最後まで、一緒にいさせて
ゴロクは、泥と血にまみれた鎧のまま、ハンスと立ち話をしている。
シリは娘たちに、負傷した兵の看護を手伝うよう命じた。
「人手が足りないわ。ホールに行って」
ユウは真剣な眼差しで頷き、ウイとレイの瞳は恐怖で揺れていた。
「さぁ、行きましょう」
ユウが怯える妹達を促し、シュリの瞳をじっと見つめた。
シュリは、ゆっくりと頷く。
四人は、緊張した足取りでホールにむかった。
ーーホール。
扉を押し開けた瞬間、鉄のような血の匂いが鼻を刺した。
低くうなる呻き声と、湿った布を絞る音が混じり合い、重く淀んだ空気が押し寄せてくる。
床に、うめき声を上げる兵たちが横たわっている。
その様子を見て、一同、圧倒されてしまう。
姫育ちの彼女達にとって、傷つき、苦しむ人々を目の当たりにすることはなかった。
「・・・姉上」
ウイが震えながら、ユウを見上げた。
その群青色の瞳は『私にはできない』と言わんばかりだった。
「母上が・・・私達に命じたのよ」
ユウは掠れた声で話す。
「姫・・・だろうが、妃だろうが・・・この城のために手伝わないと・・・」
そう話しながらも、実際は何をしていいのかわからない。
不安げに目を動かす。
そのすぐそばでは、エマをはじめレーク城から共に移った侍女たちが、
迷いなく傷の具合を見極め、手際よく薬を塗り、包帯を巻いていた。
慣れた手つきに、兵たちのうめき声が少しずつ弱まっていく。
血や痛みに怯えないその姿は、長年、シリと共に生と死に向き合ってきた証だった。
「姫様達、包帯と軟膏の補充はできますか?」
エマが駆け寄り、声をかける。
「もちろんよ」
ユウが答え、ウイとレイはゆっくりと頷く。
「助かります。シュリ、きれいな水をこの桶に入れてくれる?」
そして、末っ子のレイに頼んだ。
「兵たちが食べた食器を片付けてください」
レイは頷いた。
ユウは開いた容器に軟膏を詰めながら、隣にいるエマに質問をした。
「母上も・・・昔は看護をしたの?」
「ええ・・・。シリ様も10年前のレーク城の争いの時にしました。
最初は、上手く包帯を巻くことができずに悔しがっていたものです」
エマは手慣れた様子で、軟膏を兵の背中にぬる。
「・・・母上は・・・どうして?」
「兵の死因は、戦で刻まれた痛みが、やがて命を連れ去ることが多いです。
そのため、シリ様は籠城だけではなく、看護の方にも力を入れました」
エマは包帯をくるくると器用に巻いていく。
手慣れたその動きに、ユウは圧倒された。
「そのことを、グユウ様は手放しで褒めたものです・・・。
まぁ・・・あの方は、何でもシリ様のされることを褒める方でしたが」
エマの瞳は、はるか遠くを見つめているような眼差しになった。
口の端は少しだけ上がっている。
「シリ様は嬉しかったのでしょう・・・。女の自分でもできることがある・・・と」
エマは、巻き終えた包帯を優しく撫でた。
「昔のことで・・・覚えてないわ。そんなことがあったのね」
ユウは黙々と固まった軟膏をヘラでかき混ぜた。
「姫様達をここに送り込んだのは、それを学ばせるためではないでしょうか」
エマは鋏を籠にしまい、ユウから軟膏を受け取った。
「学び・・・」
ユウがつぶやく。
「そうです。一般的な妃は、看護の方までは着手しません。
少し変わった教育だと・・・私は思いますが・・・」
エマは苦笑いをした。
エマが立ち去った後、残されたユウは一人で黙々と軟膏を容器に詰めていた。
新たに継ぎ足しても、軟膏はどんどん減っていく。
ウイは籠を持ち、包帯を侍女達に手渡しており、
レイは小さな手で盆をもち、食器の回収を行なっている。
シュリは黙々と井戸から新鮮な水を汲み、それを桶に入れていた。
エマを始め、乳母や侍女達は黙々と兵の手当をしている。
ーーこれが母上が培った看護。
ユウは固まった軟膏をヘラで掻き混ぜ、開いた容器に詰めていく。
蓋を閉じ、隣に渡し、次の容器を引き寄せる。
・・・その合間に、何気なく周囲の気配を探った。
包帯を受け取ろうと侍女を探し、視線を巡らせる。
ーーあれ?
