#001 Overture
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東京都・21歳男性「同居人の自称美少女のメスガキを黙らせる方法を探しています。痛いのとかグロいのは無しでお願いします。二度と僕の事を馬鹿と畜生のハイブリッドって呼ばせないように思い知らせたいです!」
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2135年、6月9日。
報道関係者でごった返す会場内には、各国の言語が入り乱れていた。
世界中のお茶の間が待ち侘びていたこの瞬間を、カメラにおさめない手は無い。
壇上でにこやかに手を振るのは、司会進行役の女。彼女にスポットライトが当たると、途端に会場内は静寂に包まれる。
「皆様、大変長らくお待たせ致しました。只今より、新エネルギー供給機構のお披露目となります。さぁ、報道陣の皆様、こちらをご覧ください」
スクリーンに映し出されたのは、複雑な設計図のスライド。そして、壇上には大柄なSP2人に囲まれて登場した銀髪の壮年男の姿があった。
「初めまして…新機構開発研究部のロジャーと申します。退屈な話は全てすっ飛ばして、要点だけまとめましょう」
彼の合図でスライドが切り替わり、会場全体がどよめいた。
「ズバリ、石油に替わって世界のエネルギー供給を担うのは…音です」
ガラガラと滑車の回る音と共に頭上から降下してきたのは、複雑な部品を組み立て出来上がった金属塊。縦横30センチ四方の立方体である。そして、そこから接続された赤と緑のエナメル線の先端には、ソケットにはめ込まれたLED電球が見える。
「音は波です。この波を特殊な集音装置で増幅し、電気に変換します」
ロジャーはスーツのポケットから小ぶりなトライアングルを取り出すと、金属塊の隣でビーターを振った。チーンと小さな金属音が響き、LED電球が眩く点灯する。
「素晴らしい!ご覧いただいた通り、音が電気を生み出す究極のエコが実現したのです!」
司会の女性が大袈裟なぐらい抑揚を付けてそう述べると、それまで呆然としていた報道陣も激しくカメラのフラッシュを焚き始めた。
「ロジャーさん、この革命的な発電の仕組みを我々は何とお呼びすれば宜しいのでしょうか?」
「そうですね…実はまだ決めてなかったんですよ。でも、これだけ脚光を浴びるのなら、開発に一番尽力した彼の名前をつけざるを得ないでしょうね」
やんわりと笑みを浮かべたロジャーは物思いに耽る様に一度天を仰ぐと、再び口を開いてその名を呼んだ。
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東京は衰退していた。
2130年の第6次オイルショックを皮切りに、日本各地で勃発した反政府運動。それらは、2022年頃から始まった長きに渡り続く円安の動きに伴う加速度的な物価高、石油燃料枯渇の危機による国民生活の水準の急落、そしてオイルショックから6年後のその年に政府によって強行された新憲法施行による国民の自由への弾圧が原因だった。
聳え立つビル群はその殆どがもぬけの殻となっており、かつて栄華を極めた首都の面影はどこにも無い。
アスファルトが朽ちて穴だらけになった道路を進むグレーのジープ。ガソリンで走る車は、今や世界中どこを探しても存在しない。これも古い型式の車体に新動力機関を無理矢理溶接して出来上がった違法車両である。
ガタガタと忙しなく揺れる座席には、2人の人影があった。ボンヤリと前方を見つめる運転手はガタイの良い青年。やる気のない重だるい瞼が印象的な、ツーブロックの金髪頭である。
湿度が高く蒸し暑いというのにクーラーの効かない車内を冷やそうと、全開にした窓から吹き込む強烈な風に短い髪をはためかせていた。
助手席の背もたれを大胆に倒し、ほぼ寝転がっているような状態で腰掛けているのは、絹のような白髪をツインテールにまとめた少女である。髪と同様に透き通るような白い肌であったが、所々に大きな火傷の痕が見える。
悪路にハンドルを取られた車体が左右に大きく揺れると、それに合わせて少女は体のあちこちをぶつけていた。痛む部分をわざとらしくさすりながら、少女は運転手に向かって吠える。
「もっと丁寧に走れよ馬鹿!美少女が痣だらけになったらどーすんだよ!」
大きな金色の瞳でギロリと睨みつけると、視線の先でのほほんとした表情を浮かべた青年が頭を掻く。
「それは失礼しましたー…」
つゆ程も反省している様子の無い青年の様子に、少女は大きく舌打ちをした。
高層ビル群を抜け、更に荒廃した地域に入るジープ。雑居ビルの残骸が立ち並ぶ通りは、以前の新宿・歌舞伎町と呼ばれていた地域である。
細い路地に入り、両側を塀で囲まれた薄暗い道を抜けると、行き止まりが空き地になっていた。アスファルトの割れ目から雑草が伸び放題になっていて盛り上がっており傾斜が付いている。
「付き合わせて悪かったね、シェリーちゃん。店に1人残しておくのも退屈かなって思ったからさ」
青年はシートベルトを外しながら助手席に話し掛けた。別に、と素っ気ない返事を寄越す少女は反動を付けて上体を起こすと、勢い良く車のドアを開けて外に出る。
ジープの後部座席には、複雑な部品が取り付けられた金属塊が積まれていた。よっこらせ、とオジサン臭い掛け声でそれを持ち上げた青年の様子はやけに満足気である。そんな彼の楽しげな表情に、少女は呆れ顔で指摘した。
「こういうの、アンタの国ではカジバドロボウって言うんじゃないの?」
「はは…そうだねー!でもリサイクル、リサイクル!こんな時代だから資源は大事にしなくちゃー」
ケラケラと笑い飛ばす青年の返答を聞いた少女は諦めたように脱力しながら、重量物を持ち上げてヨタヨタと進む彼の後ろについて歩いて行った。
金髪の青年、仁道祐介は旧歌舞伎町地区の一角を間借りして、こじんまりとした商店を営んでいた。その名も『良縁屋』。廃れた世の中でも良い縁に結ばれるようにとの願いを込めて付けたという。そんな彼の商店では抗争跡地に赴き、何か使えそうな物を拾ってきて並べていた。
ゴチャゴチャと整理の行き届いていない店内の床に、今日仕入れてきた新たな商材を直置きした祐介は、額に滲んだ汗を軍手の甲で拭う。
梅雨も終わり夏の始まりという時期。気温は30度を超えていたが、空調機器はしんと静まり返り壁の飾りになっていた。
日本国内の治安悪化後、電力会社から電気が供給されることはない。少なくとも、彼らが住まう地域には。
それでも生活を営む為に『違法給電装置』が街のあちこちに設置されており、祐介の店に並べられている金属塊もその類であった。
「あつーい…溶ける…先にクーラー付けろよ…」
全開にした窓の傍でバタバタと忙しなく団扇を煽いでいるのは、シェリーと呼ばれていた少女。
シェリアーナ・シェスカ、17歳。ドイツ人である。自称、美少女であり、火傷痕を加味したとしても十分に麗しい見た目をしていた。
