#012 Requiem Ⅴ
上海・59歳男性「死後の世界はあると思いますか?血は繋がっていないのですが子供達の事が気になって仕方がないのです。またいつか会えたら、どんな話をしようかと考えています。まあ気長に80年程待ってみます」
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武闘賭博二日目からは試合間隔も短くなり、選手達の肉体的な負荷は高まっていく。そして、凶悪な犯罪者の中でもより惨虐で力のある者が生き残っていく事により、より熾烈さを極める戦いが予想された。
VIPルームから試合を観戦するレンは、部屋に備え付けの端末で京哉の次なる対戦相手について検索を掛けていた。
「…厄介なのと当たるみたいじゃのぅ」
口髭を弄りながら呟いたレンに、ソファの背もたれにだらしなくもたれ掛かっているシェリーが反応する。
「厄介?強い?」
「いや…牝狐というか何というか…」
首を傾げたシェリーは上体を起こし、レンの近くに歩み寄る。そして、彼の持つ端末の画面を覗き込んだ。
「若汐という結婚詐欺と保険金詐欺で30人以上殺した女だな」
「女も出てるんだ!それで1回戦は勝ったんだ…」
相手選手を色仕掛けで油断させ、スタンガンで気絶させた後に劇物を体内に注射して死亡させたという。
彼女の戦法を知ったシェリーは訝しげな表情で端末を睨んだ。
「負けた奴が雑魚過ぎじゃん……キョウヤにはそーいうの効かなそう」
ね!と会話を振られた麗慈は呑気にコーヒーを啜っていた。
「アイツ、女子供には甘いケドな」
てっきり肯定されるかと思っていたシェリーは目を見開く。慌てて麗慈の元に駆け寄ると彼のワイシャツの襟を掴んでグイグイ引っ張った。
「普段アタシに対してめっちゃ暴力的なのに!?紳士気取ってるとかマジでキモいんですけど!」
「いや、何怒ってんだよお前は…そういう意味じゃねーんだけど」
シェリーが不機嫌極まって部屋中を暴れ回るなか、京哉の第二回戦が始まった。
ゴンドラでリングの上に登ると、対岸には既に丈の短い青のチャイナドレス姿の若汐が立っていた。艶のある長い黒髪は腰の高さまであり、戦いの場だというのにしっかりと手の込んだメイクを施している。
ツカツカとリング中央まで歩いてきた彼女を見て、京哉と審判もそれに合わせて距離を詰める。
「第二回戦、若汐選手対リュー・イーソウ選手…始め!」
審判の合図と共に、どっと会場から歓声が湧き上がる。
「やっぱり超顔良いじゃんー!」
いきなり若汐の方から話しかけられたが、当然京哉にその言葉の意味は伝わっていない。一向に攻撃を仕掛けてこようとしない彼女の様子に小首を傾げるだけだった。
「ねぇねぇ、こんな殺し合いとか辞めて逃げちゃわない?刑務所から出られたのに死ぬとか馬鹿らしいじゃん!」
ニコニコしながら更に距離を詰めてきた若汐は京哉の腕を掴み、豊満な胸を押し付ける。
「ね、そうしようよ」
そう言い終わる前に、京哉は反対側の腕で絡められた彼女の肘関節に力を入れる。小気味良い音と共に肘から下がブラリと垂れ下がる若汐。
悲鳴を上げならが尻もちをついた彼女の手から、一本の注射がコロリとリングに転がった。
「あ…そういうことね。コレ打つとアレだ、強化して筋肉ゴリラみたいになる訳だ!それでこんな格好なのに勝ち上がった訳だ…スゲー見てみたいな、ソレ!」
若汐は痛みで涙を流しながら顔を上げ、訳のわからない日本語で話す京哉を見上げる。そして、いつの間にか彼の手の中に自分が持っていたはずの注射器が握られている事に気が付いた。
「ソレを返せ!!ぶっ殺してやるっ!!」
豹変した彼女の様子に、会場内がザワついた。
ニヤリと笑った京哉が若汐を押さえつけて首に針を刺し、中の液体を彼女の体内に流し込む。
「よっしゃー!掛かってこいゴリラ!」
やる気満々にファイティングポーズを取った京哉だったが、若汐の様子がみるみる変化して行くと「あれ?」と目が点になる。
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VIPルームに戻ってきた京哉は、酷く落胆した様子だった。
「…何て顔してんだよ」
麗慈に尋ねられると、ジュラルミンケースをソファの上にドサッと置きながら、勢い良くシェリーの隣に座った。
「だってさぁ…普通、思うじゃん。変身アイテムだって」
はぁ?と呆れ顔で返す麗慈の次にシェリーが問う。
「…あの変な薬が無かったら斬ってた?レイジは、アンタは女子供には甘いって言ってたけど」
シェリーがローテーブルに広げていたクッキーを1つ取り上げて口に運んだ京哉は、ケラケラと笑っていた。
「もし僕のところにそういう依頼があったら殺さないで見逃すんじゃないかとか考えてた?」
訝しげな表情を続ける彼女からアイスティーのグラスを取り上げると、ガムシロップをどんどん追加しながらしたり顔を見せる。
「だからさー、何度も言うけど楽団は正義の味方でも何でもないからね?…斬るまでもないから、麗慈にはそういう風に言ってあんの」
返事をする間に自分のアイスティーを糖分まみれにされた上、一気に飲まれたシェリーは「アーーっ!」と彼を指差しながら立ち上がった。怒り狂う白い怪獣を横目にコーヒーカップを持ち上げた麗慈は呆れ顔を見せていた。
「実際甘いだろ、お前。可哀想な奴には攻撃躊躇うし。いつか掟破りで組織の奴らに命狙われる事になったりして」
「怖い事言うなってば…お仕事はちゃんとやるって」
両肩を抱いて怯える真似をしてみせた京哉は、空になったグラスをテーブルに置いた時に目に入った封筒を手に取って中身を確認した。
ラウ・チャン・ワンは前回大会の覇者であり、第二回戦からの登場だった。近くで見たいと言った京哉の為に、わざわざレンがスタンドのチケットをどこかのルートから買い付けてくれていたらしい。
シェリーと麗慈を引き連れて客席に向かっている最中、彼らは同じくスタンド方向に向かうスーツの集団を見つけた。その中には玥の姿もあった。
「……どうする?」
救出するか?と目で訴えた京哉に、麗慈は首を横に振って答える。
「すぐに殺さないって事は、何か狙いがある筈だ。それに此処じゃ目立ちすぎる…」
彼等の周囲には大勢の観客や大会スタッフが入り混じって列をなしていた。此処で立ち回れば、無関係な人間にも怪我をさせる可能性が高い。
スタンド入り口で玥を囲むスーツの男達は、三人の指定された席と反対方向に向かって進んで行った。
「ラウの試合を見せに来たみたいだな…殺すつもりは無いとか?」
「……いや、どうだろうな。李が聞いていた『玥の利用価値』ってのが気になるが……」
