私は、あなたをお支えしたかった
夜が明けきらぬ薄闇の中、ノルド城の馬場には小さな人影があった。
馬車の横に立つのはドーラとプリシア。
シリは静かにプリシアを抱きしめた。
「プリシア・・・あなたの優しさに、どれほど救われたか・・・」
震える声に、プリシアの頬を静かに涙が伝う。
「・・・勿体ないお言葉です」
その言葉にシリは微笑み、続けてドーラの前へと向き直る。
「・・・ドーラ。私はあなたと、違う関係で出会いたかった」
「シリ様・・・」
「あなたは聡明で、共にいて心強かった。・・・友として歩みたかった」
その一言に、ドーラの強い眼差しが揺らぎ、ついに涙がこぼれ落ちた。
「シリ様・・・私たちは、生きます。そして、あなたも・・・どうか、ご無事で」
二人は短く言葉を交わし、名残を惜しむように抱きしめ合った。
傍らでウイが包みを差し出す。
「これ・・・プリシアさんに」
ピンク色の雛菊が刺繍された白いハンカチ。
「あなたに、似合うと思って」
その優しさに、プリシアは言葉を失い、ただ一粒の涙を落とした。
「もっと・・・刺繍の話をしたかったです」
プリシアがそっと呟く。
「私も・・・」
ウイがうなづく。
ーーもっと違う関係で出会えたのなら・・・
互いにそう思った。
馬車が動き出す瞬間、シリがほんの一瞬だけ視線をくれた。
それは、強さでも優しさでもない――どこか、別れのような目だった。
ドーラは、胸に刺さったまま、その視線を忘れられなかった。
馬車に向かって一歩踏み出す。
だが、足が止まる。
背後で、まだ誰かが見ているような気がした。
ーーこれで、本当に終わってしまうの?
小さく息を吸って、ドーラはようやく足を動かした。
鞭の音が空を裂き、馬車がゆっくりと動き出す。
地面を踏みしめる音が、かすかに響く。
プリシアは揺れる車窓から、徐々に小さくなるノルド城を見つめた。
並んで立つシリと、娘たちの姿が、遠ざかるたびに輪郭を失っていく。
「・・・ドーラ。どうされたの?」
隣に座る彼女が、嗚咽を押し殺しているのに気づいて、プリシアはそっと尋ねる。
ドーラは目元を覆ったまま、しばらく答えなかった。
やがて、ぽつりと絞り出すように呟く。
「・・・お支えしたかったの」
「ゴロク様に、ですか?」
そう尋ねたプリシアに、ドーラはかぶりを振る。
「・・・違うの。私は・・・シリ様をお支えしたかったのよ」
その言葉に、プリシアは驚きの表情を浮かべた。
「・・・シリ様を?」
「妃と妾。たしかに立場は違った。でも・・・あのお方は、ただの妃ではなかった。
私たちに誇りを与えてくれた。寄り添ってくれた。
・・・誰よりも、妾たちを“ひとりの人”として扱ってくださった」
静かにこぼれる言葉は、涙のしずくのようだった。
「私が、あのお方にしてあげられたことなんて・・・ほとんどなかった。
だからこそ、最後まで、そばにいたかったのに・・・」
ドーラの肩が、小さく震えていた。
プリシアは、ただそっと、彼女の手を握る。
「・・・わかります。私も・・・できることなら、ずっとあの方の近くにいたかった」
ーーもう、二度と戻れない場所。
けれど、確かにあそこに、自分たちの生があった。
「・・・生きましょう、ドーラ」
「・・・ええ。シリ様が私たちを逃して良かったと思えるように・・・
幸せになりましょう」
空には薄雲がかかり、朝の光が淡く二人を包んでいた。
◇
ひっそりとした春の朝。
空気は澄んで、どこか胸が締めつけられるようだった。
馬のひづめの音が、静かな馬場に響いた。
ユウが振り返ると、薄明の中にシュリが現れた。
一頭の栗毛の馬を引きながら、真っ直ぐ前を見据えて歩いてくる。
昨日、あんなにも激しい口付けを交わしていたとは思えないほど、
彼の表情は、ただ静かに、凛とした空気を纏っていた。
端正な顔立ちに、曇りはない。
その眼差しには、決意のような光が宿っている。
まるで、最初から何もなかったかのように――端整で、冷静で、整っていた。
「・・・どうして、そんな顔ができるの」