ドスドスと大きな足音を立てながら移動するシェリーは、床に直置きされていた金属塊から伸びる太いプラグを持ち、脚立を使ってエアコンの端子に接続する。
金属塊の隣に体育座りをすると、彼女は細い喉に両手を当てて目を閉じた。
透き通るような歌声に、空気が一瞬キンと張り詰める。金属塊の側面に付けられた漏斗状の部品がカタカタと小さな音を立て始めると、細かなベアリングが徐々に動き始めた。すると、ものの数秒でエアコンに電源が入り、ルーバーが左右に動きながら空気を送り出す。
彼らが違法に電力を得る方法…それは、この金属塊『ハンネス機関』を官営施設や抗争跡地から奪い、利用するというものであった。
音を増幅し、エネルギーを生み出す夢のような装置。
日本は、そして世界は、この装置の登場によって完全に狂ってしまったのだ。
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数分間歌い続けたシェリーは、疲れ切った表情で冷風の直接当たる場所まで移動すると、床に並べられた金属塊を蹴って退かした空間に五体投地した。
「あー…後はユウスケがやってよ……」
「俺、歌なんて知らないよ?」
「オタマでフライパン叩くとかさ、何でもやりようがあんだろ?」
汗で張り付いた胸元の衣服をパタパタさせながら、先程まで美しい歌声を響かせていた人物とは思えないような悪態をつく。
祐介はシェリーに言われるがまま、そこらへんに転がっていた鉄板の表面をスパナでカンカン叩き出した。
すると、エアコンの風量は格段に落ちる。
「不思議だよね、コレ。雑音だとあんま発電しなくなるの」
「知らねーよ…気合い入れて叩け」
はいはい、と気のない返事を寄越した祐介の様子に、シェリーのイライラは募る。
祐介が心を無にしながらひたすら鉄板を叩き続けているものの風量はますます落ちていく。あぁ…と祐介が残念そうにエアコンの方を見つめていると、店舗と居住スペースとを隔てる扉の奥から木の板が軋む音が近付いてきた。
「ウルセエエェ!」
勢いよく扉が開き、怒鳴り声が響き渡る。
慌てて飛び起きたシェリーは、腰にタオルを巻いただけのほぼ全裸状態の声の主を直視してしまい、反射的に悲鳴を上げた。
「ギャアアアァァッ!変態!ユウスケ!びしょ濡れの変態が出てきた!」
「誰が変態だ!こっちは暑くて寝れねぇから、仕方なく水風呂ん中で寝てんだよ!カンカンカンカンうっせぇ!」
大声で怒鳴り合う2人の様子に眉を下げた祐介は、鉄板とスパナを床に置くと、とりあえず…と言いながら扉をパタンと閉めた。
「年頃の女の子の前だからね、服着てから出てきてね」
扉の向こう側でまだ怒鳴り続けている様子の彼を諭すと、祐介はシェリーの方を振り向いた。ゼエゼエと息を切らしながら顔を真っ赤にしている。
「…結構ウブなんだよな」
小声で呟いたつもりだったが、彼女にギロリと睨まれてしまい、祐介はそろそろと視線を外した。
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彼の名は右神京哉、21歳。祐介の間借りしている店舗の2階に居候している青年である。
頸を刈り上げたマッシュパーマの黒髪は前髪を長めに流し、右目は常に隠れている。左目は深いグレーの瞳であり、特徴的な垂れ目をしていた。
身長は180センチ近くあり日本人にしては大柄だったが、華奢な体躯のせいか威圧感を感じさせないように思える。
「で……何であんなカッコしてた訳?露出狂?気持ち悪いんですけど?」
カウンターテーブルに突っ伏して不機嫌な様子のシェリーが、服を着て戻ってきた京哉に文句を言う。
「さっき言っただろ?暑くて寝れねーから、風呂に水張って中で寝てたんだよ。そしたら、カンカンうるさくすっから…」
年下の少女に対して大人気なく喧嘩腰の京哉の様子に、祐介が仲裁に入った。
「うるさくしたのは謝るよ。京ちゃんが夜勤明けで寝てたの忘れてたのも悪かった。…でも、風呂で寝るのはやめなよ……死んじゃう…」
空かさず、死ねば良いのに、と呟いたシェリーを京哉が羽交締めにしたのを見て、祐介は慌てて彼の腰に掴みかかる。
「シェリーちゃんも!喧嘩になるような事言わないの!」
「だって!コイツが!」
「追い出してやろうか、メスガキ」
「お前も居候だろうが!」
子供同士のような不毛なやり取りは、彼らの日常であった。騒ぎ立てる2人の間に入るのは、いつも祐介の役目。故に言い合いがなかなか収束しない場合の、とっておきの言葉も存在するのだ。
「それ以上続けたら、2人ともご飯抜きだから!」
途端にピタッと静まり返るあたり、子供の喧嘩としか言いようがない。唇を尖らせながらも距離を取って静かになった2人の様子に、祐介は満足気に頷いた。
「ずりーよなー…裕ちゃんのソレ」
「仲良くしようよ。シェリーちゃんは京ちゃんの…」
ジリリリリン…とけたたましいベルの音が鳴り、3人の視線が一点に集まる。
カウンターテーブルの端に不自然に鎮座する黒電話。アンティークの置物のようにも見えるが、しっかりと現役の電話である。
面倒臭そうに溜め息を吐いた京哉は、踵を返して黒電話の方に向かう。受話器を持ち上げ、ゆっくりと耳に当てた。
『月は見えるか?』
「十三夜の月が」
京哉は英語で受け答えをする。すると、ガリガリとノイズが走り、再び受話器の向こう側から声が聞こえた。
『調子良さそうだね、キョウヤ』
「それってアメリカンジョークってやつ?つまんないからやめた方がいいよ」
ゲラゲラと笑う声に、京哉は眉を顰めた。
『問題なさそうだ!今日もお仕事、頑張っていこうじゃないのー!』
「……最悪…」
カウンターチェアにドカっと腰掛け、怠そうに項垂れる京哉の様子に、祐介とシェリーはまたいつものやつか、と視線を合わせる。
『いつも通り、スカッと頼むよナイスガイ!』
「っあああっ!嫌味ったらしい!そういう所だぞアンタ!」
『グッドラック!』
ガチャっと大きな音を立てて切られ、京哉は反射的に耳から受話器を遠ざけた。
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羽田国際空港の到着ロビーには、厳重な警備体勢が敷かれていた。防弾チョッキを纏った警察官が通路沿いに一列に並び、肉の壁を形成している。
その道の真ん中を、更に屈強な黒服を複数人連れて歩くのは、アメリカ合衆国外務大臣のハワード・J・ジェザリックであった。
エントランスを抜け、要人専用出口に向かうと、自動ドアの向こう側に黒塗りの車が止められている。
「ジェザリックさん、お待ちしておりましたよ!」
車の影から飛び出してきたのは、立派に腹の肉を蓄えた1人の官僚。暑さで次から次へと滲み出てくる汗を小さなタオルハンカチで拭いながら、後部座席のドアを開いた。
「ミスターオカジマ、君がわざわざ出向いてくれるとは思ってなかった!手厚い歓迎に感謝するよ」
「いやいや、ジェザリックさん程のお方をお招きするのですから、当然のことです!さ、どうぞ!」
ーーギイィンッ!