麗慈はそこまで言うと、どこからともなく感じる多くの視線にぐるりと周囲を見渡した。
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「ねぇ、やっぱりリュー・イーソウだよね?何で此処にいるのかな?」
「さっき試合終わったばっかりなのに…」
周囲の観客達が京哉に気付いている様子だった。
「…ヤバいな。騒ぎになったら面倒だ。やっぱり引き返すか?」
麗慈が問うものの、騒がしいスタンド内ではなかなか声が通らなかった。そうこうしているうちに観客達がどっと押し寄せてきて行手を阻まれる。
一触即発かと思われた時、いきなり黄色い声援が三人の耳を劈く。
「頑張ってね!応援してるから!」
「すっごく強いね!優勝狙えちゃうかも!」
「これから全試合リュー君に賭けるから!」
何と言われているのかわからず、京哉は愛想笑いするしかない。しかし、それが逆にファンサービスと捉えられたようで、人集りは勝手に盛り上がっていた。
元来、麗慈やシェリーからの評価は『性格は終わってる』なので、近しい人間も内心は認めるほど容姿は良い。加えて強いとあれば、人気が出てしまうのも頷ける。
目立ちたくない時に辞めてくれ…と思いながら京哉の背中を押して何とか人集りを突破しようとした麗慈だったが、モーゼが海を割った様に急に人々が左右に別れて道を作った。
「ヘラヘラしてんじゃねーよ!試合始まるだろが!」
先頭を歩くシェリーの形相を見て避けて行ったのだと分かると、この機に便乗して一気に指定席まで進んだ。
やっとの思いで辿り着いたのは、試合の様子がよく見える位置。ラウ・チャン・ワンの今大会初戦という事もあり、会場内は狂気にも似た活気に包まれていた。彼が登場する前から声援が鳴り止まない。
「マジでヒーロー扱いだな…」
「最後の公式戦の後も支持する人間は変わってないんだろうな。賭博なんてモンに白熱してる連中だから、強けりゃ何でも良いってのが本音かも知れねーけど」
「出てきたよ、あそこ!」
ゴンドラの上には鉄格子の檻。その横には二人のスーツの男が立っている。禁断症状で凶暴化している彼を誰も制御する事ができず、ああしておくしか無かったのだろう、と京哉達は察した。
リングで先に待つ対戦相手は大剣を背中に担いでいる大柄な男。下剋上を成してみせようと意気込んでいる様子だった。
しかし、昇ってきたのは檻に囚われた猛獣のような筋肉の塊。状況が掴めぬまま審判の合図で試合が始まってしまった。
鉄格子の扉が開いた瞬間、大砲の弾のように飛び出したラウは目にも止まらぬ速さでリングを駆け、相手に襲い掛かる。
大剣を抜く暇すら与えぬラウの攻撃に怯んだ男は、咄嗟に審判に助けを求めようとした。しかし、審判の姿はリング上の何処にも見当たらない。
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振りかぶったラウの掌底が男の鼻の骨を砕き、その勢いのまま地面に叩き付けられる。鼻血まみれになりながら何とかゴンドラの方に戻ろうとするも、焦って滑った足を掴まれて逆さ吊りにされた。そして、ラウは赤子が玩具で遊ぶように大男を地面に叩きつける。
これは闘いではなく、一方的な暴虐であると会場にいる誰もが悟った。
何度も地面に叩きつけられて意識を失っている男の首と膝を持ったラウは、突然彼を両腕で頭の上まで掲げた。次は一体何をするのだと観客達が静まり返る中、持ち上げた男の背中を膝に勢いよく叩きつける。逆方向に背骨が曲がっているのか、男はくの字に反った状態のままリングに転がっていた。
「しょ…勝者、ラウ・チャン・ワンッ!!」
どこに隠れていたのか、リングの隅に現れた審判がそう告げると会場中が一気に湧き上がった。
「強いっつーか…やべーだろ、アレは」
選手控え室の外廊下で京哉は苦笑いを浮かべていた。
「人間辞めてるな、完全に。遂にお前も殉職の時が来たか…」
縁起でもない事を言いながら合掌する麗慈。まだ死にたく無いと言いながら彼に泣き付く京哉に、シェリーがジト目でローキックを食らわせた。
「李さんの前で大口叩いたんだから勝てよ」
そう言いながら、彼女は時計型端末の画面を京哉に見せる。
「今日はちゃんと的中扱いになったからね。このまま勝ち続けて大金持ちになって、新しい家に引っ越す!……それなら、ユウスケとももう一回一緒に暮らせるよね?」
京哉との繋がりを政府に疑われる前に、新宿の廃店舗での共同生活に終止符を打った彼ら。シェリーは特にあの家に思い入れがあり、本当は離れたくなかったのだろう。
しかし、それは叶わぬ事だとやっと割り切って新たな目標を見つけたのだ。
これ名案だと得意げな表情を見せるシェリーだったが、麗慈の指摘で凍りつく。
「…その金、元はレン・クーのだろ。金持ちになったとしても、それはお前じゃなくてアッチ」
「えっ!?そうなの!?」
悲しげに項垂れるシェリーの肩を叩いた京哉は、ニヤニヤ笑いながら彼女を励ました。
「まぁまぁ、そう気を落とすなシェリーちゃん。まだ僕のファイトマネーってもんがあるからさ」
京哉は自分の時計型端末を見せた。
「出場選手の方は勝ち上がる毎に賞金のデータが加算されてくらしい。で、優勝すればガッポリにこにこ現金払いで僕に大金が入ってくるという訳だよ」
ふふん、と鼻高々な様子の彼にシェリーは舌打ちをした。
「あっ!何だよその態度!折角僕が励ましてやったのにさー」
「キョウヤの癖にウザ過ぎ…」
ウザいから早くあっちに行けと、顔を真っ赤にしたシェリーは京哉の背中を足蹴にして選手控室に押し込んだ。
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いきなり押されて控え室内に転がり込んだ京哉を、中に居た選手たちが一斉に睨み付けた。痛い程集中する視線の中、京哉はヘコヘコと頭を下げながら彼らの前を通り過ぎようとするもにじり寄ってきた大男の一人に行く手を遮られてしまう。
「おい、お前…次の俺の相手らしいな。オッサンと女に勝ったぐらいで3回戦まで来ちまうたぁ、相当運が良いなぁ?」
ニヤついている男の顔に合わせて、京哉もヘラっと笑ってみせる。
「何だコイツ?笑ってやがるぜ。どうせ見た目通りの大した事ない奴だろ」
ガハハと豪快に笑い出した男に釣られて、周囲も笑い出す。そして、目の前の男は京哉の前に右手の小指を立てた。
「お前みてぇな小者はこの場に相応しくねぇんだよ。大人しく念仏唱えて震えてろ」
男の動作を見た京哉は少し考え込んだ後、同じように小指を立てた。
(アレだな、正々堂々と良い勝負しようって約束な!怖い顔の割にスポーツマンじゃん、コイツ!)
