あの人がそばにいるから
報告を終えたサムは、深く吐息を漏らした。
その耳に、城外から響く太鼓の音と兵のざわめきが重なってくる。
ーー戦が始まる。
報告そのものが憂鬱なのではない。
『女性を逃した』――あれは嘘ではない。
だが、先ほど見たキヨとユウ様の顔が脳裏から離れなかった。
ーーユウ様は、まだ十四。
それでも、すでにシリ様の面影を宿す容貌と気品を備え始めている。
キヨの執念深い眼差しが、ユウ様へと向けられるのではないか。
ーーまさか・・・。
三姉妹を守るどころか、手籠にするつもりなのでは。
サムは心の底で息を呑んだ。
考えたくもないことだった。
けれど、その疑念はどうしても拭えない。
ーーあの姫達を・・・守りきることが自分にはできるか?
いや・・・二度と守れぬかもしれない。
誰にも言えぬ恐れを抱えたまま、
彼はただノルド城の方角に視線を逸らすことでしか、自分を保てなかった。
太鼓の音が近くで響き、戦の始まりが迫っているのを思い知らされる。
サムは三姉妹の警護をするため、陣地へ戻ることにした。
ーーこのまま、ここにいてシリ様の最期を見届けたい。
そんな気持ちもある。
けれどーー。
人を任されたイーライの顔が浮かぶ。
しっかりしているように見えるが、イーライは十七。
全てを任せるには若すぎる。
シリ様が、命をかけて守ったセン家の娘達を守らなくては。
城門前には、かつて共にレーク城に仕えた仲間たちが待っていた。
ロイは落ち着かずに足を動かし、チャーリーは神経質に弓の弦を撫でている。
少し離れたところには、カツイの息子オリバーが立ち尽くしていた。
ーー皆、知りたいのだ。シリ様のことを。
サムは切なげに顔を歪める。
「サム・・・」
ロイが顔を上げると、サムは無言で首を振った。
それだけで、すべてが伝わった。
ーーシリ様は城に残られた。
質問をしたロイの顔が陰げる。
オリバーは俯き、チャーリーは泣きそうな顔で呟いた。
「この弓が・・・シリ様を引くなんて」
サムは無言で馬に飛び乗った。
走り出した瞬間、頬を伝った涙が風に流されていく。
「助けられなかった・・・」
喉に小石が挟まったように痛む。
背後では仲間たちの視線が、重くサムの背中に注がれていた。
夜明けの空は白み始めているのに、サムの胸の中はまだ深い夜のままだった。
それでも馬を走らせるしかなかった。
◇ ノルド城 城門前
門前に立つノアの顔は凍りついたままだった。
槍を持つ手に力が入り、胸の奥は血が滴るように痛む
「ここまで来てしまったか・・・」
ノルド城を見つめながら、ノアの胸は張り裂けそうだった。
この攻めでは、自分が先陣を務めることになっている。
恩を受け、背を預けたあのゴロクの首を、いま自らの手で討たねばならない。
「ゴロク様・・・なぜ、この道を選ばれたのです」
思わず洩れた声は、嗚咽に近かった。
かつて、敗走しかけた自分の肩を、ゴロクが強い手で掴んで立たせてくれたことがあった。
「逃げるな。戦はまだ終わっていない」
その叱咤は胸を突き刺したが、不思議と温かくもあった。
あの時から、ゴロクの背に恥じぬ騎士であろうと誓ったのだ。
温情が、笑顔が、戦場での叱咤が脳裏に浮かぶ。
そのすべてを斬り捨てるような所業を、自分が行わねばならない。
ノアは唇を噛み、血の味を感じながら囁いた。
「この手で終わらせます。どうか・・・許してください」
表情を崩さぬまま、静かに城を見上げる。
「ゴロク様の首は、私が取る」
その声は揺るぎなかったが、胸の奥では血が滴るように痛んでいた。
かつての恩、かけられた言葉、交わした杯。
