#010 Requiem Ⅲ
上海・67歳男性「このご時世に長年会社経営を続けていると嫌でもアングラな世界と関わる事になるが、今回初めて関わったアイツらは本当に大丈夫か?特にフルートの小僧。1日7万ドル請求されとるんだが…」
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上海市中心部、武闘賭博が開催されるスタジアムにほど近い商業ビルの地下に、レンの話していたカジノが存在していた。
中国国内の暇を持て余した富裕層が夜を遊び通す目的で足繁く通っているという。
一見客お断りの完全紹介制であり、京哉と麗慈はレンの連れとして入場を許されていた。
ロビーから続く赤い絨毯の上を進み、スタッフが開けた観音開きの大きな扉を潜る。
その瞬間、一番に彼らを驚かせたのは会場内に響き渡るオーケストラの音色。いくら地下カジノと言えど、警察の目が容易に届きそうな立地で音楽を流すなど命知らずにも程がある。
巨大なシャンデリアが煌びやかに揺れるホールには、派手なドレスに身を包んだ女達と彼女達に連れそうタキシードの男達。
ドレスコードがあると言われ、京哉達もレンが呼び出した使用人が用意したタキシードを纏っていた。
賭場と言えど国内の上流階級が集まるだけあって、騒ぎ立てるような不躾な客はいないようだった。
近くのルーレット台からはウィールの中を軽快に転がるボールの小気味良い音が響いており、それに続く歓声も何処となく気品が感じられる。
しかしそんな上品さとは裏腹に、ホールの至る箇所にバニースーツを着た若い女が接客を行っている様子があまりにも異質であった。
「まさか…ジィさんの会社で派遣してんのって、バニーガール?」
京哉がレンの耳元で尋ねると、彼はしたり顔を見せる。
「まぁ、そういうのもやってるな」
やってるんだ…と譫言のように繰り返した京哉。
「ここから先は少し暗いぞ。躓いて転ぶなよ」
そう言ったレンは懐からカードキーを取り出し、リーダーにスキャンさせた。静かなモーター音と共に鉄製の引き戸がゆっくりと開く。
レンに連れられて辿り着いたのは、賭場フロアを横切ってから暫く非常階段を降りた所にある薄暗い空間。
天井が高く、多くの配管やポンプが壁伝いに設置されており、足元は一面グレーチングになっている。
警告灯の赤い光がぼんやりと室内に広がっており、どことなく不気味な雰囲気を感じさせていた。
「ここは地上が災害級の大雨に見舞われた時に水を逃す貯水施設だ。政府からの依頼で、この施設の管理をウチがやってる」
あまりに広大な空間のせいで、三人分の足音が反響しては向かいの壁にぶつかってこだまし、グラグラと脳を揺らされているような異様な感覚に襲われる。
「一年程前からだ。上海市郊外の小さな村々で次々と奇妙な集団薬物中毒事件が発生するようになった」
突然切り出してきたレンは神妙な面持ちで続ける。
「病院に搬送された中毒者らは、皆口々にこう叫んでおったわ…『神の福音を』と」
「……福音か」
麗慈はピンと来た様子で呟いた。
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上海市内の特定の集団が中毒症状を起こすとされる、未知のドラッグ。昨日も福音が原因と考えられる悲惨な事件が発生したばかりであった。
「数十、数百人単位で中毒者が増えていく異例の事態に、病院や隔離施設だけでは収容しきれなくなっとる」
足を止めたレンは、だだ広い空間の先を指差した。床の上を何かがのたうち回っている。
よく目を凝らして見ると、包帯で頭の先からつま先までをグルグル巻きにされた状態の人間であった。
遠目であったがその数は百では効かないだろう。