京哉が指切りしようとした瞬間、控え室にいた全員の表情が変わる。そして、目の前の男は米神に血管を浮き立たせていた。
「この場で殺してやっても良いが、大勢の前で惨めに刻まれる方が身の程知らずなお前にはお似合いの最期だ!首洗って待ってろ!」
いきなり大声を出された京哉はキョトンとしてるが、場の雰囲気からどうやら何か失態をしでかしたということだけは理解したようだった。
そして迎えた第三開戦。先程控え室で対峙した大男とリング上で再会する。男はオイルと血に塗れたチェーンソーを肩に担いでいる。
「リュー・イーソウ選手対沐陽選手……始めっ!」
開始の合図と共に、沐陽がスターターロープを勢い良く引いた。けたたましいエンジン音と共に凶暴な形をしたソーチェーンの刃が回転を始める。
「俺を馬鹿にした事、後悔させてやるからよぅ!」
初っ端から激怒している様子の沐陽に、京哉は後頭部をポリポリと掻いた。
恨まれるような事はしていないのに…と思っている京哉だったが、中国では相手に向かって小指を立てる行為は侮辱を意味する事を彼は知らない。
それでもお互い様ではあるので一方的に怒鳴られるのは癪である。フルートを素早く太刀に変形させると、振り下ろされたチェーンソーを躱して沐陽の背中側に回り込んだ。
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京哉が振りかぶった瞬間に、沐陽も軸足を起点に素早く向き直り、太刀とチェーンソーの刃が激しく火花を散らしながらぶつかった。
『沐陽選手は大柄な体格と武器に見合わず機敏な動きを見せてくれますからね。リュー選手も一筋縄では倒せないのではないでしょうか』
『はい、沐陽選手にはとっておきのアレもありますからね』
二人は牽制し合いながら同心円上に間合いを取って歩きながら武器を構え直した。沐陽がチェーンソーの刃先を少し外側に逸らした瞬間、京哉は一気に距離を詰めようと前進する。
しかし、リングの岩肌にチェーンソーの刃が当たって生じた細かい破片が砂嵐の様に舞い、彼の行手を阻む。
『出ました!沐陽選手の得意技!これで相手は容易に近付けません!』
視界が悪くなり、リング上の2人はドローンカメラから姿を消した。
土煙が舞う中、沐陽は京哉の人影に目を凝らす。彼の靴の先端には隠しチェーンソーが仕込まれており、距離を詰めてきた相手の脚を切り落とすのが彼の戦法だった。時折、土煙の中を漂う影に向かってチェーンソーを振り回しながら、足元への注意を逸らす。
そして、キラリと光る金属の輝きが見えたのと同時に、沐陽はその方向へと靴の隠しチェーンソーを駆動させた。
VIPルームで観戦をしていたシェリーとレンは画面に土煙しか映らず戦況がわからない事にソワソワしていた。
「どうなってるんだろ…キョウヤ大丈夫?」
そう言いながらもしっかり手にはクッキーが握られている彼女の様子を見て、麗慈は苦笑いを浮かべていた。
「レイジ、あのチェーンソー野郎、なんかめっちゃ怒ってたしヤバいんじゃ…」
「確かに怒ってたけど…まぁ、そろそろ決着つきそうだな」
麗慈の返事に、二人は画面の土煙が徐々に晴れていく様子をじっと見つめる。
リング中央には大きな血溜まりが見えた。土煙を払いながら近付いてきた審判はあまりの惨状に目を見開く。
沐陽の身体は至る部分が別れた状態で横たわっており、切断面から夥しい量の血が流れ出ている。
沐陽の遺体から10メートル程離れた場所に立っていた京哉の手には、太刀ではなくフルートの状態のタングステンが握られていた。
「勝者、リュー・イーソウ選手!」
審判の声と観客の声援がVIPルームに据えられた巨大な観戦モニターから響く中、シェリー達は未だにポカンと口を開けていた。
「小僧が勝ったのは良いが…何があったんだ?」
「あんなに離れた所にいるし…」
首を傾げ続ける二人に麗慈が仕方ないな、と解説してやる。
「音に間合いは関係ないだろ。京哉の前で、お互いの姿が視認できない状態に持ち込んだ時点で相手は負け確定だ。安全な所まで退避して、ソーチェーンを変形させれば後は勝手に自滅してくれるってだけ」
高密度の音エネルギー生成、そして物体の状態変化…とりわけ金属を熱で融解させる事が得意な京哉にとって、相手が金属塊を持って立っている状況程ありがたいものは無い。
「アイツがヤバい状況になるなら、ラウみてぇなフィジカルが化け物な相手だろうな」
麗慈のボヤきに、シェリーとレンは息を呑む。
武闘賭博の決勝戦は明日の夜。獣と化した絶対王者に対して京哉はどのような闘いを挑むのだろうか。彼なりの戦法があるのだろうか。
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「…え?特に無いかな……」
神妙な面持ちで尋ねたシェリーに、京哉は真顔でそう返す。
「何でだよ!アンタ苦手なんでしょ、あーいう武器無しで無双する筋肉お化け!」
彼らはレンに連れて来られた中華料理店で円卓を囲みながら、京哉に対ラウ戦の勝算について問いただしていたところだった。
あまりにも無計画な京哉の姿にレンも深く溜め息をつく。
「昨夜の話を聞く限り、ワシの策略はサム・ツェーファにモロバレなんじゃろ?小僧が負けたらワシもとばっちりで殺されるかもなぁ」
悲しげにそう言いながらスープを啜るレン。彼が側近に近い立場で雇い入れていた李に裏切られ、殺されかけた事を思い出す。
「まぁ、何とかなるでしょ。そんなに心配すんなよ、ジィさん」
ニヤニヤ笑いながらシェリーの頼んだ焼売を1個くすねて口に放り込んだ京哉に、麗慈が尋ねた。
「素戔嗚尊は使うのか?」
聞き慣れない単語に、シェリーが首を傾げる。
「何それ?必殺技的な?」
「そうそう、必殺技ー」
適当に受け流そうとする京哉にイラついたシェリーが、彼の頼んだエビチリを奪って二人の睨み合いが始まる。その隙に京哉のエビチリを盗んだ麗慈がレンに説明した。
「ハイリスク、ハイリターンな大技だと思ってくれれば良い。ただ、あの場でラウの猛攻を凌ぎながら演奏できるかどうかが微妙だな」
フルートや周囲の金属を状態変化させるために必要な音エネルギーの生成は、その奏者の技量によって所要時間が異なる。正確な音程、十分な音量、かつ合成波を生み出せる複雑なメロディを短時間で奏られる者程[[rb:旋律師 > メロディスト]]として優秀であると言われている。
しかし、超絶技巧の祝福を受ける為にはその場で完奏する必要がある。獣のようなラウ・チャン・ワンの怒涛の攻撃を受けながら難易度の高い曲を吹き切れるかは当日になってみないとわからない。
「福音といい、その素戔嗚尊といい、まったく物騒な世の中になったもんじゃな……」
レンの年齢ならば、エネルギー革命以前の音楽に対して一切の規制がない自由な世の中を知っているだろう。音楽がまだ娯楽だった時代を生きた人間にとって、旋律師の存在はどう感じるのだろうか。
「…なぁ、ジィさんは何で楽団に今回の件依頼したんだよ?」
そう尋ねた京哉の方に視線をやったレンは、グッと眉間に皺を寄せながら答えた。
「まぁ、今回ばかりは時間もアテも他に無かったからのぅ…。それに、異端とかいう糞野郎に糞野郎呼ばわりされてる楽団とやらに少しばかり興味が湧いてな…」
椅子ごとレンに近付いた京哉はニヤニヤと笑いながら尋ねる。
「で、実際会ってみてどうだった?見直した?」
躙り寄る京哉の頭を扇子でパシーンと引っ叩いたレンは、近くに控えていた側近に合図をしながら席を立った。
「糞野郎代表が何を言うておる!さっさと食って今日は早く休まんかいっ!」
叩かれた所を摩りながら不満げな表情で自分の場所に戻った京哉は、自分のエビチリが1つも残っていない事に気が付いて発狂した。
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外側から鍵の掛けられた部屋に、通訳の男を連れた半面の男が入ってくる。サム・ツェーファの屋敷に囚われていた玥は彼を睨み付けると、もう何度目かわからないその言葉を放った。
