねた彼女を見て、梓は弓を持った手をブンブンと左右に振って否定を示した。

「無理無理、旋律師(メロディスト)ってホント、ただの化け物だから。ビックリ人間オリンピックよ」

「……梓さんもビックリ人間だったりします?」

テーブルの上に置かれたスタンドにヴァイオリンを立てかけると、梓は大きく仰け反りながらソファに腰を下ろした。

「若い時はやってたよ、旋律師(メロディスト)。でも結婚してからは教育側に変えてもらった。超キツいからね、アイツらの仕事って」

卓上の消えかかったアルコールランプの火を見つめながら、梓は物憂げに目を細める。

「……出来るものなら、関わりたくなかった」

そう囁くような小声で呟いた梓は、ソファの肘置きにもたれ掛かりながらあの頃の事を思い出していた。




 14年前のその日も滝のような雨が振っていた。雷鳴轟く中、かつて根城にしていた廃マンションの一室で梓は黒電話の受話器を持ったまま立ち尽くしていた。通話は何分も前に終了していて、耳元ではツーツーと単調な音が鳴り続けている。




…………………………………………………………………………………




『音楽家の親を失った子ども達…楽団(ギルド)がよく預けに行ってた孤児院あるでしょ?あそこ、人身売買を斡旋してる組織と裏で繋がってたらしいよ』


 梓は長年日本で活動を続けており、多くの子供達をその施設に引き渡してきた。


「……そんな…だって、院長は敬虔なクリスチャンで子供達にも慕われてて…」

『アズサ…信じたくないのはわかるけど、もう何十人もの子供の行方がわからなくなってる…。この件には楽団(ギルド)は今後一切関わらない事。ね、わかった?』


納得出来ない様子の梓は、唇を震わせながら電話口の相手に食い下がった。


「……助けなきゃ…今施設にいる子だけでも…」

『…無駄だと思うよ。まあ、個人として行ってみるぐらいなら良いんじゃない?ただし、絶対に深追いはしない事』





 傘から滴る雨粒が地面で跳ね返り、彼女のパンツスーツの端を濡らしている。

 反政府運動が活発になってから、両親が逮捕されて保護者のいなくなった子供が街を彷徨う様になっていた。その数は年々増加し、所謂『家無き子』問題は深刻化の一途を辿っていた。

 児童養護施設は何処も満員状態。とにかく子供の夜歩きを無くそうと民間によって勝手に創立された施設が多く、職員や設備の質に関しては正直ピンキリであり明確な査定基準も無い。

 つまり、無法地帯と化している施設が一定数存在しているというのが現状であった。



 煉瓦造りの建物に近づき、いつもと同じようにインターホンのボタンを押す。


「あら、新妻さん!今日はどうしたの?貴女がアポ無しで来るなんて珍しい…」


見慣れた優しい笑顔で彼女を出迎えたのは、施設の院長である友梨洋子(トモナシヨウコ)である。梓も笑顔を取り繕って返した。

「院長、こんにちは。今日はお仕事じゃないんですけど…子供達の様子を見たくなって」


 行政が機能していないニュー千代田区画以外の22区では元公務員等の有志が集まって助けの必要な子供を保護する活動を行っていた。

 梓は元福祉課勤めの人間で有志活動に参加していると偽り、この孤児院に保護した子供を預けていた。友梨が梓について何も疑わずに子供達の保護を受け入れたのも、実は裏があったからかもしれない。


 友梨に案内され、子供達が勉強をしている教室に通された梓。院長の姿が見えると、子供達は全員姿勢を正す。


「院長先生、こんにちは」


声を揃えた子供達ににこやかに会釈した友梨は、梓の方に向き直った。

「みんな、のびのび育っていますでしょう?」

子供達の方を見やった梓は、その違和感に気付きつつあった。子供達は皆、齧り付くように勉強をしている。与えられたドリルやプリントを机に山積みにし、その形相は必死そのものだ。

