泣いてなど、ない。風が目にしみただけ
早朝、ユウはひとり、そっと庭に出た。
秋の終わりを迎えたノルド城の庭には、朝露に濡れたバラがまだ咲き続けている。
冷えた空気の中、その香りだけがやさしく、どこか懐かしかった。
庭の奥に、誰かの気配があった。
母だった。
ユウと同じように、咲き残った薔薇に目を向けていた。
背筋は変わらずすっと伸びている。
けれど、肩のあたりに、ごくわずかな疲労がにじんでいた。
「母上・・・」
声をかけると、シリがゆっくりと振り向いた。
微笑んでいる。
いつものように、優しく、凛として。
――でも違う。
その微笑みの奥には、言葉にできない何かが沈んでいた。
「ユウ、早いのね。眠れなかったの?」
「はい」
ーー母上も・・・。
目の下に、ごくかすかな腫れ。
泣いたのだ、とユウは直感した。
それに気づいた自分の胸が、じくりと痛む。
黙ったまま、シリは香り立つバラにそっと顔を寄せた。
「お帰りなさい。母上」
ユウがそう言うと、母はふっと優しく微笑んだ。
だがその目は、少しだけ遠くを見ていた。
ーー何かが、変わった。
女としての時間を過ごした母を、ユウはどこか直視できなかった。
けれど、目が離せなかった。
母の顔には、泣いた痕があった。
声を上げたわけではない。
けれど、静かに、誰にも見せずに泣いたに違いない。
「大丈夫ですか」
問いかけると、母は一瞬だけ目を伏せた。
「大丈夫よ、ユウは・・・もう、子どもじゃないのね」
その言葉に、ユウの胸はざわついた。
母が自分を大人と認めてくれた。
でも、それは嬉しいだけの言葉ではなかった。
「・・・嫌ではなかったのですか?」
勇気を出して、口にした。
母は、ふっと目を細めた。
まるで、季節外れの風が心に吹き込んできたような顔だった。
「嫌でも、選ばなくてはならないことがあるのよ。生きるというのは、そういうこと」
淡々としたその声が胸をしめつける。
ユウは黙ったまま、母の背中を見つめた。
美しい人だった。
けれど、その美しさは遠い。
ーー私も・・・いつか母のようになれるのだろうか。
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
家のため・・・好いてもない男に抱かれる。
そんなの・・・!
耐えられない!!
次の瞬間、ユウはシリに一礼し、その場を離れた。
逃げるように庭の奥へ走り出した。
――胸が、苦しい。
誰にも気づかれないように、声も足音も殺して。
けれど、思いは殺せなかった。
頭の中で何度も母の顔が浮かんだ。
優しく笑っていた。
でもその瞳は、どこか遠く、冷たく濁っていた。
ーーあんな顔…見たくなかった!!
装いを整え、何事もなかったかのように振る舞っていた。
けれど、ユウには分かっていた。
母は――“女としての夜”を過ごしたのだ、と。
そしてーー母は泣いたのだ。
悔しかった。悲しかった。傷ついていた。
「守りたかったのに!!」
押し殺した声が喉を裂いた。
ーー守りたかったのに・・・!!
バラのアーチの奥、小さな影がひとつ。
葉陰に紛れるように立ち尽くしていたユウの胸が、大きく波打つ。
息が荒くなる。
胸をかきむしりたいほど苦しい。
涙が出る。
けれど、流すものか――
そう思った。
その時だった。
「ユウ様」
静かにかけられた声。
シュリだった。
ユウははっとして身を引いた。
「見ないで・・・!こっち、来ないで!!」
花の香に満ちた空気のなか、シュリはそっと近づいた。
「苦しいのですね」
その一言に、何かが崩れた。
「守りたかったの!母上を・・・!」
「・・・ええ」
「でも、守れない・・・」
ユウは言葉をつなげられなかった。
震える肩、滲む視界、こみ上げる怒りと悲しみ。
その姿が、風に揺れるバラの向こうで、痛ましくも美しかった。
「ユウ様・・・」
名を呼ぶと、ユウは顔を上げた。
涙に濡れた頬、赤く染まった目元。
けれど、彼女の瞳は強かった。
「・・・泣いてなど、ない!」
叫ぶ声が風を裂く。
「私はただ・・・風が、目にしみただけよ!」
涙をふこうともせず、ユウはシュリを睨みつける。
その姿はまるで、傷を負った子鹿が懸命に強がっているかのようだった。
「ユウ様・・・怒ってもいい、強がってもいい。でも、私は――あなたのそばにいます」
その静かな言葉に、ユウは口をぎゅっと結び、瞳を逸らした。
「・・・勝手にすればいいわ」
そう言いながらも、彼女の肩はわずかに震えていた。
このまま抱きしめたら、ユウ様は壊れてしまうかもしれない。
けれど、抱きしめなければ――もっと遠くへ行ってしまいそうだった。
次の瞬間、ためらいなく、シュリはユウを抱きしめた。
「・・・!」
驚いたユウの肩が跳ねたが、逃れようとはしなかった。
ただ黙って、シュリの腕の中に身を預ける。
「泣いていいのです。誰も見ていませんから」
静かなその言葉に、ユウの指先がわずかに震えた。
やがて、シュリの肩にぽとぽとと、涙が落ちていく。
秋の終わり、咲き残るバラのように。
ユウもまた、儚く揺れていた。
次回ーー
泣いてなどいない――そう言い張るユウを、
シュリはただ抱きしめ続けた。
溢れた涙は、強さへと変わる。
けれどその温もりを知った心は、もう戻れなかった。
そして新しい朝。
母と離れた三姉妹は、互いに寄り添い、立ち上がろうとしていた。
明日の20時20分 泣いてなどない。その手を離さないで
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この話の前の話 お陰様で10万PV突破しました。
兄の命で嫁がされた姫・シリと、無愛想な夫・グユウの政略結婚から始まる切なくも温かな愛の物語です。
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