「……ラウ・チャン・ワンを返して…」
「頭の悪いお嬢さんだ。彼は今、ご主人様の為に必死に戦っているというのに…」
やれやれ、と両手を広げて大袈裟にジェスチャーをしてみせた男は、椅子の背もたれに後ろ手に縛られている玥の正面にしゃがんで彼女の顔を覗き込んだ。
「あんなの……父さんの戦い方じゃないわ…父さんを返し「明日はいよいよ準決勝、決勝戦です。ラウ・チャン・ワンが見事に10連覇を達成できるように貴女にもちゃんと役に立っていただきますよ」
玥の言葉を遮った通訳の男の背後から、複数の白衣を着た男達が現れ彼女を取り囲む。
「コレが何かわかりますか?」
半面の男が玥の目の前に差し出したのは、子供の頭蓋骨だった。いきなり目にした人骨に顔を真っ青にする玥を見てクツクツと笑うと、それを白衣の男の1人に手渡した。
「喚かないで下さいよ、私も気が長い方ではないのでいい加減貴女のような馬鹿な小娘を殺してしまいそうで仕方ないんですよね……でも、まだ利用価値があるから生かされてる。理解できるなら大人しく我々に協力してください」
仮面の奥に隠した真の表情の凶悪さに、玥は言葉を発する事ができなかった。本当に怒らせてはいけないのはサム・ツェーファのような人間ではなく、今目の前にいる男だと、玥は直感で理解した。
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武闘賭博最終日の朝、相変わらず朝に弱い二人を何とか起こした麗慈はレンが用意した車に乗るべくマンションのエレベーターホールで待機していた。
「…若乃宮さん」
唐突に話し掛けてきたのは、李だった。三人が振り返ると、深々と頭を下げた。
「すみません、待ち伏せしてしまって…どうしてもお伝えしたい事があって…」
運転手に少し待ってもらうように伝え、一階エントランスの共有ソファに腰掛けた四人。
李の話によると、レンの殺害に失敗した日から秘密裏に半面の男の動きを追いかけていたのだという。
「…お役に立つ情報かわかりませんが、一応お伝えしておかないとと思いまして……」
「ああ。聞いておくよ」
再び頭を下げた李は、懐からボイスレコーダーを取り出した。
「異端を名乗る男達のうちの一人に仕込んでいた盗聴器のデータです」
再生ボタンが押されると、ノイズ混じりに数人の声が聞こえてきた。
『確かこの辺りにあった筈だ……あぁ、土砂で埋もれた集落の上に墓がある。間違いない』
荒い息遣いと何かが擦れる音。険しい山道を歩いているようだった。
『あの事故で死んだ子供は一人だけだ。頭の骨なら小さいからわかりやすいだろう』
『墓を掘り起こすなんてバチが当たりそうだな』
『仕方ないだろ…アンプを作るには肉親の骨が必要なんだ……』
停止ボタンを押した李が訝しげな表情を見せながら口を開く。
「ドイツ語での会話でしたので断片的に翻訳してみただけなのですが……土砂で埋もれた集落、あの事故で死んだ子供……そう話しています。玥は幼い時住んでいた村で発生した土砂災害で、家族を全員失っています。そして、彼女には妹が一人いました…」
「墓を掘り起こして骨を探してるようだったが、それが玥の妹の物なんじゃないかって事か?」
麗慈の問いに、李は静かに頷く。
「アンプという単語が何のことかはわかりませんが、あまりにも不可解な行動過ぎますし、今日の決勝戦に向けて何か事を起こそうとしているのではないかと思いまして…」
李から聞いた内容を麗慈が京哉に要約して伝えると、うーんと唸りながら腕を組んだ。
「よくわかんねぇけど、アイツらがやる事はいちいち胡散臭ェし何かあるって思った方が良さそうな気もするよなー」
京哉の返事を聞いて、麗慈は李の方に向き直った。
「ありがとう、李さん。警戒しておく」
麗慈が差し出した手を見て、李は複雑な心境を噛み締めながら歯に噛んだ。そして握手を交わす。
「……お気を付けて。必ず上海を救ってください…っ!」
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準決勝戦、京哉の対戦相手は彼が苦手とする武器無しのハードパンチャーだった。刑務所内で殺害した看守の数は両手の指では足りないという。
リングの中央で対峙すると、体格差は歴然。早く試合を始めろと急かす男に、審判は慌てて手を挙げた。
「周飛龍選手対リュー・イーソウ選手……始めっ!」
地面を軽く蹴った飛龍は開始早々京哉の間近まで迫り、ジャブを繰り出す。左右に繰り出される拳を寸前の所で躱しながら後退していくが、次第にリングの端が迫ってくる。
太刀の間合いより内側で攻められているため、反撃しようにも隙が無かった。どうしたものかと考えている内に絶壁がすぐそこまで近付いている。
周囲に目を凝らした京哉は、グルリとリングを囲む照明が放つ眩い光を刀身に反射させて飛龍の視力を一時的に奪った。その隙に間合いの近い相手と距離を取ろうと蹴りを繰り出すが、飛龍はすかさず京哉の脚を掴んでガッチリと脇に挟んだ。
「…やっべ……っ!」
どうにかすり抜けようとするが、相手の腕力は相当なもので、片脚を掴まれたまま地面に投げ飛ばされてしまった。
『あーーっと!リュー選手、この大会で初めてまともに攻撃を食らってしまったー!』
『どうも飛龍選手はリュー選手にとって戦いにくい相手のようですねぇ』
猛烈な土煙の中、京哉が立ち上がると客席から歓声が沸き起こる。彼の手に握られていた太刀はフルートの姿に戻っていた。
「俺はその手品で騙される奴らとは訳が違うぜ、にいちゃん」
飛龍はニヤリと笑いながら両手の拳を互いに叩きたける。そして、再び京哉の方に駆け寄り、完璧な間合いに入り込んで右腕を振り上げた。
『飛龍選手っ!バランスを崩してそのままリングに転がってしまいました!いきなり飛龍選手の右腕が弾き飛ばされていましたが…一体何が起こったのでしょうか!?』
事態を1番飲み込めていなかったのが飛龍本人だった。いつの間にか地面に吸い込まれており、視線を移した右腕は関節から下が無くなっている。上体を起こして睨み付けた京哉の手にはフルートが握られていた。
地面に左手をついてふらつく身体を押さえながら立ち上がる飛龍は、右腕の痛みに耐えながらもう一度京哉に向かって攻撃を仕掛けに行く。
しかし、残された左腕が到達する前にまたしても地面に引き摺り込まれてしまう。今度は踏み込んだ右脚の脛から下が無くなっていた。
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ソファの真ん中を陣取って画面に齧り付いているシェリーも首を傾げていた。
「キョウヤ、何したの?」
麗慈は飛龍がトドメを刺される様子を観ながら、シェリーの隣に腰掛けた。
「アイツが一番得意なのは居合だからな。攻め込んできた相手との距離で刃の位置を調整出来るように、いちいちフルートに戻してんだろ」
ほら見てみろ、と言った麗慈はローテーブルの上に据えられた端末の画面を操作してシェリーに手渡す。
彼女が覗き込むと、京哉が抜刀する瞬間の映像で一時停止されていた。試合の録画映像を細かく見る事が出来る機能があるようだ。
「相手が目の前に来るたびにフルート吹いて変形して斬ってるってこと?」
「多分。本人に聞いてみりゃわかんだろ」
ドタドタと忙しない足音と共に京哉がVIPルームに戻ってきた。帰ってくるなり麗慈に泣き付いている。
「痛ぁいいっ!思いっきり投げられた!頭打ったらどうしてくれんだよ!」
「…頭はそれ以上おかしくなる事ねーから安心しろ。赤チン塗るか?」
相変わらずの塩対応にギャーギャーと文句を言う京哉を見て、シェリーは会話をするのも馬鹿らしくなり画面に向き直る。
既にラウ・チャン・ワンの準決勝戦が始まっており、会場には彼の猛攻を後押しするような歓声が轟いていた。
『[[rb:深潭 > シンタン]]選手、かなり苦戦を強いられています!やはり絶対王者は無敵なのでしょうかーっ!』
ラウ・チャン・ワンコールが響く中、相手選手が放ったのは毒霧。ラウの目に入り一瞬動きが止まった隙を突いて巨大な鉄のハンマーで彼の頭を横殴りにした。