「……教育熱心なんですね」

「ええ。こんな時代ですから、里親になってくれるような家庭は家柄の良い所ばかりで…。お勉強が出来る子にはお迎えがくるんだよ、と言い聞かせています」

ニコリと笑った友梨は、一番端の机で鉛筆を走らせていた子供の近くに梓を導いた。

「彼女は今日丁度、お医者様のご家庭に里子に行くんです。とても優秀で、すぐに気に入ってもらえて」

少女は院長に向かって挨拶をすると、梓の方には目もくれず机の上のドリルに戻る。


「……院長、そういえば2ヶ月前にこちらに預けさせていただいた…「こちらに入ってきてはダメよ」


梓の言葉を遮った友梨は、これまで彼女の前で見せた事のないような無表情で教室の入り口に向かって大声を上げた。

 彼女の視線の先には、畳んだタオルの山を抱えて立ち尽くす一人の少年。後退した時に閉まりかけた引き戸に肩をぶつけて手に持っていたタオルが床に散らばっていた。




…………………………………………………………………………………




 タオルを拾ってホコリを払いながら畳み直す少年に駆け寄り、隣にしゃがんだ梓は一緒にタオルを手に取る。友梨は二人の様子を遠くから見つめているだけだった。

「大丈夫?」

梓が声を掛けるが、少年は床から視線を外さない。彼の纏っている服は他の子供とは違い、一人だけ着古されているように見える。

「君は皆と一緒に勉強しないの?」

顔を覗き込みながら尋ねると、少年は手の動きを止めて視線だけ梓の方に向けた。

「…今度は何人連れてきたんだよ」

「……え?」

梓が再度少年に話し掛けようとすると、背後から友梨に肩を叩かれた。





 職員達の詰所に案内された梓は、応接間のソファに座らされる。対面に腰掛けた友梨は湯呑みを傾けながら口を開いた。

「あの子は三年前に一度、里親が見つかってこの施設を出たんです。とても裕福なご家庭に引き取っていただいたのに逃げ出してしまったそうで…警察に保護されてうちに戻ってきたんですよ」

「……何か理由があったのかもしれませんよ。本人に話を聞いたんですか?」

湯呑みをテーブルの上に置いた友梨は、貼り付けた作り笑いを浮かべて首を横に振った。

「里親の方から聞きましたから……あの子が悪いのです」

そこまで話すと、梓の目を真っ直ぐに見た友梨は急に真顔になる。

「…貴女がお預けになった子供達……我々が素性を知らないとでもお思いですか?」

目を見開いた梓は、背後に他の職員達が並び出入り口を塞がれている事に気がつく。

「良いんですよ、警察に届け出ても。先に厄介払いしてきたのは貴女ですよね、新妻さん…」

「………孤児院の院長の物言いじゃないな、アンタ」

梓が睨み付けると、友梨はいつもの作り笑いに戻って手を叩いた。



 職員達によって建物の外に追い出された梓は、傘を広げながら溜め息をつく。深追いするなと釘を刺されている上に、施設を離れてしまった子供の足取りを今更追う事も現実的ではなかった。

 そして、保護した子供を預けているのはこの孤児院だけではない。それら全ての健全性を確かめて回るだけの時間は無い。

 

「………ん?」

梓が視線を上げた先に、先程の少年の姿が見えた。土砂降りの雨の中だというのに、傘も差さずに大きなゴミ袋をいくつも抱えて施設の外へ出て行く所だった。

 向かい側のごみ収集場に袋を置いた少年の肩を叩くと、彼は酷く驚いた様子で振り返った。

「びしょ濡れじゃん。傘は?」

「……アンタに関係無い」

そのまま建物の方に戻ろうとした少年の腕を掴んで、傘の中に入れる。



…………………………………………………………………………………




 孤児院に隣接する廃墟の2階に少年を連れて行った梓は、彼の頭にタオルハンカチを乗せて自分の着ていたジャンパーを肩から掛けてやった。

「…帰りが遅いと怒られるのは俺なんだけど」

「私がついてってあげるから。少しお話しようよ」

そう言いながら廃墟の床にドサッと胡座をかいた梓を見て、少年も渋々その場に腰を下ろす。

「……君、私が預けた子じゃないよね?どうして此処に来たの?」

「どうしてって…親の顔なんて知らねーし、捨てられてたから誰かが拾って預けたんじゃねーの?」

抑揚の無い喋り方で答えた少年は、足元をじっと見つめていた。

「三年前に一度、里親に引き取られたんでしょ?何で逃げ出したりしたの?」

その質問にはあまり答えたくない様子で、少年は押し黙ってしまった。彼の横顔を見ながら、梓は聞き方を変える。

「……その家の人に何をされたの?」

「それは……」


 その時、突如扉が蹴り開かれる音が響き、二人の視線は音の方に向けられる。誰かが廃墟の中に入ってきている。窓から施設の方を見下ろした梓は、傘を差した職員達がゾロゾロと此方に向かって来ているのを確認した。

「まずいな…一先ず逃げるけど、良い?」

「良い…って?」

小首を傾げた少年の手を引いた梓はニヤリと笑って答えた。

「君も一緒にってコト」


廃墟の一角でシートを被せておいた大型のスポーツバイクに跨ると、少年をタンデムシートに引き上げて腕を腰に回させる。

「振り落とされないようにしっかり掴まってな」


 ギュルギュルとタイヤを滑らせながら廃墟内を走り出したバイクは階段もものともせず進み、次々と侵入してくる孤児院の職員達の前を颯爽と通り過ぎていく。そして、最後にすれ違った友梨の正面ギリギリで急ハンドルを切りながら道路に出た。



 激しく打ち付ける雨で視界が狭くなる。早く住処に辿り着かねばとアクセルを蒸そうとしたその時、腰に掴まらせていた少年の力が弱まっているのを感じた梓は慌てて彼の両手を握って引き寄せる。

「落ちるよ!しっかり掴まって!」

声を掛けるが反応が無い。追手が来ない事を確認すると、梓は道路脇の廃墟のガレージに入ってエンジンを止めた。ズルリと力無くタンデムシートからずり落ちる少年を受け止めた梓は、彼の額に手を当てた。

「……酷い熱だ…」

みるみる調子の悪くなっていく少年を抱えた梓は、廃墟の勝手口のドアを蹴破って屋内に侵入する。埃臭い室内を靴のまま徘徊しながら、比較的綺麗な状態で残されていたベッドの上に彼を横たえた。