SP達に囲まれながら車に乗り込もうとした所に、金属が爆ぜるような高音が響く。彼らにとっては聞き慣れた音であった。一発の銃声である。
黒塗りのセダンが停車している位置から、僅かに3メートル程後方。アスファルトが幅2センチ程の楕円形に抉れており、近くの柱には跳弾によってできたと思われる穴があいていた。
直様ジェザリックを車内に押し込んだ黒服達は、懐に携帯していた拳銃を構えて周囲を睨み付ける。
「銃撃か!?一体どこから!?」
「岡島先生も早く!」
武装した警察官達が集まり車の四方を取り囲む。そして、次の発砲音が響く最中2人の要人を乗せた車と周囲のパトカー数台が急発進した。
「犯人を取り逃すな!必ず捕えろ!」
次から次へと警察官達が集まり、通路は黒山の人集りとなった。けたたましいサイレンの音と無線連絡の声が低い天井に反響して、不協和音が渦巻いている。
高いフェンスの網目から、その混乱を眺める人影があった。地面に這いつくばるように構え、カーキの布を被りスコープを覗き込んでいる。
「……流石にこの距離では当たらないか」
空港の敷地を隔てる位置に存在するフェンスは、銃撃のあった場所から1.5キロ離れている。
「こちら椿…腕に掠りもしなかった。無念」
トランシーバーに話し掛ける少女の声に、ノイズ混じりの応答が入った。
『おー、構わへん構わへん……そういうオーダーやったからな。気ぃつけて帰って来いよー』
スコープを引っ込めた声の主は、悲しげな声色で返事をすると、布を被ったまま背後に茂る背の高い草むらの中に消えていった。
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激しい動悸で更に脂汗を滲ませる岡島貴一郎は、対外政策を一手に任されている外務大臣である。
彼には、今アメリカ国内で議論が続いている『音楽類規制法』に関して大きな発言権を持つジェザリックを日本に招き、可決を後押ししようという狙いがあった。
2135年。ハンネス機関がお披露目となり、新エネルギーが世界の中心として台頭したエネルギー革命。その翌年に突如強行採決・施行された『改正日本国憲法』は、政府の権限を更に強め、国民生活から自由を奪い去る内容であった。
具体的には、エネルギー供給がハンネス機関による音発電へと完全移行したその年に日本では一切の音楽活動を禁止している。楽器、楽譜等の所持、売買、演奏、対価を払って演奏を聴く行為ですら、改正憲法の名の下に乱立した悪法によって処罰の対象となっていた。
それは、ハンネス機関が電気エネルギーの生成のみならず、武力転用できる莫大な可能性を秘めている事が明るみになった為である。
しかし、それは建前であり実際には政府が新エネルギーに関する利権や利益を独占する狙いがあったとされている。
改正憲法は当然国民の反感を買い、現在の反政府運動に繋がっていった。
世界各国で日本と同様の政策が見られるようになったが、自由の国アメリカではそう簡単な事ではないと言う。
「大変失礼致しました、ジェザリックさん!暴力で訴えるなど、断じて許されない行為です!我々は更に弾圧を厳しいものにする必要がありますな!」
ウリ顔を真っ赤にする岡島の姿に、ジェザリックは苦笑いを浮かべた。
「……私が若い頃、日本はとても治安の良い国でした」
「なに、反乱分子を一掃できれば、平和な国ニッポンも戻ってきますとも!」
いかに改正憲法が日本にとって重要かを力説する岡島の様子に、ジェザリックは顔に貼り付けたような笑みで静かに頷くだけである。
荒廃した東京の街並みを走り抜ける黒塗りのセダンであったが、突如煌びやかな外観を保つオフィス街に入っていった。
夕暮れの並木道にオレンジ色の洒落た街灯がゆらめき、ビル群の窓から漏れ出す光がキラキラと幻想的な夜景を作り出している。
「旧千代田区は政府が管理しておりましてですね、世界で唯一のハイパーエコシティを実現しています。全てが音エネルギーによる発電で賄われている」
「……音発電…」
譫言のように繰り返して不思議そうな表情を見せるジェザリックの反応にニヤリと口角を上げた岡島は、正面に見える巨大な建造物を指さす。ドーム状の白い建物の周囲には蜘蛛の巣のように高圧電線が巡っていた。
「ご覧に入れましょう。未来の先進国家において、徹底した民衆の管理がいかに重要になるのかを」
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日本が世界に誇るハイパーエコシティ、ニュー千代田区画の中枢…そこには超巨大なハンネス機関を搭載した音発電施設が存在する。
地下深くに伸びるエレベーターに乗り込んだ岡島、ジェザリック、そして数名のSP達は、最下層に到着していた。
だだっ広く真っ白な空間…そこに、ポツリと浮き出るように存在する巨大な防音壁の扉。外から鍵が掛けられているようで、岡島が胸ポケットから取り出したカードキーを使って解錠していた。
唸るようなモーター音と共にピタリと閉ざされていた扉に隙間が産まれ、その瞬間にジェザリックはこの空間がどの様な目的で作られたのかを把握した。
漏れ出るのは、大音量のクラシック。
改正憲法によって禁止とされた音楽が、その法を牛耳る機関の地下深くに存在するとは、何という矛盾であろうか。
「大編成の楽団を、三交代制で使って絶えず発電しているんですよ。ここで雇っているのは皆、かつての自衛隊、警察で音楽隊に所属していた人間とその子供達…あとは、反政府運動で噛み付いてきた音楽家達ですな」
鉄骨剥き出しの無機質なステージに並べられたオーケストラの奏者達は、全員目隠しをされ、首に小さなチョーカーをつけている。
「ほら、これじゃいかんせん見た目が悪いでしょ?古代ギリシアみたいで」
岡島は言葉を濁したが、ジェザリックは彼らが『奴隷』なのだと一瞬で理解した。