流石のラウも、踏みとどまってはいるが直ぐに戦闘体制に入れない様子で、深潭はすかさず何度も頭を中心に鉄槌での攻撃を入れ続けた。
VIPルームから試合の様子を眺めていたサムは、米神に血管を浮立たせながら、革張りのソファの肘置きに拳を強く叩き付けた。
「おい!何とかしろ!」
怒鳴り声を聞き付けた半面の男は、彼には見えないようにやれやれというジェスチャーをしながらトランシーバーを手にした。
猛攻を受けていたラウの血走っていた目が急に穏やかになり、ハンマーを振りかぶっていた深潭の動きが一瞬止まる。
「……頼む………俺を…殺し…」
「…えっ!?」
それが、深潭が最期に耳にした言葉であった。
再び白目を剥いたラウは振り下ろされたハンマーを片手で掴みリングの外まで放り投げると、体勢を崩した深潭の頭を掴んで自らの膝に思い切り打ち付けた。
既に意識の無い深潭の頭を掴んだまま、何度もリングに叩きつけ続けるラウは、最後に猛獣の雄叫びのような大声を上げながら彼の首を腕力だけで引き千切った。
噴水のように噴き出る深潭の鮮血で辺り一面は血の海となっており、壮絶な光景を目の当たりにした観客達は歓声を上げるのも忘れている様子だった。
…………………………………………………………………………………
夜中の決勝戦を前に、レンと京哉は武闘賭博の大会本部に呼び出されていた。
例年、決勝戦はラウに賭ける者しかおらず賭博が成立していなかったが、今年は約三分の一の人間が京哉の勝利に賭けているのだという。
「賭けが成立致しますので、リュー選手が勝利した場合は約7980万ドルのサーバー保留データとラウ選手に賭けられた合計890万ドルが還元されます」
これらは本来、大会主催者側の懐に入るはずだった金額だ。
「スポンサーベットはおいくらに致しますか?」
大会スタッフがレンの目の前にバインダーに挟んだ契約用紙を提示する。
ペンをカリカリと滑らせるレンの手元を覗き込む京哉の頭に扇子が飛んできて遮られた。
スタジアムの外はお祭り騒ぎが続いており、花火も打ち上がっている始末。開場まで1時間以上あるにも関わらず、既に入場の為の長い列が形成されていた。
屋台で買った焼き鳥を嬉しそうに頬張っているシェリーだったが、急に背後に悪寒を感じて慌てて振り返る。
「どうした、シェリー?」
「な、なんか今……すごい嫌な感じがして…」
周囲をキョロキョロと見回していると、彼女の視線がある一点で止まった。
中肉中背、七三分けの髪をペッタリと貼り付けている肌艶の良い丸メガネ。シェリーにとって忘れたくても忘れられない存在…イースト・アラベスク乗船前から彼女に付き纏っていた椙浦という男であった。
シェリーと目が合うとこちらに向かって歩き始めたのを見て、すぐさま麗慈の手を引いた。
「逃げよ!あの変な奴がいる!」
「変な……え?客船にいたストーカーか?」
そう、と答えるや否や麗慈の腕をグイグイと引きながらシェリーはスタジアムの中へと戻っていった。
スタジアム地下の倉庫では、ラウが鉄格子をこじ開けようと踠いていた。そこに姿を現した半面の男は、オーケストラの面々を引き連れている。
「ラウさん、いよいよ次は決勝戦です。しっかりと聴いていただいて楽団の狗ちゃんを地獄に送ってあげてくださいね」
オーケストラが弧を成して整列し終わると、半面の男が部屋から出るのと入れ替わりでスーツの男達に引き連れられた玥が現れた。
彼女の顔に表情は無く、病院で手術の際に着るような患者衣を纏って車椅子に座らされている。そして、彼女の頭には複数本の棒状の金属が突き刺さり、そこに繋がるケーブルはオーケストラの前に据えられたハンネス機関の着いた端末に繋がっていた。
演奏が始まると、ラウはすぐ我に返り周囲を見回した。そして、鉄格子の向こう側に座る玥を見て驚愕の表情を浮かべる。
「玥っ!何でこんな所にいる!?やめろ、やめてくれ!!」
福音を聴けば玥まで狂ってしまう、そう思い必死に叫んだが彼女の様子がおかしい事に気がつく。
口をカクカクと動かして、何かを語りかけている…否、歌っているのだと気が付いた頃にはラウのボロボロの身体には燃え上がるマグマのような色の亀裂が複数でき、筋肉は人間ではあり得ないほど膨張していた。
…………………………………………………………………………………
焼けるような照明に照らされながら、京哉はゴンドラに乗ってリングの上に立った。割れんばかりの声援が耳を劈く。
反対側のリングからは鉄格子に閉じ込められたラウ。しかし、準決勝までとは様子が違う。檻いっぱいに膨張したような分厚い筋肉、牙を剥いて涎をダラダラと垂らす様子…。
「……おいおい、特別仕様に仕上げてきてんぞ、あっちは」
「化け物みたいっていうか、化け物そのものじゃん、あんなの…」
「小僧…死ぬなよ…」
麗慈、シェリー、レンは三人揃ってソファに座り、じっとモニターの様子を見つめていた。
「ふんっ…あの老耄も鞭を叩けばまだ使えるもんだなぁ?あのクソガキを殺すのに何秒かかりそうだ?」
葉巻の煙を撒き散らしながら尋ねるサムに、半面の男はそうですねぇ、と態とらしく手を顎に置きながら考えるフリをする。
「最速で10秒…もっても1分はかからないでしょうね」
ニヤリと笑った男は画面に映った京哉に向けて親指と人差し指で銃を作り撃つ真似をした。
「ラウ・チャン・ワン選手対リュー・イーソウ選手の決勝戦……始めっ!」
審判の手が上がり、いよいよ最終決戦の火蓋が切って落とされた。
鉄格子の扉が開け放たれ、超人的な速さでラウが京哉に襲い掛かる。振り下ろされた拳は京哉がフルートを構えるよりも早く彼を殴り飛ばし、乾いた岩の表面を削りながら転がっていく。
『開始早々、ラウ・チャン・ワン選手の強烈な一打がクリーンヒット!!リュー選手大丈夫でしょうか?』
土煙が撒くより早く再度迫って来た拳は砲弾のように地面を深く抉った。京哉は両腕でガードしたものの、凄まじい圧力に押されて身動きが取れない。
会場中が見守る中、ラウの猛攻は休む事なく続き、遂に一枚岩のリングに深い亀裂が入った。亀裂に手を挟まれた状態のラウを横目に、京哉は素早く身を翻して彼から距離を取った。
人並み外れてタフな京哉だったが、これだけの強烈な殴打の嵐を受けてはひとたまりもない。足取りはフラついており、口元から血が滴っていた。
「…大丈夫なのか、小僧は?」
レンが立ち上がって心配そうにそう呟く。これまでは前向きな解説ばかりしていた麗慈も、今回ばかりは返事を濁す。圧倒的不利な状況はこれからも続くと予想されるからだ。
地面から手を引き抜いたラウはすぐに踵を返して京哉の元に猛進する。変形した太刀で迎え打つも、岩のように硬い筋肉は刃が通る様子が無い。それどころか刀身を手で握ったラウは、そのまま京哉を空中に放り投げた。
自然落下してくる京哉は体勢を立て直すも、予想外に長いラウの腕が高速で首の裏側を捉え、地面に激しく叩きつけられた。
…………………………………………………………………………………
『またまたラウ・チャン・ワン選手の強烈な拳がヒット!これは決着がつくのも時間の問題でしょう……ん?』
実況のアナウンスが途切れると土煙の中から青白い光が漏れ出し、ラウの身体は大きく海老反りになって後退した。彼の胸には血は出ていないが深い傷が見える。
立ち上がった京哉の手には刀身が青々と燃えているコンバットナイフ。
「所詮は人の体…熱に弱いのは同じか」
「アレならいけんじゃん!やれー!反撃しろーーっ!」
シェリーの必死の応援に、麗慈は苦笑いを浮かべる。
「ただ、アレだと太刀の時と比べて刀身が短い分、奴に近寄らないと攻撃できない」
「接近戦は小僧にとっては不利な状況じゃからな…」
負った傷の事などものともしていない様子のラウは、再び京哉に向けて右腕を振るった。ナイフを逆手に持ち替えた京哉は、素早い振りのストレートを躱してラウの腕の下に潜り込むと彼の腕に刃を当てて肉を削ぎ落とした。
『相手のスピードと重さを利用したリュー選手の反撃です!これはラウ選手の今後の動きに影響がありそうですね!』