…………………………………………………………………………………




 赤ら顔で上体を起こそうとする少年の肩を抑えてマットレスに戻す。雨で濡れた前髪が目に掛かるのを指でそっと退かしてやると、俯いていた時には見えなかった瞼の上や口元の痣が見えた。そして、古びた服の襟元からも複数の痣が見え、梓は目を細める。

「…雨止んだら私の家に行くから。その風邪、いつ引いたのか知らないけど長引かせると良くないでしょ。薬ぐらいウチにはあるよ」

 梓が何かを察した事に気が付いた少年は、ゆっくりと目を閉じながら口を開いた。

「……アンタ…院長とグルじゃないの…?」

彼の問いに目を丸くした梓は、少年の言動を思い返してみる。きっと彼はまた梓が孤児を連れて預けに来たのだと思っていたのだろう。

「ちがうし…もうそんな事しない。君は知ってたんだ…あの院長が怪しい事してるって」

ベッドに寄り掛かった梓は頭上で伸びをしながら尋ねた。

「…………知らない訳ねーじゃん。アイツのせいで…」

また言い淀んだ少年だったが、一呼吸置いてからもう一度口を開く。




 少年には親がいなかった。物心ついた頃には乳児院にいたし、4歳からはあの孤児院に移された。彼には名前も無かった。出生届すら出されておらず、戸籍が無かったのだ。

 少年は頭が良かった。友梨は彼の才能に早くから気が付き、幼少期から兎に角勉強をさせた。そして、少年が9歳になったある日、孤児院に一人の男が尋ねてきた。

「院長、彼でしょ?うんうん、引き取らせていただきますよ」

少年の手を引いた男は、そのまま孤児院から彼を連れ出してしまった。その様子を例の笑顔で見送った友梨の手は大きなスーツケースの取手を掴んでおり、重たそうにそれを院長室へと運び込んでいた。


 男は海外に拠点を持つ児童買春を斡旋する業者の元締めだった。連れて行かれた少年は、そこで客に出す前の教育と称してありとあらゆら性加害を受けたという。数ヶ月間に及んだその行為に耐えられなくなった少年は隙を見て男の元から逃げ出し、路上で警察に保護された。

 しかし、彼には戸籍が無かった。現代の日本で住所を持たない人間は全員音楽家と見なされ、子供であろうと禁固刑に処される。運が悪ければそのまま処刑されてしまう。少年は大人達に問い詰められ、恐怖のあまり思わずあの孤児院の名を口にしてしまった。



「あなたに何故、勉強をさせたのかわかりますか?」

真顔の友梨の手には細い鞭が握られており、床に正座させられた少年の周囲をツカツカと歩きながら手のひらでそれをしならせていた。

「馬鹿なガキじゃ稼ぎにならねぇからだよ!なぁ?」

友梨は急に態度を豹変させたかと思うと、手に持っていた鞭を少年の背中に振り下ろした。

「……最初から馬鹿だってわかってりゃ、とっとと海外に流して内臓(ナカミ)で稼がせたのになぁ……警察の厄介にまでなりやがって…バレたら責任取れんのか!?」

再度、鞭を振り下ろした友梨は、背後に控えていた職員達の方に向き直る。

「流さないで良い。コイツは見せしめにする」

背中の痛みに耐える少年の両腕を持ち上げて床を引き摺り出した職員の一人が、立ち止まって友梨に尋ねた。

「そういえば、コイツ…名前何でしたっけ?私、覚えてなくて…」

すると、それまでの態度が嘘のように友梨は笑顔を見せながら答えた。

「覚えていなくて当然ですよ。名前なんて付けてないんですもの」



 その日から本日に至るまで、少年は地獄を生きていた。友梨の言葉通り、彼は他の孤児達の見せしめにされ続けたのだ。

 日々雑用を押し付けられ、何をした訳でもないのに体罰を受けた。友梨は敢えて他の孤児達の前で少年を痛め付ける事で、彼等の深層心理に『服従は絶対である』のだと植え付けていった。

 そして彼を最も苦しめたのは、売り飛ばされた先で受けたトラウマを掘り起こすように繰り返される職員達による性的虐待であった。受け入れなければ食事を与えないと脅され、少年は言いなりになるしかなかったと言う。



…………………………………………………………………………………




 埃臭い布団に包まりながら、少年は淡々と語り終えた。薄らと瞼を持ち上げた少年の額に手を当てた梓は、無表情で天井を見つめる彼の頭を撫でる。

「……行こうか。雨も止んだ」

しかし、少年は動こうとしなかった。

「…アンタの家で薬を貰って、俺はその後どうすれば良い?」

少年を取り巻く環境はどちらに転んでも地獄だった。孤児院に戻った所で、友梨にどの様な折檻をされるかわからない。そして、外の世界に出たとしても戸籍を…名前を持たない彼が普通に生きる事は難しい。