裏切りを許してくれたあの人。
それらを思い出すたび、心は泣き叫ぶ。
だが、顔に涙はひとつも浮かばない。
「他人に討たれるくらいなら・・・私がこの目で、ゴロク様の最期を見届ける」
その言葉は、自らの胸を裂く刃のように重く響いた。
ノアは深く息を吸い、視線を城へと戻す。
ーーその頃、ノルド城の奥では。
◇
シリは、廊下で窓の外を見ながら立ち尽くしていた。
眼下には、無数の兵がうごめいていた。
黒と黄色の鎧の列が城をぐるりと取り囲み、槍の穂先が朝の光を受けて鈍く光っている。
焚かれたかがり火の煙が漂い、剣を研ぐ音、馬のいななき、兵の息遣いが混ざり合っていた。
城はもはや鉄の檻に閉じ込められたも同然だった。
「いよいよ・・・始まりますね」
隣のエマが呟き、シリも小さく応じた。
「ええ。もう勝ち目はないわ」
二人はゴロクの執務室に向かって歩き出す。
だが途中で、シリはふと立ち止まった。
「エマ、少し一人にしてもらえる?」
エマは首を傾げた。
ーー危険な城内でシリを一人にしておけない。
けれど、切羽詰まったシリの顔を見ると、一人の時間が必要なのだと察した。
すぐ目の前の空いている部屋を指差した。
「こちらの部屋なら・・・」
「ありがとう」
部屋に入り扉を閉めると、シリは窓辺に歩み寄った。
中庭が見える。
あそこで娘たちと笑い合った記憶がよみがえる。
ーー冬が来る前に、中庭でご飯を食べたこともあった。
好物の干し杏を手に微笑んでいたユウの顔、ウイの弾けるような笑顔、
夢中でタルトを食べていたレイの姿を思い出す。
ーー今頃・・・あの子達は自分を恋しがって泣いているだろう。
そっと目を閉じた。
十年前の別れから、ずっと感じている気配がある。
そして、娘たちと別れてから、その気配は鮮明に感じる。
ーーグユウさん。
シリは思わず、振り返り疑問を口に出してみた。
「グユウさん、近くにいるの?」
震える声が壁に反響する。
返事はない。
けれど確かに、彼の気配がそこにあるように思えた。
「・・・死ぬのが怖いの」
覚悟したはずの自分の声が、子供のように掠れていた。
「最後まで・・・一緒にいてくれる?」
その瞬間、空気がわずかに揺れた気がした。
ーー見えない。
聞こえない。
それでも、そこに彼がいると信じたかった。
「ありがとう」
小さく呟き、扉を開ける。
廊下にはエマが佇んでおり、シリの顔を見て息を呑んだ。
ーー全てを受け入れた表情。
落ち着いた表情、静かで深い決意を秘めた眼差し、口元はわずかに微笑みが残っている。
エマには理由は分からなかったが――シリの顔には、なぜか安らぎの色が差していた。
「行きましょう」
シリは静かに告げた。
石畳の廊下を歩きながら、シリは思った。
ーーグユウさんの気配を感じるなんて。
他人に話したら笑われるかもしれない。
幻想かもしれない。
死を目前にした自分の錯覚かもしれない。
それでも良い。
彼が付き添っていると思えるだけで、恐怖は和らぐ。
最後に交わしたあの言葉が、胸に残っている。
『オレ達は必ず逢える。シリが任務を全うするまで待っている』
その約束だけが、いまの自分を支えていた。
東の窓から差し込む朝の光は、祝福のように二人を包み込んでいた。
やがて、その光は鐘の音のように、終わりを告げていた。
次回ーー明日の9時20分
春の朝霧を裂き、キヨの軍勢が総攻撃を開始した。
恩義と忠義の狭間で槍を振るうノア。
そして遠く離れた陣では、ユウが妹たちと共に黒煙に覆われたノルド城を見つめていた。
「見届けましょう。最期まで」
三姉妹の瞳に映るのは、母を残したまま沈黙する城――。