「録音した音源とか色々試したんですけどね、何故か発電効率が30%にまで低下してしまうんですよ!…生音、それもオーケストラの重厚で上質な音色がハンネス機関の能力を最高に引き出せるとわかったんです!」
ステージの正面、本来なら観客の為に座席が用意されるべきスペースには巨大な液晶パネルが据えられており、逐次発電量が可視化されていた。
「ん?…おやおや、また間引かないといけないようですね」
液晶パネルに触れた岡島は、手のひらを左右に動かしながら画面をスライドさせていく。そして、オーケストラの配置図の一部が赤く点滅している様子をジェザリックに見せた。
「この発電方法の唯一の欠点は、演奏の担い手が消耗してしまう事なんです。ほら、ここのヴァイオリンの彼、きっと腱鞘炎でまともに弾けなくなってきたんでしょうね…」
「……彼には休息を与える必要がありますね」
岡島の手の動きを凝視していたジェザリックは、破裂音と共にステージ上で悲鳴が上がったのを聞いて慌てて顔を上げる。
ヴァイオリンを抱えた1人の男が、首から血を流し、絶命していた。首に付けられているチョーカーに超小型の爆発物が仕掛けられていたのだ。
「間引かないと発電効率が悪くなるんですよ、こういうのは」
岡島の合図でステージの下手から複数の作業着姿の男が現れ、手早く床を清掃すると絶命した男を連れ去っていった。
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床を伝う鮮血が鈍く光る様子が脳裏から離れず、ジェザリックは目の前に出されたローストビーフの皿を直視できなかった。
発電所の視察を終えた後、彼らは迎賓館での会食の席に着いていた。先程の空港襲撃事件の事もあってか、更に警備の人員が増えているようだった。
正面の席で、相変わらず日本の改正憲法について力説している岡島の声は半分も耳に入ってこない。それは、先程のショッキングな出来事と相まって、ジェザリックが今回の渡航で国の行く末を決める程の大役を担っていたからだ。
出国の際、多くのデモ隊が横断幕を掲げている様子が目に入った。
【NO MUSIC !! NO LIFE!!】
日本のとある音楽関係者が作ったとされるこの表現が、民衆運動のスローガンとなっていた。
既に完全な音楽禁止政策を実施している日本と手を組もうとしているアメリカ政府への皮肉も混じっているのだろう。
ハンネス機関の誕生により、音が武力に転用される時代が到来したのは事実だ。
しかし、古来より伝わる娯楽、文化として親しまれる存在を撤退的に弾圧する事など果たして可能なのだろうか。いや、可か不可かという以前に人道的か否かを問う問題にもなってくる。音楽を生業としている人間は、一斉に職を失い、下手をすれば処罰の対象にさえなり得るのだ。
「規制法の成立は、我々の…国民の命を守るために必要不可欠なのですよ、ジェザリックさん」
岡島は後方に控えていた秘書からジュラルミンのアタッシュケースを受け取り、中身を披露した。
クッション材の上に収納されていたのは、バロック式の細やかな装飾が施されたハードケースの本…
「ハンネス機関は生の音、とりわけ正確な音程を優先的にエネルギー転換するという性質上、音楽に疎い人間には扱えない物とされてきました」
故に、政府に武力を以て楯突く可能性の高い音楽家を第一に弾圧したのが日本政府だ。
「ジェザリックさん、旋律師はご存知ですか?」
「…えぇ……ハンネス機関開発の中心人物が立ち上げた楽団に所属するプロの演奏家ですよね」
本を手に取った岡島は、内容には興味なさそうにパラパラとページを捲る。びっしりと五線譜が引かれ、踊るような筆跡で音符が連ねられていた。
「これは、その旋律師の為に書かれた楽譜です。なんと…ハンネス機関はこの旋律師の楽譜が演奏される際に、最も出力が出るように設計されていたんです…!」
「……それはつまり…」
岡島は興奮した様子で席から立ち上がり、腕を伸ばして楽譜を高く掲げて見せた。
「音楽家どもは最初からクーデターを起こすつもりだったんですよ…!ハンネス機関の特性全てが、それを物語っている!」
フンと鼻を鳴らした岡島の主張に、ジェザリックは小首を傾げた。
では、演奏技術を持った協力者を雇い入れてその楽譜通りに演奏してみせれば良いのではないか?と思ってはみたものの、あまりにも得意げな岡島の様子に喉から出かかった言葉を飲み込む。
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どうしても米国を巻き込んで、徹底的に音楽家達を叩きたいという日本の主張は理解した。しかし、全国民から音楽を取り上げる必要はあるのだろうか、とジェザリックは思い悩む。
例外を作り、許可を与えれば、必ず法の抜け穴を突こうとする者は現れるだろう。幼児の歌う童謡ですら、放たれた拳銃の弾丸と同等の殺傷能力を持つ可能性を秘めている、と言うのが日本の考えだ。
「…すみません、ミスターオカジマ。少し休憩を…」
思い詰めた様子のジェザリックは、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。
「あ、あぁ!そうですね……おい、そこの君!ご案内して差し上げなさい!」
自信満々に用意した口説き文句がなかなか響かなかった様子に岡島は額に汗を滲ませる。小さなタオルハンカチで顔の汗を拭いながら、彼は傍に控えていた配膳係の青年に声を掛けた。
青年と共に部屋の出口に向かうジェザリックは、後に続こうと踵を返した自分のSP達を片手で制すると、青年に向かってニコリと笑いかけた。
「あの…護衛の方についてきてもらわなくて、大丈夫だったんですか?」
水道の蛇口を捻ったジェザリックに、青年が流暢な英語で話し掛ける。
「良いんだよ……少し疲れてしまったからね。彼らの前では、どうしても政治家の顔でいなければならないから」
「何やら悩み事ですね……僕で良ければ聞きましょうか?」
今度は青年の方からニコリと笑いかけた様子に、ジェザリックは自嘲気味に笑って見せた。
