あの人は、まだ帰らない
◇ ノルド城 シリの部屋
春の穏やかな光が、窓から差し込んでいた。
シリと三姉妹は、黙々と争いに向けた作業に取り組んでいる。
ウイがふと手を止め、外を見た。
そこには、静かな春の風が吹き抜け、鳥のさえずりが微かに聞こえていた。
「こうしていると・・・争いが迫ってるなんて、信じられないね」
「・・・本当だね」
レイが静かに応える。
ユウは黙ったままだった。
ーーこんなにも、静かな時間を過ごせているのに。
この窓の向こうでは、兵たちが命を懸けて戦っている。
情報が欲しい。戦況を知りたい。
そして何より、シュリの行方を——
ユウは、机に向かう母の横顔を盗み見る。
その顔は、どこまでも毅然として、美しかった。
ーーきっと母上も、同じように思っている。
いや、私以上に、知りたいはず。
そっと目を伏せる。
ーーでも、女はいつだって「待つ」ことしかできない。
唇を、きゅっと噛みしめたそのとき。
バタバタと足音が響いた。
「失礼します!」
扉が勢いよく開き、ハンスが白い紙を手に入ってきた。
「ゴロク様からです!」
その声に、シリは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
震える手で手紙を受け取り、封を切る。
中には、殴り書きのような一文だけ。
「近日中に帰還する」
「・・・よかった」
シリは力が抜けたように、その場にへたりと座り込んだ。
「シリ様・・・」
ハンスが手紙の内容をうかがうように立ち尽くす。
シリは何も言わず、それを彼に手渡した。
「ゴロク様、帰還されるのですね!」
その言葉が部屋に満ちると、空気がふっと和らいだ。
「ええ・・・。とりあえず、この城をキヨに明け渡さずにすみます」
シリはかすれた声でそう言った。
本当は、最悪の場合、キヨとの交渉でこの城を明け渡すつもりだった。
ゴロクが戻らなければ、抵抗しても無意味だと、覚悟していた。
ーーでも、帰ってくる。
キヨが攻めてきたとしても、領主がいれば、城は持つ。
シリは息を整えると、すぐに指示を出した。
「ハンス、領民たちに避難指示を。山の上に逃げるように伝えて」
「はっ!」
ハンスは頭を下げ、急ぎ足で出ていった。
「母上・・・なぜ、領民に避難を?」
ウイが戸惑いを含んだ声で問う。
「ゴロクが帰ってくるということは、数日中にキヨの兵が来る。
その時、領民の命を守るためよ」
「命・・・?」
「そう。キヨは、城下町に火を放つでしょう。
そうなれば、領民はこの城へ逃げ込んでくる」
シリの声は、わずかに硬い。
「それが・・・どうしたの?」
立派なノルド城なら、逃げてくる民を受け入れられるとウイは思った。
だが、母の言葉は予想と違っていた。
「ゴロクは、キヨには屈しない」
シリは静かに告げる。
「だから、この城は・・・破壊される」
「お城が・・・壊されるの?」
レイの声が、信じられないというように震えた。
「ええ」
そう答えたあと、シリは娘たちを安心させるように微笑んだ。
「でも、何があっても、あなたたちの命は守る。・・・安心して」
その言葉に、誰も何も言えなかった。
ユウでさえ、声を失っていた。
三姉妹は呆然としながらも、再び手を動かしはじめる。
ーー城が壊される。
それも、ほんの数日中に。
自分たちはこんなに動揺しているのに。
それなのに――
ユウはそっと母を見た。
どうして母は、あんなに落ち着いていられるのだろう。
◇ 北の砦 ノアの館
砦の中は、ひどく静かだった。
何も言わず、ノアは一通の文を見つめていた。
キヨからの書状。
『シズル領 敗北 ゴロクはノルド城へ逃走 勝利は我が軍にある』
その文を読み終えたノアは手の震えを押し殺すように膝の上に置いた。
暖炉の薪が、静かに音を立てていた。