 廃マンションの一室に少年を連れて戻った梓は、黒電話の受話器を取った。


『はいはい…何だか嫌な予感がするんだけど?』

「ごめん、クイーン。深入りしちゃった」

全然悪びれる様子の無い声色の梓に、電話口の相手は恐らく頭を抱えている。

「関わらないとか言ってたけど、やっぱり無理だよ。完全に黒、アイツら。何とか依頼こじつけてぶっ潰せないかな、アソコ?」

『無理無理。第一、預けられてる子供達はどう「このまま売り飛ばされるのを黙って見てられる程、人間終わっちゃいないよ私は」

返事を聞く暇も無く被せてきた梓の剣幕に、通話が一瞬途切れたかと思う程の静寂が漂う。


 ボックスボタンに受話器を戻した梓は、リビングで待たせていた少年のもとに向かう。すると、彼女が普段から愛用しているヴァイオリンを凝視していた。

「…アンタ、音楽家だったんだ……」

ニヤリと笑った梓がスタンドからヴァイオリンを外して構えると、クロイツェルを奏で始めた。一度も触れたことが無いであろう生の楽器の音に、少年は口をポカンと開けて聴き入っている様子。

 不意に演奏を止めた梓は、憂いを帯びた表情で顎からヴァイオリンを離した。

「……君は…何になりたい?」

いきなり話しかけられた少年は動揺して肩を振るわせる。

「何…って……そんなの考えた事…ない…」

少年の背後に回り込んだ梓は、彼の左顎にヴァイオリンを挟ませ、手を取って一緒に弓を弾く。骨から伝わる振動に目を見開いた少年の様子に、梓は口元に笑みを浮かべた。

「うむ、君はなかなか筋が良いね。ヴァイオリニストになってみよう。私が一から教えてあげるから」

梓の言葉を聴いて、少年は慌てて彼女を振り払った。

「な、ならない!俺は……」

唇をキュッと結んで言葉を噤んだ少年に、梓は優しく問いかける。

「…言ってごらん」

問い詰められている訳ではないのに、彼は何故か自然と口を動かしていた。

「………い…医者に…なりたかった。院長にたくさん勉強させられてた時……俺、実は楽しかったし……」

でも、と続けた彼の両目からはボロボロと大粒の涙が溢れていた。



…………………………………………………………………………………




「名前も無い奴が…医者になんてなれる訳ねーし……ちゃんとした学校も行けないから…」

少年の隣に座った梓は彼の肩に手を置いてそっと抱き寄せた。

 楽団(ギルド)旋律師(メロディスト)として生きる彼女が彼のその願いを叶えるのは難しい。今の日本で何の理由も聞かれずに新たに戸籍を作り、真っ当な人生を歩む事は容易ではない。

 しかし、これまで望んだものは何一つ手に入らなかった彼に、どうしてもその夢だけは諦めて欲しくなかった。




 黒電話が鳴ったのはその日の夜遅く。隣で寝ている少年を起こさないように立ち上がった梓は、受話器から淡々と述べられる依頼内容を脳に叩き込んだ。




 梓が部屋を出たタイミングを見計らって、少年が布団から立ち上がる。遠去かるバイクの排気音を聞きながら、この場所を立ち去る準備をしていた時だった。

 突如部屋に鳴り響いた黒電話のベルに驚き、少年は勢い良く壁に背中を打ち付けた。

 恐る恐るベルの鳴る方に近付き、受話器を持ち上げる。ゆっくりと耳元にそれを近付けた。


『あ、間に合ったかー!あずあず、さっきクイーンから依頼があったと思うんだけどさ……』

「……あの人ならさっき出てったけど」


電話口の声が止まり、暫くの間静かな時が流れる。


『…君、誰?』

「……あの人に孤児院から誘拐された。今から出て行こうと思ったんだけど、電話鳴ってたから…」

『うーん…大体状況はわかったぞ。あずあずの運命は君に託された訳だ!』


やたらと明るい声色の男に、少年は受話器を少し耳から離す。


『あのオバ…お姉さん、今君のいたという孤児院に向かってるんだ。今夜、大規模な取引があるって聞かされてね。でも、それは罠だった。オペレーターが勝手に流した情報だったからさ、ちゃんと精査できてなかったんだよねー……ま、それは良いとして、君にはあずあずを助けて欲しい!』


一方的に捲し立てられ、少年の頭は混乱する。


「まず…あ、あずあずってのはあの人の名前?」

『そう!新妻梓、年齢不詳!ちなみに僕は右が…「罠って、どういうこと?あそこに行ったらいけなかったってこと?」


電話の相手を遮り、問いを重ねる少年。


『…察しが良いじゃないか。梓が君を連れ去った事で、相手は彼女を抹殺せざるを得なくなった。いくら腐り切った日本でも、民間の組織が自らの私腹を肥やす為に横行してる人身売買なんて重罪は見過ごしちゃくれない。警察が動く前に口封じしたいのさ。……君の事も、ね』