焼けた右腕は思うように曲がらないようで、ラウの攻撃は左腕だけに偏っていた。いくら高速のパンチでも軌道が読めていれば避けられる。彼が拳を振るう度に、逆に自身の体に深い傷が出来ていく。
戦闘時間はとうに1分を超えており、この状況が面白くないのはサムである。葉巻を乱暴な動作で灰皿に押し付けながら立ち上がると、大きな足音を立てながら半面の男に躙り寄る。
「おい!今すぐオーケストラに演奏させろ!!」
「いえ、しかし…途中で禁断症状が解消されてしまいますと、一気に攻め込まれてしまうのでは…」
「良いから貸せっ!」
無理矢理半面の男からトランシーバーを奪うと、サムは大声で怒鳴りつけた。
次の一手に身構えていた京哉は、ラウの変化に気がつく。突然身動きが止まり、よろよろと後退していった。リングに座り込んだラウの両耳にはイヤーモニターが装着されており、ジリジリと震えている。
「……はや…く……」
消え失せそうな声でラウが言葉を発する。京哉には中国語は理解出来ないが、彼の瞳から流れた一筋の涙で全てを理解した。
『ラウ選手、攻撃をやめましたね…今がチャンス!なのですが、リュー選手もあえて距離を取りましたか?』
『次の攻撃を警戒しているのかもしれませんね』
ホットダガーをフルートに戻した京哉は、リッププレートに下唇を乗せる。
「始まったぞ、京哉の超絶技巧だ…」
画面が切り替わり、京哉が映し出されると麗慈が呟くように言う。
普段の演奏では音はすぐにエネルギーに変換される為、周囲には何も聞こえない。しかし、異能を発揮するための超絶技巧の演奏は完奏が条件である為周囲の人々に彼の音が聞こえる。
フルートの音色に気が付いた観客たちがざわつき出し、リング上の相対する二選手の様子に目を凝らした。
膠着する戦況の中、先に動き出したのはラウだった。更に筋肉が膨張し、今にも張り裂けそうな程だ。顔には太い血管がビキビキと浮き出ており、獣のように唸りながら周囲を見回している。そして、京哉の姿をその視界に収めると猛スピードでリングの床を蹴り出した。
[newpage]
ラウの攻撃を避けつつ、両の手の指は忙しなく動かす。相当な肺活量が必要な為、京哉の額には汗が次々と滲み出ていた。
福音を繰り返し何度も聴いているラウの身体は限界を超えて発達し、筋組織も無理を強いてボロボロになっている。それでも獣のように暴れ続ける為、彼の体には相当な負荷が掛かっているようで、至る箇所の血管が破裂し、耳や鼻から血が流れ始めていた。
少しずつ攻撃に綻びが見え始めた隙に、京哉は距離を取るために走り続けていた脚を止めて演奏に集中する。そして、残り8小節という時にラウが追いつき、強烈な蹴りで京哉の身体は宙に浮いた。
何とか受け身を取ろうとするも、両手が塞がっている彼には難しい。突き上げるような鋭い拳が何発も命中し、京哉の口からは血が滲み出してフルートに流れ込む。
リングの床に真っ逆さまに落ちてきた京哉に追い討ちをかけるように、ラウは左腕の肘で彼の腹を打ち付けて全体重を掛けた。肋骨からバキバキと嫌な音が響き、呼吸の度に激痛が走る。それでも最後の一音を吹き切った京哉はフルートの足部管を、自分の身体を押さえ付けるラウの目に突き刺した。
一瞬ラウが怯んだ隙に、歯を食いしばりながら巨体を蹴り上げようとした京哉だったが、体内を貪るように蠢く痛みに動きが止まる。災厄からその身を護るために宿った8匹の蛇オロチ。内臓を内側から破壊されるような激痛を受け、京哉の意識は段々と遠退いていく。
「コロセ…ハヤク……コロシテクレ……」
頭上からボタボタと降り掛かるラウの涙。強烈な禁断症状の中、自我など保てる訳も無いのに、彼は狂気を抑え込みながらそう京哉に懇願してきた。
「っ…泣いたりキレ散らかしたり……勝手な奴だな、アンタ…ッ!」
身体を翻してラウの下から脱出した京哉は、右腕を床と並行に突き出す。
紅い閃光と共に、京哉の右手に天叢雲剣が出現する。それと同時に彼の背後には天から落下してきた残り7本の剣が突き刺さった。
再び襲いかかってきたラウに向かって、京哉は刃渡りの数倍もある間合いから刀を中段一閃に振った。その瞬間に刀身から紅い衝撃波が放たれ、リングの岩肌を捲り上げながら駆け抜けるとラウの腹に深い傷を負わせる。振るった剣はバラバラと砂のように崩れ落ち、京哉の体内をのたうち回っていた蛇の1匹が姿を消した。
本来の天叢雲剣であれば一振りで相手を必ず絶命させる力を持つが、8匹の蛇で体内の反作用を打ち消す為に、一振り当たりの威力は8分の1になっていた。
残り7本の剣でラウを仕留めなければならない。
…………………………………………………………………………………
『これは一体……リュー選手の周囲に突如刀が出現しましたが…それまで続けていたフルートの演奏と何か関係があるのでしょうか?』
裂けた傷からボタボタと血を流しながらも、ラウは続け様に京哉に向かって襲い掛かろいとしていた。
リングの岩肌に突き刺さった剣を一本抜く頃にはラウは京哉の近くまで迫っていた。十分な間合いが取れないと判断すると、深く腰を落として刃の先端をラウに向ける。一気に前の足を踏み込みながら牙突でラウの胸を射抜くが、突進して来た巨体と正面衝突して京哉は後方に弾き飛ばされた。
既に瀕死の怪我を負わせている筈なのに、ラウはまだ京哉を狙って走り出している。
VIP室の面々も身を乗り出しながら画面に齧り付いて試合の様子を見守っていた。地面に投げ出された京哉の上にラウが飛び乗り、ダブルスレッジハンマーを食らわせた所までは見えた。しかし、その後巻き起こった土煙で画面は茶褐色一色となっている。
「……キョウヤ…」
シェリーが両手を胸の前で組み、祈るように呟く。
煙が晴れる瞬間を静かに待ち続けていると、地面に刺さっていた残り6本の剣が徐々に消えていく様子が見えた。
「…天叢雲剣は京哉の意識と呼応してる……少なくとも今は気絶してる状態だ」
眉間に皺を寄せた麗慈の言葉に、シェリーとレンは最悪の状況を想定する。
もう一方のVIPルームも荒れていた。最大限に強化したはずのラウが苦戦を強いられている状況に、サムは腑が煮えくりかえる程の怒りを感じていた。
「何故あんな小僧一人に勝てない!すぐにもう一度演奏を聴かせろ!」
再び半面の男に迫ったサムは、彼の持つトランシーバーを奪おうと手を伸ばす。しかし、その動きは半面の男の横に控える2人によって静止される。
「貴様らごときが俺に歯向かう事など許されると思ってるのか!?」
「許されるも何も、我々は別に貴方の下についたわけではありませんのでねぇ…」
飄々とした態度でそう答えた半面の男は、トランシーバーを床に落として何度も踏みつけて破壊した。
「うーん…やはり今の精度では旋律師に勝つのは難しそうですね。わざわざアンプまで再現したのに…ねぇ、先生?」
半面の男の後ろには、ピッタリとまとめた七三ヘアーに丸メガネをした中肉中背の男が立っていた。
「ウガミの倅が会得した超絶技巧、どう思います?」
「はい…今はまだ使い熟せてないんでしょうね……シェスカの遺作もただのお飾りとして連れ回してるだけのようですし」
ニヤリと笑った半面の男は、踵を返すとサムに手を振りながらVIPルームを出ようと歩き出す。
「今回は良い実験材料をご提供いただき、ありがとうございました。また何処かでお会いできれば幸いですー」
呑気な声色でそう言いながらドアノブに手を掛けた男の腕を、後方から駆けていったサムが力強く握って止めた。
「ふざけるなっ!ラウ・チャン・ワンを勝たせる約束だろ!途中で放棄するのか!?殺してやる!!」
唾を飛ばしながら凄んだサムを上目遣いで睨んだ男の眼力に、彼は思わず後退りする。
「……子供じゃねーんだから、お気に入りのオモチャが壊されそうになったからって泣き喚くんじゃねーよ。テメェには利用価値が無くなった。ただそれだけだ」
凍り付くような冷たい眼差しに射抜かれ、身動きが取れなくなる。ズルズルと膝から崩れ落ちたサムを尻目に、半面の男達はVIPルームを後にした。
…………………………………………………………………………………
