この子たちを守るために、私は退けない
「すごい生地です・・・」
乳母のエマが感嘆のため息をもらした。
シリの部屋いっぱいに、色とりどりの美しい布が広がっている。
その色彩の奔流は、まるでシリの心の奥に踏み込むようで、どこか落ち着かない気持ちさえ覚える。
今日、選ぶのは“布”ではなく、これからの“姿”だった。
自らにまとわせるべき色――それを、シリは見極めようとしていた。
「ゼンシ様のご命令です。お好きな布をお選びください」
洋品店の店主は満面の笑みを浮かべていた。
だがその笑みは、どこか張りついたような不自然さを帯びていた。
指先はほんのわずかに震え、シリが視線を向けるたびに、目を逸らす。
その笑みの奥にあるのが、“商売人としての喜び”なのか、
“命令への恐れ”なのか、シリには判断できなかった。
けれど、店主の背筋の硬直した立ち姿だけが、確かに“何か”を物語っていた。
「シリ様・・・いかがなさいますか?」
エマがそわそわと様子をうかがう。
テーブルには、花のように鮮やかな色合いの生地が並んでいた。
どれも上等な品ばかりで、かつて嫁いだワスト領では到底手に入らなかったものばかりだ。
あらためて、モザ家の豊かさを思い知る。
「この生地はいかがでしょう。上物ですよ。シリ様にきっとお似合いです」
店主が深い青色の布を手に取り、にこやかに差し出す。
「この色、シリ様の瞳にぴったりです。間違いありません」
答えたのはシリではなく、エマだった。
シリの脳裏に、数日前のゼンシの言葉がよみがえる。
『シリには新たな嫁ぎ先を見つけるつもりだ。
そのためには、美しく装っている必要がある。それはモザ家のためなのだ』
――美しい衣装をまとうことは、家のため。
そう思うと、胸の奥に重いものが沈む。
「その黒い布にするわ」
シリが指差したのは、艶やかな黒色の生地だった。
グユウが死に、義母が殺され、共にあった家臣たちを喪った今、明るい色を身につける気にはなれなかった。
ーー祝いの色など、今の私に似合うはずがない。
笑えと?飾れと?
この死が満ちた胸に。
その想いは、布地の光沢を見つめる瞳に沈んでいた。
「かしこまりました。他の布地はいかがいたしましょう?」
店主が笑顔を崩さず尋ねる。
「他の?」
シリが目を見開く。
「はい。ゼンシ様のご命令です。最低でも5着分の布地を選ぶようにと」
その言葉に、シリは驚きを隠せなかった。
これだけの注文だ、店主が喜ぶのも無理はない。
「なら、この布で5着作って」
変わらず無頓着な態度でそう言うと、店主は思わず口を開けて固まった。
「それはだめです、シリ様!」
エマがすかさず口を挟み、視線で“ここは任せて”と示す。
「私が選びます。よろしいですね?」
毅然とした声で言い放つ。
「でも、明るい色は・・・」
「承知しております。ですが白い布は一枚、必ずご用意します。必要なものですから」
手際よく布を選び始めるエマに、シリは微かに頷いた。
「任せるわ」
そう言って、シリは虚ろな瞳で窓の外を見つめた。
「シリ様、姫様たちのお洋服も3着分、ご用意するようにと仰せつかっております」
ーー子供たちの分も?
シリは驚いて振り返る。
「はい。姪御様にも、良い服をと」
店主の笑顔が続く中、シリは呆然とそれを見つめた。
ゼンシは、自分と子供たちのために3部屋も与えた。
その一つは、子供たちの居室。
――自分を裏切った妹の子どもたちに、破格の待遇。
兄なりの、優しさなのかもしれない。
シリは小さく息を吐いた。
「それなら・・・先ほどの青い生地はユウに」
自分と同じ瞳を持つ長女なら、きっと似合う。
「ウイには、このピンクを」
金褐色の髪にきっと映えるだろう。
そして――レイは。
シリの脳裏に、亡きグユウの姿が浮かんだ。
白い肌に、黒い瞳。白いシャツを好んだ、あの人の姿。
「レイには、これを」
白い布を手に取ったシリの指先が、わずかに震えた。
それは、夫グユウがよく纏っていた色。
白い肌に映える、あの人の静かな微笑み。
「・・・あなたの子ですもの」
誰にともなく、そっと囁いた。
それは、喪に服す色ではなかった。
あの人の白を、次の世代が着る。
それは、喪服ではなく、祈りのようなものだった
ーーきっと、レイに似合う。
そう思うと、ようやく少しだけ、胸の奥に灯がともった気がした。
ーーこの子たちを守るために、私は退けない。
誰が相手でも、私は引かない。
布を胸に抱いたまま、シリは静かにそう思った。
――だが、その決意の影で、追手の足音が確かに近づいていた。
明日の9時20分 生き抜くために必要なもの