ふと、視線が止まった。
ーーこのホールに見慣れた顔がいない。
フレッド、リオウ、その二人がいないのだ。
フレッドの太陽のような微笑み、
そして、リオウの訴えかけるような眼差し。
それが・・・どこを探しても見当たらない。
胸の奥に冷たいものが広がる。
ーー戦況のどこかにいるのか、それとも・・・。
その不安は、軟膏を詰める手を動かしていても消えなかった。
◇ ノルド城 廊下
廊下には湿った土と鉄の匂いが漂い、外からは遠くで兵の声がかすかに響いている。
人気のない廊下を、ゴロクとシリは歩いていた。
城はひっそりと静まり返っている。
「侍女は・・・?」
ゴロクが問いかけると、シリは足を止めた。
「暇を出しました」
シリが静かに話す。
「なんと・・・」
「望む者には、全員暇を出しました」
シリは真っ直ぐにゴロクを見つめている。
「・・・この城の行く末が・・・わかるとでも?」
ゴロクの声が上ずる。
「ええ。なので、先手を打っておきました」
ゴロクはシリの顔を見つめた。
美しく、毅然とした眼差し。
その横顔を見つめ、ゴロクは胸の奥でつぶやいた。
ーーあぁ・・・やはり、この方は美しい。
政略結婚、それが始まりだった。
互いの領地のため、血筋のための婚姻。
まだ領主になる前、ゴロクはゼンシ様に仕えていた。
その頃から、彼の視線はいつもーーシリ様を追っていた。
モザ家の最高傑作と呼ばれた姫。
その姿は若い日の彼には眩しすぎた。
まさか、その人が自分の妻になる日が来るとは、夢にも思わなかった。
彼女の心が、いまだに亡きグユウにあることなど、初めからわかっていた。
口づけをしても、抱いても、彼女の心は変わらなかった。
それでも構わなかった。
家のため、娘のため、彼女は己の想いを押し殺し、共に歩んでくれた。
だからこそ、守ると誓ったーーその誓いを果たせなかった。
執務室に入るなり、ゴロクは、シリの足元に膝をついた。
「シリ様・・・申し訳ありません」
低く押し殺した声が震える。
「ゴロク、どうしたのですか」
柔らかな声が返ってくる。
「守ると誓ったのに・・・守りきれませんでした。争いは・・・敗れました」
「そんなこと、謝らなくていいのよ」
「いえ・・・わしは、ゼンシ様に顔向けできません。あなたを・・・守れなかった」
「ゴロク、もう守らなくても良いのです」
その声は、驚くほど静かだった。
「キヨは・・・シリ様を悪いようにはしません。どうか、逃げてください」
ゴロクはお願いするように話した。
争いに負け、老いた自分を置いて、生き延びてほしいーーそう思っていた。
だが次の瞬間、彼女は静かに言った。
「私は妃です。最後まで、あなたに寄り添います」
ゴロクは息を呑む。
ーー最後まで・・・寄り添う?
政略のためだけに結んだはずの縁に、そんな言葉をもらえるとは思わなかった。
それは、剣で突かれるよりも深く胸を打った。
「・・・シリ様?」
ゴロクは恐る恐る上を見上げる。
「あなたは私をゼンシの妹として敬い、セン家の血を引く娘たちを大事にしてくれました。
感謝してもしきれません」
シリはそばに腰を下ろし、ゴロクのこわばった硬い手を握った。
「そのような・・・シリ様! どうか、考え直してください」
ゴロクは動揺しながらも、シリの手を強く握り返す。
「あなたは素晴らしい領主で・・・夫でした。私が望んでいた理想の再婚相手です」
シリもその手に力を込める。
「最後まで、一緒にいさせて」
その言葉が胸を満たし、熱く、痛く、涙が溢れた。
彼女の心の奥には別の男の名があるーーそれでも、自分と共に死ぬ道を選んだ。
その事実だけで、もう十分だった。
「・・・わしは・・・幸せ者です」
声が震える。
「ゴロク、お願いがあるの」
シリは真剣な眼差しで、ゴロクを見つめる。
「あの子達の命は・・・守りたいの」
「もちろんです。必ず、助けるように・・・キヨに引き渡します」
涙が頬を伝い、鼻の頭が赤くなる。
「・・・それなら・・・もう、望むものはないわ」
ゴロクの赤い鼻を見つめながら、シリはそっと唇を重ねた。
短い口づけの後、ふっと微笑む。
「さぁ・・・お風呂に入って。これから領主としての勤めが待っていますよ」
その笑みは、嵐の前の湖面のように静かだった。
書いても書いても終わらず、気づけば50万文字。
ここまで一緒に歩いてくださった読者さま、本当にありがとうございます。
ラストまで駆け抜けますので、もう少しだけお付き合いください。
次回ーー
ホールでの看護の最中、シュリはマナトから小袋を託される。
「セン家の姫様たちを頼む」――その願いは別れの前触れだった。
一方、湯浴みを終えたゴロクとシリがホールに現れる。
静まり返る空気の中、領主は低く告げた。
「・・・話がある」




