触れられたくない夜
出立の前日、夕刻。
シリの私室に招き入れられたドーラは、静かに一礼した。
「このたびの道中、私がご一緒することになりました。ご報告に参りました」
「ええ、聞いています。あなたなら心強い」
シリは淡い笑みを浮かべて応じた。
だが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「それから・・・食事の件も、ありがとうございました」
「当然のことです。妾であっても、必要な栄養は等しくあるべきですから」
シリは穏やかに答えた。
その声音には誠意があり、偽りはなかった。だが――
ーー夫の妾に対して、これほど自然に接する妃がいるだろうか。
ドーラはふと、そんな疑問を抱いた。
そして気づいた。
――この人は、ゴロク様を「好きではない」のだ、と。
完全に嫌っているわけでもない。
けれど、そこに恋慕の情も、独占欲も、嫉妬の影すら見えなかった。
夫の妾に気を配り、旅路に送り出し、丁寧に笑顔を向ける妃――
それは、まるで誰か遠い人の世話をしているような、割り切った優しさだった。
ーーああ、この人は。
ドーラの胸に、ほんのわずかな痛みが走る。
妾である自分には、望んでも届かない場所がある。
けれど、“妻”であっても、愛されているとは限らない。
――その現実が、なぜかひどく哀しかった。
「・・・無事に戻りましたら、またお目にかかります」
「ええ。気をつけて」
そう告げたシリの笑顔が、どこか張りつめて見えた。
ーーゴロク様のお気持ちは・・・
そう思いながら、ドーラは静かに頭を下げた。
◇
朝の光が淡く差し込むノルド城の玄関先。
黒毛の馬に乗ろうとするゴロクの姿を、シリは少し離れた階段の影から見ていた。
「ドーラ、お前も支度を」
ゴロクがそう声をかけると、数歩下がっていたドーラが軽く礼をして前に出た。
もし、グユウに妾がいたら、このように笑顔で送り出すことはできないだろう。
夫に対して、愛情がなければ、妾に嫉妬をすることなく、
妃としての任務が全うできる。
ーー皮肉なものだわ
シリは胸の奥で、誰にも聞こえない吐息をひとつこぼした。
「しばらく留守にする。・・・何かあれば、すぐ文をよこしてくれ」
ゴロクの言葉に、シリは小さくうなずいた。
「はい。お気をつけて」
その返事の音に、ゴロクがわずかに視線を向けた。
彼が去っていく後ろ姿を見送る間、ドーラが一度だけ、こちらに視線を向けた。
目が合ったが、シリは何も言わずに軽く頭を下げた。
その礼には、敬意でも、警戒でもない。
ただ――静かな距離があった。
やがて馬の蹄が石畳を離れ、ノルド城から旅立っていく音が遠ざかっていく。
・・・しばらくは、抱かれない。
そう思った瞬間、心の底からほっとする自分がいた。
胸の奥が、ふう、とゆるむ。
ーーこんなふうに思うなんて。
かつての自分を思い返す。
グユウのときは、違った。
営みのたびに、彼の優しいまなざしが、まるで心の芯に火を灯すようで。
触れられるたび、息が詰まりそうに幸福だった。
終わったあと、髪を撫でられるのも好きだった。
腕の中でまどろむ時間すら、惜しくないほどに、愛おしかった。
妊娠中でさえ、グユウが望むならと応えたのは、
第二夫人を娶られてしまうのが怖かったから――
けれどそれ以上に、彼の手を拒みたくなかったから。
ーーそれが今では。
ただ触れられないことに安堵している。
求められることに、身構えてしまう。
好きでも嫌いでもない。ただ、怖い。
思い出したくない何かが、まだ身体に残っているようで――。
私は行為が好きではなかったのだ。
グユウさんが好きだったからーー
ぼんやりと空を見つめながら、シリはそっとまぶたを閉じた。
窓の外には、薄い秋霧がたなびいていた。
ノルド城は、またいつもの静けさを取り戻している。
けれど、シリの心は、戻る場所を見失ったままだった。
眠るように佇む石造りの城と、自分の心の空洞が、どこか重なって見える。
このまま誰にも触れられず、朝だけが過ぎていけばいい――
そんな淡い願いを、彼女は胸の奥でそっと閉じ込めた。
今日の20時20分に眠れぬ夜 触れられない想いを更新します。
===================
このお話は続編です。前編はこちら お陰様で十万五千PV突破
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
▶︎ https://ncode.syosetu.com/n2799jo/
===================