付け加えられた言葉に、背筋が凍り付く。友梨は自分を本気で殺す気なのだ、と。


『梓は強いよ。でも、最初から来るとわかってる相手に対して無策でいる程相手は馬鹿じゃない。だから、君には一つ仕事をしてもらいたい…』



…………………………………………………………………………………




 今夜、例の施設で大規模な孤児の引き渡しが行われる。そう報告を受けた梓は、ヴァイオリンの入ったジュラルミンケースを背負いながらバイクを飛ばしていた。

 自らの手であの場に送ってしまった子供達を必ず助けなければならない。

 孤児院の灯りが間近に迫った時、複数の弾丸がアスファルトに跳弾して壁や電柱にめり込んだ。すかさずバイクを乗り捨てた梓は、廃屋の壁に身を隠す。

 近付く多くの足音と光。そして、逃げ込んだ廃屋の庭に催涙弾が投げ込まれ、移動を余儀なくされる。

 物陰に隠れながら追跡者をやり過ごそうと駆け出した時、暗闇から振り下ろされた鉄パイプが彼女の頭に直撃した。

 意識を失った梓を取り囲んだのは、孤児院の職員達。そして、児童買春を斡旋していた頭取の男とその仲間だった。


「さて、彼女には良く働いてもらいましたが…そろそろ口を閉ざしてもらいましょうね」

「シスター友梨、殺してしまう前に彼女が何者なのか吐かせる必要があります。俺の部下達が守備良くやりますよ」

男の言葉に、友梨はニコリと首を縦に振った。

「よろしくお願いしますね。私、大人の悲鳴には興味ありませんので。あまり聞いてて心地の良いものではないんですもの…」




 鈍い音が孤児院横の廃墟内に響く。だだ広いフロアに一脚だけ据えられた椅子に手足を固定された梓の顔面に振るわれた鉄パイプが彼女の皮膚を裂いて鮮血を散らした。


「このアマ、ただモンじゃねーよ。声一つ漏らさねーや」

血の着いた鉄パイプを肩に担ぐ男が息を切らしている。

 捕えられた梓は拷問に掛けられていた。そこは楽団(ギルド)のエージェントである。死んでも身の内を明かす事は無い。

 しかし、次々に襲い来る打撃をもろに受けながら意識を保ち続けるのは難しい。目の前の男達の一人が建物解体用の柄の長いハンマーを持ち出したのを見て、危機感を覚える。


「さっさと吐いちまえば良かったのになぁ…」


大きく振りかぶった金属が勢い良く顎に当たり、椅子ごと横倒しにされる。彼女は脳がグラグラと揺れ、視界が段々と狭まるのを感じた。


「おーい、自白剤と水持ってこい。死ぬ前に聞き出す事あんだろうが」


足音が一斉に動き、彼女を取り囲んでいた男達も一度距離を取る。

 自白剤も効かない。しかし、ワイヤーで固定された両手脚の自由を取り戻す手立てが思い付かない。額に滲む汗が彼女の焦りを表していた。



…………………………………………………………………………………




 突如、廃墟内に雪崩れ込んできた多くの足音と、それを追いかける様な大人の叫び声。

 何事かと顔を上げた男達が目にしたのは、フロアに駆け込んできた子供達が倒れ込む梓の周囲を囲み、壁を作る様子だった。


「お姉さんをいじめないで!私達の命の恩人だから!」

「俺達の事、本当に大事にしてくれたのは院長先生じゃなくてお姉さんなんだ!」



口々に叫ぶ子供達の声で場は騒然とする。


「あなたたち!何をしてるの!早く院に戻りなさい!」

友梨や他の職員達も慌てて子供達を取り押さえようとするが、手にした掃除用具や木の枝を振り回して妨害していた。身体を掴まれた子供も、うまく身を翻してスルリと拘束から抜け出す。