「日本ではこういうのを、ジゾウに話す…だったかい?」
青年は胸の前で地蔵のように両手を合わせる。
「実はね、今回の件…私に一任されているんだ。日本のように音楽を完全撤廃するかどうかは、私の返事次第で決まってしまう」
「それはそれは…責任重大ですね」
壁にもたれ掛かって話し始めたジェザリックは、遠い目で天井を見上げていた。そして、どこか恥ずかしそうに歯に噛みながら視線を青年の方に戻すと、懐かしむような優しい口調で語り出す。
「正直…好きなロックバンドの楽曲を聞けなくなるのは嫌なんだよ。私の若い頃は丁度ブームだったから、コピーバンドなんかもやったりしてね……」
青春かぁ…と呟く姿は、どこか悲しげであった。
完全に私情というやつであったが、彼にとってはどうしても捨てられない思い出があった。
「…亡くなった妻と出会ったのは、そのコピーバンドで学園祭のステージに立った時だったんだ。下手な演奏だったけど、彼女はとても喜んでいたよ……私の大好きな曲だって言って」
ジェザリックの妻が癌で亡くなるその日まで、病室で彼女はその曲を聞いて静かに口ずさんでいたという。
大切な人との出会い、そして、別れの曲。
「私がこれで、規制法を可決するように通してしまったら……妻との思い出まで否定してしまう気がするんだ」
亡き妻を思い出して伏目がちになったジェザリックは、ふと視界の隅に入り込んだ違和感に気がつく。
青年の右手には、いつのまにか鈍く光る細い棒状の物体が握られていた。
「そんなに大切なら、絶対無くしちゃいけねぇな…オッサン」
そして、給仕の制服から一瞬にして白い燕尾服姿に早変わりする様子に、ジェザリックは目を見開く。
ニヤリと口角を上げて狡猾な笑みを浮かべた彼は…右神京哉はタングステン製の鈍色を放つフルートを左脇に挟んだ。
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忙しなく室内を往復しながら、ジェザリックが戻るのを待つ岡島。彼は、何としても米国での規制法を可決させなければならなかった。
何故ならば、フランス、イタリア、中国の外務大臣に対しても同様のプレゼンテーションを行い、今の所三戦全敗。
外務大臣としての彼の地位は大変危ういものとなっていたのだ。
「頼むよ…アメリカさえ日本と同じ立場に立ってくれりゃ、俺の面子も保てる……」
ぶつぶつと譫言を繰り返す岡島の元に血相を変えて駆け込んで来た使用人は、息を切らしながらそれを整える暇も無く突如大声を上げる。
「おっ…岡島先生っ!!」
「一体何だ!?俺は今重要な…」
「地下の用具室に…本日の会食で給仕係を務める予定だった者が閉じ込められていて…!」
その場に居合わせた全員の表情が一瞬で青褪める。
「何だと!?それじゃあ、さっきまでそこにいたのは……」
ドゴオオオオォンッ!!
SP達が慌てて部屋を飛び出そうとしたその時、鼓膜を支配する程の排気音と共に巨大なダンプカーが応接間に突入してきた。
コンクリート片と割れたガラスが土煙に舞い、建物をグラグラと揺らす。
視界不良で混乱する室内だが、更に追い討ちをかけるように複数の足音が床を乱暴に踏み鳴らす。ダンプからゾロゾロと降りてきたのは、見るからに柄の悪そうな男達。
「きっ…貴様ら!自警団か!?何て事してくれたんだ!!」
腰を抜かしながらも、顔を真っ赤にして怒鳴る岡島であったが、直様彼のSPによって部屋の外に連れ出されていった。
「おう、豚のオッサン逃げたでー。裏で待っとる奴、何人か回しとけや」
「うっす」
レンズの大きなラウンドのサングラスに、派手な水色のアロハシャツを纏ったいかにもチンピラという男。無造作なウェーブの掛かった耳下までの長さの赤いワンレンボブヘアーを揺らしながら、ニタニタと怪しげな笑みを浮かべている。
迫って来た警察官達を鋭い回し蹴りで散らした彼は、まるで喧嘩を楽しむ不良学生のように大声で笑い始めた。
「今日は他所さんの金で暴れ放題や!派手にかましたれ!!」
彼の合図によって一斉に飛び出したチンピラ集団。それに応戦するように一列に壁を作った警官隊と揉み合いになり、来賓をもてなすはずの迎賓館の内部は抗争の現場に様変わりした。
…………………………………………………………………………………
建物全体が揺れる程の衝撃は、ジェザリック達にも伝わっていた。窓という窓に設置された防犯シャッターが次々に閉まり、先程まで通行可能であった廊下の一部も防火扉が作動して通れなくなっていた。
ついでに館内の照明も消え、非常灯のわずかな明かりのみが頼りである。
「何かあったようだね…」
「日本とアメリカの外務大臣が仲良く会合ってんだから、当然鉛玉打ち込みてぇ輩は湧くだろうな」
鉛玉、という表現に昼間の事件の事を思い出すジェザリック。目の前に立つ青年ももしやと思い、彼は訝しげな表情を見せた。
「…君の目的は一体……」
ジェザリックが京哉の方に向き直って問おうとしたその時、防火シャッターをこじ開けて数人の人影が2人の前に飛び出してきた。
「ご無事でしたか!」
「その男から離れてください!」
彼らはジェザリックのSP達だった。無傷のジェザリックを見て安堵したのも束の間、すぐに横に並んだ白い燕尾服の男の周囲を取り囲むように移動した。複数の銃口を向けられた京哉であったが、構わずフルートのリッププレートに下唇をのせる。
息を吹き込むような仕草を見せるが、音は聴こえてこない。京哉の指がキーの上で軽やかに動くと、彼の周囲は励起光のような青白い光に包まれた。
「う…動くな!」
制止の命令を一向に聞き入れようとしない京哉に向けて、1人のSPが威嚇射撃の引き金を引く。しかし、放たれた弾丸は光に触れると泡のように分解されていった。
弾丸と同様に京哉のフルートは足部管側からパラパラと雪のように分解されながら、彼の周囲を舞い始めた。