「収容場所に困った病院からの訴えで動いた政府から依頼が来た……だから、ワシの会社から人を病院に派遣し、中毒者を簀巻きにしてこの施設に運び込んでおる。最低限の世話はしとるが、全員回復の見込みは無いと言われたわい」
「…一体何故、貴方の会社が…」
麗慈が尋ねると、踵を返したレンが天井を指差す。
「上のオーケストラ、どうだったかの?」
突然の質問に一瞬気後れしながらも、京哉が答えた。
「えーっと…普通?」
「普通とは何じゃ、普通とは!」
顔を見合わせた京哉と麗慈は、同時に小首を傾げる。
「あそこで演奏しとる人間は、政府からの依頼でワシの会社が全土から探し出した音楽家達でな。1年ぐらい前までは形を潜めて静かに暮らしとった奴らだったわ」
レンの話の中で明らかに引っかかる部分がある。
「…何で政府がオーケストラなんて集めさせたんだよ…?そもそも、上の賭場自体政府に関係があんのか?」
「まぁな…さっきホールにおった奴らは皆、警察高官とその家族、あと官僚連中だな……此処は政府御用達の遊び場ってやつじゃ」
ツカツカと再び歩き始めたレンは、蓄えた口髭を触りながら更に続けた。
「福音による集団中毒事件が発生し始めたのは、約一年前……異端と名乗る謎の集団が中国政府に何らかの方法で取り入ったとされる時期からじゃ」
『自らを異端と名乗る新興オーケストラが日本政府と秘密裏に手を結んだそうだ』
『盗作ってのもマジな話。誰か僕以外の人間が、真似て楽譜を書いてるし、お前よりも上手い奴が似たような力を得て楽団を攻撃してる』
『補聴器かなって……ラウさん、リングに上がった時から左にずっとブレてたから、耳悪くなったのかなって勝手に思ってたんだよな』
その時、京哉の中で全てが繋がり、脳内に電撃が走ったような衝撃が駆け巡る。
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急に落ち着きの無くなった様子の京哉に、レンは呆れ顔を見せた。
「ようやく気づいたか。勘の悪い奴め」
まだ理解していない様子の麗慈に向き直った京哉は、額に汗を滲ませながら口を開く。
「福音は…クスリでも何でもない……災厄の仕業だ」
一年前、自らを異端と名乗る楽団と中国政府が手を組んだ。日本と同様に厳しい対音楽政策を実行している中国では、その人口の多さも相まって重圧に喘ぐ住民達による反政府運動も苛烈を極めていた。
活動家達による楽団への依頼も多く、政治家を狙った暗殺などが横行していた。
世界政府が恐れた音エネルギーの武器転用をたった一人の演奏で成し遂げてしまう旋律師達は、中国政府にとって最も厄介な宿敵であった。
対抗しようにも、隠密を得意とする彼等の国内流入を防ぎ、一大隊並みの戦闘能力に勝る事は難しい。
長年剛を煮やしていた中国政府の元に現れたのが異端である。自らも旋律師と同様の異能を持ち、各地で彼等を狩り続けていると説明し、取り入ったのだ。
その言葉通り、中国国内で暗躍していた旋律師を何人も仕留めることで、異端は信頼を得ていった。
そして、一人の官僚の男が異端にある相談を持ち掛けた。『反政府運動を続ける民衆を黙らせる方法は無いのか』と。
異端が提案したのは、楽譜を模倣して作られたとある楽曲を演奏し、異能によって住民達を懲らしめるというものであった。
それが、福音である。
その曲には聴衆の精神に作用し薬物を接種した様な多幸感と有能感を得る代わりに、激しい禁断症状に見舞われ周囲の人間を無差別に傷付ける程その人を凶暴化させる効果があった。
「ラウ・チャン・ワンがリングで人が変わったように狂ったのは、片方の耳に詰め込まれたイヤーモニターを介して福音の影響を受けたから…。それまでに起こった集団中毒事件は、現場の何処かに奏者がいて、垂れ流された災厄を食らった結果だ…」
京哉の推理を聞き、麗慈は眉を顰めながら頷く。
「…奏者自身が祝福を受けない代わりに、災厄も受けないような制約ってことか。でも、誰がそんな演奏を…」