 男達にとっても子供達は大事な商売道具であり、下手に触る事はできない。どうしたものかと困り果てた彼らの視線の先に、あの少年の姿が映った。


「お前は……三年前に抜け出したガキだな…」


男の問い掛けに応じず、無表情のまま梓の前に立った少年。大量の汗をかいており、息を切らしていた。




 黒電話の指示を聞いた後、急いで梓の部屋から飛び出した少年は、マンションの駐輪場に放置されていたマウンテンバイクを掻っ攫って急いで孤児院に向かった。

 そして、職員達が全員出払っているのを確認して子供達が寝ている広い部屋に忍び込む。



「みんな、起きろ!俺に協力してくれ!」


突然の呼び掛けに、子供達は訝しげな表情で眠い目を擦っていた。


「……お前、いなくなったって聞いたのに、何だよ急に?」

「やめなよ…院長先生がその子と話しちゃダメって言ってたじゃない」

「そうだよ。折角お勉強しても、馬鹿な奴と関わったら意味無いって言ってたよ」


口々に囁かれる嫌味に眉を顰めながら、少年は再度声を振り絞った。


「お前らを此処に連れてきた女の人…わかんだろ!?あの人が今…殺されそうなんだよ!俺と一緒に来てくれ!」


室内が更に騒つく。顔を見合わせた子供達は、梓の事を思い出していた。


「お前らが……音楽家の子供でも、ちゃんと生きていけるようにって……!あの人が連れてきてくれた……違うのかよ?」



少年の説得に、一人の少女が立ち上がった。


「……お父さんとお母さん…警察に連れてかれちゃった時、お姉さんが私と一緒にいてくれたの…」


すると、他の子供達も次々に立ち上がり、少年の近くに駆け寄った。


「お姉さん…助けないと!」

「早く連れて行って!」


 最後の一人が立ち上がり、少年は全員を連れて孤児院を飛び出した。そして、隣に聳える廃墟に向かう途中で友梨や他の職員達に見つかってしまう。

「あなたたち!寝る時間でしょ!何をしてるの!?」

怒鳴り声を聞いた子供達は一瞬で萎縮してしまう。

 これまでもそうだった。目の前で折檻される少年を見て、大人の言う事を聞かねばならないと植え付けられ、動けなくされていた。

「…行くぞ!」

 しかし、張本人である彼が自分を奮い立たせて駆け出す様子に、他の子供達も全員が大声を上げて続いた。




…………………………………………………………………………………




 手に持った鉄パイプの先端で床を引っ掻きながら少年に近付いた男は、ゲラゲラと笑いながら彼の目の前にしゃがんだ。


「一銭の稼ぎにもならなかったクソ餓鬼が、今更何の用だ?今からでも客取りに行くか?」


少年に向かって手を伸ばしてきた時、彼の肩越しに腕が伸びてきて男の首を鷲掴みにしていた。


「ゴチャゴチャと煩いんだよ下衆野郎がっ!!」


次の瞬間には男は床に後頭部を打って倒れており、子供達の歓喜の声が響く。

 ゆっくりと立ち上がった梓は首の骨をゴキゴキと鳴らしながら男達を睨み付ける。


「ここにいる子ら…全員私の可愛い家族だ……指一本でも触れてみろ……」


コ・ロ・ス・ゾと、口の動きだけで告げる彼女。


「お姉ちゃん、持ってきたよ!」


二人の女児が梓に手渡したのは男達から奪い取ったジュラルミンケース。


「ありがとね」


血だらけの顔でニコリと笑った梓はケースからヴァイオリンを取り出して左顎に挟んだ。少年を始め、そこにいる全員が彼女がこれから何を始めようとしているのか全く見当がつかなかった。


「何ボサッとしてんだ!やっちまえ!」

ふと我に帰ったように動き出した男達が一斉に梓達の方に向かって殴りかかろうとする。


 滑らかに弦の上を弓が滑るが、音は聞こえない。その代わりに放たれた青白い光が彼女の足元から波状に広がり、フロア一面を覆った。


「…っ!?どこだ!?アイツらがいないぞ……は!?お前らもどこに行ったんだよ!?」

「何言ってんだ!?お前がどっか行ったんだろうが!!」


怒号が飛び交う中、一人、また一人とその声は聞こえなくなっていく。


 梓の奏でる音は空気中の水分を特定の周波数で振動させて光の反射角を歪める。すると、周囲にいた筈の人や物の姿を認識できなくなる。


 梓が手を叩くと空気の振動が乱され、徐々に視覚が正常に戻っていく。その場にいた大人達は全員床にのされた状態になっていた。子供達は梓に抱きつきながら喜ぶ。


「お姉さん!」

「生きてて良かった!」


わらわらと集まる彼らの頭を撫でていると、あの少年が必死の形相で何かを伝えていた。そして、徐に振り返った刹那、床に腹ばいの状態で銃を構える友梨の姿が目に入る。


 銃口から立ち上る煙がゆらりと揺れて、梓の視界は暗転した。



…………………………………………………………………………………




 次に目を覚ましたのは、慣れ親しんだ廃マンションの天井。あの後すぐに楽団(ギルド)が派遣した別地区の旋律師(メロディスト)が友梨を殺害したという。

 梓の部屋に来ていた救護班の看護師から子供達のその後について報告を受けていると、突然黒電話のベルが鳴り響いた。



『あ、生きてんだー!流石、鉄の女!』

とびきり元気な声色に、梓は眉間に皺を寄せる。

「…託斗……何の用だよ…アンタと会話する気分じゃないんだけど?」

受話器を元に戻そうとした梓だったが、あの少年の事だけど、という一言で動きを止めた。

「……あの子、今どこにいるの?」

『うん、スタッフと一緒に船でオーストリアに向かってるよ。彼は楽団(ギルド)に大きな借金を作ってしまったからねぇ…』

訳のわからない託斗の話に、梓は首を傾けながら悪態をつく。

楽団(ギルド)に借金?何言ってんの?」

『彼が張本人だからね…友梨洋子を殺害して欲しいっていう内容の依頼を出した…』

託斗の返答に、梓は凍り付いた。


 今思えば、梓が今回受けたのは依頼ではない。だとすれば、旋律師(仲間)が応援に来るなどあり得ないのだ。


「……一体いくらで…?」

『えーとね、おおまけにまけて…600万ドル?』

12歳の少年が背負うにはあまりにも高額な借金である。一生かけても返済は難しいであろう。路頭に迷う事など安易に想像が付く。眉間にグッと皺を寄せた梓は、彼女の心情とは裏腹にケラケラと愉快そうに笑っていた電話口の男の態度に苛つく。


『これから彼にはオーストリアで高給取りになっていただきまーす。そんで旋律師(メロディスト)として楽団(ギルド)で骨身を削りながら働いてもらいまーす。その為に、君の弟子になってもらいまーす』