思わず呟いた言葉は、声にならなかった。
喉の奥に、何か熱いものがせり上がってくる。
でも、それが言葉になった瞬間、全てが壊れてしまう気がした。
ユウは、ただ、唇を噛み締めた
音が、消えた気がした。
冷たい風の中、ただ彼の足音だけが遠く響いていた。
ただ一歩一歩と進むシュリの横顔を見つめながら・・・
シュリは馬の手綱を握る手を少しだけ強く引きながら、
妃が命じた「務め」へと、確かな足取りで歩いていった。
その背に、ユウは呼びかけられなかった。
ーーシュリ。
また、好きになってしまう。
何度も何度も、心の中でその名を呼びながら、ユウはその背を目で追い続けた。
その先にはフィルが待っていた。
いつもより簡素な服を着ている。
フィルは元から美しかったが、その美は俗っぽかった。
あたかも見る者の目に見せびらかすような傲慢なものも含まれていた。
しかし、飾り立てた衣装を脱いだその姿は、いつもより幼く見え、
清純な美しさがあった。
「フィル」
シリは震える手でフィルの手を握りしめた。
フィルは何も言わずにシリを見上げた。
その瞳は、母のような暖かさがあり思わず甘えたくなる。
胸の奥が疼く。
「無事に・・・生家に帰るように祈っているわ」
シリは心を込めて抱きしめた。
ーー自分の娘と変わらぬ年頃の少女。
この手で守りたかった。
フィルを抱く、腕の力を強める。
その胸の暖かさに、フィルの心が思わず心が解けていく。
「ずっと・・・」
思わず言葉が漏れる。
「ずっと妃様のことを好きだったの・・・妃様のような母が欲しかった」
心の底に押し込めていた想いを打ち明ける。
「・・・私もよ・・・フィル。あなたを娘のように・・・見ていました」
シリはそう言って、フィルの髪を優しく撫でる。
「妃様・・・!!」
フィルはシリの腕の中で声を上げて泣いた。
少し離れた場所で見つめていたユウは、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じていた。
ーーずるいわ、フィル・・・。
そう思ってしまう自分が嫌だった。
「フィル・・・」
シュリが躊躇いながら声をかける。
もうすぐ夜明けだ。
暗いうちに出発しないといけない。
「・・・わかったわ」
フィルは、シリの腕から離れた。
シュリがフィルの手を取り、馬上に乗せる。
寄り添うように馬に乗った二人の姿は、美しく、似合いだった。
後ろにいた侍女たちは、静かなため息をこぼす。
シュリは落馬しないように、フィルと自分を縄で縛った。
涙で濡れた顔のフィルは、シュリにギュッと抱きつく。
フィルとシュリは、二人にしか聞こえないような言葉を少しだけ交わした。
ーーお似合いの二人
その様子を見て、ユウの胸は軋む。
シュリは外見が良い。
自分の乳母子でなかったらーー彼は、きっと多くの女性に慕われていた男性だっただろう。
「行ってまいります」
シュリはシリに声をかけた。
「気をつけて」
シリは、フィルの手を握りながら目はシュリにむけた。
「はい」
そう返事をした後、シュリは母のヨシノに視線を送り頷く。
そして、最後にユウを見つめた。
シュリの目に、昨日の熱が少し戻ったような気がする。
ユウは、その眼差しに力強く頷いて、震える声で口を開いた。
「気をつけて」
その声に応えるように、シュリは小さく微笑んだ。
次の瞬間、馬のひづめが地面を蹴る音が、静けさを裂いた。
フィルを抱えたシュリの背が、闇に溶けていくのを、ユウはただ見送るしかなかった。
すべてが遠ざかり、ただやわらかな春の風だけが残った。
ユウは、その場から動けなかった。
次回ーー明日の20時20分
敗戦の報せに、シリは静かに娘たちへ覚悟を告げる。
戦場ではジャックとフレッドが、ゴロクを逃がすため命を懸ける決意を固めていた。
「海を見せる」と誓った約束を胸に、フレッドは微笑んで前を向く。
――若き笑顔は、仲間の心に確かな光を残してゆく。
「果たせなかった あの日の約束」