そこまで口に出した麗慈は、ハッとしてレンの方を見た。
「……政府がオーケストラを集めさせたのは、福音を演奏させる為だったって事か」
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「異端と名乗る集団がワシの元に現れ、集めたオーケストラの面々に練習させるように、とある楽譜を渡してきおった。それが福音じゃった」
「…っ!その楽譜は今どこに?」
京哉が食い気味に問うが、レンは静かに首を横に振る。
「曲を習得させ、最初の集落に向かわされる前に回収されたわ」
集落…と、呟くように繰り返した麗慈。レンの横顔からは悲しみとも怒りとも取れる複雑な感情が読み取れる。
「政府は、反政府運動を抑え込む前に試験の名目で活動家達とは全く無関係ないくつかの村々で福音を演奏させた……ワシも集めた音楽家達も、最初はその目的については伝えられんかった」
しかし、彼等が演奏した結果、集団中毒事件が起こってしまった。
「…昨日の事件の時も……ジィさんとこのオーケストラが演奏したのか?」
「ああ。政府の用意した護送者に乗せられて、その中で…な」
管理下にある楽団が引き起こした事件であるはずなのに、レンは妙に淡々とした喋り方をする。
「……これ以上の福音との関わりをワシが拒否したとて、オーケストラは救われない。逆らえば警察の手によって逮捕され、最悪は……」
一度、音楽家としての夢や希望を捨てた人間を説得し、引き戻した挙句、警察に逮捕させる。そんな事はレンにはできなかった。
政府、そして異端の指示に従うしかなかったのだ。
「命令だったとはいえ、アンタのオーケストラによって引き起こされた事件……だから、中毒者達の管理を引き受けたのか……」
あぁ、と低く唸るような声で返したレンは、壁の方を指差す。高い天井まで続く目盛のような線がペイントされている。
「政府には最後、この地下空間が中毒者で溢れかえった日には、海や川と繋がる注水バルブを開いて天井まで水で満たすように言われておる」
それは、収容した人間達の死を意味していた。
福音による中毒者を生み出し、介抱し、そして処分する。その全ての罪を、レン達に擦り付けようとしているのだ。
「ワシがお前さんらに仕事を依頼した真の目的を知りたがっていたな」
グレーチングの床を踏み締めながら歩み寄り、京哉と麗慈の前に対峙したレン。
「このビルはまるっとサム・ツェーファの持ち物でな…言いたい事はわかるか?」
政府や警察の要人御用達のカジノを経営するのが、あの男という事になる。それ即ち、彼らはマフィアと太い繋がりがあるという事だった。
「奴らが上海のほぼ全域を縄張りにするような巨悪に成長できたのは、警察や政治家連中の後ろ盾があったからだ。巨額の資金を納める見返りとして、マフィアの犯罪行為は見逃されている」
「その資金源が、年に一度開催される武闘賭博で動く金……」
京哉に向かって、その通りと宣ったレン。
「サムと政治家達の繋がりは金だけだ。金払いの悪い悪党を野放しにする程、奴等も馬鹿じゃない。国の防衛費にも匹敵するような巨額の優勝賞金が手に入らず金に困れば、奴も自身の持ち物を切り売りしたがるだろう」
二人の方に向き直り、姿勢を正したレンは深々と頭を垂れた。
「ワシはこのビルを買い取りたいんじゃ……中毒者達を生み出してしまった償いとして、せめて最期の時まで看病させて欲しい…」
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スーツ姿のその男の顔は、半分白い面で隠されている。オーケストラを護送車に誘導するあの男が怪しく笑っていた意味を、レンは後々理解する事になるのだ。
「こんな外れの村に、何の用があるんですか?」
