果たせぬ約束を胸に駆けていく
◇ ノルド城の奥深く、薄く光が差すシリの部屋
机の上には、積み重なる書状と戦況報告。
地図の上に、彼女は自らの指で印をつけていた。
「この路線では補給が間に合わない・・・ならば、第二の道を整えさせるしかないわね」
ペンを置いて、額に手を当てる。
疲れはあっても、顔には決して出さない。
窓の外では春の風が静かに吹いている。
だが、戦の影は日ごとに色濃く迫っていた。
「・・・次は、領民からの避難申請」
侍女が差し出した新たな帳簿を受け取り、無言で目を走らせる。
老いた者、幼い子、病を抱える者。
一人ひとりの名前に、顔が浮かぶ。
声を、暮らしを、思い出してしまう。
――だからこそ、その決断は、重い。
「シリ様・・・少し、お休みに」
傍らのエマが控えめに声をかけたが、シリは首を横に振った。
「今は、時間を削ってでも整えるべきことがあるの。・・・命がかかっているのよ」
その声は穏やかだが、強い。
自分の命さえ、もう惜しくないというような静かな覚悟が滲んでいた。
積まれた文書の一枚をめくり、再びペンを走らせる。
ゴロクが不在の今、いまは一人の「領主」として背負っていた。
その横で、ユウは黙々と名簿の文字を追っていた。
「母上。この名・・・重複しているかもしれません」
「確認をお願い。エマにも照会してもらって」
「はい」
一方で、部屋の奥では、ウイとレイが書状を封筒に詰めていた。
内容ごとに色の違う紐で結び、必要なものには薬草の小袋や食糧票も添える。
慎重に、ひとつひとつ心をこめるように指先を動かす二人。
やがてレイが、蝋燭の火で溶かした蝋を封筒の口元に垂らし、
静かに真鍮の印章を押し当てた。
その手元を見ていたシリの胸に、じんとするものがあった。
――この子たちは、もう“戦に備える娘たち”になったのだ。
昼食の頃、三姉妹は疲れ果てた様子で机に向かっていた。
「母上はまだ仕事が終わらないわ」
レイがつぶやく。
「妃になったら、あんな風に仕事をしなくてはならないの?」
ウイは不安げに質問をした。
「・・・わからないわ。ただ・・・母上は特別なのだと・・・思う」
ユウはパンをちぎりながら話す。
その手がインクで黒くなっていることに気づいた。
「・・・私は無理だわ・・・。母上のようになど・・・なれない」
ウイはパンを握ったまま、ぽつりとつぶやいた。
「今・・・母上は私達に背中を見せているわ。それを見るしかない」
ユウは静かに話した。
妃の背中を見て、娘たちは静かに成長していく。
声には出さずとも、それは、母と娘の“戦”の形だった。
◇同じ頃ーー 戦地 ワスト陣
「・・・来た、ぞ」
見張り台の上、風にたなびくワスト領の旗の下で、ロイが呟いた。
雪解けとともに濃くなる春の風が、遠くから湿った土と鉄の匂いを運んでくる。
かつては、追われるように後退を繰り返していた敵軍。
何度も姿をくらまし、地を這うように逃げていたはずの軍勢が――
今、列をなしてこちらに向かってくる。
「・・・正面から、か・・・?」
チャーリーが呆れたように言った。
「死に向かうようなものだ」
隣にいたロイが頷く。
規律のない寄せ集めではない。
足並みは揃い、兵たちの動きには迷いがない。
――まるで、生まれ変わったような軍だ。
「奴ら・・・変わったな」
風に揺れる草を押しのけるように、隊列はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
山の稜線を背景にしたその軍は、どこか獣のようだった。
牙を隠していた狼が、ようやく本性を現したかのように。
生き残るためではなく、何かを託すために戦っているようだった。
「そうだ・・・こいつらは死ぬつもりでいる。見ろ」
重臣 サムがはるか後方を指を指す。
はるかむこうでは、シズル領の方向にむけて、真っ直ぐに逃げている兵達がいる。
「ゴロク殿を逃すために・・・彼らは足止めをしているんだ」
サムが状況を口にした。
誰かの喉が鳴った。
「人数はこちらの方が断然多い。勝てるはずだ」
ロイが声を震わせて話す。
「いや、命知らずの兵達だ。死ぬ気で戦う。油断しないほうが良い」
そう言い残して、サムは兵達に指揮を取り始めた。
ただの敗残兵だと思っていた相手が、今や堂々たる軍となって牙を剥いている。
ーー敵はただの敵ではない。
戦場を誰よりも強く駆けたゴロク、そして、かつてレーク城で共に最後まで戦ったシリ様の兵だ。
サムは危機感を募らせた。
◇ シズル軍
「父上・・・そろそろ行きましょう」
フレッドは気軽に見える声で言いながらも、唇の端をほんの少し引き結んでいた。
掌の中の剣を軽く叩き、気を紛らわせているようにも見える。
「そうだな」
ジャックは頷きながら、息を整えるように視線を空へ向けた。
春の空は灰色に沈み、どこか遠くから風が音を立てて吹き抜けていく。
「誇り高く戦うぞ。ゴロク様のために」
フレッドは馬の手綱を握りしめながら、まっすぐ前を向いていた。
だがその目の奥には、ほんの一瞬、揺らぎが走った。
ーーでも、本当は。
フレッドは静かに空を仰いだ。
――できれば、生きて、あの約束を果たしたかった。
ユウ様に、海を見せたかった。
あの整った顔が、海を見たら。
風に髪をなびかせて、どんなふうに笑うだろうか。
それを見たかった。
フレッドはまぶたを閉じ、ひとつ息を吐いた。
「・・・フレッド、お前は・・・わしの誇りだ」
ジャックがぽつりと呟くと、その瞳にわずかな湿り気が宿った。
笑うでもなく、泣くでもなく。
ただ、父としての想いだけがにじむような表情だった。
その言葉に、フレッドは微笑んだ。
どこか遠くを見るような、その瞳の奥に、まだ終わらせたくない約束が残っている。
「さぁ、行きましょう。最後の最後まで、俺たちにできることを」
「行くぞ!」
ジャックが声をかけた瞬間、馬たちが一斉に泥を蹴った。
最後の戦いへと、彼らは駆け出していった。
その背に乗る二人の姿は、晴れやかで――そして、どこか悲しかった。
次回ーー明日の9時20分
三百の兵。死を恐れぬ者たちの刃。
泥に沈む父の影を追い、フレッドは最後まで前を向いた。
その唇が呼んだ名は――「ユウ様」。
「海が見える日、君と生きたかった」
◎お知らせ
昨日、更新した短編は、以前公開した短編とつながっています。
オーエン視点とグユウ視点――対になる二つの短編です。
まずはオーエン視点。
『家臣オーエン、魔女と呼ばれた妃に惑わされる』
https://ncode.syosetu.com/n4509la/
そして今回のグユウ視点。
この回で登場したサムとロイも出ています。甘め↓
『寡黙な領主、初めて嫉妬した夜に妻を独り占めしたくなった』
https://ncode.syosetu.com/n0923lb/
2つの短編を読むと、秘密を抱えた政略結婚の世界がより楽しめます。