土煙が晴れ、リングの状況が窺い知れるようになる。
中央で対峙する両者。京哉の手にはフルートを変形した太刀が握られており、ラウは暴れ狂う事なく意識を失っていた京哉の肩を支えていた。
京哉の左手は皮膚が焼け爛れており、ドローンカメラがその姿を捉えたほんの一瞬だけ、彼の手に握られていた黒い鎖のような影が映っていた。
『これは……一体どういうことなのでしょうか?ラウ選手がリュー選手に手を差し伸べているようにも見えますが?』
審判が恐る恐る近寄ると、其方に顔を向けたラウが消え失せそうなしゃがれた声で呟いた。
「…俺はもう死ぬ。この若者が真のチャンピオンだ」
ラウはそう告げるや否や大きく後方に仰け反り、仰向けにリングに倒れた。倒れてきた京哉を支えながらラウに近付いた審判は、右腕を高く上げた。
「勝者、リュー・イーソウ選手!!」
歓声が会場全体から湧き上がり、熱気に包まれたスタジアムを揺らす。新王者の誕生に、賭けに負けた者たちも含めて全員が興奮して拳を突き上げていた。
ゴンドラに乗ってリングに上がってきたのは、VIPルームから駆けてきた麗慈達だった。意識の無い京哉を審判から預かり、再びゴンドラに戻って行く。
「あ、あのー表彰式は…」
審判の問いに、遅れてやってきたレンが息を切らしながら右手を出した。
「見ての通り、酷い手負いじゃ。そういう面倒事はスポンサーのワシが全て引き受けよう」
それでは、と審判がレンに今後の流れを話そうとした時だった。
爆発音と共に地面が大きく揺れ始め、スタジアムを覆う巨大なスクリーンの屋根が崩壊を始めた。崩れてきた屋根が観客席の一部を破壊し、そこに座っていた人間が下敷きになる。周囲の観客は一瞬にしてパニックに陥り、我先にと立ち上がって出口に向かって駆け出していった。それからも爆発音は続き、壁やリングが次々と崩壊していく。
頭上から砕けたリングの一部が降り注ぎ、ゴンドラを破壊する間際、麗慈とシェリーは無事に京哉を担ぎ出していた。しかし、レンがまだリングの上にいる。
「ジィさん!どうしようレイジ!」
「どうするも何も…」
どうにか手立ては無いかと周囲を見回している間にも、スタジアムの崩壊は止まらない。
その時、リングの上から飛び降りる巨大な塊が二人の目に飛び込んだ。慌てて着地点に向かうと、それはレンと審判を両腕に抱えたラウだった。まだ息があったのだと驚愕する。
「…その若者に……俺は、ラウ・チャン・ワンとしての尊厳を救われた…。こうして、最期の瞬間にまた人の命を助ける事ができたからな…」
早く行け、と急かすラウの脚は、飛び降りた衝撃でぐちゃぐちゃに骨折した状態であった。
ラウの力強い眼差しに彼の覚悟を悟った麗慈は、小さく頷いてこの場からの脱出を優先させる。
…………………………………………………………………………………
ラウ・チャン・ワンの敗北が確定した直後、サムは部下達に命令を下していた。スタジアムを破壊せよ、と。
絶対王者のスポンサーという立場だけではなく、上海を牛耳るための資金をも失う事になったサム。せめて賭け金として集められた金だけは我が物にしようと、武闘賭博大会自体をなかった事にしようとし始めたのだ。
早々に逃げ仰たサムは地下駐車場に辿り着き、息も絶え絶えに黒塗りの高級車に乗り込む。
「急いで金を運ぶ手筈を調えろっ!スタジアムが燃えたら何もかもがパァだからな!」
運転手を急かして急発進させると、サムは懐から葉巻を一本取り出して咥える。
背広の内ポケットに手を突っ込んでマッチを探していると、唐突に暗闇の中から焔が差し出された。
「…金と共に逃げる選択肢を選んだ時点で、貴方は何もかもが終わったんですよ…」
ゆらめく橙に照らされた顔は、サムが駒使いとして利用してきた李のものだった。
「っ…何故お前が此処に!?」
「だって責任を取らないといけませんから…玥を……あの家族を崩壊させた責任を」
地上に出た車は猛スピードで繁華街を駆け抜ける。
「おい…どこに向かうつもりだ!?上海を出ろと言ったはずだぞ!?」
運転手は黙ったままアクセルを踏み込む。フロントガラスの向こう側には月明かりに揺らめく波。左右を囲む倉庫群からそこが港だと理解したサムは、目の前に迫る埠頭の端に顔を真っ青にした。
「海に飛び込む気か!?心中など許さんぞ!!」
暴れ出したサムを押さえつけた李。
あと数メートルで海に落下するというところで、急ハンドルで90度曲がった車体はエプロンが途切れる際で停止した。
死を覚悟したサムの顔から脂汗がドロドロと滲み出ている。
「…22時47分……傷害致死、殺人教唆、脅迫罪、贈与罪、その他諸々の罪で逮捕状が出ている。サム・ツェーファ…ここらが潮時ってやつだ」
運転手は振り返ると、後部座席に身を乗り出してサムの両手首に手錠を掛けた。呆然とする彼の顔を見て、李が口を開く。
「上海警察では手に負えないと判断して、人民警察に通報していました……レン・クーの名前を借りて…」
京哉達に取り押さえられた次の日、李はレンに連絡を入れていた。不要かもしれないが、一応解雇願いを受け取って貰えるかと確認する為に。
「いらんいらん、ワシはお前さんを解雇するつもりは無いもんでな」
レンの回答があまりにも意外過ぎて、すぐに言葉が出てこなかった。
…………………………………………………………………………………
「し…しかし……あのような事をして…私は……」
「ワシはお前さんの勇気にあてられたんじゃよ」
たった一人でサム・ツェーファという巨悪に立ち向かおうと奮い立った李。それは彼の策略の内ではあったが、政府の命令のままに福音による被害者を増産させ続けてしまったレンにとって李の姿は輝いて見えていた。罪の意識のあまり悪の根源に対峙する勇気が無かったレンを蜂起させた理由なのだから。
「俊宇や、よく聞きなさい。お前にはまだ仕事が残っている。小僧がラウ・チャン・ワンに勝利したとてあの男が素直に上海を手放す筈がない…」
高級車をぐるりと囲み、銃を構えた警察官達。サムは放心状態でガクッと項垂れた。
「……共に、罪を償いましょう……父さん…」
両手首を差し出した李にも、運転手に扮していた刑事が手錠をかける。
「協力に感謝する…李俊宇」
パトカーのサイレンが港に集結するのと同時刻、スタジアムには多くの救急車や消防車が集まっていた。屋台街は撤収を余儀なくされ、無事に逃げ切った観客達や野次馬でスタジアムの外周はごった返していた。
轟音を立てながら崩れ落ちる建物は、あちこちで爆発によって発生した炎に包まれており、逃げ遅れた人間の救出は難航している様子だった。
「…サム・ツェーファはオーケストラをカジノからスタジアムに移しておった……何とか彼らを救わねば…」
レンは煤に塗れた顔を拭いながら、じっと壊れゆくスタジアムの方を見つめている。
「…レイジ、ジィさんこのままじゃ自分で中に戻って助けるとか言いかねないよ?」
シェリーがソワソワしながら麗慈に尋ねていると、人混みを掻き分けて彼らに近付くパンツスーツ姿の女に話しかけられた。
「見つけました、若乃宮先生!楽団から派遣されてきた医療班第7分団です!」
額の上で敬礼のようなポーズを見せた女は、にこやかにそう述べる。
「先生からの連絡を受けて社内会議を行った結果、偽造楽譜による悪質犯罪の責任の一端は我々が担うべきとの判断が降りましたので!」
「…社内会議……楽団は最初からこの案件に目を付けてたって訳か…」
納得した様子の麗慈はレンの元に駆け寄る。
「楽団から援軍が…オーケストラも全員助かりますよ」
表情に光が差したように見えたレンは、麗慈の手を両手で強く握り、頼む、と短く答えた。
赤々と燃えるスタジアムを背に、何事もなかったかのように並んで歩くスーツの集団。その中心を歩く半面の男は嬉しそうに天を仰いだ。
「いやぁ、今回は潤沢な資金を頂戴してかなり大規模な社会実験ができましたねぇ、先生」
話しかけられた男は、ハハっと笑いながら半面の男に視線を移す。
「やはり、人体にハンネス機関を埋め込むなど無理がありましたよ。アレはシェスカでなければ成し得ない傑作中の傑作……はぁ…もっと近くで拝みたかったですねぇ、あわよくば解剖したかったのに…」