面の男と連れの二人と共に護送車を追うセダンに乗り込んだレンが通訳を通して尋ねた。
「最初は少人数から試すのが良いと思いましてね」
試す、という言葉が何を意味するのか、この時はまだわからなかった。
村の入り口付近に停車すると、護送車の天井が開き空が見えるようになる。
「それでは始めてください」
面の男が無線で合図をするが、レンの乗っているセダンからはなんの変化も感じられなかった。
「今、オーケストラの皆さんに演奏をお願いしています」
「ああ…以前練習するように手渡された、福音というやつですな」
「はい!…我々も正直、どんな事になってしまうのかわからないんです。本家の楽譜に仕込まれたロジックというのがなかなかに難解でしてね…その模倣品だけに、効果の程も全く予想ができない」
目の前の男は何を言っているのだろうか。何かに心酔しているような、心ここにあらずな態度で語り続ける面の男は、村に異変が起き始めると途端にフロントガラスに頭を打ち付けるほど食い入るようにその様子を観察し始めた。
村の住人であろう老若男女が、夜中だというのに家から出てきては屋外で踊り狂っている。
「効いてきましたねー…では、皆さん、演奏を終了してください」
再びトランシーバーにそう告げた面の男の表情は、次第に凶悪なものに変化していく。
彼の視線の先に見える光景に、レンは絶句した。
村人同士が狂乱状態でお互いの首を絞めあったり、殴り合ったり、家から持ち出した刃物を振り回したりしている。
大声を上げているように見えるが、セダンの中には何故か物音ひとつ聞こえてこなかった。
「アレは何が起こったのですか!?早く助けに行かなくては!」
「何が起こったか、だって?嫌だなぁ…アンタのオーケストラが引き起こした事でしょう?」
そう返した面の男は、福音の楽譜を再びレンの前に出した。
「楽団は知ってますか?音エネルギーが武器転用できると知りながら、世に解き放った糞野郎が作った殺人音楽家集団なんですけどねぇ…」
楽譜をパラパラと捲りながら、面の男は遠い目をした。
「奴等の持つ特殊な楽譜には、とんでもない異能を現実のものにする不思議な呪いが込められているんです。ソレを真似して私が書いたのが、この福音」
ニコリと怪しく笑った男に、レンの背筋は凍り付く。
「異能……呪い?」
「信じられませんか?でも、目の前で起こってますよ、ホラ。アンタのオーケストラが演奏した福音で発狂した村人が、あんなに闘争本能丸出しになっちゃって…!」
素晴らしい、素晴らしい!と繰り返す面の男の狂った笑顔は、未だにレンの脳裏に焼きついている。
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翌朝、またまた李のチャイムで起こされた三人。シェリーと京哉は文句を言いながら欠伸を連発し、ソファでうつらうつらしていた。
もとより真面目な顔付きの李だが、今日はそれに焦燥が混じっているように感じられた。
「…何かあったのか、李さん?」
「えぇ……すみません、いよいよという時なのは重々承知なのですが、少しの時間外させていただきたくて…もちろん、ご移動の時間には代わりの者が参りますので…」
今日から武闘賭博のトーナメント戦が始まる。昨夜遅くに帰った京哉と麗慈を気遣っているようだった。
「いや、それは構わないけど……大丈夫か?」
「私は大丈夫です…しかし、玥が……」
李は玥からの着信で目覚めたのだという。彼女によると、ラウが試合の後家に戻ってきていないという事だった。
「武闘賭博の前だから泊まり込みで調整をしているかもしれない、と玥には希望を持たせましたが……ラウは試合前は必ず家族との時間を大切にするのです。今まで一度も、そのルーティンを破った事はありません」
李の話を聞き、麗慈はやっぱりな、という感想しか抱けなかった。福音による災厄を受け、人格が崩壊しているのだ。家族に会いに行ける筈もない。
