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母上、どうか考え直して

シリが背を向け、静かに歩み去る。


その後ろ姿を見た瞬間、ユウは椅子を倒さんばかりに立ち上がった。


「母上! 待って!」


続くようにウイも声を張り上げる。


だがシリは一度も振り返らず、毅然とした足取りで進んでいく。


――置いていかれる。


胸の奥にざわめきが走り、三人は慌てて母の背中を追った。


厨房を抜け、薄暗い食糧庫を過ぎ、冷たい風の吹き込む裏口へ。


シリはようやく足を止め、追いすがる娘たちを振り返る。


その眼差しは決して揺らがず、門を守る兵に告げた。


「・・・扉を開けて」


扉が軋みを立てて開くと、そこにはワスト領から遣わされた兵たちが列をなし、

冷たい夜気の中に立ち並んでいた。


奥には二台の馬車。


その中央に進み出た若い青年が、片膝をついて深々と頭を下げる。


「――お迎えに参りました」


年齢に似つかわしくない落ち着いた声音。


闇よりも黒い澄んだ瞳が、真っ直ぐにシリを映している。


――すでに、脱出の準備は整っている。


その光景に、レイは思わず息を呑んだ。


まるで、ずっと以前から周到に仕組まれていたかのように。


外からは、城を取り囲む兵の鬨の声。


地を震わせる足音や武具の軋みが、容赦なく耳に届く。


シリは三人の娘の方へ振り返ると、言葉より先に、その細い腕で強く抱きしめた。


「母上!」


ウイの叫びに、シリは髪を撫でる。

胸に顔を埋めるレイをやさしく見つめ、

そして、自分を真っ直ぐ射抜くユウの瞳には静かに頷いた。


その腕に、最後の力を込める。


――もし、このままずっと、こうしていられたら。


叶わぬ願いを押し隠し、シリは短く息を吐いた。


「・・・あなたたちの、幸せを祈っています」


もう、大事なことは伝え終えた。


これ以上言葉を重ねれば、自分の心が砕けてしまう。


シリは子どもたちの頭越しに、控える兵へ視線を送る。


その頷きに応じ、兵は静かに動き出した。


ーーごめんなさい。


シリの胸の奥で、声にならぬ呟きがこぼれた。


兵が近づき、小柄なウイとレイはあっという間に両腕を捕らえられる。


抵抗する暇もなく、華奢な身体は力強い腕に絡め取られていった。


「何をするの!」

レイが必死に暴れる。


ウイは母を見上げ、涙声で叫んだ。


「母上! 気持ちを変えてください!」


だがシリは何もできず、その光景をただ見つめるしかなかった。


兵たちは続いてユウに手を伸ばしかけ、息を呑んで怯んだ。


長身のシリよりもなお背が高い少女。


――その後ろ姿から放たれる気配は、『近寄るな』と告げる野生の獣の威圧に似ていた。


触れれば毛が逆立つ、勝てぬ敵に本能が警鐘を鳴らす。


ユウは無言で母を見つめ続けていた。


ーーこの子は私の考えを理解している。


けれど、その理解と感情が追いついてないようだ。


ユウは、納得しない限り動かない。


どうやって、説き伏せよう。


「ユウ・・・」

シリが絞り出すように名を呼ぶ。


その瞬間、イーライがゆっくりとユウに手を伸ばした。


振り返ったユウの手に、逆に掴まれ、イーライは息を呑んだ。


――月明かりに照らされた少女。


金の髪は夜を裂く光のようにきらめき、蒼い瞳が真正面から自分を射抜いた。


ーーいつもなら心を揺らすことなどない。


恐怖も驚きも、女の美しささえも。


だが、この瞬間だけは違った。


胸が高鳴る。息が詰まる。


なぜか目を逸らせない。


――動揺している。自分が。


気づいた瞬間、ユウの鋭い一喝が夜を震わせた。


「汚い手で触れるな!」


その声に、イーライも兵も地を這うように平伏した。


冷たい夜風が頬を撫で、イーライははっと我に返る。


――なぜだ。


主でもない、敵の領主の姫に、どうして頭を下げている?


恐る恐る顔を上げると、少女はまだ自分を睨み据えていた。


その青い瞳に射すくめられ、イーライは再び顔を伏せる。


「・・・イーライ」


上から、静かで優しい声が降りてきた。


息を吐き、どうにか気持ちを整えてもう一度顔を上げると、そこにはシリの眼差しがあった。


「この手紙を、キヨに届けてほしい」


シリの手には一通の羊皮紙があった。


「・・・はっ」

思わず返事をしながらも、疑問が胸に浮かぶ。


――手紙? 


直接話せば済むはずでは。


「私は、この城に残ります」


その言葉に、イーライの息が止まった。


「シリ様・・・それは・・・」

反射的に反論しかける。


だが、シリの声がそれを遮った。


「イーライ。あなたの父は、かつてレーク城に仕えていたのでしょう?」


その声音は穏やかでありながら、絶対に逆らえぬ響きを持っていた。


「・・・はっ」

イーライは膝を折り直す。


――キヨ様の策が裏目に出た。


レーク城に縁ある自分を使者にすれば、シリの心も揺らぐはず。


だが現実は逆だった。


妃シリの命には逆らえない立場を、自ら認めさせられてしまったのだ。


「私は、かつての夫――グユウ・センの妃。

その私の命として、この手紙をキヨに届けて」


淡々と告げる声。

けれどその淡さが、何よりも恐ろしい。


イーライは悟った。


――ここで心を揺らしてはならない。


自分には使命がある。


シリを連れ戻せと命じられているのだ。


「けれど・・・シリ様!」

イーライの声は必死に震える。


「私は、キヨのもとには降りません」


シリの瞳に、確かな決意が燃えていた。


「・・・シリ様」


奥の方から、ひとり前に出てきた初老の男――サムだった。


かつてレーク城で仕え、常に冷静沈着と評された家臣である。


「サム・・・」

シリの瞳がかすかに揺れる。



「シリ様、私からもお願い申し上げます」

サムは平伏するイーライを横目に見やり、深く頭を垂れた。


「城に残るなど、どうかお考え直しください。

私が――命を賭して、シリ様と姫様方をお守りいたします。どうか・・・」


その瞳には、ただ一つの願いが宿っていた。


――シリを生かしたい。


必死な想いが、静かな声音の奥から滲み出る。


その様子を見て、ユウも堪えきれず母に向かって頭を下げた。


「母上・・・! どうか考え直してください!」


その叫びは、夜気を裂き、誰の胸にも重く突き刺さった。




◎作品はシリアスですが、ブックマークを頂き夢心地になりました。 ありがとうございます。


◎昨日、更新したシリの短編が初めてランキング入りをしました。皆様のお陰です。ありがとうございます。


『一途に、不器用に――政略の妻、魔女と呼ばれた妃と』

https://ncode.syosetu.com/N5255LD/


次回ーー明日の9時20分

「・・・ユウ、ウイとレイを頼みます」


娘に託した言葉は、別れの宣告だった。

閉じゆく扉の向こう、三姉妹の泣き声が響き渡る。

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