幻想的な光景に圧倒されながらも、SP達は次々に京哉に向けて引き金をひいた。放たれた弾丸は彼に届く前に次々と分解され、やがて棒状の一本の光に凝縮されていく。
眩い光が収まり周囲が再び薄暗くなると、京哉の右手には刃渡り1メートルにも及ぶ太刀が握られていた。突然目の前に現れた凶器にどよめきの声が上がる。
ニヤリと再び口角を上げた京哉は、咄嗟にジェザリックの首に左腕を回し刀身を首筋に沿わせた。
「次、撃ってみろ……遠慮なく刎ねる」
ジワジワと刃を頸動脈に近付けていく京哉の表情が徐々に無に近付いていく様子に、SP達は額に汗を滲ませながら銃をおろしていく。
「捨てろ…両手を挙げて床に伏せな」
冷たく放たれた指示に、彼らはなす術なく銃を床に置き、蹴って壁側に寄せた。作動した防火シャッターが作り出した閉塞的な空間に、ガシャンと小さな衝突音がこだまする。そして、SP達が膝を着いて床に伏せようとする間際、近付いてくる多くの足音の振動で彼らは動きを止めた。
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先頭を歩く派手なアロハシャツの男。
京哉の方を睨み付け、面倒臭そうに溜め息をつきながらラウンドのサングラスを外し、それを胸ポケットに仕舞う。
「旋律師が何の用や?」
「仕事に決まってんだろ狐野郎」
細く吊り上がった目で京哉の方を見据えながら米神をピクッと引き攣らせると、次の瞬間には床を蹴り彼との間合いを一気に詰めていた。
アロハシャツの裾を翻しながら、軽やかに舞う男の脚が叩き付けられる。京哉はジェザリックの身体を後方に引き、間一髪の所で避けた。
「ソイツ…生かしてアメリカに返したら、日本の政治家がまた調子乗るらしいな。ワシらが東京湾に沈めといたるわ」
男の手がジェザリックの方に伸びるが、彼の胸倉を捉える直前に京哉の左脚がそれを蹴り上げて阻止する。
「反社か!?自警団は大人しくデモしてりゃ良いんだよっ!」
「甘ちゃんかボケ!暴力には暴力が一番手っ取り早いんじゃ!」
口喧嘩をしながら攻防を繰り広げる2人の様子にジェザリックのSP達は唖然とする。突如始まった小競り合いに動揺を隠し切れないといった表情の彼ら。
状況を整理しようと思考を巡らしている間に、頭上に投げ込まれた拳大の筒状の物体に気付くのが遅れる。素直にそれを直視してしまうと、間髪入れずに瞬い閃光が走り、高周波音と共に一帯の景色が白く飛ぶ。
「なっ…閃光手榴弾だ…!一体誰が…」
あまりの眩さに腕で顔を覆ったSP達。徐々に光が収まり、慌てて立ち上がって周囲を見回すが、ジェザリックが見当たらない。そして、京哉の姿も忽然と消えていた。
「大使がいない!燕尾服の男に連れ去られた!」
「そう遠くへは行っていない筈だ!探せ!」
大使が誘拐されたとなれば、彼らは辞職だけでは済まされない。すぐさま二人を探し出すべく、床に散らばったままの拳銃を拾い上げようとしたSP達の目の前に、アロハシャツの男が立ち塞がった。ニヤッと歯を見せると、指の関節をボキボキと鳴らしながら近付く。
「アンタらに恨みは無いんやけどな、暫く寝ててもらうで」
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歪んだ引き戸を蹴破り屋外に出ると、京哉はジェザリックの首元から左腕を離した。右手に持っていた太刀は再び青白く光り出し、元のフルートの姿に戻るのと同時にボタボタと複数の金属の塊を地面に撒き散らす。
ジェザリックは生まれて初めて目の当たりにしたタネも仕掛けもないマジックに目を見開き、恐る恐る尋ねた。
「……その奇術は…?」
「物理だよ、簡単な。音のエネルギー波をぶつけてタングステンを一度状態変化させてる」
簡単な、と言われてもそれを生身の人間が成せるとは到底思えないのだが…という感想を心の中に留め、ジェザリックは再び問う。
「君は…私を殺したいのか?」
神妙な顔付きのジェザリックを見て、京哉は何故かゲラゲラと笑いながら首を横に振った。
「アンタを救ってほしいって頼まれた……大統領の名前だったが、大元の依頼人は」
『カレン・L・ジェザリック。今日、来日予定のアメリカ大使の妻だ。まぁ、本人は何年も前に亡くなってるそうだが…』
黒電話の受話器から一方的に伝えられる内容に、京哉は興味なさげに適当な相槌をうつ。
『カレンは癌を患って亡くなったそうだが、夫には内緒で、その当時近々大統領になるであろう男にあるお願いをしていたそうだ』
「ふーん…」
『この先、自分が死んでから夫が迷うような事があれば、コレを聞かせてあげてほしい…と、昔ながらのMP3プレイヤーを、ね』
「何それ…天国からのメッセージ的な?サムくない?」
『いやいや、お涙頂戴じゃないのよ。ちゃーんと響きそうなヤツ』
ジェザリックの方へと踵を返した京哉は、燕尾服の内ポケットからプレーヤーを取り出した。恐る恐る受け取ったジェザリックは、使い方を思い出すようにゆっくりとその表面を手でなぞる。
再生ボタンを強く押し込むと、内蔵されたスピーカー部分からはジーっと静かなノイズ音と共に懐かしいあの曲が流れてきた。
ジェザリックの思い出の曲。憧れて始めたコピーバンドで演奏し、妻となる女性と結びつけてくれたあの曲…彼女が亡くなるまで大事に口ずさんでいた曲である。
そして、再生されたのは下手な演奏と大勢の合唱によるもの。
『ハイ、ハワード!皆に伝えたら、快く引き受けてくれたのよ!…もしかしたら、そのうち集まって歌うことなんて出来なくなっちゃうかもしれないからって…ね』
6年ぶりに聞いた妻の肉声であった。背後ではガヤガヤと囃し立てる仲間達の賑やかな声。
『楽しいわよね、みんな?』
『サイコー!』
『待ってるぜ、ハワード!お前のギターがないと俺の下手くそが目立っちまうんだよ!』
ガハハと笑い飛ばす懐かしい友の声が遠ざかり、再びカレンの声が流れる。
『ハワード…また貴方の歌声が聞けるその日を、楽しみにしてるわ』
停止ボタンが押され、夜の静寂が再び二人を包む。