「それで、李さんは玥の所に行きたい訳か」
「は、はい…彼女だけでなく他の子供達も心配ですので…」
李を快く送り出した麗慈は、二度寝を始めそうな二人の方に向き直って腕を組んだ。
「京哉、俺は昨日レン・クーから聞いた情報を楽団に共有してからスタジアムに向かうから」
え!?という情け無い叫び声と共に、京哉がソファから飛び起きた。
「通訳無しでどう動けと…」
「子供じゃあるまいし、英語話せる奴でも見つけてなんとかしろよ」
そう言って踵を返した麗慈が玄関から消え、重たいドアが閉まる音が無慈悲に響き京哉はガックリと肩を落とす。
しかし、直様戻ってきた麗慈がドアから顔だけを覗き込ませながら一言告げる。
「朗報」
そして、大きく開かれたドアの向こう側から、スーツ姿のレンが姿を現した。
「言葉がわからんぐらいで情けない事言うな、小僧」
ズカズカとリビングに入って来ると、手に持った扇子でペシペシと京哉の頭を叩く。
「すぐに出る用意をしろ。選手登録があるからな」
「ペチペチやめろ!…シェリーも一緒に入れるのか?」
京哉の問いにレンが親指と人差し指で丸を作ると、シェリーが両手をあげて喜んだ。
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試合開始時刻は正午だというのに、スタジアム前には既に入場チケットを買い求める人が長蛇の列を成していた。
スタジアムを一周しようかというその列を横目に、京哉達を乗せたセダンが専用の地下駐車場へと入っていく。
駐車場の入り口ゲート付近でID確認をされ、京哉は先日李から受け取っていた偽のIDカードを提示した。
「ええと、リュー・イーソウさんですね。では、奥の7番ゲートから入り、身体検査を受けてください」
警備員の発した言葉の意味がわからず、立ち尽くしている京哉の腕をレンが引っ張る。
「な、なんか役満っぽい事言ってたのは聞こえたんだけど?」
「お前さんは今日から大会終了まで、謎の超新星ファイター、リュー・イーソウとして生きるんだ」
「ほら、やっぱり役満じゃん!ダサい名前付けんなよ…」
「0.001%を引くなんて縁起が良いだろ!モタモタしとらんで奥に進んで身体検査を受けに行くぞ」
検査と言われ、京哉の顔色が変わった。背負っているジュラルミンケースには、ガッツリとフルートが収納されている。
「武闘賭博の主催があのマフィアの親玉ってことは、警察とか政府関係者も関与してんだろ?楽器なんて持ってたらまず入れないんじゃねーの?」
背中の荷物を指差す京哉の頭を、レンが扇子でスパーンとはたいた。
「俊宇の説明を何も聞いとらんのか!この敷地内は賭博が行われる間、完全な無法地帯だと言われとるだろ!」
頭ごなしに怒鳴られたが、京哉は例の客引きの所為でその話を聞けていない。
不満たらたらに唇を尖らせながら7番ゲートの自動ドアを潜った京哉は、その瞬間一斉に多くの視線を感じた。
両サイドの長机には屈強で人相の悪い大男が勢揃いで、スタッフのチェックを受けている。
「今回参加するスポンサーは60団体。どこも1年掛けて仕上げて来た筋肉達磨で勝負しに来とるな」
奥の長机が空き、スタッフが手を上げて京哉達を誘導する。移動する間も、常に刺さる鋭い視線が場の緊張感をひしひしと感じさせていた。
「レン・クー様ですね。ご参加いただきありがとうございます。それでは、試合をされる方はこちらへ」
スタッフの手振りで何となく理解した京哉は、カーテンレールの向こうへと消えていった。
「キョウヤ、一人で大丈夫そう?」
シェリーがレンの影からひょっこりと顔を出しながら尋ねる。
「まあ、何とかなるじゃろ。此処ばかりはあの小僧しか入れんからな」
口髭を弄りながら答えたレンは、そうだ、と思い出したようにシェリーに時計型の端末を手渡す。