「・・・私が、行っていれば」
そのひと言に、誰も答える者はいない。
家臣たちも、妻のマリーも、遠巻きにその背を見守っていた。
「私が行っていれば・・・あるいは、ゴロク様は敗れずにすんだかもしれん・・・」
唇を噛む音が聞こえた。
ノアは、わずかに顔をゆがめた。
「・・・いや、違う。わかっていた。わかっていたのだ。時勢はキヨにあった
ゴロク様は・・・もう、時代から見放されていた・・・それでも」
拳が机を叩いた。
「私は・・・逃げたんだ。
恩を受けて、忠義を誓ったのに・・・私は・・・
ゴロク様を守れず・・・ただ、生き延びただけだ」
薪のはぜる音だけが、やけに大きく響いた。
マリーが静かに近づいた。
口に含んだ言葉を探すように、一瞬立ち止まり――そして、そっと座る。
「あなたは、斬らなかったのではありません。斬れなかったのです。
情があった。人として、誇るべきことです」
「だが、それは・・・騎士としては、恥だ」
ノアはうなだれたまま言った。
額に落ちる髪が、濡れているのか、汗なのか、涙なのか――誰にもわからなかった。
マリーは、そっとノアの手に触れた。
「キヨ様が敗れたとしても・・・あなたは苦しんでいた。
あなたが斬れぬ人だからこそ、多くの人が今、あなたを慕っているのです」
その言葉に、ノアは何も返せなかった。
答えられるほど、自分はまだ強くなれていない。
◇ 逃走中のゴロク
馬たちは、力の限り走っていた。
目指すは、ノルド城。
その先頭を駆けるゴロクの背中を、マナトは黙って見つめていた。
ーー泣いている。
誰よりも大きなその背中が、悲しみに小さく震えていた。
ジャックとフレッドと別れてから、ゴロクは一言も発していない。
ただ前を見据え、沈黙のまま馬を走らせ続けていた。
ーーそれでも、わかる。
敗戦の重みが、その背中にのしかかっている。
領主として争いに敗れたこと。
大切な重臣たちを置き去りにして、自分だけが生き残ったこと。
そして、ノアに裏切られたこと。
けれど彼は、怒ってはいなかった。
その優しい心の裡にあるのは、怒りではなく、自責だった。
ゴロク様は、自分を責めている。
その姿に、マナトは寄り添いたいと願った。
けれど、彼は誰の慰めも求めていなかった。
今はただ、静かに、自らの弱さと向き合っているのだ。
やがて、一行はシズル領の境を越えた。
ゴロクは、少しだけ馬の歩みを緩めた。
「・・・どうされましたか?」
マナトが問いかける。
「・・・これから、少し寄り道をする。北の砦へ向かう」
ゴロクが静かに答えた。
「・・・ノア殿のところに?」
マナトの目がわずかに見開かれる。
「あぁ。馬も兵も疲れている。十五分ほど、あそこで休ませようと思う」
声は淡々としていた。
怒りも、激情もない。いつも通りの、冷静な指揮。
「これより、北の砦へ向かう!」
ゴロクの一声に、部隊の中でざわめきが起きた。
彼がノアを討つつもりでいるのか――
多くの者が、そう思った。
けれど。
マナトは見ていた。
ゴロクの表情には、怒りはなかった。
ノアに刃を向ける熱意も、激情も、そこにはなかった。
ーーそれならば、なぜ。
マナトは答えのない問いを胸に抱えたまま、馬を走らせた。
あの人は、何を求めているのだろう。
次回ーー本日の20時20分
裏切りの果てに、彼は震えていた。
命を奪われても仕方がない――そう覚悟したそのとき、
現れたのは、かつての主だった。
静かに語られる「願い」が、ノアの心を貫く。
⚫︎小説裏話 エッセイを更新しました。
ゴロクに対して、家族が指摘した件。
「ドラえもん相手の方がマシ?」家族からの衝撃アドバイス
https://ncode.syosetu.com/N2523KL/
気軽に読める内容なので、休憩のお供にどうぞ。