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熱くなった目頭を抑え、溢れ出しそうになった雫を溢すまいと天を仰いだジェザリックに、京哉はパチパチと拍手を送った。
「カッケーじゃん、その曲!オッサンのギターも込みで聞いてみたかったね」
満面の笑みでそう告げてきた京哉の方に面を向けたジェザリックの表情からは、どこか迷いが消えているように思えた。
「……ああ…そうだな。久しぶりに練習してみるか。確か、屋根裏にまだしまってあるはずだ」
ジェザリックの返事を聞いて、京哉は子供っぽく歯を見せて笑う。
そして一歩後退すると、ボウ・アンド・スクレープで頭を下げた。
「ご依頼ありがとうございました…と、マダムジェザリックにお伝えください」
猫のように高く飛んで迎賓館を囲う塀の上に乗った京哉を見て、ジェザリックは慌てて問い掛けた。
「君は私にコレを渡す為だけに、迎賓館に忍び込んだのか?」
「あ?そうだけどー?」
首を傾げてさも当然なように言い放つ彼の様子に、ジェザリックは思わず腹からの笑いが込み上げてしまった。
「ありがとう、フルーティスト。いつか、またどこかで」
ジェザリックに手を振り返した京哉が塀の向こうへと消えた数秒後に、ボロボロになったSP達が彼の元に駆け付けてきた。
「大使…ご無事でしたか!」
「君たちの方が無事では無さそうだが…」
自警団を名乗る男達に昏倒され、やっとの思いでここまで辿り着いたのだと説明される。要人警護が仕事の彼らにしてみれば大失態の連続であったが、それでもジェザリックは何も問題無いと笑っていた。
「し、しかし大使…日本の治安がこれ程までとは……やはり今後の社会には規制法による弾圧が必要になるのでは…」
「おや、いちシークレットサービスが私に指図するのかね?」
一瞬で政治家の顔になったジェザリックの様子に青ざめ慌てて頭を下げる彼に、自分自身にも言い聞かせるような丁寧な口調で言葉を重ねる。
「いや…我々は今回の渡航で学ばされたよ。自由を求める心の叫びは、どんな強制力を用いても抑え込むことなど出来ないのだと…ね」
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これは、ジェザリックとその妻が愛した曲。
宵の雨が降る中、うろ覚えの歌詞を口遊みながら白い燕尾服姿の男が夜道を歩く光景は、非常に不気味である。
迎賓館から10分ほど歩いた場所に停車していた一台の黒塗りのセダン。
後部座席には吹き出す脂汗をそのままに、必死の形相でタブレットの画面に訴える岡島の姿があった。
「ですから…っ!!自警団の奴らがダンプで突っ込んで来てですね…え?警察?あんなの役にたちませんでしたよ!!」
『では、今回も失敗ですかね?』
低く唸るような声に、岡島は震え上がった。
そして、不意にコンコンと後部座席の窓をノックされ、悲鳴を上げながら飛び上がる。
恐る恐るノックの主がいる方向を確かめると、白い燕尾服の男が車内に向けて手を振っていた。
「く、車を出せ!変な奴が来て…」
青白い光と共に助手席の窓が割れ、気付けば運転手の頭を鈍色に光る太刀が貫いている。
一瞬の出来事に目をパチクリさせる岡島は、鮮血を纏わせながらズルリと抜けていく太刀の動きを見て、徐々に心拍数が上がっていくのを感じた。
声にならない声を上げながら車を降り、1秒でも早くその場から逃げ出そうと足を踏み出す。
しかし、次の一歩を出そうとした時には、地面に倒れ込んでいた。
本降りになった雨が、岡島の背中を打ち付ける。
脚の腱を切られ、陸に打ち上げられた魚の様にのたうち回る巨体に近付いた京哉の顔に表情は無かった。
「ニュー千代田区画…だっけ?クソでかいハンネス機関でガンガン電気作って食い潰してるらしいじゃん…」
岡島の肩を踏み付け、仰向けにさせる。
「お…お前……まさか旋律師なのか?」
「は?何を今更…こんなにわかりやすくしてやってんのに」
京哉は返り血で汚れた白い燕尾服を見せびらかすように両腕を開いた。
「僕らがこんな悪趣味な服着てる意味、わかる?」
呆然としている岡島の右太腿に太刀が突き刺さる。濁音に塗れた悲鳴などまるで聞こえていないかのように、平然と太刀を引き抜く。
「ただの音楽家と」
今度は右の太腿から血が吹き出した。
「楽団の音楽家の区別がつくだろ?」
岡島の腹の上に勢い良く跨った京哉は、両手で柄を握り喉に切先を当てる。
「なぁ…馬鹿でも猿でもわかるようにしてやってんのにさ……」
「や…やめてくれ……何でも言う事を聞く…だから……」
太刀の先端が肉に食い込み、一筋の血が首を伝う。
「何でも言う事を聞いて、腕がぶっ壊れるまで…肺がやられるまで演奏し続けたアイツらの事は…簡単に殺しただろうが?」
更に激しさを増す雨足と、タイミング良く響いた雷鳴によって、頸動脈を切り裂かれた岡島の断末魔は見事に掻き消された。大量に流れる血も雨水によって綺麗に流されていく。
京哉は徐々に冷たくなっていく岡島の背広をガサガサと漁り、一枚のカードキーを取り出す。それを燕尾服の内ポケットに仕舞うと、彼は気怠そうな表情で立ち上がった。
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ニュー千代田区画をグルリと囲む環状線。びしょ濡れになりながら路側帯を歩く京哉の後方から、一台のワゴン車が近付いてきた。
「お疲れさん、乗ってくやろ?」
運転席の窓から顔を出したのは、派手なアロハシャツを着た自警団の男だった。彼の顔を見た途端、無表情だった京哉の顔がみるみるうちに血色を取り戻していく。
サイレンの音が集まっている迎賓館を遠目に見ながら、ワゴン車は旧新宿方面に向かう悪路を滑るように走行していた。
京哉は助手席の足元に置かれていた閃光手榴弾の入ったダンボールを持ち上げると、邪魔だとばかりに後部座席に投げ捨てた。あまりにもガサツな京哉の行動に驚いたアロハシャツの男は、炸裂したらどうするのだと彼の頭を引っ叩いた。