「それ、会場に入るパス。大事に持っておけよ」
「パス?」
小首を傾げながら左手首に端末を巻き付けたシェリーは、不思議そうにそれを眺めていた。
「ワシの銀行口座と繋がっとってな、手元で掛け金を入力できるようになっとるんじゃ……って、お嬢ちゃん!?」
シェリーは知らず知らずのうちに端末に数字を入力し確定してしまっていたようで、レンが慌ててその内容を確認する。
「えー何々、あの小僧の初戦に…一、十、百………789万…!?」
「えん?」
「ドル!!!あぁ…なんて事を……!」
慌てふためくレンをよそに、それっていくら?と呑気に端末を眺めるシェリー。
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薄暗い空間に通された京哉は、スタッフに促されるまま列に並ばされる。
1番前に並んでいた選手が扉の向こうに通されてから、1分そこらで次の者が入っていく。何分も捕まるようでなければ、何かこちらから言葉を発する必要は無さそうだと安心していると、すぐに京哉の番がやってきた。
ノブを回して金属製の扉を押し開く。中はより暗い空間になっていた。数歩歩いた先にバツ印の蓄光シールがあり、スタッフが指差して何やら指示をした。
とりあえずシールの場所まで進むと、唐突に頭上からスポットライトで照らされる。眩しさに目を瞑った京哉が薄目を開けると、目の前にはガラス張りの長い窓。それも10メートルはあろうかという巨大な窓で、その向こう側には椅子に座りながらこちらを眺めるスーツの男達がいた。
「わざわざ偽造IDカードなんて作らなくても良かったんだけどね、リュー・イー・ソウ君?」
耳に入ってきたのは、ドイツ語だった。
声の主を辿ると、バラック街の事件報道に映り込んでいた不気味な半面の男がそこにいた。
「……異端か」
「初めまして、キョウヤ・ウガミ……」
睨み付ける京哉にニヤリと笑った面の男は、スッとサム・ツェーファの後方に下がって彼の横に控えていた通訳の男に耳打ちをした。
「フンッ…俺の武闘大会も舐められたモンだ。若気を戦わせるとは、あの老害も遂に耄碌したようだな」
サムの言葉に、彼の横に並んだ男達も京哉を見てゲラゲラと笑っていた。馬鹿にされている事だけは理解した京哉は、眼帯の男を睨み返す。
7番ゲートに戻ると、巨大なLED画面に試合のトーナメント表が表示されていた。それを眺めている白いツインテールの横には酷く項垂れているレンの姿があった。
「え?組み合わせ見て絶望してる感じ?」
京哉が尋ねると、シェリーはブンブンと首を横に振る。
「…アタシが変な事しちゃったみた…「おい小僧!」
被せるようにして大声を出したレンは、京哉の肩を両手でガッシリと掴みながら顔面を近付けた。
「な、何だよ…!?」
「小僧、絶対に勝てよ?死んでも勝て…!」
支離滅裂な事を言って泣き出したレンを、その理由もわからないまま慰めていると、李と玥を連れた麗慈が追いついて来た。
「あー、コレが例の組み合わせ表か」
「例の?」
おう、と答えた麗慈は李から聞いたと言う情報を共有する。
「裏で身体検査とか言うの受けただろ。アレ、特殊なカメラで身長、体重、筋肉量、その他諸々を瞬時に測定して、接戦になりそうな組み合わせをAIが判定して出してるらしい」
「何その無駄なハイテクさは…。勝敗の判定は死ぬか生きるかとかいう超古代なのに?」
ごもっとも、と首を縦に振った麗慈は李の方を見やった。
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「その娘はこれからどうするんだ?」
不安げな表情を浮かべる玥を一瞥した李は眉を顰めた。どうしてもラウの状況が気になると言って食い下がった為連れて来てしまったのだという。