「先生は船でいらしたんですよね?今後はどちらに?」
ズリ落ちたメガネを直すと、先生と呼ばれた男はニコリと笑って指折り数え始めた。
「ええ、何ヶ国か渡り歩きます。まだまだ研究対象は無尽蔵に転がっていますからね。丁度身寄りのない少年を拾いましたので、今度は彼で試してみようかと」
「なるほどー、さすが研究熱心で有名なお方だ!……これからもご協力お願いしますよ…ドクタースギウラ!」
闇夜に消えていった異端の使徒達が次に巻き起こす災厄による被害の事など、この時は誰一人として知る由も無かった。
ただその期限は刻一刻と近づいている。
…………………………………………………………………………………
目を開けると朝陽が差し込む障子窓と見覚えのある天井が頭上に広がっていた。
まだボヤける視界で隣を見れば、白い塊が丸まっている。目を擦ろうと動かした左腕の火傷のような裂傷は綺麗に治っている。
足元に重さを感じで視線を移すと、ヴァイオリンを放置して熟睡する麗慈の姿があった。
「……ラウと災厄の因果を断ち切って…それからどうなったんだっけ?」
首を傾げる京哉の独り言を聞いて、枕元で小動物のように丸まって寝ていたシェリーが目を覚ました。
彼女からその後の事情を聞きながら、麗慈が起きるのを待っていると、障子戸を開けてレンが入ってきた。
「本当に全部治っとるのぅ……そこの兄ちゃんが夜中に鳴物なんか取り出すから、一体何事かと思ったら…。こんな田舎じゃなかったら警察がすっ飛んでくるところだったわ」
盆で運んできた湯呑みを布団の横に置くと、レンは布団から起きあがろうとした京哉を止めて自ら近くに座った。
「オーケストラの面々は全員無事じゃった…ただ、一緒におった玥という娘は意識が無い状態が続いとる」
彼の説明を聞いて京哉は訝しげな表情を見せた。
「マフィアに何かされたって事か?」
「恐らく……今後細かい検査をしてみないとわからんそうだが……」
レンが言い淀む様子を見せる。
「心臓を含めた臓器の全てが取り去られた状態だそうだ…その代わりにハンネス機関が埋め込まれとったらしいが…その状態で生命反応があるというのだから驚いたわい」
湯呑みを手から落としたシェリーが慌てて布巾を手に取る。濡れた床を拭く彼女は明らかに動揺していた。
「…ジィさん、玥は今どこにいるんだ?」
「政府が管轄している国営病院だそうだ。お前さんらは近付かん方が良いじゃろ?」
残念そうに首を縦に振った京哉は、床を拭き終わったシェリーの方に視線を移す。
彼女は父親の手によって体内の臓器をハンネス機関に置き換えられた存在。シェリーの体の中には自分の母親の骨で作ったオルゴールが同時に埋め込まれている。
「…玥の妹の骨?」
ふと呟いた京哉が勢い良く飛び起き、その足にぶつかった麗慈も無理矢理叩き起こされる。強打した顔面を両手で抑えながら転がる麗慈に四つん這いで近寄った京哉は、神妙な面持ちで口を開いた。
「誰かが……オルバス・シェスカを模倣した人体実験を玥の身体を使ってやった…ってことか?」
起き抜けにとんでもない話を振られ、麗慈は呆然とする。
オルバス・シェスカは既に処刑されており、彼を模倣する誰かが確実に存在するという事になる。しかし、何故そんな事をするのか、という理由はわからない。オルバスを崇拝している者なのか、そうして産み出された玥やシェリーのような存在に何か特別な理由があるのか。
真相は謎のままであった。
…………………………………………………………………………………
武闘賭博に関してはその違法性が認められ、全ての掛け金やファイトマネーが没収されることとなった。主催者のサム・ツェーファの逮捕と同時に関与した数々の政治家や警察高官が処分された事もあり、次は我が身と恐れた観客達は誰もその結末に文句を言わなかった。
マフィアとの癒着が公のものになった上海市議会は解散し、新たな長が街を統べる事となった。それに際し、バラック街の闇市も摘発対象となり半グレやチンピラ等は住処を失ってどこかに消えたという。
地下カジノを含むビル全体が差し押さえとなり、地下の貯水施設に隔離されていた患者たちは全員地上の施設へと移されていった。
日本同様、強行的な音楽禁止政策を打ち立てていた中国政府だったが、楽団が派遣した医療班の人間が福音による災厄の被害者を治療できる唯一の技術を持っていると認め、正式に契約を結んだという。
これから数ヶ月に渡って楽団の医療班の人間が患者の因果を断ち切っていき、ゆくゆくは全員が回復に向かうであろう。
そして、次なる依頼を受けた京哉達が中国を発つ当日の事である。彼らはレンに連れられて刑務所の面会室に来ていた。
アクリル板の向こう側に現れたのは、髪を剃り坊主頭になった李だった。彼の姿を見た瞬間、京哉が嬉しそうに手を叩く。
「めっちゃ似合ってるじゃん!白黒写真似合いそう!」
「俊宇、悪いなわざわざ」
「元気そうだな、李さん」
京哉の戯言を無視して、レンと麗慈が話し掛ける。李は頭を下げて椅子に座るとソワソワした様子だった。
「玥について気になっとるんじゃろ?まぁ、そんなに良い報告はできんよ」
玥の現状についてレンから説明された李の表情は次第に暗くなっていく。
「そう…でしたか……まだ意識が…」
「まあ、お前さんが出所する頃には元気になっとるわい」
李の罪状は殺人。レンの部下を四人殺している。情状酌量の余地有りと認められても、良くて終身刑と言われていた。本人もそれを察しているようで、レンの言葉に作り笑いを浮かべる事しかできなかった。
「李さん…俺達は今日日本に帰るよ。色々世話になったな」
「…いえ。こちらこそ、色々ありがとうございました」
深々と頭を下げた李は、看守に声を掛けられる。
「時間だそうなので……それでは、皆さんお気を付けて」
「時々会いに来るよ、俊宇。手紙でも出してこいよ」
両手を振りながら面会室を出て行った京哉とシェリーに最後に小さく手を振って、李は椅子からすくっと立ち上がる。
「……玥…どうか元気になってくれ…」
ボソリと呟いた李は、再び独房の方に消えていった。
…………………………………………………………………………………
その日の夜、レンに送り届けられた港で京哉達は楽団の手配した工作船の到着を待っていた。
彼等が日本を出国してから3週間が経過しており、新宿近辺の警察の警戒レベルも通常に戻って久しいという。
「折角上海を観光して回るチャンスだったのになー」
「サムが治めてた上海なら俺達も自由に動けてたかもな。頭が全部挿げ替えられてる今じゃ政府の人間が直接統治してるっていうし」
えー、と文句を言う京哉を放置し、麗慈はレンの方に向き直った。
「今回はかなりマケてくれるらしい。楽団としても思う所がかなりあったそうだから」
「ソレは助かった。ワシの会社も稼ぎ頭だったアングラな部署はもう畳むしか無くなったからのぅ…」
髭を弄りながらそう返したレンに、京哉はニヤニヤしながら絡む。
「ジィさんもやらかして刑務所ブチ込まれないように真面目に働けよー」
すると、真っ先に飛んできたレンの扇子が京哉の頭に当たりパシンと良い音が夜の港に響いた。麗慈とシェリーは、おおーと歓声を上げながら拍手する。
「お前みたいな不真面目な男に言われとうないわ!小僧!」
「痛っ!え、血出てる!?すっごい音したよ?」
「出てねーよ、赤チン塗っとけ」
シェリーが追い打ちをかけるように冷たく言い放つと、不機嫌そうにむくれた京哉が彼女を捕まえようと走り出す。子供のようにはしゃぐ二人の様子に呆れ顔を見せた麗慈は、灯台の灯りに一瞬照らされた船を視界に捉えた。
小型漁船を模した工作船に乗り込んだ三人は、レンに大きく手を振る。
「長生きしろよーー」
「たわけ小僧が!余計なお世話じゃ!」
まだまだ長ェな、と満足気に笑みを浮かべた京哉は動き始めた船のエンジンハッチの横に立ってボウ・アンド・スクレープで頭を下げた。
「またのご利用お待ちしております、レン・クー様」
[12] Requiem Ⅴ 完