「……何言ってんのよアンタ…?」

高給取りと聞いて、彼の夢を思い出した梓は、口元を押さえながら震える。

「えっ……ちょっと待ってよ………あの子、医者になれるの…?」

『こっちで医師免許取れるかどうかは少年の頑張り次第じゃない?ドイツ語を覚える所から始める訳だし、難しいとは思うけど。まあ、楽器の方に関してはだいぶ始めるのが遅いからあずあず次第ではあるけど?』

「その呼び方キモいからヤメろっつってんだろ……」


凄まれて泣き真似を始めた託斗に苛立ちがピークに達した梓は、受話器を乱暴に押し付けて通話を終了させた。

 しかし、彼女の表情は非常に晴れやかであり、看護師もにこやかに話し掛ける。

「新妻さん、良い事あったんですか?」

「んー…まぁ、久しぶりに良い感じかな。さて、怪我が良くなったらこの部屋も引き払おうかな。私にはもう必要無いしね」




…………………………………………………………………………………




 肩に掛けられたタオルケットがずり落ちて、いつの間にか眠ってしまっていた事に気がついた。時計に目を向ければもうすぐ18時というところだ。



 何やら部屋が焦げ臭い。慌てて立ち上がった梓は、灰色の煙が漂ってくる方向に駆けていく。

 台所のコンロから黙々と煙が立ち昇っており、慌てふためく茅沙紀の様子が目に入った。

「ごごごごめんなさいっ!とても気持ち良さそうに眠ってらっしゃったので、今日は私が何か作ろうと思ったのにこのザマ…」

「すっごいねー…卵ってこんな黒くなるんだ……」

卵のカラを見て、フライパンの上で焼け焦げたゴムのような状態になった物体を指差した梓に、茅沙紀は何度も頭を下げていた。

「すみません、すみません…えっと……こんな時に言うことじゃないかもしれないんですけど…」

モゾモゾと両手の人差し指を付けたり離したりする茅沙紀は、覚悟を決めたように梓の手を握った。

「やっぱり…教えてください!ヴァイオリン!!」

真剣な表情の茅沙紀だったが、鼻の上が煤で汚れているのがあまりにも間抜けで、梓は思わず噴き出して笑った。

「ちょっ…私は真剣なんです!悩んだんですよ!でも、私らしく生きられるなら頑張らなきゃって思って!」

「わかった、わかったからそんな真剣な顔しないで!」

腹を抱えて笑う梓に、茅沙紀はしょんぼりと眉を下げる。

「……旋律師(メロディスト)になるのはオススメしないけど、ヴァイオリンのレッスンならしてあげる。楽団(ギルド)には色んな仕事があるから、とりあえず斡旋はしてあげるよ」