「ラウの家族が他選手の関係者と行動を共にしているとなると、あらぬ疑いを掛けられるのでは無いかと心配しています」
八百長だの何だのと煩くする輩は何処にでもいる。それを言われて傷付くのは玥だ。彼女を心配しながらも、距離を取る他ない。
「私は一人で大丈夫。俊宇は仕事なんだからちゃんとやりなさいよ」
バシッと李の背中を叩いた玥は、気丈に笑顔を見せて踵を返した。
「…ラウの前に出て行ったりしないか?アイツ」
彼女の姿が人混みに消えていくと、京哉が麗慈に尋ねる。
「その可能性は十分あるな。今のラウの禁断症状がどれ程の物か知らないが、娘を見ても認識できない程なら…」
海明にした時と同じように、玥を傷付ける可能性もある。
「それなら、ワシの所から娘の護衛を出そう。何か動きがあれば逐一こちらに連絡入れるようにして、な」
立ち直った様子のレンがそう言うと、傍に控えていた側近に耳打ちし始めた。
正午の鐘が鳴り、会場のボルテージは最高潮に達する。国の法律で禁止されている筈のBGMが大音量でスピーカーを震わせ、観衆の興奮度をより一層上昇させていた。
スタジアムの中央に据えられているリングはどの様にして運んだのか全く想像の付かない巨大な一枚岩。
ドームの屋根は全て液晶パネルとなっており、リングをグルリと囲む複数のカメラで撮影された映像が映し出されていた。
流石、巨額が動く宴とあって、会場内の設備にも桁違いな投資がされているようだった。
スポンサーとその関係者が座るVIP席はスタジアム3階部分の個室となっており、高級ホテル並のルームサービスが受けられるようになっていた。
「まさに、金持ちの道楽ってやつ」
つい最近も聞いたような言葉を口にした京哉は、試合の様子を映し出すモニターの前に据えられた柔らかな革張りのソファを陣取った。
京哉は本日予定されている試合の最終戦に出る。相手のスポンサーはこの武闘賭博に皆勤賞参加の大富豪であるという。
ジュラルミンケースをソファの上に転がし、余裕の表情で画面を見つめている京哉に、李は不安げな様子だった。
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彼の気持ちを汲んだ麗慈は、京哉の隣に座って李の方を見るように顎でしゃくる。
「お前がアップする素振りも見せねぇから、李さん不安になってんだけど?」
ソファの背もたれに首を預けて、レンの後方に控える李を見上げた京哉。
「そんなに僕って信用ならない?」
「信用する奴とか存在しないでしょ」
久しぶりに毒突いたシェリーをムスッと睨み付けると、ソファに深く座り直した京哉はジュラルミンケースに手を伸ばした。
チューニングを終えた京哉は、リッププレートに下唇を乗せて構えると、キーの上にポジショニングした指で低音から高音へとグリッサンドさせる。そして、高難易度で知られるモンティのチャルダッシュを意図も容易く演奏し始めた。
シェリーと麗慈はそれがごく当たり前の事のように聞き流していたが、レンと李は初めて聴く旋律師の技量に圧倒されている様子だった。
最後の一音が空気中に放たれると、部屋の中は一瞬気持ち悪い程の静寂に包まれて耳鳴りがするような感覚に襲われる。
「いや、何年も前に俺がお前の前で弾いたやつ適当に吹いただろ。細かいところ蔑ろにすんなよ。楽譜あんだろ」
李が賞賛の声をあげようとした時、麗慈がダメ出しを入れ始めた。
「キェーッ!細か過ぎ!良いじゃん別に、アップだし!」
「いつまで経っても託斗に怒られるの、ソレが原因だからな?」
やいやいと言い合いを始めた二人にシェリーも加わり、途端に室内は騒がしくなっていった。
煩くとも平和なやりとりをする彼らとは打って変わって、つい先程ゴングの鳴った初戦では早くも熾烈な命の削り合いが始まっていた。
[10] Requiem Ⅲ 完