「いててて…あ、全員うまく引き上げた?」
「おう、怪我した奴もおらんかったし。アメリカ人のオッサンの方は?」
「当然、作戦成功でーす」
にこやかにハイタッチする2人の様子からは、つい数時間前に殴り合っていた仲とは到底信じられない。
『キョウヤは給仕係として潜入して、ジェザリックが1人になるタイミングでアスカに連絡してね』
「自警団も雇ってんのか?」
『なんせ今回の依頼人は払いが良いもんでね…ウチも楽させてもらおうと思って!』
カウンターテーブルに頬杖を付きながら、京哉は黒電話からの指示を聞いていた。
政府に仇なす自警団。かつての反社会勢力をその母体に持つ彼らと、京哉が所属する組織が手を組んだのには意味がある。
まず、米国大使が日本に到着して間も無いタイミングで攻撃するフリをさせる。ジェザリック本人を始め、今回彼の訪日にあたり警護にあたる人間の深層心理に『外部の者からの襲撃の可能性がある』事を植え付けるのだ。
そうすることで、給仕係に変装して『内部の人間』となった京哉はより動きやすくなる。また、警護に当たる人間の人数を増やす事で、迎賓館という箱物の中ならば要人達の身の安全を守る事は容易くなるのだと、彼らの危機意識を鈍らせた。
京哉はMP3プレイヤーをジェザリックに手渡す必要があった為、どうしても彼と二人きりになる必要があった。当初の手筈では、自警団が迎賓館に乗り込んだ際の混乱に乗じてジェザリックに例のものを渡す事になっていた。
自警団がダンボール箱一杯に用意した閃光手榴弾は、大広間に集う政治家や警備員達の視覚を奪い、ジェザリック一人を他の場所に連れ出す際に使用する予定であったのだ。
しかし、予定していたタイミングよりも先に京哉はジェザリックと二人きりになる事に成功していた。急な作戦変更に対応すべく館内で京哉の姿を探し回っていた自警団の男達。すると、運悪くジェザリックのSP達も居合わせた空間で京哉達を発見してしまう。
彼ら自警団は、政府に仇なす立場ではあるが音楽家との繋がりが知られてしまうと少々厄介なのだ。もし、音楽家と徒党を組んでいると知られれば、彼らが管轄し統治している地区の住民に対して、政府や警察からどんなとばっちりが下るかわからない。
その為、二人は歪み合い、殴り合うフリをしながらその後どう動くのかを打ち合わせていたというのだ。その結果、まんまとジェザリックを一人連れ出す事に成功した京哉は、依頼人から受け取ったプレイヤーを無事に手渡す事ができたという訳である。
誰にも邪魔される事なく、彼が妻からのメッセージを聞き終えることができたのは、事前に自警団によって場を荒らし放題荒らしておいた為だ。会場警護にあたっていた警察官達のマンパワーの殆どを混乱の処理に回させる事に成功していたのだから。
彼は宍戸阿須賀、23歳。新宿一帯を統べる自警団の若頭である。
「楽団からウチにぎょうさん積んでもろたみたいやけど、そんなに今回の依頼人て金持ちなんか?」
阿須賀は迎賓館の待合室からくすねてきたというお高そうな包み紙から取り出した飴玉を舐めながら尋ねる。
「外務大臣の妻だし?それなりに用意してたんじゃねぇの?」
阿須賀から一粒手渡された京哉も、金箔が散りばめられた和紙の皺を指先で伸ばしながらコロコロと口の中で飴玉を転がしていた。
「あー…内容が内容やったしな…。ま、細かいコトは気にせんとこ!」
そう言いながら、阿須賀は再びラウンドのサングラスをかけた。内容ねぇ、と繰り返し呟いた京哉は深い溜め息を吐きながら瞼を閉じた。
朝日が登り始め、朽ちた旧都が橙に染まっていく。
蔦や苔に侵食された廃墟が立ち並ぶ様子は物悲しい。かつては夜も眠らぬ街だったというのに。
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カレンが尋ねたのは、ダラス・シンプソンの邸宅であった。
休日ということもあり、庭の草刈りをしていたシンプソンは、カレンの姿を目にすると大変驚いた様子を見せた。
「カレン!久しぶりだね!身体の調子は大丈夫なのかい?」
ゴム手袋を外しながら歩み寄ってきたシンプソンに、カレンも日傘を畳んで会釈する。
「夫がお世話になっています。ええ、今日は割と調子が良いの」
シンプソンはカレンを家の中に招き入れた。すかさず登場した使用人が手際良くコーヒーを淹れて持ってくるが、彼女は口を付けなかった。
「今日はどうしたんだい?君が1人で来るなんて…何か訳があってのことだろ?」
シンプソンの問いかけに、カレンは思い詰めた表情を見せる。
「…貴方が次期大統領に1番ふさわしいと…私もそう思っているわ」
予想だにしていなかった話の内容に、シンプソンは瞬きを繰り返す。そして、笑顔を取り繕って返した。
「そ、そうか…それは嬉しいね。次の候補者戦は頑張らないといけないな」
「大丈夫よ、貴方ならきっと選ばれる…」
カレンのいつも通りの優しい微笑みの奥に、底の見えない闇のようなものを感じた。
「…こんな事をお願い出来るのはきっと、貴方だけだから……」
「ん?コレは何だい?」
小さな紙袋を手渡したカレンは、ゆっくりと深呼吸してから口を開く。
「私が死んでしまった後…もし、あの人が迷うような事があれば……旋律師楽団のロジャーという男に依頼をしてほしいの」
[[rb:旋律師 > メロディスト]]という言葉に、シンプソンは不穏な雰囲気を感じる。
「その紙袋の中身をあの人に渡して欲しい……そして…ハワードを迷わせ、追い詰める人間は……皆殺しにして欲しい……と…」
日傘の柄を握りしめるカレンの握力は、末期癌の患者とは思えない程強く、藤の蔓がミシミシと音を立てて軋んでいた。
「お願い、ね…」
血走った目で無理矢理笑みを取り繕うカレンに、彼女の覚悟を感じた。
シンプソンは深く頷く。
「ああ…約束しよう」
[1] Overture 完