やっと向き合ってくれた梓の返事を聞いて、茅沙紀は花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。









「レイジって本当に医者なんだ…」

工作船の乗組員の1人が作業中に負った腕の深い切り傷を縫う麗慈の手元を眺めるシェリーは、見直したようにボソリと呟く。

「え?でも医師免許ねーよな?」

「ヤブじゃん!」

京哉がチャチャを入れて、シェリーもジト目で麗慈を睨んだ。

「……日本の医師免許は持ってねーよ。ちゃんとオーストリアで取ったわ」

最後に包帯を巻いて手当を終えると、乗組員が何度も頭を下げて喜んでいた。

「良いなー麗慈は。僕なんか仕事しても感謝されることねーよ」

ブーブーと文句を言う京哉は相当暇な様子で、嫌がるシェリーのツインテールを持ってグルグルと回し始めた。

「俺は何回もお前の治療してるが、一度も感謝された事ねーけどな」

そうだっけ?と首を傾げた京哉は、シェリーの首を持って麗慈の方に向けると、ツインテールをバタバタさせながら裏声で言った。

「いつもなおしてくれて、ありがとう!せんせい!」

ムスッと唇を固く結んだシェリーの表情がおかしくて、麗慈は外方を向きながら笑い出す。

「せんせい、どうしたの?しぇりーはかんしゃのきもちで、いっぱいだよ!」

しつこく続ける京哉の頭を引っ叩いたシェリーは、ガルガルと唸りながら彼に掴みかかってまたいつもの喧嘩が始まった。



…………………………………………………………………………………




 船長から声を掛けられ、麗慈はハッチから顔を出した。海風に目を細めながら指差された方向を凝視すると、見慣れたニュー千代田区画の夜景の一部が復活していた。


 ハッチを閉めて歪み合う二人の元に戻り、麗慈は京哉の頭を小突く。

「そろそろ着くぞ。シェリーは救命胴衣着とけよ」

「え?船で海岸まで行ってくれるんじゃないの?」

ポカンとしているシェリーに目立たないように暗色に加工された救命胴衣を投げた京哉は、ジュラルミンケースを背負いながら答える。

「海上保安庁の巡視船が見張ってんだよ。目立たないように岸まで泳ぐに決まってんだろ」

船から降りる支度をする二人に、シェリーが眉を顰めながら告げた。

「アタシ、多分泳げないよ?」

一斉に彼女の方を振り向いた男二人が視線を合わせる。

「……ここは公平にジャンケンだな」

「いや、お前だろ普通に考えて」




 夜の海に飛び込んだ三人。京哉はシェリーを背負いながら船長に手を振った。

 ブツブツと文句を言いながら岸に向かう京哉を見て、シェリーが麗慈に問いかけた。

「ねぇ、コレ大丈夫?沈まない?」

「50キロの重り背負って海渡る訓練とかやってるから大丈夫だろ」

「アタシ多分70キロぐらいあるよ…」

彼女の告白に二人が視線を合わせるのは今日2回目である。

「だよな!?毎回やけに重いと思ってたんだよ!食い過ぎだろ絶対!」

「鉄の塊入ってるからに決まってんだろ!髪の毛毟るぞ!」

髪の毛だけはやめてー、と情け無い声を上げる京哉に麗慈は静かにしろとハンドサインを出す。灯台の明かりに海面が照らされ、僅かに船の影が視認できた。暗がりに入ってエンジン音が遠去かるのを待ち、再度泳ぎ始める。


 30分程泳ぎ続け、なんとか海岸にたどり着いた頃には京哉は息も絶え絶えな状態だった。

「何で僕ばっかりこんな目に……」

「日頃の行いだろ。遊んでる暇ねーぞ。次の指示出てるだろ」

服を絞りながら不貞腐れる京哉は、上海を出る前に受けた楽団(ギルド)からの次なる依頼内容を思い出す。




『久しぶりだね、キョウヤ。上海で人気者になったんだって?色男は目立って困るねぇ』

「それ以上に死にかけたんだけどこっちは?」

指定された場所の公衆電話で楽団(ギルド)からの連絡を受けた京哉は、相変わらず不機嫌な様子で電話口の相手に言い返す。

『じゃあ、早速次の依頼だよ。鶯谷近辺で最近流行ってる新興宗教について』

「宗教…?」

『ああ。依頼主は富山に住む大地主の寺田颯斗(テラダハヤト)。一人娘が家出して勝手に上京したらしいんだけど、1年以上連絡がつかなかったそうだ』

家出娘のネタはもうたくさんだと頭を掻きながら、京哉は公衆電話の壁にもたれかかる。

「その娘が変な宗教にひっかかったみたいだから、連れ戻して欲しいって依頼なんだろ?で、楽団(ウチ)のメリットは?」

『うーん…それが、どうもその謎の教団では洗脳らしい行為が行われてるみたいでね…』

京哉はすぐに、福音(ゴスペル)を連想した。催眠術なんかよりも確実に、災厄の力で人の精神を操ることが出来る異能。教団での洗脳行為が災厄によるものではないか、と楽団(ギルド)上層部は考えたのだろう。



…………………………………………………………………………………




『日本に派遣してる旋律師(メロディスト)は例の一件以降あまり活動させてないこともあって、情報が集まってないのが正直なところさ。先に潜入してる子がいるから、彼から話を聞くと良い』

そのまま電話を切ろうとした京哉だったが、ジャックの物言いに一つ引っかかる。

「…今、先に……って言った?」

『ん?言ったよ。君にも潜入してもらうつもりだよ』




 これから訳の分からない新興宗教に入信させられる京哉は重い足取りで芝浦埠頭駅に向かい、楽団(ギルド)からの荷物が届いているコインロッカーからダンボールを取り出す。

 例の如く衣類が詰め込まれており、今度はバタークッキーと書かれた箱が出てきた。

「…スイスのお土産です。シェリーちゃんにあげてね……ナイスパパより」

隣で喜ぶシェリーの方に向かって、彼女用の服とクッキーの箱を投げると犬のようにそれを追いかける。

「……楽しんでんなー、あの人」

「ムカつく……マジで、親父じゃなかったらグーで殴ってる、確実に…」

パーまではいった、と報告された麗慈はそんな事はどうでも良いと左で先に進んでいってしまう。



 駅構内のトイレの個室に入り、内鍵を掛けてから濡れた服を脱ごうとした時だった。壁という壁にビッシリと貼られたお札が目に入り、京哉は一気に背中が凍り付くような寒気を感じる。

 慌てて着替えを済ませ飛び出すと、隣の個室のドアをガンガン叩いた。

「麗慈、麗慈、麗慈、麗慈、麗慈っ!!!」

あまりの煩さに何事かと慌てて出てきた麗慈は、京哉の背後を指差しながら尋ねた。

「……誰だよそれ?」

恐る恐る振り向いた京哉は、音もなく背後に立っていた生気の無い痩せた青年の姿を見て悲鳴をあげながら麗慈にしがみついた。

「出た……お化け……」

「いや、足ついてるけど…」

怯える京哉の姿を見て、青年はクマだらけの顔を更にどんよりとさせた。そして、蚊の鳴くような小さな声で話し掛ける。

「お待ちしておりました……ボクはこの地区の調査を担当している矢波(ヤナミ)と申します…」

まるで直前に身内の不幸でもあったのかと言う程暗い声色の青年は、生きている人間とわかっていても不気味に見えて仕方がなかった。




[13] Obligato 完

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